25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

便利なものを見つけた

2016年01月28日 | 日記

   そう言えば、僕は「梨の花」と「杏の花」と「林檎の花」を一度見たかったのだった。それも群となって、満開の花が見たいのだったが、ずっと忘れていた。ネットで検索してみると、杏は信州に、梨は鳥取や新潟や東京に、林檎は弘前に、観賞を堪能させてくれる有名地があるらしい。三月末あたりから五月にかけて、のんびりと旅でもしたら、桜→杏→梨→林檎のコースができ、よい旅ができそうである。

   今年は実行できそうもないから、来年には、と思って写真だけを見ていた。ネット検索というのはこういう時には便利である。

 便利なことをもうひとつ。それは「プチリリ」というアプリである。

 僕はこのタブレットやスマートフォンに「プチリリ」を最近ダウンロードした。ぼくのタブレットやスマホにはサザンや陽水などいくつもの歌が入っている。プチリリを開くと、僕のミュージックアルバムがでてきて、曲をかけると、歌詞が画面にカラオケのように出てくるのである。歌の好きな僕にはとっても重宝である。歌詞のバックには自分の写真ギャラリーが出てくるようになっている。

  こういうことを考える人もいるんだと感心し、大感謝である。


小沢一郎のこと

2016年01月27日 | 社会・経済・政治

  メガネが合わないのか、目にどこか異常があるのか、テレビの文字がやや見えにくくなっている。

  昨晩は夢ばかりみているようで、熟睡したように思えず、目の周りの筋肉も緩んで垂れているような気がする。失礼ながら、昨日「小沢一郎」が語るのを見ていて、彼の顔はすでに妖怪のようになっているのをみて、ぼくもそうなっているのではないか、と心配した。これは小沢一郎をけなしているんではない。むしろ、政治家の中では一番まともなことを言っているし、第一、テレビ局と新聞社を切り離す、という彼の持論や、記者クラブの閉鎖性は一種の既得権益だと常日頃から僕も思っているので、彼の意見に概ね賛成している。日本人の性急さや、自己責任意識のなさを時に言及するときもあるが、その意見にも僕は同感している。

 マスコミを敵にする限りなく、よほどのことでもない限り、彼が政治の表舞台にはでてこれないだろう。しかし、共産党を説き伏せるんlも、野党の結集を図ることも彼にしかできないことのように思える。フランスでは極右政党が支持を伸ばしてきたために、左派はわざと右派に票を投じ、極右の排外主義的な政党を抑え込んだ。政治というのは、ある時には、ひとつの問題にたいして連合を組むことも必要だろう。

 これまで、自民党政権を支えてきたもは共産党だとも言えるわけで、この共産党と幾つかのイシューで野党が連合できれば、政権交代もおこりえるはずである。

 こういう考え方にも僕は概ね賛成する。自らの力で民主主義を勝ち取ったことのない日本国民には、まだ民主主義が根付いていないように僕には思われる。ヘイトスピーチを平気でするものから、選挙の投票の仕方まで、自分で考えるとくことを放棄しているし、なんでも政府にやってくれ、これは国の仕事だと、平気で言うのも、まだ過去の時代からひきづったものが意識に潜んでいる。口では民主主義と言いながら。

  こういう話と僕の目の話は  まるで関係はないが、僕の脳の働きのプロセスでは繋がっているのである。残念なことよ、小沢一郎。僕も歳をとったが、あなたもずっと歳をとった。最後のひと頑張りを見せてくれ。

     


相撲小説

2016年01月26日 | 日記

 孫が相撲取りになったと空想して、相撲小説を書いている。純文学系を10作品書いたので、次に何を書こうかとあれこれ考えていたら、相撲についてはどうしても書いておきたい、しかも老人小説と青春小説を兼ね合わせたいという気になって昨日から書き始めた。もちろん、ぼくの空想なのだから、調査などはしない。知っていることの範囲で書くのである。現在の相撲の取り口を見れば、だいたいがどんな稽古をしているのか、検討もつくというものだ。

 やはり琴奨菊は「体幹トレーニング」をやっていた。それにメンタルトレーニングもしていた。怪我をそれで克服しつつある。膝と胸骨が完治したら、もっと違ってくるように思えるが、来場所は対戦相手ももっと研究してくることだろう。今場所は横への揺さぶりにも対応できるようになっていた。重心を崩すことも、豊ノ島戦だけであった。豊ノ島の土俵際の上手さの方を褒めるべきかもしれない。

 琴奨菊の心理学と体幹トレーニングと栄養学は、31歳の彼をどこまで変えられるのだろうか、と注目している。がぶり寄りという技しかないのだから、どこまで倒れずに押し進むことができるか、来場所も通じるか、ということになるだろう。

 大相撲の解説でおもしろいのは貫禄で粋な北の富士であるが取り組み解説で抜きん出ているのは元琴錦である。こうしたからこうなった、という取り口の順序と失敗の原因や勝利の原因、その過程をつぶさに説明してみせる。これは見事だと常々思っているので、琴錦の解説だけは録画しておいた。参考にしようと思う。

 小説は一日4時間くらい書く。土曜、日曜は休む。頭の中でグツグツ煮るようにして休みを過ごす。人に会うこともそうないが、65年間を慰めていると言ったほうがいいかもしれない。ようやくそんな日々がきたのだ。

 

 


琴奨菊の優勝

2016年01月25日 | 日記

  どうやらこの冬一番の寒さと感じるが、鹿児島や長崎で雪が降っていると聞くとよほど尾鷲は暖かいところのようだ。夏は涼しいし、気温としてはいうことがない。雪かきをしているのをみると、年老いた人は南のほうに行きたいのではないか、やれやれ、と思っているような気がする。

  琴奨菊が優勝して、「半年前から始めたトレーニングがよかった」とインタビューで言っていたので、これまでとは違う方法を誰かから教わったか、自分で思うところがあり、開発したんだ、と思った。

 彼は大関になる前、大学の先生に自分の相撲を見てもらって、相手方をじっと睨んでいると指摘されたことがある。目 の神経は交感神経が支配する。すると筋肉は収縮する。自分の体から力を伝えていくには、体をゆるめる。すると、体は重くなる。その重さでぶつかって行ったら、圧力が大きくなる。泥酔した人が重いのと同じ理屈である。

 この半年間、怪我を克服するのに、どんな稽古をしたのだろう、と興味が湧く。

  大関になってから「怪我」に泣かされた。これまでの成績があるから、最後まで信用できなかった。ところが千秋楽も圧倒的だった。福岡柳川では応援する人が集まり、桟敷席には両親がいた。藉にははいったが、披露宴が一週間後だという。思えば琴奨菊は我が息子よりひとつ、ふたつ、年下である。まだ31歳というのだから、相撲取力士は歳さえも大きく見える。不思議なことだ。


魚2種

2016年01月21日 | 日記

  尾鷲から近年無くなってしまった魚が2つある。ひとつは少し脂のあるサンマである。今年もひどいものだった。サンマはやせているだけでなく、寸法も短い。これにはショックを受ける。

  もうひとつは片口イワシである。2月と3月初旬の片口イワシは適当に脂がのり、一夜干しにして、焼いて食べるととても美味しいのだが、このイワシもサンマと同様、とれなくなった。店に出てくるのはガサガサとした不味いイワシである。

たぶん海水の温度が高い状態がここ数年続いているのだろう。これは僕にとっては大問題で、2つがないだけで、ぼくにとっての尾鷲の価値はぐぐっと下がるのである。

今年の片口イワシに期待しているが、今年もダメなら、もっと北の方で探す必要があるかもしれない。

  尾鷲はずいぶんと変わったが、食べるものまで変わるとは、思ってもいなかった。


楽しみなこと心配なこと

2016年01月21日 | 日記

 琴奨菊が強いので、ハラハラしている。白鵬を倒したが、小さな身体で動きのすばやい日馬富士に勝てるものか。

 もうひとり注目している力士がいる。彼が高校で柔道をやっていて、相撲を知らないまま、相撲界にスカウトされた。入門したのは元旭天鵬の部屋だった。彼の一年を追う、ドキュメンタリーをテレビで見た。その力士はもうすでに25歳は過ぎているはずだ。旭大星という。十両の下のほうにいる。彼は相撲の修業が辛くて部屋を黙って出て行ったことがあった。故郷で思い治して、また戻った。彼には故郷の後援会もあり、期待されていた。十両はたぶん3回目だと思う。十両になったかと思うと、よく場所落ちてしまう。

 身体にも肉がついてきていて、ようやく関取らしい身体になっている。小さいときの相撲勘のようなものがなかったのだろう。小学生や中学生ぐらいのときに相撲を取っていればもっと違うのかも知れない。柔道から相撲に転じると柔道の癖がわざわいする。

 昨晩、「内蔵の時間」という本を読んだ。内蔵は「考える」、「連携する」、「記憶する」ということが近年わかってきている。故三木成夫の形態学からの考えが裏付けされていた。

 翌日、実家に行くと、腹が痛い、という。「便秘なん?」と訊くと、「違う」という。「下痢?」と訊いても「違う」という。う~ん、と考えて、昨日の「内蔵の時間」の中で、「腎臓の機能というのは急降下で低下する。そのときに腎臓に代わってサインを出すのは腸である、書いていた。母親の腎臓は検査ではたしかにやや機能が低下していた。それが腸がサインを出さなければならないほどになったのだろうか、と心配になった。今日の様子を見て、病院に連れていくかどうか、を判断しようと、ときどき様子を訊いている。

 楽しみも心配も同時にくるものだ。母のことは今日は様子見と決め、琴奨菊対あ日馬富士戦を楽しみにしている。旭大星も黒星が先行している。頑張れと言いたい。


尾崎放哉の句

2016年01月21日 | 文学 思想

  尾崎放哉の句を幾つか

 

 咳をしても一人

なんと丸い月が出たよ窓

松かさそつくり火になった

とつぷり暮れて足を洗つている

墓のうらに廻る

いれものがない両手でうける

  放哉の自由律俳句。何度読んでも寂しい孤独感をもらうことになる。こんなに僕は今健康だというのに。このさすらいの俳人は享年42歳。この放哉役を渥美清がやりたかったらしい。しかし、トラさんのイメージが邪魔した。残念だったろう。酒を飲むと始末におえない放哉のようだった。吉村昭が「海も暮れきぬ」で墨画のように生涯を描いている。電子ブックの「青空文庫」では彼の句集全部読むことができる。

すばらしい乳房だ蚊が居る

はるの山のうしろからけむりが出だした

 

 

 

 

 

  


74歳から

2016年01月19日 | 日記

   必要があって「イーグルス」のことを調べていたら、翌日イーグルスの主要メンバーのグレン・フライの訃報を聞いて少し驚いた。「ホテルカルフォニア」を聞くと、彼を思い出してしまう。彼はどちらかというと日本のバンドを小馬鹿にしていた。デヴィッドボウイも死んだので、また驚いた。彼は僕よりも年上であるが、七十歳に届く前に死んだのだから、無念ではあるだろう。

 話は違うが、昨日、74歳でスナックを開いたという男性と話す機会があり、これには、相当喝采した。彼は60歳で退職して、14年間テレビばっかり見ていたのだった。運動不足で体は太り、つまらない日々だった。これではいかんと思うまで、14年間かかったという。奥さんは彼が37歳の時になくなっていた。客商売などはしたことがなかった。子や親戚のものは反対した。しかし彼は断固やってしまった。すると、やらなくてはならんしことが多くなり、脂肪も減り、自分がまだ、人に何かを提供できるものだtl実感した。赤字にさえならなければいい。そのくらいの努力をしようと思った。今75歳。体はすこぶる調子がよい。客もついてくれた。ただ黙って、カウンターの中にいるだけである。ビールを出す。おつまみをだす。コップに氷をいれるだけのことだ。見ザル、聞かザル、言わザルだ。やるなあこの人。また新しい人生を始めたのだ。


世相

2016年01月16日 | 社会・経済・政治

  現政権にときに批判的なコメンテーターや司会者の降板が目立っている。古舘伊知郎、岸井成格。

  読売も朝日も、首相と会食しているようでは、マスコミの値打ちがない。日本のジャーナリストのだれも、イスラム国やシリアやイラクの内部実情を伝えない。イスラムのみが悪者であり、その根元にあるものは覆い隠されるし、普通の人々がどんな風に思っているのかも伝わってこない。

 ましては日本ではテレビ局と第新聞社は資本がつながっている。こういうのは危ない。マスコミ同士の牽制も必要で無いとき、また一億総翼賛会になってしまう。この改革が必要である。

   2016年の株価暴落 ま真逆の高騰。どっちに備えておけばいいのか一般人にはわかりにくい。株価や為替は日銀の異次元の金融緩和に始まった。それは為替差益の話できた実体経済が上向いているわけではない。雲の上の方で踊っている人たちがいて、雲に乗りたいと思う小粒の小資本家がいずれ泣きをみるのではないか、と思ったりする。

   65歳以上になっても、深夜のバスを引き受けなければならないということも世相を反映している。


大相撲所感

2016年01月15日 | 日記

  大相撲では「正代」が上がってくるように思う。「高安」も力をつけている。「稀勢の里」にはいつもながら落胆する。「嘉風」は自分の相撲の型ができてきている。「琴勇喜」の手の包帯には好感が持てない。「遠藤」は休場して膝と足首を治すべきだと思う。

常幸龍、安美錦、照ノ富士が休場し、大相撲はあまりにも怪我が多すぎる。骨ストレッチでもそればよいのに、と思うが、体重の増加に関節系がついていかないのかもしれない。現在の内幕力士の平均年齢は28歳らしい。それにしても、30代の嘉風や勢、琴奨菊が頑張っている。逸ノ城はただのデブになってしまっている。からだのコントロールができないのだろう。鶴竜が横綱というのも変なことだ。

 昨日の「隠岐の海」の審判ミスは隠岐の海にはつらいことだったろう。全勝がストップしてしまった。

 相撲は2ケ月に一度あるが、4場所でもいいのか、とも思うが、稽古の仕方も進歩していいのかもしれない。

 体重ではなくて、技で勝負する力士が出てきてほしい。観客席には和服を着た女性が多くなった。「たじまのママ」さんの影響だろうか。大相撲は今日も満員御礼だ。

   


遠い目、近い目

2016年01月14日 | 日記

  遠い目で見てみると、現在の技術で150年分あるといわれる石油はセルロース(植物繊維)にとってかわり、砂漠には植樹活動が進み、二酸化炭素が少なくなる。ヒトの寿命は伸びる。

 ぼくら人類の脱アフリカのルートもほぼ解明され、そのことが啓蒙されることで、民族を越える意識が育っていることだろう。

 ぼくらは27番目の人類であるが、遺伝子DNAの突然変異が一番多様なアフリカかから28番目の人類が誕生するのかもしれない。

 人類はあいもかわらず、戦争をして、殺し合っている。第一次世界大戦、第二次世界大戦の戦後体制の歪みがでている。近い目でみると、その整理が国家間で行われるのだろう。

 キリスト教は政教分離を果たした。イスラム教は600年ほど遅れてでてきた宗教だから、政教分離となるまで、まだ400年ほどかかるのかも知れない。しかし、固定電話時代をスッポリと無くして、携帯電話にいってしまうように、何らかの動機で、イスラム教も政教分離化していくのか、宗教国として、アーミッシュのように生きていくのかも知れない。 

 そんなことを思いながら高校生たちをみている。無邪気に騒がしい。孫たちのことも考えてみる。僕はめったにない平和とものが溢れる時代を過ごした。これからの孫娘たちは困難な時代を生きなければならないのかも知れない。

 株価下落、石油価格下落、円高、中国経済の減速、各地での爆弾テロ、南沙諸島、尖閣列島、北朝鮮、日本の財政問題、ヨーロッパへの難民、ロシア経済の悪化、そして格差社会と貧困。 地球温暖化。現在は問題だらけだ。

 

 


セルロース ナノファイバー

2016年01月13日 | 社会・経済・政治

  僕が知らないだけのことかもしれないが、髪の毛の5000分の1から10000分の1の細さの植物繊維から、鉄の強さの5倍の塊ができ、透明のフィルムにもなり、それは未来のタブレットを丸めて使える基板にもなる。車の強度は上がり、軽くなる。そういう素材を日本列島人が開発し、今や世界各国でまさにiPS細胞の進展と同じように、応用方法やコストダウンが試されているようだ。

 藁からでもみかんの皮からでもできる。もちろん木でも竹でもよい。つまり再生可能な材料というわけである。 血管にも使える。もともと人間は植物繊維を食べているから人体への馴染みもよい。 鉄やプラスチックに替わるものがやっと出てきたのである。

   iPS細胞に匹敵するような人類の発明だと思う。森林が70%といわれる日本に一大変革が訪れるのも、間近である。オリンピックを過ぎたあたりから、iPS細胞の再生医療や薬の開発も、このセルロース ナノファイバーも花開くことだろう。

このような技術の発明にからの進展に政治がついていけるのか、もっと進展を短縮させることができないものか、と思う。政府の税金の使い方が間違っているのではないか、と思う。経済が不安定になってきた。中東の混乱がオイルマネーを引き上げさせ、中国の経済に停滞が起こり始めた。

 この国がはたんせず、iPS細胞やセルロースナノファイバーなどが順調に早く、日本の隅々まで、また世界の産物と交換できるkjらいになってほしいものだ。水素エネルギー、マグネシウムエネルギーなどもこれからだ。ずっこけるなよ、日本、てな感じだ。


追憶

2016年01月11日 | 日記

三連休と言っても別段特別にすることもなく、裏庭の枯れ葉と不要な段ボール箱を燃やしてじっと火を見た。風もなく、外気は冬らしく冷たい。昨日あたりまで温かな日が続いていたので、まだ1月の11日だというのに、庭の白い綿のように見える木蓮の花がひとつ咲きかけ、この二、三日の冷たさで、じっと身を屈めているようである。精一杯咲けないのだろう。枯れ葉の下には虫がいて、手をのばすとゆっくり逃げる。

   今年はインフルエンザの流行をまだ聞かない。

   「イスラム戦争」を読み終えて、自分はイスラムのことや、ユダヤ教のことなどほとんど知らず、西欧から伝わってくるニュースのみで知るぐらいである。ユダヤ教では世界の終末を迎えて初めてユダヤ人の国ができる、と信じられている。なるほどユダヤ人はなぜ、国家をもたず、方々に散らばっていた理由もしることとなった。するとイスラエルというのは何だろう。やはりヒトラーによる迫害、虐殺がよほどこたえたにちがいない。

  イスラエルが建国された時に、イギリスは、入植の人数を制限して、イスラエルに到着した人々をまたヨーロッパに帰した。

  ぼくはロンドンにいた若い一年、ユダヤの女子学生と仲良くしたが、彼女の父や母はそんな体験をしていたかも、しれない。彼女はよく、本をくれた。マルシア・ガルケスの「百年の孤独」を読めという。The heart is lonely hunter を読めという。楽しい映画は楽しんでワクワクしながら見るものよ、といい、ぼくにいろいろな映画に誘ってくれた。そのなかに、「007シリーズ」 も「 2001年宇宙の旅」や「Don't look now」もあった。 僕は無知だったため、彼女のルーツや家族の歴史に何の関心も寄せず、ただ恋をして、詩を書いて、歩いて、地下鉄に乗るくらいだった。僕が大金持ちなら、今彼女がどこにいるのか探す新聞広告を載せるのに、と思う。彼女は寮住まいだったので自宅の住所も電話番号も知らなかった。

   ぼんやりと焚き火の炎を見ながら、記憶が感情を伴って、次々と現れる。そして問うてみる。その体験は他の人にも通じる意味と感情を持つものかと。そこ個人の物語の芯となるものは何なんだろう、と考えてみる。意味もないことなのだが。

 


現在の興味

2016年01月09日 | 日記

 新書版を数冊買った。順番に読んでいく。ひとつは、鼎談「戦争する国の道(宮台真司、小林よしのり、東浩紀)」、「イスラム戦争(内藤正典)」、「臓器の時間(伊藤裕)、「ボケる、ボケないは「腸」と「水」(藤田紘一郎)」、「縄文人からの伝言(岡村道雄)」、「日本人になった祖先たち(篠田謙一)」、「日本列島人の歴史(斎藤成也)」

 人類が民族や宗教をこえたところで、平和に暮らす理念として、「共産主義」であり、一方では「自由と平等と博愛」の「自由主義・資本主義」であった。

 この2つの理念は「戦争」を越えられないものであった。戦争を越えるには、相互理解、相互扶助、戦争の放棄という理念が加わらなけれならない。

 別の側面では「戦力の無力化」も考えられる。例えば、ミサイルが飛んできて100%打ち落とせる、あるいは、Dr.中松の発明のようなミサイルがユーターンしてしまうような技術の開発である。

  ぼくはそのような技術には疎いから、人類の歴史にずっと関心を寄せてきた。民族という概念を崩すのは、民族の成立の歴史を遡っていくしかない。国会議員が「皇紀2676年」などと愚かなことを言うものに、日本列島人は2676年よりもさらに2万年以上前から生きてきたことが詳細に解れば、2676年は無化されるにちがいない。現在ではDNAから解明し、我々の祖先がわかるようになっている。遺跡からでも縄文時代の様相がわかってきている。

  そういう関心から上記の本を選んだ理由である。「臓器」と「脳」についても同様で、人間の「個体」の研究はどこまで進んでいるのか。心と体のズレを考え、それが世界につながっていく理念となり得るのではないか、と思い、「贈与経済」にもなりえると思うからだ。iPS細胞はまさに「贈与経済」の先駆である。贈与経済というのは、いわば、「物々交換」と考えればよい。技術と労働、たとえば農産物や資源は交換可能のように思える。

というようなわけで読んでいる。時々、読むものが見あたら無いときがある。それが今あるものだから、助かっている。

 

 

 


小説の応募

2016年01月08日 | 日記

  今日は1月末の「現代文学新人賞」と3月末締切の「文藝賞」にそれぞれの作品を応募した。

 これで、「文学界新人賞」と「群像新人賞」にもすでにだしたので、4作品を一応読んでもらえることになる。 昨年の9月から決心をして書き始めて、8作品となる。

 小説としてどのレベルなのかわからない。自分のこととは実に自分でわからいものだし、それが他人の編集者のこころを動かすものなのかもわからない。

 もう5ケ月も過ぎると、ビジネスのことは考えなくなる。これまでの仕事のアンテナも低くなる。

 そして頭の中は次にどんなことを書こうかと、いつも思うようになっている。幾つかの問題にも気がつき始めている。悪人を描くことができないこごだ。あるいは正義の顔をしてじつは悪をなしているひとの心理面が描けないこごだ。漱石も一切悪人を描かなかったから、まあ、いいか、とも思うのだが、現代ではその描きかたも必要になって、くるのではないかと思ったりもする。漱石が小説を書いたのは、わずか10年間であった。そのことを考えると、まだまだやれるわい、とも思う。

 だから10年はとにかく続けるつもりだ。

今日はひとりでひっそり祝杯しよう。