25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

憂鬱なこれから

2016年05月29日 | 日記

  インド洋の海水温が高く、イン大陸に猛暑で包んでいるらしいが、この水蒸気が日本にきて梅雨期の雨を多く降らせるらしい。

 何をするでもなく、歯の不調、その他による憂鬱で、日がな家の中にいる。

 まぶたが下がり気味であることは前から気になっていた。「ためしてガッテン」の録画をみていたら、「まぶたが下がるのは眼の筋肉から伸びる腱膜(0.1mm)が擦り過ぎなどで切れてしまうかららしい。視界が狭くなると、前頭葉の筋肉を激しく使い、連動して後頭部、首、腰の筋肉を使い それが肩こりや首こり、頭痛の一因かもしれないということだ。

   僕は肩こりはないが、首こりがあり、それが上まぶたが下がってきた時期と同じくらいのと期なので、「のりでまぶたをあげ、目をぱっちりするメイクアップ商品」を買って、試してみようと思っている。

  イーオンでさがしてみたrz、500円、から1000円台で売っていた。でも今日は買わなかった。モリヤマに行って、詳しく聞こうと思っている。どこかしらが老化してくる。

 これから先はこんなこととの闘いなのだろう。老人性の鬱病になる、というものだ。  歯、そのうち眼、耳、やがて内臓など一人頑張っていかねばならない。


核爆弾

2016年05月27日 | 社会・経済・政治

  三重県は半年ほど前から「伊勢志摩サミット」のことだけを報道していればいいみたいな雰囲気で、夕方はほぼ毎日「サミット準備」がテーマだった。一体この借金国はサミットでいくら使ったのだろうと思う。

 オリンピック前になるとまた同じようなことになるのだろう。オリンピック後、破綻してしまったアテネ。オリンピック後、破綻するかもしれない日本。アベノミクスの光明は見えてこない。

 経済成長よりも必要な物を必要な数量作る。あまりを出さない経済が仕切られなければならないと思う。どうしてもあまりものを輸出する必要があれば、贈与してしまう。

 財政出動を小渕政権のことからどれだけしてきたことか。それで投じた資金よりも大きく経済は改善したか、と言えば、誰もがNOというだろう。公共工事をすれば経済波及効果があるなどと考えているのはもう頭が古すぎるのではないか。現に堤防を作ることよりも、その分で同じ場所に住宅を建ててあげたほうがよほど経済効果は高い。津波は逃げればいいだけのことである。

 オバマ大統領は広島で演説をするという一方、辺野古基地への移転には積極的である。オバマ大統領がこの際、原子力爆弾を廃棄してしまたったらどうかと思うが、どうしてできないのだろう。やられたら報復しなければいけないからか。これもおかしな話だ。後世に名前を残したいというなら、廃棄してしまえば、絶対に後世に名は残る。核を持つ国が集まって、期限を決めてどうして核爆弾ゼロにまでもっていけないのか。わからんなあ。僕にはこういうリアリストはわからないのである。


餌を探すマスコミ

2016年05月26日 | 社会・経済・政治

 連日舛添都知事がマスコミの格好の餌食になっている。ニュースネタを探さなくてよいから楽なことだろう。

 そんなに苛め抜かなくてもいいだろうと思う。電波、テレビ枠や雑誌枠も貴重なものだ。公私混同を攻め抜くマスコミである。コメンテーターなどはここぞばかり、言いまくる。舛添知事はよほど「人徳」がないのか、「なめられる人格」なのか、近年珍しいことだ。小渕優子議員のときにも、甘利元経済産業大臣の場合でも、これほどではなかった。

 ベッキーのことでも、どうしてここまで干し上げるのか、やっぱりマスコミは恐ろしい。いずれ政府に反対することでも述べたら、たたきつぶされるような時代にならないことを希望するが、ややもするとマスコミというものはそう傾く性質をもっているので、僕らはよくよく気をつけなければならない。

 たとえば、ストーカーによって重体となった元アイドル、現シンガーソングライターの事件では警察はもっと叩かれなければならない。しかしそのことにはマスコミは多くの枠や時間は取らない。

 ついついマスコミに腹が立ってくる。


裁判争いは被害者の負担が大きい

2016年05月25日 | 日記

   大相撲が終わると、気の抜けた炭酸水みたいになってしまう。夕刻の楽しみが抜け落ちてしまって不如意である。

 裁判は遅々とし、思うようにいかない。やはり交通事故専門の弁護士をつけるべきだったか、などとつい思ってしまう。高等裁判所までいくかどうかは僕の判断ひとつである。どうしても納得がいかない場合。その納得がなかなかにできていない。またどう考えても理不尽さが残っているので、気分が悪い。

 事故の処理というのはやられた側に相当な雑事と負担がかかる。加害者側は保険会社にまかせておけばいいので、安穏といられる。安穏ということばが悪かったら、たいした裁判雑務負担がないと言ってよい。

 決めなければならない時が近づいている。無念さ、諦め をとるか、闘い続けるか。闘い続けたとして、今の和解案よりいいものになるとも限らない。悪くなることも考えられる。

 晴れ晴れとして次のステージに行きたいとを待っているのだが。

 この社会には理不尽なことはいっぱいある。理不尽さに負けるようではストレスの塊になって、それは体にはよくないような気もする。いくところまで行ってさっぱりとする方がいいのではないか、と思ったりもする。つまるグダグダと考えているのである。みなさん、被害者にはならないように。これは損ですよ。そばに争い手続きを弁護士とともにやってくれる時間的余裕のある人でないと難しいものがありますよ。 頭が収集つかなく、毎日が過ぎていく。


1964年+アルファ

2016年05月24日 | 文学 思想

  極端かもしれないが、1960年代、もっと詳しく言えば、1964年まで日本は戻ってもいいと思う。産業革命以前とか江戸時代まで戻れ、と言えば想像もつきにくいだろうが、1964年と言えば、日本人の半分は知っている。僕はこの頃、14歳だから、結構生活も豊かになってきていて、食事の占める割合であるエンゲル係数も下がっていた。僕が思うのは1964年+アルファである。当然原子力はない。新幹線はあった。カラーテレビもあった。基本的なものはほとんど出そろっていた。アルファの部分はコンピュータの部分である。

 高層ビルもなかった。一極集中になろうとしていたが、高層ビルがなければ、企業は土地不足から地方に進出していたかもしれない。輸出産業ばかりを優遇する策もなかったかもしれない。第一、日本には借金というものがなかった。無駄な公共工事で借金してお金を使ってしまった。そのツケは今の若いものが払うのだが、払えるはずもない。

 医療の科学や新薬が開発されれば、国の医療負担まますますかかる。年金を減らすか、健康保険料を値上げしていくというのは、若い者からツケを払わせることと同じである。そして若い人が老人になる頃には年金の受給年齢は上がっている。70歳や75歳になっているのかもしれない。それも若い者が払うツケである。

 で、若い人はもっと怒ってもいいように思うが、政治には無関心で、遠いことだと思っている。政治のツケはみな、安保法制でも、年金制度でも、消費税でも若い者にツケが回るのである。高齢者はいわば、もう生産することもなく、死への段階に入っているのである。

 思うのだが、僕は1964年+清潔なトイレ・風呂、パソコンで、十分だという気がしている。日本はこのまま「経済成長」を目指していく様子である。消費税を上げると、消費が落ち込むので、政府は10兆円の財政出動をするかどうか検討している。これとて、いわば借金である。10兆円財政出動してもらっても、エコカーだのエコハウスだの、僕らにはほど遠いことで、消費するべきものがないのだから、10兆円を使うのは止めてくれよ、と言いたくなる。ツケは若者へいくのだから。

 宮城県の堤防、不要かと思える東京オリンピック。国土強靭化などと災害の列島でどれほどのものか。逃げる方が得策である。

 1964年以降に出てくるものは、選択消費の商品ばかりである。僕なら、またその時代に戻ったとしてもきっと耐えることができる。

 銭湯にいっていた時代だって、不便さは感じないものだった。テレビは家にひとつあればよかった。冷房がなくても我慢できた。冷蔵庫の氷トレイには自分で水を入れていた。洗濯機は全自動ではなかった。

 こういう風に考えてみることが必要だと思う。ムチャなことを考えてみるのも意味がある。なにも考えずに未来に突き進んでいくよりも、立ち止まって、日本はどのようにしていくのか、をじっくり考えることをしてみる必要があるのではないか。

 経済が幸せの最優先ではないこともそろそろ我々は知っている。 


霧の旗 山田洋次

2016年05月23日 | 映画

 松本清張の「霧の簱」は映画やテレビドラマでなんどもリメイクされている。この前もテレビで見たような気がする。昨日、日曜日、TSUTAYA でレンタルビデオ見ていたら、市川雷蔵の「殺し屋」というのがあり、珍しいものを見つけたと思い、手に取ってカバーを読んでいた。すると、「霧の旗」、倍賞千恵子、山田洋次、橋下忍という字がカバーの向うにある棚から僕の目に飛び込んできた。おや、これなら「砂の器」のコンビではないか。山田洋次はこんなのも撮っていたんだ、と興味が引かれ、「殺し屋」と「霧の旗」を借りることにした。

 おそらく舞台は昭和30年代だと思う。戦後の雰囲気がまだ道路や横丁などに残っているが、経済成長真っ只中で、どこのスナックやバーもいっぱいという時代である。現代版の「霧の旗」を見てももうひとつピンと来ないのは、時代背景の風景が違っているからか、と思う。すでに東京では車の渋滞が始まっている。成りあがっていくもの、失敗するものの差もつき始めている。飲み代は接待で落とされる。

 現在では「お金を持たない人でも弁護士が雇える制度」があるから、この時代にはまだ整備されていなかったのだろう。昔、弱者のために闘っていた弁護士は、経済成長に伴い、ブランド力のある法律事務所になっている。そこへ熊本から「兄が無実なのに死刑を宣告された。助けてほしい」とやってくる。女性はこの弁護士ならきっと味方になってくれるかもしれない、と思ってやってきたのだ。弁護士費用を事務所で聞き、「私たちは貧乏人だから80万円も払えない」という。「弁護士は熊本にもいるだろう」と言って、諭されるが、女性はこの弁護士でないと、と頑固なほどにこだわりを見せる。結局、その弁護士は一度の面会で、忙しさを理由に断るのだが、その女性が言った、「先生は弱い人の味方をして、有名になったんでしょ」という言葉が残り、一審の資料を取り寄せ、真剣に読んでみるのだった。そしてある事実に気が付く。犯人は左利きであることに気付くのだ。しかし、それで、熊本からやってきた女性の要望をきくことはなかった。

 一年後、熊本の女性(倍賞千恵子)は、ある思いを持って東京のバーで働き始める。

 ところが皮肉にも気づかせてくれた弁護士(滝田修)の愛人(これが新珠美智代であった)が偶然ある殺人現場に居合わせてしまう。そしてまた偶然、殺された男の後をつけてきた熊本の女性(霧子・倍賞千恵子)が弁護士の愛人が殺したのではないことを知っている。そして彼女は遺体現場にまた出向き、犯人の残した証拠品のライターを取ってしまう。代わりにその愛人のものである手袋を落としてくる。彼女の復讐の絶好のチャンスが来たのである。

 山田洋次の映像には、意図的に、新しく登場してきたコンクリート風景が作る陰影などを織り込み、大都会の陰影をメタファーっぽく風景にしている。橋下忍の脚本には、「霧は音をたてる」というセリフによって、「霧子がなにかをしでかすかもしれない」という予感を感じさせる巧みさがある。

 考え尽くされた映画だった。思わず、3時からの相撲中継を観るのも忘れて、観たのだった。終わるとちょうど4時だったので、相撲中継を観た。東京の観客は応援コールも慎ましく、白鵬の圧倒感で終わった。体のどこかが悪いときは他のどこかを傷めないよう、それなりに勝つ方法を考える。白鵬は違う次元にいる。

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横綱白鵬を励ます会

2016年05月20日 | 日記

  早や、大相撲も13日目である。今日は横綱白鵬と稀勢の里の取り組みがある。稀勢の里コールで国技館が沸騰するのは目に見えている。ウィンブルドンテニス大会のように、注意するものがいない。解説者まで、そのことに注文をつけない。

  昨日もまた舞の海が向こう正面の解説者だった。白鵬に横綱らしさを求める言葉がちらちらと出る。「肘打ち」とかそんな手で片づけてしまおう、というのはやはり、横綱としては衰えてきているのかなあ、みたいなことを言う。

 白鵬の化粧廻しを見ていたら、「横綱白鵬を励ます会」と刺繍してあったので、おっ、こんなのがあるのか、おれも入ろうか、と思ったのだった。白鵬をしっかり励ましてあげたい。おそらく今日もこの励ます会の人達がいるはずである。彼らはコールをするのか、しないのか。しないのならば、コールの作法に否定的なのだろう。

 大阪場所が最もゲスな観客が多いと思い、さて今日の東京はどうか、と思って観戦する予定である。

 華やかに、時に渋い着物姿で女性が所作よろしく砂被りで観戦している。昨日の日馬富士戦では、日馬富士の速い、切れ味のよい相撲を観た。前褌をとって相手方を飛ばしてしまった。3メートル以上は飛ばされたのではないか。このスピードは怖い。ということは千秋楽が今日の相撲によっては相当面白くなりそうだ。

 宇良、石浦、佐藤、里山 などの小さな力士が相撲の決まり手を次々と見せてくれる。里山もあともうひとつ新しい技が出れば、舞の海に並ぶ。やってくれ、里山。

 楽しい夕刻も、あと3日間であるか。切妻の吊り屋根。二つの房が四組で、赤、白、青、黒。二つの房を結ぶあげまき結び。今場所はもっと仔細に相撲中継を観た。

昨日気づいたこと。西方の土俵入りの柝の音は澄み切って高い。東方土俵入りの柝の音はやや音が低い。こんなところにまで区別があるのか、と思ったのだった。


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2016年05月19日 | 日記

  天気のよい日が続いているので、実家の家の庭木を切り、乾燥させて燃やしてしまう。水分を多く含んだ青い葉はなかなかに乾燥しない。もう梅雨も始まってくるのか、家の雑草も増々伸びて、今年は、運動のつもりでするつもりでいる。二回することになるのだろう。よほど草刈り機を買おうかと思ったが、運動にはなるはずだ、と面倒臭く思うことは止めて、毎日ちょっとづつ刈っていけばいいと思うようになった。」

 こういう気分の変わり方も、毎日6000歩を目安にそれ以上を歩くようにし、5分ほどの筋トレの効果ではないかと思っている。案外、筋肉そのものへよりも、「面倒臭い」と思う気持ちのあり方の方に変化をもたらしたのではないかと思うのである。

 それで、へえ-、とその変化に驚いている。

 これまでガソリン使って、車を使っていたのはなんであったのか。それで足腰を弱くし、筋肉量を落とし、体温まで落とした。当然、免疫力まで落としていたはずである。

 思えば恐ろしいものだった。まだやりたいことが多い。

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白鵬の気迫は凄すぎる。圧倒感がある。稀勢の里はチックが治っている。神経の調子がいいのだろう。

 


外に出る

2016年05月18日 | 日記

   昨日は岡田さんと夜の街に繰りでた。食事して、スナックに行く。必ず普段より飲み過ぎる。寝不足もあって、今日はちょっとしんどい。話が弾むので、神経も活発になってくるのだろう。セロトニンなどは大量に出ているに違いない。話したことのひとつひとつをテープにでも取って、活字にしたら愉快なのかもしれない。剣道はなぜ、相撲と違って高齢になってもできるのか。「ぶつかることなく、間合いがあるから、瞬時に勝負をつけられる」と要約すれば岡田さんはそんなことを言っていた。

「映画『グラントリノ』は一番良かったな」と岡田さんが言い、

「よい映画やったなあ。あんたのセンスにぴったりくるんやろな」と僕が言い、

「そうさ」

 などと、路を歩きながら話す。居酒屋では、裁判のこと、相撲のこと、剣道のことに及び、そして路中での映画の話になったのだった。

 外に出ると人と会う。夫を三年程前に亡くした女性が、「やっぱりあたしは夫に支えられておったんやなあ」とか、「最近夜がおそろしくてセコムをつけた」とか近況を知ることになる。また別の男性と会った。「一度、会社の方に来てほしい。アイデアが欲しい」と言う。卒業生の女性とも会った。彼女もすでに48歳になっていた。彼女の近況も聞く。そうした中にいると社会の中に、世間の中にいるのだな、と思う。

 岡田さんにはなんとしてでも八段最高位を取ってもらいたい。僕の小説の中では彼らしき人物を登場させ、今から五年後までには八段を取っている。

  何の気兼ねもなく言いたいことを言っているので、酒は美味しい酒となる。日々は別々の生活を送っていることだから、だんだんこころの中に溜まってくるものがあって、それを発散させるということもあるのだろう。そうなると彼と「飯でもいかんの」となる。久しぶりの午前様であった。いつも思うことだが、人という字は二人を表しているが、もう一本右に支える線があっていいと思う。漢字としてこの頃、この字が気にかかる。人は二人によって支えられている、と言った方が、よいのではないか、と岡田さんと会うと、そんなことを思う。

 


警蹕(けいひつ)

2016年05月17日 | 日記

 また相撲の話になる。昨日の白鵬と勢戦。白鵬の張り手、カチ上げ、1秒で勢いが倒れてしまった。恐ろしい横綱である。この恐ろしさこそが横綱らしいと言ってもよい。

 舞の海などはまた何か言うかもしれないが、横綱は恐ろしくなければならない、と僕は思っている。禁じ手をやっているわけではない。勢がまとも過ぎるのだ。勢の方が考えなければならない。白鵬の気迫には恐れ入る。あまりにも気迫があるせいか、解説者の北の富士も「う~ん」と黙ったままである。

 白鵬対稀勢ノ里戦では、「シー」をアウアンウスしてほしい。「シー」とは警蹕(けいひつ)のことである。土俵入りの時、四股名、出身地、所属部屋がアナウンスされるときに、行司が「シー」と言う。力士も土俵にあがる際、シーと言う。横綱の土俵入りでは行司が言う。静かにしてほしい、という意味である。相撲はプロレスではない。今の相撲界だったら、稀勢ノ里コールで沸騰することだろう。せめて、制限時間になればコールはストップさせてほしい。これをアナウンスしてほしい。テニスでもしているではないか。何も観客に迎合することはない。相撲の伝統をうまく守ってほしい。

 今日も楽しみだ。


稀勢ノ里など

2016年05月13日 | 日記

 そう言えば、稀勢ノ里の「チック」は治ったようだ。これまで頻繁に瞬きしていたのが、先場所からしないようになった。そして今場所はというと顔が柔和になった。それらのことが、あたふたしない相撲につながっているかもしれない。心と体の動きは密接にリンクしているのを物語るようである。

 宇良の意識してのでんぐり返りには舌を巻いた。土俵に落ちるのを遅くするためにわざと頭を回転させ、それにつれて体が回転していた。相当運動神経がよく、肝っ玉も太いのだろうと思う。

 琴奨菊は相変わらず、これしかない、という相撲を取り、今場所の好調さが目立っていた鶴竜は勢に技負けした。勢の評価はさらに上がるはずである。

 錦木という新入幕の力士の名は江戸期の大関の名前だそうである。まだ横綱という地位がない最高位の関取だった。こういう由緒ある四股名を親方がつけたからには、錦木の能力を見抜いているのかもしれない。相撲界に入って十年。今が25歳。

 千代の国、石浦、宇良、佐藤、錦木、正代、御嶽海など、遠藤、逸ノ城、照の富士らに続いてでてくると、面白い。十両から相撲を見るのも楽しみになってきた。

 解説は辛口の解説がよいと思う。今場所では元栃乃和歌の解説が面白かった。だめなものはだめ、とはっきり言う。

 本では、「化学変化どうして起きるのか」と小説は有吉佐和子の「香華」を読んでいる。「香華」もまたすべりだしから面白い。祖母が死ぬまでところを読んだが、克明に孫の朋子から見る描写が切なく、激しく、美しい。


メールアドレス

2016年05月12日 | 日記

  メールアドレスを変えたとき、これまでやりとりがあった人や会社のメールアドレスをメモ帳に移し、デスクトップに保存しておいた。これまでgmail にあった連絡先の要領が違うようになったので、うまくできず、とりあえずメモ帳に置いていたのだった。 

 昨日、デスクトップにあったはずのメモ帳のメモがない。びっくりして探したが、見つからない。またヘマを打ったのかもしれないと思い、ショックだった。アフリカやオーストラリアにいる知り合いのアドレスもわからなくなってしまった。

 書いていたものを突然、全部削除してしまったりすることもあったので、よくよく用心していたつもりだったが、消えてしまった。ウィンドウズ7からウィンドウズ10に換えたときにどうにかなってしまったのだろうか、などと思いながら、復活できる方法がわからず、そのままでいる。

 今では住所よりも電話か、メールアドレスが重要である。すでにメールという伝達手段ができてから、住所を聞いておくこともめったになくなった。

 何かを知らせたいときは一斉に送信ができる。ひとりひとりに長い手紙も書ける。これほど便利なものも、ちょっとしたことで消えてしまうのだから、便利は真逆の不便となり、取り返しのつかない被害になる。困ったものだ、と嘆息している。

 

 


大相撲三日が過ぎた

2016年05月11日 | 日記

 まだ大相撲も今日で四日目であるが、三日目まで大関が好調で、横綱も日馬富士が負けたとしても、白鵬は怖いほど強く、鶴竜も相当に強い。1時5分から幕下の取り組みがあり、時々のぞき、テレビのドキュメントで高校を卒業して、期待されて相撲界に入った男の子が十両を三場所務めてから幕下に下がり、今場所は幕下上位で取っている「旭大星」の取り組みを観る。そして十両になると、宇良、佐藤、石浦の取り組みを観る。宇良は体が大きくなっている、さらに筋肉をつけていて、下半身も太くなっている。石浦も小兵ながら良い相撲を取っている。

 やはり相撲は前に押し出すのが正統で、前に押す動きの中で技が生まれる。押すという技があって、初めて相撲が成り立つと言っても過言ではない。

 重心のわずかな狂いで、勝負がついてしまう。その重心を狂わせるのは立ち合いであり、力であり、技である。正代は相撲を取らせてもらえない。これほどまでに上位力士との力の差を見るのも久しぶりである。

 琴奨菊は先々場所の優勝時に戻ったような感じだ。優勝して歓喜に沸き、結婚し、テレビ出演と多忙な日々だったあとの先場所はふがいのない成績だった。やはり浮かれていると相撲はだめになってしまうようだ。稀勢の里との激しい稽古は琴奨菊にも稀勢の里にも好影響をもたらしているようだ。

 今場所は面白そうである。遠藤に頑張ってほしい。遠藤もそうだが、僕は特に、怪我などで十両に落ち、這い上がってきている栃ノ心や大砂嵐も応援している。

 十両で優勝したとて、幕内になると、しかも中入り後の取り組みになるとなかなか勝たせてもらえない。

 そうそう、「木瓜の花」を読み終えた。これが面白かった。「あたしは嘘と坊主の頭だけはいうたことがないわ」と平然といいのける蔦代とそんな言葉に呆然とする主人公正子のやりとりがなんとも面白い。僕も奨められて読んだのだが、演劇好きの有吉佐和子の奇人ぶりも大いに発揮されていて、「うまい!」だの「へえ」だの感心しまくりで、つい、いろいろとある木瓜の品種でもどこか園芸店にでも行って見てみたいものだと思う。久しぶりに小説を堪能した。 


記憶、Wの悲劇

2016年05月09日 | 映画

 記憶というものは曖昧で不確かなものである。僕から積極的にフックしようと記憶するものは海馬で長期記憶もできるのだが、自らフックしないものの記憶はほとんどできない。この前、昔、1984年に見た映画「Wの悲劇」を再度見たが、ほとんど初めてみるような気がした。三田佳子が確か犯人だと思っていたのだが、これも間違っていた。薬師丸ひろ子の歌だけはよかったので、しっかり覚えている。

 記憶はどうやら書き換えられていくようで、何がなんだかわからなくなってくる。一般的教養というのは小さなうちに詰め込んでおいた方がいい、と思う。

 高校生の頃、現代国語や古典では最初が詩や歌であった。新学期になると、今年こそ勉強するぞ、と思って、一週間くらいは真面目になるのである。だからその一週間で習った詩歌は今でも諳んじることができる。佐藤春夫の「ためいき」や三好達治の「甃のうへ」、雄略天皇の歌などは今もスラスラと記憶の箱からちゃんと出てくる。勉強してこなかったので、中学や高校で習っているはずであったことを大人になってから習いなおすこともしばしばあった。日本の歴史もそうだが、生物も化学もほとんど知らないというものだったから、残念、後悔をよくしたものだ。

 考えられないのは、東大などに入って、在学中か、卒業後まもなく司法試験や上級公務員試験などに合格する人だ。現実的な経験はないのに、理解し、暗記していく。これにはたまげる。

 考え方とか、態度であるとか、こころの持ち方とか、胆力があるかどうかとか、そういう方が大事なことであるとは思うが、勉強することの持続力と集中力もたいしたものであるから、それは羨望に値する。

 人間は生まれながらにバカにできているか、賢くできているか、8ケ月の赤ちゃんに指を差しだして掴ませると、その手の圧力と目の視線で、判断できる、と小説の中で、言っているのを読んだ。果たして本当のことなのか、怪しんでいるが、僕がその赤ちゃんだったら、強くは握っても、相手の顔をじっと見ないだろうと思う。すると僕は生まれながらバカの部類である。

 記憶力が悪いことで得することもある。よかった映画を何度も見えるし、小説もなんども読める。慎重にもなる。

 だいたいが頭がよい人というのは先が読め過ぎて、臆病でもある。行動の結果はわるはずもないのに、わかると思ってしまうのだろう。これは頭が良い上の弊害だと僕は思っている。人間は安定、安心を好み、冒険は避け、つい今のままでいい、という保守性は人間に備わったいたしかたのない、「賢さ」にある。僕は嫌いなのだが。


今日から大相撲

2016年05月08日 | 日記

  今日から相撲が始まる。どことなく相撲には華がある。吊り屋根から垂れる房にも、行司の装束にも、各関取の化粧廻しにも粋なところがある。呼び出しの仕事にも今日からは興味を寄せようと思っている。行司の木村、式守の軍配の持ち方も確認したい。

 遠藤が西前頭15枚目の最下位で幕内に入っている。怪我はどんなものだろう。また隠岐の海、勢はどこまでの力がついただろう。琴奨菊は元に戻ってしまうのか。楽しみである。

 白鵬の左上手に隙があるのに、それを研究しない力士を嘆いていた北の湖元理事長。それがどんな隙なのか、見てみたいとも思う。大鵬と白鵬ではどちらが強かったとか、貴乃花とではどうであったか、などと比べることも詮無いことだが、やっぱり考えてしまう。

 五月場所の両国界隈は賑わっていることだろう。芸者さんたちの姿を観るのも楽しみである。

 有吉佐和子の「芝桜」の続き、「木瓜の花」を読み始めた。文の速度が上がっている。書きこなれたのか、急いだのか、何にしても「くされ縁」がどうなるのか、これもまた楽しみである。