25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

進化

2020年01月08日 | 文学 思想
個人幻想が共同幻想と重なると現在のイランでの葬儀のようになる。アメリカの場合、トランプ大統領という共同幻想であり、個人幻想をも併せ持つ人が「鶴のひと声」でイランの司令官をドローン攻撃するが軍人の個人幻想と共同幻想の重なり方にはズレがあると思われる。
 イランは宗教国家というのは自明のことであるが、アメリカや日本、他の国のような国民国家も宗教の最終的な姿である。つまり、仏教もキリスト教も過激な原理主義は別として、国民の中に道徳のようなものになってしまっている。国民国家が宗教の最終的な姿であるというのは自由・人権・平等という民主主義の根本で国家が形成されている国民国家とて、最後に残るのは国と国を区別し、国を守り、国のために戦い、国の方針に個人幻想を重ねてしまうという点で究極のところで出てくる宗教的な姿である。

 ぼくはAIだIot だ、第四次産業革命のシンギュラリティーが来る、と未来のことをいくら叫ぼうが、個人幻想と共同幻想の観念の仕組みが解明され、重なると危ないときには自動的にブレーキがかからない限り、未来も同じだと思う。進化は自然淘汰、生存闘争で起こる。進化は退化する場合もある。生存闘争に退化が必要ならば退化という進化を生物は選ぶ。

 生存闘争で自分あるいは自分たちにとって不利と思うことは進化に現れる。例えば、遠い将来、自己幻想と共同幻想が重なろうとした場合、そのことは危険だから危険のブレーキをかける働きが脳に備わるかもしれない。 
 人類の歴史は類人猿と人類に分かれてから弱さを補いつつ進化してきた。強いネアンデルタール人は強さゆえに滅んだ。ホモ・サピエンスは弱いゆえに強力な共同幻想、つまり集団で行動する方が強い、ということを知った(イスラエルのハラリ氏はフィクションと呼んだ)。一夫一妻の方が子孫を残せ、有利に生活を営めること(対幻想)を知った。

 親鸞聖人は「歎異抄」の中で、「人一人殺してこい」と唯円に言うが、唯円は「とてもできません」と答える。しかし親鸞は「機縁さえあれば人は何百人でも殺せるものだ」(言ったとおりではないぼくの記憶である)
 というようなことを言う。ここなのだ。普段人ひとり殺せない我々が個人幻想と共同幻想がピタッと重なったとき、人を殺せてしまうのだ。800年以上前に言われていたことなのに、人間はこの「機縁」を克服できていない。この問題が進化につながっていかなければならないのだ。


流れ流れて北京在住!

2020年01月06日 | 文学 思想
「流れ流れて北京在住!」というブログを時々読む。読むというよりは見る。文字がとっても少ない。「弁当」という題があれば、ひとり作った弁当も写真を載せて、
 御用始です。
 お弁当を持って行きます。

 (ここに弁当の写真)

 まだ暗い北京です。
 今日も寒そうです。
 気合い入れて行きます。

 という風である。なんていうことはない。でもぼくはこの人のことが気になって
ついどうしてるかな、と思い、昔行った北京の路地裏や最近行った北京の街並みを思い浮かべ、作者の1人暮らしを思い浮かべる。別に何かを主張しているわけではない。俳句や短歌を書いているものでもない。本当のところは知らないが、さすらっている感じもするし、寂し気な感じもする。
「気合い入れて行きます」に弁当つくって、気を張るぞ、という自分を奮い立たせる雰囲気が「侘しさ」も伴って思える。饒舌ではなく、何これ? と思うがまた気になってしまう。これだけの文で想像してしまうことが多いのだ。それは作者が隠して書かないから。
 
 ブログの作者の文を追いかけ読んでいくのもおもしろいものだ。書店で売っているエンタメ・大衆小説やへたなサスペンスもを読むより気に入ったブログを読むほうがおもしろいものだ。編集者の目など通らず、思うように書いている。
 いっぱいあるのだろうな。

ハラリ氏のホモ・サピエンスについて

2019年12月28日 | 文学 思想
 ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「ホモ・サピエンス全史」は尾鷲の書店でも置かれ、続く「ホモ・デウス」でついに人類は別の物、つまり神の領域に入り込み「神」になると分析している。昨年、今年の世界的ベストセラーである。出版後、彼はテレビインタビューにも世界各地での講演会にも出席した。
 日本ではNHKがトンマな池上彰が聞き手となって要は本の解説をさせるだけで、この本にたいする疑問、批評というものはまったくなかった。多くの分野の「わかりやすい解説」で有名だからどんなインタビューをするのか、好奇心があった。
 ハラリ氏はホモ・サピエンスが他のホモ属より抜きん出たのは「フィクション」を作り出す能力をもったからだと断じている。

 ぼくらはこの「フィクション」という観念世界については1970年に吉本隆明の「共同幻想論」ですでに知っていた。吉本隆明は観念の領域には、個人幻想と対幻想と共同幻想があると「古事記」「遠野物語」を解きながら、この三つの観念を証明した。残念ながらこの本は日本語で書かれたため、またその意義を見出だす英語圈人が現れなかったため、翻訳されて世界に紹介されることはなかった。ついでに言っておくが2016年に漸くフランス語翻訳電子版が刊行された。
ハラリ氏はこれを読んでいないように思える。翻訳するに難解なこの共同幻想論の「共同幻想」とハラリ氏の「フィクション」は同義語である。

 ハラリ氏の論は単純である。ホモ・サピエンスがフィクション(共同幻想)を生み出す。フィクションの代表的なものは集団の一員で生きるためにまもらなければならない「法」であり、もっとも集団を大きくまたがってより大きなフィクション(幻想)を作り出した。ハラリ氏は無神論者のユダヤ人であるが、絶対の神を強く意識している。神を作り出したホモ・サピエンスはテクノロジー、たとえば分子生物学や遺伝子工学、AI などによって神の領域に入り、神の領域に入った人間と無役な人間にホモ・サピエンスは分かれていく、と説く。具体的に言えばAIのような知能を操り、コントロールする人間と知能に仕事が替わられ、役に立たない人間の層に分かれるということだ。

 ぼくの理解のしかたではこのハラリ氏の書物は以上の事が分厚い四冊の書物の物語である。いわば「神とテクノロジー進化論」である。この書物では何の解決案も示されていない。
 ぼくは以前にも何度かブログで書いたように、個人幻想と共同幻想が完全に一致したときが人間の一番危ないときだと吉本隆明の本を読み、さらに50年たって真面目に考えるようになった。解決の方法は共同幻想を解体することであり、個人幻想が共同幻想に対して自立することである。共同幻想にいくつかの出口を作っておき、個人幻想が自由に出入りできるようにすることである。それは知能ではすることができない。優秀な知能というのはおうおうにしてアホだからだ。自由に出入りさせられるのは「意識」である。
 AIがどうなろうと、ビッグデータがどうあろうと、それが豊かさをもたらすことを保証しない。それらの知能も人間に乗っかっているだけだ。ハラリ氏の思索では戦争を止揚することはできない。
 その視点がごっそりと抜けている。戦争を生むのは強固な共同幻想と強固な個人幻想が結び付いたときだ。

知らないことはいけないこと?

2019年12月26日 | 文学 思想
「世界のニュースを日本人は何も知らない」(谷本真由美著 ワニブックスPLUS新書)の題に騙されて読んだ。思えば、「何も知らない」という馬鹿にした書き方に騙されたのである。
 さて、自分はどれほど世界のニュースを知らないのだろう。まずこれがそもそも付け入れられた弱みである。「扱う話題がぜんぜんちがう! 新聞・テレビではわからない世界の真実に迫る」と表紙に書いてある。

 この著者は著述家・元国連職員であり、1975年の神奈川県生まれである。
 読んでいくと「ああ、そうなん」「ほうそうなん」ということが書いてある。例えば、アフリカのメディアを中国が買っている」とか「本当はものすごく豊かなアフリカ」とか、「日本人が知らないトランプ大統領の意外な評価」とか、まあ、いろいろ書いてある。

 ロンドンはもはや白人が郊外へ行ってしまい移住1世、2世、3世というような外国から入ってきた人の方がが多くなった。というニュースには「ああ、そうか。アメリカももうすぐなるな、と思ったり、ロンドンのパブ、特に東ロンドンの昔ながらのパブは潰れていき、欧州大陸式の店やアメリカ式のバーが、進出。ビールがえらく高く、もう国民はあまりパブに行かないとか、「話の特集」のようなどうでもいいようなことを延々と書いている。加えて、この著者は説教するのである。「老いを恐れる必要はない」とか「成功に重要なのは共感力や感性」とか、「効率は創造性を殺す」などと後半はほぼこの著者の説教である。「世界のニュースはどうした?」と言いたくなる。

 実をいうと、この著者のいうニュースなどはぼくもだいたい知っていた。知らなくてもいいようなことなどまで知らなくてよい。

 普通に生きる人というのは世界のニュースにまでアンテナを伸ばしたりはしない。まずこの著者はそういう普通の人、いわば「大衆の原像」のようなことを知らなければならない。今日の仕事のこと、今日の心身の状態のこと、ちょっとした人とのいざこざからくる不快、美味しかった昼飯、休みたい、風呂に入りたい、あるいはあの人のことが気にかかってしかたがない、という風に生きている。そういうことが生活の基本なのだ。

 世界のニュースを日本人は何も知らない。著者は、よくそれで生きてるね、と言わんばかりだ。
 ぼくの場合は来年の今頃は入れ歯ででも「なまこ」「あわび」を食べたい。ギリシャとキプロス、トルコとリビアとの天然ガス問題など知るか、ということになる。

 さてさて、この本を読み終えたので、更科功の「残酷な進化論」を読む。更科という苗字は母方の苗字と同じだ。苗字由来ネットによると更科名の人は約1400人いるらしい。信濃、越後、北海道に分布している。

ブログのことなど

2019年12月16日 | 文学 思想
 田山花袋の「一兵卒」が今日の「よもやま会」での事前に読んでおく小説だったので、ぼくはスマホのアプリ「青空文庫」で読んだ。はて、感想というべきことを述べよと言われれば、「なんと下手な文であるか。明治時代ではこれくらいでも教科書に私小説の作家として田山花袋は出てくる。なんだこれは」という感じだ。
 今日はこの本を読んでよもやま話をするので、まずはこの本を選んだ人になぜ選んだのかは聞いてみたい。そしてもちろん他の人の感想も。

 戦後高度経済成長が始まってきた頃から貸本漫画、月刊誌漫画、週刊誌漫画と興隆し、現在の単行本漫画、アニメ、テレビドラマや映画の原作にまで進展している。サブカルチャアとしてとらえられていたものが純文学だの大衆文学だのもなぎ倒しているような感がある。この前NHKのドラマで「落語心中」を岡田将生が演じていたが、あのドラマは相当よくできていて、原作は漫画であった。漫画家もよく調べている。ストーリーの展開も見事である。
 明治の頃はサブカルチャアと呼べるものは落語くらいしかなかったのかもしれない。芸術創作活動は美術であり、音楽であり、俳句や短歌、小説であった。演劇も加えていいのかもしれない。小説も言文一致運動があり、ようやく人々が読めるものになった。この面では田山花袋の貢献もあるのだろう。
 今やサブカルチャアという言葉は死語である。メインカルチャアとなっている。音楽、美術、映像、演劇、ミュージカル、エンターテイメント小説・・・。
 そして文を書いて見せる、動画・写真映像を見せる、イラストを描いて見せるツールが広がって、多くの人がブログで文を書き、撮った写真や動画を見せる。子供へのアンケートでは将来つきたい職業の1位が「You Tuber」である。

 人間が考えることのほとんどのことは古代までにやってしまっている。人間は科学の先の先を進めていくだろうが、それは知識であって、おおよそ普通の生活で起こってくることで考えることはもう古代に言い尽くされている。聖書あり、論語あり、経典ありである。もちろん親鸞、ルソー、モンテスキュー、ヘーゲル、マルクス、エンゲルス、カント、ニーチェ、ハイデッガー、サルトル、小林秀雄、吉本隆明、と言っていくこともできるが、おおよそのことは言い尽くされている。ぼくらは過去の人が考えたことを参考にして思考していくだけで、それが人間の歴史の積み重ねということなのだろう。

 ブログの登場でなんと人は「自己表出」をしたいものかと驚く。「ひとりごと」さんのブログを読むと、ガンガン勢いが増していってどれだけ読んでも終わらない、けど書く、という熱情である。

 みんな田山花袋よりは文はうまくなっていると言いたかったのだが、何かもうひとつ言えてないなあ。
 ブログはこれで終わってもいいのである。自分が編集長なのだから。

共同幻想のこと

2019年12月13日 | 文学 思想
 ぼくが尊敬してやまない吉本隆明は「戦後思想の巨人」と呼ばれていた。借り物ではない「自前の思想」だとよく言っていた。大学生の頃から彼の著作を読み始めて、ずっと書物が刊行されるたびに楽しみに読んだ。ぼくが学生の頃、「試行」という雑誌を発行していたので、それも読んでいた。その雑誌の中で岡山の永瀬清子という詩人を知った。このブログのタイトルは永瀬さんの詩から取った。
 吉本隆明は死ぬ直前まで発言をした。伊豆の海でおそらく急に体が冷えたのだろう、水泳中に溺れた。救助され一命はとりとめ、また仕事に復帰した。テレビ番組「進め!電波少年」で突撃取材を受け、タライに顔を突っ込んで溺れる真似をしたとか、週刊誌で読んだことがあるが、ぼくはその番組を見ていなかった。そんなこともありながら、徐々に吉本隆明の身体は故障が多くなってきた。文体も変わってきた。十四歳の子供にもわかるような文をこころがけるようになったと思う。若いころの吉本隆明の文は難解だった。

 今、振り返って彼が書いた著作からぼくが日々考えるうえで典拠としているものは「共同幻想論」と「言語にとって美とは何か」である。特に「共同幻想論」は個人幻想、対幻想、共同幻想という観念の領域を「古事記」と「遠野物語」から考察していったのだった。共同幻想と個人幻想は相反してしまう。例えばバスケットボールのクラブに入っていて、土曜日も日曜日も練習があるとする。すると個人としては優勝するためにやろう、と自分に言い聞かせて土・日の練習に取り組む。別の者は日曜日に見たいものがあるから休んでしまえ、と考え、休んでしまう。共同幻想は「クラブ活動での優勝」である。個人幻想は個人の自由な幻想である。
 この個人幻想を重視して休む生徒が共同幻想を重視して休まないとなれば、そしてそれがクラブ員全員がそうなれば、共同幻想と個人幻想が重なり、クラブは強くなる。

 このことを国家に置き換えてみると、国家は共同幻想である。しかも権力という幻想を持ち、そこには実力部隊である警察がいる。ひとつ例に出す。尖閣列島を中国が取りに来たらどうするか。威勢のいい人は共同幻想と個人幻想を重ねて全面に出して、中国のを蹴散らせ、となる。尖閣なんて中国にあげたってどうってことないよ、と思っている人がいたとする。そういう意見をテレビ局は取り上げてはくれないだろう。テレビ局は大事件のように扱う。つまり国が侵略されたかのように報道することだろう。テレビは魔物なのである。今日幻想にも引っ張るときは引っ張る。個人幻想の題材も提供する。

 国家という強い共同幻想は幾分力を弱めていると思うが、島国である日本はユーラシア大陸ほどに、アメリカ大陸ほどに人種、民族の融合が多いとは思えない。するとまた「ナショナリズム」の強風が吹いてくるということになる。威勢のよい派は国家存亡の危機だと煽るだろう。きれいごと派はとにかく話し合いだ、と主張するだろう。共同幻想には風通しのよい穴を二つほど開けておけばよい。領土については歴史の時間をどこまで過去にもどすかで解釈が変わる。中国側は中国の都合に合わせて中国のもの、日本側は日本のものだったのだから日本のものと主張するだろう。
 この強力な共同幻想(自衛隊員の個人幻想の犠牲やこんなことで戦争するのは馬鹿らしいと各人が思う個人幻想を犠牲にしてまでの共同幻想という意味で)に対して「共同統治」という共同幻想でやりあっていくしかないことになる。

 天皇の継承のことでも、共同幻想と個人幻想が相反することも多々あるかもしれないのに、一致して重なってしまうとひどいことが起こる。これは戦前に日本列島人が経験したはずだ。
 この問題は解かれねばならない。意識にも上らなければならない。教室でも論議されなければならない。

 吉本隆明は人間のもつ共同幻想の成り立ちを考察することから次の世代にさらに深い論議を示唆したに違いない。2012年3月16日逝去。

言語の縦糸、横糸、編み目

2019年12月11日 | 文学 思想
昨日「木枯らしの手帖 ~ 一足早い遺言」 というブログを、真夜中の徒然に読んで、感じ入ってしまった。まず、視線があわただしくないこと、静かであること、目に映る範囲でしか書いていないこと、写真が上手であること、と考えていくうちに、言語というのは、沈黙も言葉なんだと、あるいは、行間も、字と字の間も沈黙の言葉なんだと実感的に思う。この筆者の文体は無意識にか沈黙感の多いものになっていて、読む側に「立ち止まり感と見つめる感」を与える。癒されると言ってもよい。
 この方は草木にも詳しいようだ。

 言語が芸術として成り立つのは、指示表出言語と自己表出言語が縦糸と横糸に織られた上で、ぼくが付け加えるならば沈黙の言語も同時に編み目のように作られているからだ。

 「今日は12月11日です」この言葉は一般に受け止め、特殊な事情がない限り、そのまま日付を表すだけのことである。ところが「3月11日です」というとニュアンスがかわり、日付に東日本大震災の様相が重なってくる。桑田佳祐のTSUNAMI」はあの震災の津波ではなく、侘しい想い、逆に言えば激しい想いを意味する比喩としての言葉であり、自己表出言語である。桑田佳祐が今この歌を封印しているのも、TSUNMAIという言葉が生々しく強烈過ぎるからだろう。逆に津波に襲われてないという状態で歌うのならば明確に侘しい想いの比喩歌として大成功していたのである。
 見つめ合うと素直にお喋りできない
 津波のような侘しさに
 I know 怯えてる hoo
めぐり逢えた瞬間から魔法が
 鏡のような夢の中で
 思い出はいつの日も雨
  (桑田佳祐「TSUNAMI より」

この歌は若い日々に自分を置いた作り話だと思う。自分の心にだけ集中した感情を表現している。あまり沈黙の言語がない。その部分を音楽が補っている。この歌を前川清が歌うとまた違ってくる。前川清はこころの襞まで歌い上げる。

 「木枯らしの手帖」さんの文に戻りたい。「柊木」の花も香りが微かに風が乗せてくるところから文は始まり、柊木は鰯を置き去りにして、いつのまにかアメリカに渡り、魔除けに植えられている、という話を伝え、そして最後の感想を述べている。
 この葉の刺は老木になるとしだいに減少し、ついには全くなくなる。
 こうなると魔除けにはならない
 どうしてそうなるのか不思議だが、人間と同じで歳を重ねると
 角がとれて丸くなるということなのか・・・

と綴っている。見つめてふと思う時間が漂っている。これは沈黙の言葉である、とぼくは思う。「木枯らしの手帖」さんには突然許可も申し入れずに文を引用させていただいた。いわば評論のようなものだと捉えていただき許しを乞いたい。言語の縦糸と横糸、その編み目について言いたかった。上手く書けてないなあ。


 


  

 

掘り下げる

2019年12月07日 | 文学 思想
 どれほどの人が「生き甲斐」を持って生きていることだろう。人間の多くは嘘つきだから、上手言いだから、「生き甲斐をもって生きていそうな人」をテレビで紹介されても、鼻白むだけだ。
 モーツアルトは生き甲斐を持っていたか、ゴッホは絵を描くことに生き甲斐を感じていたか。宮沢賢治はどうだったか。
 仕事で生き甲斐をもつ。いや「もてる」人をバカにしているのではない。本当のところむしろそういう人を尊敬している。
 多くの人は学生時代が終わると、どこかに落ちていくしかない。リクルートスーツを着て就職に頑張ろうと、今、明日の暮らしの安心感を得たいと思い、都合よくその仕事が自分なりにやれそうだ、思うくらいのものだろう。
 生きるということは「わけもわからず前に進んでいくこと」である。その途中で、人と出逢い、道が岐れ、また進むようなものである。その途中には苦い思いも、ちょっとした楽しさや、ガンとくる悲哀も伴いながら時間を重ねていくのである。人生は単調ではある。今日も、明日も、大まかには同じようなことを繰り返し、喜怒哀楽が一本の道に散らばっているようなものだ。

 今日、本屋で、「世界のニュースを日本人は何も知らない」(谷本真由美 ワニブックス新書)を見つけたので買った。こういうのは「縁を買う」というのだろう。新聞やテレビではわからない世界の真実に迫る、と表紙に書いてある。その本の著者の略歴を見、「はじめに」を読む。1975年生まれの女性である。「日本はぬるま湯のゆでガエルです、じわりじわりと熱されていき、やがて熱湯になったころには跳躍する力を失っているでしょう。たくさんの選択肢を失い、膨大な損失に苦しめられることになるのは目に見えています。(中略)世界のニュースにしっかりと目を向けて一人ひとりが意識を変えていくことを願ってやみません。」
 へえ、よく言うなあ。ああ、この女性はこのように読者を啓蒙しようとすることが生き甲斐なのだろうか。決してそうではないだろう。関わってしまった場所から関わってしまった事柄を深く掘り下げてみたのだろう。まだ最終の底までは到達していないはずだ。明日から読んでみようと思っている。

IT だけが指標ではない

2019年11月19日 | 文学 思想
 アメリカのGAFA(どうしてマイクロソフトとツイッターが入ってないのかわからないが)、中国のBAT、さらに控える15億人のインド。第三極を作ると、ヤフージャパンとラインが合併するという。もう遅いのではないかという気がする。パソコン、スマホ、タブレットにはユーザーがいて、ユーザーが便利なように、安全に使えるように絶えず更新されている。GAFA はそうである。マイクロソフトはもう度外視しなければいけないかもしれない。OSで独り勝ちしてしまっている。とにかくウィンドウズがないと始まらない。まず、これに対抗できるのがアップルである。中国、インドでも制作は可能である。
 グーグルもアマゾンもOSに乗っている。
 このグーグルは、検索エンジンとしてのグーグル。広告屋としてのグーグル、アプリを作らせるためのプログラミング道具を提供するグーグルなどなどいくつもの側面があって世界を席巻している。
 ホームページを作って載せるにもグーグル。それを広告するのもグーグルであり、アプリを作って売るのもグーグルなのだからもちろんLineアプリもグーグル無くして考えることができないものである。もちろんアップルのiOSにも二股かけなければならない。

 アプリが売れたらその30%はグーグルが持っていく。なににせよ、作る場合でも、売る場合でも、宣伝する場合でもグーグルがお金を吸い上げていくのである。
 20年前はヤフーとグーグルはライバルの検索エンジンだったのが、今やヤフーもグーグルの手のひらの上でやっているという感じである。つまりグーグルは一ランク上にあり、このランクに対抗できるのは中国かインドしかないだろうとぼくは言いたいのだ。
 昔日本は驚くほどちっちゃい物を作って絶賛されたが、世界をひとつの網で掬いとろうとする発想はなかった。NTTの携帯機能もすごかったが日本を出ることはなかった。
 日本は1995年あたりからに金融ドタバタ自由化、護送船団方式の終了以降、次の産業を産み出すことができなかったのだ。ソニーは先駆けてソフト産業にも行こうとしたが、製造業から脱することができなかった。長い停滞の時期が今も続いている。すでにIT関係は3周遅れとも言われている。追い付け、追い越せというのではない。GAFAやBATは何を生み出すかだ。大いなる分断、格差なのか、社内共産化なのか。中小企業は維持できていくのか。
 IT力だけが指標ではない。そこのところにぼくはまだ期待するのだ。
 5Gの時代がはじまろうとしている。人間はどのような未来を描いているのだろう。



 
 

「文學界」を丹念に読む

2019年11月13日 | 文学 思想
物事というものはその渦中にいるとよくわからないものである。ぼくは1995年あたりからの金融危機が自分の身にも及ぶことはわからなかった。今も何かがどこかに向かって動いているのか、何かが地中の方に掘り下がっていっているのか、明日金融および経済で何が起こるのか、わからない。のちになってわかる。
 戦前も同じようなことだったのだろう。当たり前のように鬼畜米英を言い、だんだんと食べるものがなくなってきて、空襲を受けるようになるまで事態はわからなかった。
 そして政府は倒れず、スーパーインフレを起こし、国民の貯金が紙くず同然となったが政府の借金もそのおかげ紙くず同然となり、政府は生き延びた。
 今、またMMTのような貨幣理論が出てきたが、それは自国通貨を発行する政府は潰れないという理論であり、国民は安全だ、という理論ではない。

 日銀によって金融機関がどんどん追い詰められている。IT技術やITノウハウを丸投げして委託している日本の銀行はこれらの技術をよく知っているキャッシュレスの会社に取って替わられるのかもしれない。通帳の維持費を取るようになれば、もうアカンである。普通貯金の利息が0.001%護送船団方式で中学生でもできる貸し借りの業務(貸すに関しては保証人、担保をみるだけである。余ったお金は国債を買い、利息で儲けていただけのことである)にどっぷり浸かって抜け出せない。

 「通帳維持費を導入するかもしれない」というニュースは何かの予兆なのかもしれない。何かが起ころうとしているのかもしれない。

 ところで、若い1977年とか1986年くらいに生まれた作家たちの三人による鼎談を「文學界」で読んでみた。このくらいの年齢の作家たちはどんな話をするんだろう、と興味があった。が全く面白くなく、好奇心も湧かせず、議論もせず、他愛のないことばかりを三人で言っているだけであった。この若い作家たちはアホなのか。何か言い出せないなにかがあるのか。喧嘩が嫌なのか。

 もうひとつ「伊藤比呂美と町田康」の対談は面白かった。「詩は自分を書く」という詩人伊藤に「それはちがうんじゃないか」と小説家町田は反論していく。するとまた反論するけれど、またそれに対して言う、と流れがあった。町田康の主張の方にぼくは納得いくのだった。伊藤比呂美はボロクソに言われたのだが、怒ることもせず、自分の信念を貫き通し、考えるところは考えるという姿勢だった。これには感心した。
 今回は「文學界」を丹念に読んでいる。そんなことの中で時代が変わっていく、変わっていこうとしていることを感じ取りたかった。どんな風に。よい方へ。後戻りするように? 悪い方に? 文学はどうなっていく? 思想は? と思いながら読んでいる。

文学界

2019年11月08日 | 文学 思想
 森田健作千葉県知事がこてんぱんにやられている。台風15号の時、対策室から出て自宅行き、私用車で台風の状況を見てまわった、ということだ。
 危機に陥ると、なんだかだと言い訳して、ついには言い訳も剥ぎ取られていく様はこれまで何度も見てきた。
 森田健作と言えば、ぼくなどは日本大名作「砂の器」で犯人を追う丹波哲郎演じる刑事とコンビを組んだ刑事を演じたのだった。血の着いたシャツを細かく切って中央線の列車の窓から撒いた女(島田陽子)を近くで見ていた新聞記者(穂積隆信)が「花吹雪の女」という題で記事にした。森田健作刑事はその記事を読み、推理し、その布切れを探そうとする。中央線の線路脇を汗かいて、必死で探すのだった。

 ぼくはこの未来に残る名作での熱演で森田健作に好感を持ったのだった。
 彼はいつの間にか政治家なっていた。
 すぐに謝罪するのがよかった。それができなかった。

 さて、話を変えて、今月もまた「文学界」を買った。村上春樹の短編が掲載されている。それに拾い読みをしたなかで、高橋睦郎が幽界の三島由紀夫に話しかけるエッセイが出てくることでくる。これには興味が湧く。他に筆者は柄谷行人の講演録、蓮實重彦の論文がある。ぼくらより少し上の評論家である。今彼らがどんなことを考えているのか知りたかった。この世界、この日本をどう観ているのだろう。例えば柄谷行人にとってマルクスはどう映っているのだろう。現在の資本主義社会をどう観ているのだろう。
 夜な夜な読んでみるか。故吉本隆明は柄谷行人を結構よく批判していた。フランスあたりからのものをもってきて語る柄谷に「自前の思想で語れよ」とか言っていた。吉本を尊敬する中上健次は仲良しの柄谷をよくかばっていた。そんなことを思い出した。中上健次が死んですでに27年になる。柄谷たちが熊野大学を引き継いでいたが、今はどうなっているのだろう。
 
 

掘ってみないと見えない世界の支配

2019年11月06日 | 文学 思想
 iOS とAndroid のスマートフォンやタブレットの製品製造は、彼らが工場うぃもって製造するわけではない。かれらは従来の二次産業である製造業ではないことはすでに多くの人が知っていることだ。アップル(iOS)は自分の工場で製品を作るのではない。部品を発注して、それを集めて組み立てることもアップルはやらない。別の海外の会社がやる。工場を持たない新しいビジネスモデルを作ったわけだ。この話は別として、例えば Google や Apple を運営していくときに、商品製造ではなく、Google(Android)のパソコンの中身のことを少し考える機会を得た。
 Google は翻訳ソフトを作り、地図を作り、アプリを作るプログラムツールもすべて無料で提供している。20年前は単なる検索会社で、しかもヤフーのようにホームページをアップする審査が厳しいわけではなく、どんなものでも無料で検索エンジンを提供していった。このような会社の主力スタッフは幾層かに分かれているように思える。
 1.大構想者の層
 2.大から小までアイデアを出す層
 3.プログラマーの層
 4.パソコンに向かい打ち込んでいく層
 5.規律に従って客をサポートする層
 6.他事務的な層

 2.3は同人物ということも考えられるが、日々、なんらかの知恵が出され、よいとなったらそれが取り入れられ、プログラマーが動き、そこでもアイデアが生み出される。やっている本人は世界を支配していることに気がついていないのかもしれない。ぼくらは「更新」という情報を受ける。世界での支配がはっきりしているから、こちとらはそれに従うしかなく、下手な日本語翻訳の解説文にも文句も言えず、ああでもない、こうでもないと探ってやっていくしかない。その支配を受けないというのが中国である。14億人の人口を抱えておれば、Android や iOS に対抗するものはできる。さらに5Gがあれば、超高速、大容量で通信ができ、スマートフォンとタブレットも5G仕様となる。中国は三番目のプラットフォーマーとして、進出しようとしている。中国市場に入りたい人々は中国版を使わざるを得なくなる。

 ぼくはこれまでアップルやグーグルのやっていることが、つまりは世界を二分した支配とは考えてもいなかった。単なるITの世界でうまくやって、リードしているものとくらいしか思ってこなかった。ところがAndroid を使って便利なアプリを作ってみようとすると、そこには膨大に、練りに練られた戦略が見えてくる。そしてすべてはその戦略の中に入り込んでやるしかなく、それは便利でもあるが冷たくもあり、ごそっとお金を吸い上げるシステムになっている。このまま進んでいくと、この世界もただ言われたことをこなすだけのプログラマーはAIに変わり、アイデアを出す者だけがAIを使っていくのかもしれない。

 GAFA になぜマイクロソフトがついていないのか不思議だが、マイクロソフトも含めて、これらの存在は今後物議を醸し出すことだろう。 無駄と便利が入り混じったパソコン、スマホ、タブレットの世界。毎日格闘していて、便利さも巨大な悪のようにも思えてくる。コンピュータはシンプルに便利なものではなかったか。今は超複雑になっている。人間がいろいろなトラブルを起こし、ハッキングし、違法行為をやり、となるから複雑化しているのである。

仕事

2019年10月20日 | 文学 思想
 人口減少進行中の日本。経済成長至上でいくか、経済をある程度縮小させながら、生きる価値観の方を変えていくか。いずれいやおうなく政治的なテーマになると思う。働きすぎの日本列島人。一億総活躍社会という標語ではどうにもならない。
 働くことは善いことだ。女性も働いて輝く。老人になっても働く。日本列島人にはそんな風にきつく思うところがある。イギリス、ベルギー、アメリカの調査で自分の仕事に意味を見いだせない人が平均30%ほどいる。ぼくはこの数字には納得する。ぼくはもっと多いと思ったのではあるが。

 だいたい自分にとってやり甲斐があるとか、楽しいとか、社会に貢献しているとかと意識できている人は少ないと思う。しかたなく働いている。現在の生活を維持したいためにしかたなく働く女性も多いことだろう。男性はよりきつい。男は働かなければならないと思いきっている。

 自分に相性が合う仕事があるのに、実はそれに気がつかず、自分の夢の範疇にある仕事について挫折することもある。自分は一体何をしたいんだろうと人生の大半考える人がいる。こんな仕事やってられるか、と仕事を転々とする人がいる。寂しいから仕事をする人もいる。

 いろいろな人がいるだろうが、大半はなんとなく仕事をしているように思う。人は学校を卒業すると、ストンとどこかの職場の椅子に座ることになる。落ちて座った椅子から自分の職場を眺める。仕事をしはじめたら、そこを掘っていけばよい。掘って、掘っていくと、小さな矛盾が見えてくる。その矛盾をよくよく見ていると、それは大きな矛盾だと認識するようになる。それを解決するのだ。すると仕事は充実したものになる。ぼくはいつもそうやってきた。それはもうぼくの思想である。他人に縛られるのは嫌なので、自分で仕事を作ることも、その思想上にある信条である。

 組織に属さないぼくは当然定年退職などはない。死ぬまで自由に働くつもりでいる。

 ほぼ資本主義社会の金融や株式とは別のところで生きている。よくここまで生きてこれたと思う。くるしいこともあったがめったに経験できないことも経験した。絶景の風景も、不思議に美しい紫色の夕闇を見たこともある。
 そんなに贅沢をしたいとは思わない。本を読むことは楽しい。感動する映画を探すのたのしい。そう言えば感動する音楽アルバムを探すことを久しくしていない。

 
 
 

熱狂

2019年10月12日 | 文学 思想
国民的熱狂をつくり出し、国民的熱狂に流された愚かさが満州事変から始まり
降伏するまでの日本人。ただ国民は310万人という死者をだして責任をとったとぼくは言いたい。半藤一利の「昭和史」を3回目、読み終えた。3回読んでも出てくる主要登場人物の名前を覚える気にならない。内閣や参謀本部や軍司令部のエリート軍人達は目を覆いたくなるほどのアホさであった。勉強ができるものも、記憶力が良いものも、学歴があるものも、一様に熱狂によってアホ化することをよく示している。

 日本人は分析をすることが苦手のようである。精神や観念の方に行ってしまう傾向がある。小泉純一郎が首相になったときの熱狂も、その息子進次郎環境大臣が首相候補だと噂されることも、日本人は戦前とそれほど変わっていないことを示すのかもしれない。よく分析してみれば、資源、兵力は英米にかなうはずもなかった。日ソ中立条約を信じきってしまって、米英戦終了の仲介をとってもらおうと、返事をポチのごとくに待つ。その間に、広島、長崎に原爆を落とされる。

 戦争中に日本人が判断し、したことを「なかった」ことにしてしまおうとする言説が未だにある。
 昭和史はをは半藤一利の「昭和史」と 吉田裕の「日本の兵士」、それと吉本隆明の「戦争論」を読んでおけばよいと思う。ゆめゆめ、北朝鮮や韓国にたいして熱狂的にならないのが現在のぼくらがとるべき態度である。

 こんなことを書いているうちに台風が東の海を通りすぎていった。
 

知っていることと教えることは別

2019年10月07日 | 文学 思想
 ウインドウズ10から更新プログラムのお知らせがきて、今すぐ再起動か、夜間に再起動か、見合わせるのか、という選択肢があっていつもは夜間にしていたが今日は何を思ったものか、「今すぐ再起動」をクリックしてしまった。それでも5分もかからないだろうと思っていたら、どうやら時間がかかるようなのだ。朝の仕事ができない。困ったことだと、パソコンの前で待っている、すでに60分が経っている。何分くらいかかりますと、知らせてくれていいはずだと思う。
 まあ、支配する側はこんなものかと思う。

 話は飛ぶが上記のお知らせができないのはなぜなのか、と考えていたら、ふと思ってしまった。知っていることと、教えることは別物である。英語で言えば、To know is one thing, to teach is another. である。よく知っているからと言ってそれがよい教師になるわけではない。よくあることだがよく知っていて、理解することにも苦労しなかった教師は「生徒がわからないということがわからない」のである。

 あいうえお・・・の五十音とABCD・・・のアルファベットの名前は性質が全く違うものである。日本語は「あ」は名前も「あ」で音も「あ」である。ところが英語のAは名前が「エイ」で音の基本は「ェア」、きゃあと叫ぶときの「ェア」である。この不思議な世界を英語の習いたての時期、うまく先生に教えてもらわないと英語でつまづく原因にもなる。多くの生徒はとにかく覚えるしかないと決めて、読み方、書き方、挙げ句のはてに、アクセントの位置までも覚えなければならなくなる。

 「英語教育」という権威主義っぽい月間誌も、何の役にも立たない。NHKなどのテキストもよく英語を知っている人がテキストを作るので生徒にとってわからないところがわからない、というのはお決まりのいわば普遍性である。

 英語圏からやってくるALTも五十音とアルファベットの違いをうまく言えるわけではなく、ここは英語などそもそも教えることのなかった小学校教師の出番である。
 これまでの先生は平気な顔で「単語」という言葉を使った。

 This is Taro's shirt.
これは太郎君のシャツです。

 英語の文と日本語の文を並べてみて、互いに何が違うのあ、どこか共通しているところがあるのか、教えてもらったこともなかった。
 子供はいろいろ違いを述べる。
   1.字が違う。
  2.終わりの。と. が違う。
  3.英語の方に'のがある。
  4.英語は This というかたまりがあって、次に少し間を空けているが、日本語
    は一字一字間が少し空いている。
  5. 英語には大きな文字と小さな文字がある。
  
 まあ、このくらいは出てくることだろう。まだある、という生徒もいるかもしれない。ここで、ぼくらは初めて「単語」という言葉を教えられる前提をもつことになる。
 こういうことが「わかる」人って実に少ないことも経験上よくわかる。