25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

和歌の浦 片男波

2019年12月10日 | 映画
有吉佐和子の小説「香華」のラストシーンで、知り合いの旅館の女将さんが、二階の窓から外の海を見て、「和歌の浦の波は寄せる波はあっても返る波がないのよ・・・片男波っていうのよ」と言う。映画で、この波が見えるのを期待して見たのだったがその波は映されなくてがっかりした。和歌の浦に行って見てみたいものだ、とブログで書いたら、息子のお嫁さんのお父さんからメールがきて、

「カタヲナミ」の出所は、奈良初期の万葉歌人山部赤人の歌、「若の浦に潮満ち来れば潟(かた)を無(な)み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る」(巻六919番)(訳:「和歌の浦に潮が満ちて干潟がなくなったので葦の生えた岸辺を指して鶴が鳴いて渡って行く」)から来ております。問題はこの歌の中の「潟を無み」の文法構造が、長い間(近世、たぶん明治時代まで)明らかにされなかったことにあります。人名や地名などの体言として理解されていたようです。だから和歌の浦に寄せる波になったり力士名(片男波)になったりしたのでしょう。しかし、正しくは、上の現代語訳からも分かるように、「***が・・・なので」と訳すべき副詞節であり、「をーみ構文」、または「み語法」と呼ばれています。万葉集には頻出します。だから和歌の浦へ行っても、片男波という波はありません。

と教えてくださった。ぼくらは義兄弟でもあるわけで、彼は兄貴だということになる。
 ぼくが干潟だったら波が寄せて水は吸い込まれていくのではないか、のような質問をさらにした。有吉佐和子はどこで寄せる波があり、返す波がないことをカタヲナミと知ったのだろうと思ったのだった。
 再度メールをいただいて、

 万葉集に、「浜辺に立って、海上から白々とよせ来る波が、足元に寄るとそこで行き所なく消えていく」という意味の歌(巻七1151)も確かにありますが、有吉佐和子のこの小説での会話では、ただ「片男波」という漢字の「片」にひかされて、寄せても返らない「片方向」の波というニュアンス(実際は返るが)で言われていると思いますが。

 干潟に水がなくなるのは、引き潮によって水が沖へ引いていくのであって、干潟に吸い込まれるということではないでしょう。

 とのこと。こういうやりとりに楽しさを感じる。しかし実際に海を眺めながら言う女将の言葉と「そう、カタヲナミ・・・」とつられたようにあいずちをうつ言葉はこれまで歩んできた人生を感じさせ、これからも寄せるように歩いていく主人公の姿にカタヲナミ=片男波で被せるのは見事だというしかないと思う。「笑っていいとも」でけたたましく出てきた有吉佐和子を思い出す。タモリが片男波をどこで知ったのか、何を意味するのか聞いてくれればよかったのに。



香華

2019年12月09日 | 映画
 3年ほど前に有吉佐和子の小説を結構読んで、中でも言葉の掛け合い、人間関係で痛快に面白かったのは「芝桜」と続編の「木瓜の花」である。「木瓜の花」は突出して面白い。おや、TSUTAYAのレンタルショップに「香華」という映画DVDがあるのを見つけた。「木瓜の花」を読んだあとに「香華」を読んだのだった。すさまじく勝手な母親で夫が死んでから娘を実家に置きっぱなしで、村の庄屋の息子と再婚する。この結婚生活にも飽いて、夫に東京に出て行こうとけしかけ、功を奏して、東京暮らしが始まるのである。小説の主人公は死んだ元夫との子で実家に置かれぱなしになった娘の須永朋子である。新しい夫にわがままばかり言い、夫は稼ぎもなく、実家からも援助をもらえず、結局、朋子を芸者屋に売り、朋子の母親もついでに公娼として売られることになる。この母親はついぞ反省をしたことがない。娘に悪いことをしたなどと思ってはいない。裁縫だけは上手であるが、兎に角銀座みたいなところが好きで万事楽しくやりたいという女である。

 そんなストーリーを思い出し、最後の小説のシーンを強烈に覚えていた。和歌の浦の友達の旅館から海の方を眺めて、「この和歌の浦の波は寄せる波はあっても返す波はない片男波・・・というのよ」(原文は覚えていない)人生もそうだ。寄せる波だけであり、返す波がない。親鸞はそうではないという。人生には往きと還りがあるという。そのことはともかく、これを映像で見てみようと思った。監督は木下恵介。音楽は木下忠司。前編と後編の2枚組である。3時間半。大正、昭和の建物、町並み、風景が現れる。ぼくが13歳になるくらいまでのぼくの知らない風景である。懐かしいような、珍しいような質感がある。

 母親役が音羽信子。娘の朋子役が岡田茉莉子、戦犯で絞首刑になる軍人は加藤剛。朋子の実家で下働きしていた少年が大人になったのが三木のり平。朋子の父が死に葬式をやっている最中に日露戦争勝利の報が届く。明治38年から映画は始まる。物語は昭和38、9年までである。朋子と知り合いの旅館の女将と片男波を見ているところで終わりである。

 ああ、そうだった。軍人を好きになって結婚を約束するが、男の親に反対された。その理由は母親が娼婦だったからだった。これは香華の中だったか。「紀の川」と「芝桜」や「木瓜の花」とこんがらがってきて、映画で再度確認するということになった。有吉佐和子の小説は「会話のやりとり」が面白い。ああ言えばこう言う。神経を逆なでするようなことを言えば次の日にはケロッと忘れている。木瓜の花の主人公の腐れ縁の女は「芝桜を咲かせる」のも、「木瓜の花の盆栽を育てる」のも才があった。香華のわがまま気ままで男好きな母親も「生地模様を見立て、それを縫って着物を作る」という才があった。憎たらしい女性とだけ描かれているわけではなかった。有吉佐和子はきっとけたたましい作家だったのではないか。そんなことも思った。

 和歌の浦へ行って「片男波」を見てみたいと思うが本当に返ることのない波はあるのだろうか。

男優

2019年11月28日 | 映画
 男で格好いい俳優がいる。中でもぼくが好ましいと思っているのは、瑛太、小栗旬、反町隆史、向井理である。中井貴一や阿部寛、渡辺謙は雛壇に置いておく。先の四人ともこれからが勝負なのだろう。よいドラマ、よい役に当たってもらいたい。なかなか今の日本の映画ではよい作品があまりないから、心配する。「復讐するは我にあり」で緒形拳は殺人鬼を演じた。この映画は実際の事件があり佐木隆三が裁判に出掛け、調書を見てルポルタージュとして書いたものが原作である。ミヤコ蝶々が異常なあまやかしかたをする母親役で、三国連太郎が確かクリスチャンで、厳格な男親だった。だが本当の父親の姿はクリスチャンとはほど遠いものだった。そんな親の息子で殺人鬼になってしまった榎津という男を演じた。すさまじかった。中井貴一と阿部寛は「柘榴坂の仇討ち」で追う者と追われる者。確かな俳優魂を見せてくれた。
 俳優は若い時期はさっさと過ぎて行き、これからが本番だ。
 でんでんという俳優は「復讐するは我にあり」を見て、こんなを役やってみたいと思ったのだそうだ。その念が通じたのだろうか、彼に「冷たい熱帯魚」での殺人鬼役が回ってきた。これは全くのはまり役で内臓を取り出し腸でぐちょぐちょになった風呂場でのシーンなどはおぞましかった。園子温監督だった。ぼくはこの時にピエール滝とかリリーフランキーという俳優の隠れた一面を監督が引き出したのはさすがだと思った。人間には薄気味悪いところがあるものだ。リリーフランキーなどは「Covers」で冗談を混ぜて軽妙に司会をする芸能界で生きるオッサンである。それがガラリと変わる。でんでんはその年の映画賞を総なめにした。助演男優賞である。
 丹波哲郎は映画「砂の器」の刑事役がはまっていた。

 現在の俳優は映画にだけ出ていればよい状況ではない。それは高倉健で終わったのだ。十年経って、二十年経って、彼らにどんな役が回ってくるだろうか。

 この前、友人らと食事して、「見出す人、引き出す人」の話題に少しなった。ぼくは今バッハの「無伴奏チェロ組曲」(2種あるので、まとめてそう呼んでおく)を毎夜聴いているのだが、このバッハを見出したのはメンデルスゾーンである。バッハの死後のことである。伊藤若冲を現在の若冲ブームにしたのはアメリカの石油会社の社長のは当たり前息子ジョー・プライスさんである。車を買おうと思ってお金をもって歩いていたときに骨董屋さんお店先に飾ってあった、と言っていた。日本人より先に見出したのである。

 引き出す人、見出す人というのはとても重要である。今、反町隆史は「相棒」で修業している。瑛太や小栗旬、向井理もそれぞれに何かをやっているのだろう。何者かに引き出されて才能がいかんなく発揮されてほしい。


対幻想とブッシュ元大統領

2019年11月27日 | 映画
 いくつか思ったことがあり、それが何だったか思いだした2つある。
 大阪の12才の女児が栃木の小山市で見つかったことで、SNSの危なさが取り沙汰されている。若い容疑者は「悪いことはしていない」と言っているようだ。このおとこは15才の少女も軟禁していた。
 15才の少女の場合はどんなのだったかしらないが、12歳の少女の場合は逃げたのだから、自分の迂闊さに今頃は気を留めていることだろう。マスコミ情報番組は歯切れが悪いので、代わりに言っておくと、親が悪いのである。スマホの扱い方などは家庭での教育であり、躾である。
 親から逃げたい子供は多い。引きこもりも同じである。
 「イエスの方舟」騒動のとき、千石イエスを悪者にして、「娘を返せ」と叫んでいた親がいたが、「悪いのはあんたらじゃないの」と思ってニュースを見ていたものだ。結局、イエスの方舟信者たちは今も元気に宗教的生活を重んじて生活の糧を得るのに働きながら共同生活をしているようだ。
 現代の「対幻想」の実態をよく表している。一対一関係の観念の領域のことだ。自分対母親、自分対父親、自分対姉とか兄、あるいは妹や弟。自分対教師。自分対クラスの1人1人。
 この関係幻想がSNSを呼び込むとも言えるし、ヒビが入った対幻想にSNSが入り込んでくるとも言える。対幻想の崩壊の例は女児虐待死であり、崩壊までの中間にあるのが引きこもりやいじめである。恐らく母との関係が歪んだ幻想を作っている。その母に影響するのは男の存在であり、経済社会環境の存在である。母と子供の物語は一方的な子の訴えにたいして全面的に受け止めることのできる母と、それができない事情のある母がいる。程度の差こそあれ、母ならば、だれもが心当たりあることである。

 次に思いだしたことは、ブッシュ元大統領である。「朝まで生テレビ」でイラク戦争前に「イラク手をだしたらいけない。シーアの国だ。それなのにスンニ派が政権党である。国は混沌とする。族長もいる」。
 上はイランであり、隣がシリア、下がサウジアラビアである。イスラエルも横にある。この国に戦争をしかけるな、と当事の出演者の半分が言っていた。日本の小泉純一郎総理大臣は真っ先に応援のメッセージを送った。
 そらみたことか。今のイラクはどうなっている? どれほどの人が死んだ?
どれほどの一般人が死に、家は壊され、ついにはISを生んで、娘らが誘拐された。いまは混乱の極みである。ブッシュというアホな大統領を持ち、チェイニー副大統領という先の読めない指導者をもったアメリカ。石油利権を求めるハゲ鷹。小泉純一郎もぼくは愚かだったと思う。数人の判断でイラクを攻めた。今の中東はその結果であり、今のアメリカもひいてはブッシュの結果である。たったひとりの人間である。
 このことも記しておこう。当事、先を見てイラク戦争に反対したのがフランスとドイツ、それにイスラエルだった。

NHK大河ドラマ

2019年11月12日 | 映画
  長年の付き合いのようなもので、NHKの大河ドラマ「いだてん」を見ている。このドラマは、話の腰を折るドラマで、噺家の話がでてきてストーリーを中断させる。中断させる方の話も面白かったら2本立てと割り切って見ればよいのだが、ビートたけしとそのまわりは気の毒なくらいドラマの流れを壊している。ビートたけしのせいではなく、脚本担当の宮藤官九郎や制作側のスタッフのせいだが、視聴率が悪いのは「勘九郎の面白味のなさとストーリー中断が頻繁な前半ですっかり白けてしまった。今はもう「喜劇」として見ている。おもしろくないなあ、と思いつつ、休んだこともあったが、まだ見ている、と思ったら、はやあと一か月ほどで終わりである。
 来年は「麒麟がくる」。NHKホームページよると、「脚本は、第29作「太平記」を手がけた池端俊策のオリジナル。大河ドラマとしては初めて智将・明智光秀を主役とし、その謎めいた前半生にも光があてられます。物語は、1540年代、まだ多くの英傑たちが「英傑以前」であった時代から始まり、丹念にそれぞれの誕生を描いていきます。若き明智光秀、織田信長、斎藤道三、今川義元、そして秀吉が、家康が、所狭しと駆け巡る…
「麒麟がくる」―新たな時代の大河ドラマの始まりです。」 とある。大河ドラマの原点に戻る、ということなのだろう。たぶんしっかりと気合を入れて観ることになると思う。明智光秀の登場はいろいろな小説では突然である。信長が「安土桃山城」に建築するときにこだわった思いも描いてほしいと思う。天守閣を金閣寺にするとは、八角形にする意図も知りたいものだ。明智光秀を「まんぷく」の福子の夫、立花萬平を演じた長谷川博巳だ。この俳優、夏目漱石までも演じるようになった。明智光秀役もよく合うような気がする。生真面目で才能ある伝統・格式を重んずる男を演ずるのだろう。

 「麒麟がくる」のキャストをいくら調べても織田信長が出てこない。まだ役を決めかねているのだろうか。
 松永久秀が吉田剛太郎。本木雅弘が斎藤道。染谷将太が織田信長。題字 中塚翠涛。この題字、大河ドラマはいつも良いと思う。

 これまでの大河ドラマでよかったものぼくのベスト5


  1.獅子の時代
  2.炎立つ
  3.独眼竜正宗
  4.花の乱
  5.太平記

  

静かに「花のあと」を観る

2019年10月13日 | 映画
 小田原の友人に電話をしたら避難所にいると、福島のいわき市にいる細君の伯母たちが下の川の氾濫で高台で孤立していると。娘の家は下が暗渠になっているので、噴き出してはこないかと心配し、息子にも電話をしたら「今山形に出張しとる」と。
 この日本列島は環境的にちょっとおかしくなってきているが、来年も起これば、さすがにみな考えることだろう。しかしどこに引っ越せばいいのだろう。どこだったら災害なく暮らしていけるだろう。
 尾鷲が台風のコースから外れるようになった。大雨の移動もコースが変わってしまった。尾鷲にとっては台風シーズンは四国か紀伊半島に来ていたので、幸運なのだが、もっと面的に広く被害を受けるところが多くなった。たぶん尾鷲沖でサンマが獲れないのも関係している。

 いつか来ると言われる南海トラフ、関東大震災。来るならもう早く来てくれよ、と言いたくなる。テレビで一回が全部浸水したり、竜巻で家が吹き飛ばされるのを見ていると、めげてしまうと思う。老人ならなおさらだ。
 雨が終わって大風がヒューーーーと吹いてくるのも不気味なものである。二時間ほど不気味な風が鳴り響いたのだった。

 夜はひとり静かに江戸時代に浸ろうと、
 藤沢周平の映画「花のあと」を見ることにした。もう三回目である。時の流れがゆっくりとして、武家の娘たちの礼儀作法、立ち居振る舞いと四季の東北の景色の中で生きる「糸」という女性の話である。初めは北川景子ばかり見ていたような気がするが、これは正中線をとって座る、立つ、障子を開ける、歩く、ススッと座って前に進む、というような武士たちがいつの間にか作った作法の映画でもある。昼行燈のような婿に入る男(甲本雅裕)も思慮深く、寛容で、よい男だった。どうやらこの男、最後は筆頭家老にまで昇りつめたそうだ。もちろん映画の中で。
 2011年の映画である。初めて北川景子を知ったが、その後まもなくテレビにも出るようになった。主人公の「糸」は剣術も相当なものなのだ。テレビに出てきた北川景子よりこの「糸」の北川景子は十倍、二十倍良い。

 熱い夏。大型の台風。どうにもならん。明治は江戸期までの文明を壊して近代化した。
 昭和の前期は明治の人たちが築いた近代化に驕り、潰してしまった。関東大震災など起こったら、日本の終わりではないかと思う。

 
  

Green Book

2019年10月06日 | 映画
 この3年の間での映画ベスト3を選び、ブログで公表したのがほんの3日前。ところが「Green Book 」というアメリカ映画を見てしまった。細君が借りてきた映画だった。10分観て、つまらなかったら自分の部屋で別の物を観るから、と前置きをしてその映画を観始めた。これがなんととても良い映画だった。これは3年の間でベスト1だとも思ったのだった。終わってから細君に訊くと、去年のアカデミー賞作品賞だ、という。
 アメリカってこういう映画を作る。この点にアメリカの良さを感じる。日本ではこの種の映画は作れない。たぶん中国も作れない。
 才能溢れ、ホワイトハウスでも演奏した黒人のピアニストが1962年に、南部でのコンサートツアーをする。その時に、イタリア移民の主人公に運転手を頼むのだ。彼は喧嘩も滅法強く、教養はないが、妻と子供たちをとても愛している。2ケ月のツアー中でも、下手な文で愛しの妻にせっせと手紙を書く。あまりにも下手くそで、時間がかかるので、主人たる黒人ピアニストが手紙の中身を口頭で教えるのである。
 彼はイタリア人でも白人。ピアニストは北部で有名で、ロバートケネディとも親密な関係なのに、黒人。1962年当時は差別が依然として激しかった。
 映画はその差別を描くものではない。
 教養なく、マナーのないイタリア移民男とインテリで、インテリから尊敬されるが、南部では差別され、北部ではお城のような御殿に住むピアニストとの心のやりとりが見物なのである。
 これは間違いなくとても優れた映画なので、お薦めする。何よ、今頃、と言われるかもしれないが。
 このような映画に出会うと、「寂しいときは、自分から先に手をうたなくちゃあ」と思ってくる。これは映画のセリフだ。

映画ベスト3 この3年

2019年10月04日 | 映画
 クリント・イーストウッド監督・主演の「The mule(運び屋)」DVDで観た。 よい映画だった。クリント・イーストウッドtが90歳の実年齢で演じた。
 ストーリーは百合の農場がつぶれてしまい、農場も家も差し押さえられたところから始まる。外でかっこよく成功したいと思い、家庭をかえりみない勝手な男で、退役軍人でもある。
 唯一慕ってくれる孫娘のパーティーで、男に話しかけられ、自分は運転違反は一度もしたことがないことを言ってしまった。それを聞いた男は金になる仕事がある、と言って、ある場所に行くようすすめるのだ。それが麻薬運び屋の始まりである。
 奇妙なのは、平凡なストーリーなのに、イーストウッドのあらゆる動作、仕草
や表情、セリフに釘付けにされることだ。90歳の男優が主役を演じ、監督をする、というエネルギーに惹かれるのだろうか。あと20年もしたら彼の歳に近づく。20年先まで生きられないかもしれない。そういうことも思うのかも知れない。
 彼の映画はいつも大団円で終わったり、ハッピーエンドというのでもない。観客の気持ちをずらすところがある。
 クリント・イーストウッドは凄い男だ。
 「スリー ビルボード」が直近ですばらしい映画だった。今回のはそれに匹敵する。「ライフ オブ パイ」。ここ3年ではこの3作品がぼくのベスト3である。

暖簾

2019年09月19日 | 映画
今日は涼しく、良い天気である。明日からまた雨が降るそうなので、当たったこともない天気予報に従い、今日のうちに九月に入ってからの草刈り第2弾をするつもりでいる。
 午前中はホームページの原稿作りやイラスト、写真などを選ぶ作業をした。
 小田原に尾島さんという友人がいて、彼にならなんでも気兼ねなく言えるので、彼にホームページ作成の依頼をした。
 さてどんなのができるのやら。
 この前から言っているぼくの発案のアプリ。実は語学だけではない。カラオケ練習にもいいのだ。あれ、ここのところ難しい、なんども聞きたい、という時にはすごく便利である。テレビやラジオからちょいと音源をとればよい。あとは練習だ。

 今回の仕事については失敗ということはないので、気楽である。22年前は重大事であった。今はたった一人でやり、外注するだけである。以前のように何億もいるものではない。
 販売力も要らない。使ってもらえなければしかたがない、という余裕もある。いずれわかる日が来る、と確信をもっている。最後に話し言葉を文字にするAIを搭載するつもりだ。

 昨日森繁久彌の「暖簾」という大昔の映画を観た。森繁久彌が老人と若者の二役だった。山田五十鈴が奥さん役で強気の女性を演じ、音羽信子は森繁久彌が本当は結婚したかった女性であったが、音羽信子の方は身を引いた。大阪での昆布屋の話である。中村雁治郎演ずる昆布屋の旦那に拾われて丁稚に入った森繁はよく仕事をこなし、旦那の教えを忠実に守って生きる男だった。旦那は早めに暖簾分けをする。森繁は独立する。商売もうまくいき、勢いに乗って昆布を加工する工場を作るのだが、室戸台風で工場はやられる。銀行から再融資を受けるのも暖簾があるからである。
 次は長男、次男とも戦争で徴兵となる。大阪の店も向上もすべて焼け、長男までも死んでしまう。森繁はこの長男に期待していたのだった。ラグビーの好きな次男は戻ってくる。これも森繁が演じている。この次男はラグビー仲間の協力もあって、機転と行動力で店を大きくしてゆく。東京にも進出していくのであるが、親父は文句ばかり言っている。しかし息子はどんどんやっていく、という話だ。川島雄三の作品
 昔の映画を見ると必ずしもその当時の風景に目がいってしまう。惹かれてしまう。尾鷲とは違う風景のはずなのに、共通した何かがあるのだ。
 それにしても、鴈治郎の奥さん役で、ちょっと意地悪なしっかりものを浪花千栄子が演じていた。ぼくの母方の祖母は浪花千栄子にそっくりで、小さい頃から同じような顔ってあるんだと思ったのだった。ネットで調べてみると66才で死んだとある。あんなにばあさん役だったのに、たった66才で死ぬとは。幼いときから見える初老の大人は遠い遠いところにいる人間に見えてしまう。
 川上未映子の短篇を二篇読んで寝た。これについてはしっかり考え、「よもやま話の会」で発表しなければならない。

深夜食堂第四部

2019年08月29日 | 映画

 一日の終わりにまだ何かしら心が収まらなくて一人、二人で深夜の店に寄る。新宿にあるその店は12時からだいたい朝の7時頃まで。さすが東京である。安倍夜郎の「深夜食堂」はビッグコミックオリジナルで今も続いているが、テレビでも第四部まで来ていて、これからも続きそうである。

 店の主人を演じる小林薫がよい。だいたいが深夜食堂の客の話である。昭和のような感じもすれば平成のような感じもする。たとえば今日観たのでは、ラブホテルの掃除をするおばあちゃんが豚バラ肉と白菜とえのきの一人鍋を食べにくるようになる。彼女の弟が死ぬ。死んだ弟には息子がいるが、破産し、働かずにいる。息子を育てることもなく消えてしまった子にとってはどうしようもない父親であるが、死んだという時だけ連絡が来る。火葬代も払えないのである。その甥っ子を伯母のおばあちゃんが傍からみても甘やかすほどの世話をする。世話しながら仕事をすることにやりがいを感じているようである。孤独だったのだろう。

 偶然深夜食堂の常連客である男が幼馴染みで、そのおばあちゃんは昔の憧れの的であった。宮下順子が演じている。甥っ子は通帳も、クレジットカードも伯母から盗んで逃げるのであるが、彼女はそれほどショックではない。甥はちょっとした悪事をやっているのもバレて刑務所に。その甥っ子に小学生の子供がいることがわかり、伯母は嬉しそうに二人で店に来る。「なんでも食べなよ」と子供に言うと、小林薫が「あるものならなんでも作るよ」と言う。すると子供は「肉!」と叫ぶ。「今になって子供を育てるなんてことぬになるなんてねえ・・・」と喜びながらぬる燗を一口飲む老けた宮下順子。また別の日、一人鍋はその小学生が、美味しい、美味しいと食べていた。こんな調子のドラマで、いわば「沁みる」ドラマなのだ。人間のちょっとした喜びや哀しみを描いているので、昭和とか平成とかという社会問題背景も気にならない。ぶたいは江戸時代でも中身は変わるものではない。つまりは人間と人間の関係性にしか話の焦点がないからだ。

 話は違うが、尾鷲にも「いろは」という深夜食堂があったが、最近、店を閉じ、他人に譲った。やっていた女主人に偶然スーパーで逢い、話を聞くと股関節の痛みで手術をしたらしい。「もう年だからと思って仕事を辞めたんやけど、股関節もウソのようよくなって、元気いっぱいやもんで、中川辺りで屋台の店でもやろかいな、なんて思うんさ」と声に出して笑って言っていた。


一杯のコーヒーから

2019年08月22日 | 映画

 仕事でちょっと不快なことがあって、そのことで将棋倒しのようにしなければならないことが起きて、その片付けに昼すぎまでかかった。

 昼から早目に買い物を済まして、履正社と星陵の決勝戦の観戦に臨んだ。その前にイオンのパンのコーナーで熱いコーヒーを買った。豆から挽いて作るものである。これが実に香ばしくて美味しいことに、東横線沿いの元住吉に住んでいた頃、駅前に「ミワ」というコーヒー店があったのを思いだした。店内はコーヒーの香りがする。ぼくが好きだったコロンビアコーヒーほど旨いものはないと思ったものだった。ぼくは一時お金に窮したときでも、食べるものを減らしてでも「ミワ」にコーヒーを飲みに行ったことがある。次第にコップに水が充ちてくるようにコーヒーも充ちて来た頃、ぼくもやっち卒業できる日が近づいていた。オイルショックがあり、物価もはね上がった頃だった。

 商店街を抜けようとするところに中華料理店の皿洗いのアルバイトをしていた。その店の主夫婦の子供の家庭教師として今の細君を紹介して、ぼくは有り難がられ、可愛いがっていただいた。「50になったら仕事を止める」と行っていた。「16のときから栃木を出て働いているんだ。もういいよ。あとは好きにするさ」

  大繁盛していた店だった。

  ぼくは大学を卒業し、ご主人が50歳も過ぎた頃、ご夫婦の家を訪ねたことがある。すると、奥さんは近くの

惣菜店でアルバイトをし、ご主人はトラックの運転手をやっていた。「暇すぎてよう。トラックで荷物運んでんだ」

奥さんが、60にもなったら栃木に帰るんだ。もう土地も買ってあるで」と言っていた。その後ご夫婦はどうしたのか知らない。たかだか一年にも満たない期間で、気も利かず、ボーッと皿を洗っていたぼくだった。もうおぼえてもいないのかもしれない。目標をしっかり決めて生きている夫婦だった。働きまくるのもハンパではなかった。夜の閉店10時から翌日の餃子の準備が始まる。奥さんが明るく、ご主人は無口で要らぬことは言わない人だった。物価が上がったにも関わらず、日本の経済は成長していった。

 一杯のコーヒーの味にいろんなものがエキスのように沈殿しているのだ、と思う。

 

 


密陽

2019年07月30日 | 映画
絶対に自分では借りないDVDを息子がもってくるので、付き合いしてみている。「へそくり社長」もそうだったが、「シークレット サンシャイン」(密陽という町の名前の英語直訳題名である)にも付き合った。韓国映画である。2007年公開の映画である。夫が事故で死に、夫の育った町密陽に主人公と子供がやってくる。ピアノ教室を開く。優しくしてくれる男性が現れる。この男性の演技がとってもよいのだが、名前まで覚えられない。またこの男がいつもそばに来て付かず離れずして親子を気にかける。女性の子供が誘拐され、子供は死体となって発見される。この事件もさらりと淡々と描かれる。誘拐殺人事件がテーマではないのだ。この女性はあるキリスト教系の新興宗教団体に入信する。それでこころの安定を得、殺人犯をも許しに刑務所までいくのだが、殺人犯も同じ宗教を信じ、神は許してくれると信じている、と逆に言われたりする。
 宗教の中にいる人も嘘くさく見えてくる。嘘くささを確かめようと長老といわれる男を誘惑してみる。すると宗教的信念よりも性欲を抑えられない男だとわかる。そういう中でも常に女を近くで見守る男。決してこの映画的時間の中では結ばれるわけでもないが、不器用な「男性の優しさ」が宗教よりも「希望」のように思えてくる。

 韓国映画を見ていると、日本の三十年ほど前のような感覚がある。言葉使いがそうである。女性への言葉、視線、卑猥な言葉などから、そんな感じがある。もうひとつ国境が地続きにあって、虐げられてきた歴史もあって、いざのときの狂気のような怒りや反抗の言葉が現れる。

 これが韓国映画の復讐映画などになるとぼくは見ておれないのだ。憤怒が強すぎて。日本列島で育ったぼくなどはやわいものだ。安穏を1950年以降暮らしてきたというものだ。

へそくり社長

2019年07月29日 | 映画
息子がいつものようにいろいろなDVDをもってきて夜孫娘も寝てから、付き合って見ている。1956年の白黒映画で森繁久彌主演の「へそくり社長」が第一弾で、これにはクスクスと笑ってしまった。この時代の映画を見るとき、当時の風景やファッション、言葉使い、知っている俳優の若いころの姿を見るのもストーリーや演技だけでなく楽しいものだ。1956年と言えば、ぼくは6歳で、東京のこの商事会社の社長は本当は米のご飯を食べたいのに、越路吹雪演じる奥さんに入り婿ゆえつよいことも言えず、パンやスープ、野菜ジュースが朝食である。ご飯もの、例えば寿司などは禁じられている。今、思えば、1956年には今の家庭の食卓をやっていたわけで、わざと監督たちが未来を予測したのか、アメリカンブレックファーストを揶揄ったのかはわからない。

小林桂樹や司葉子、三木のり平が出ている。藤間紫も八千草薫、古川緑波、上原謙らが出ている。ゆるーい映画である。高度成長期に入る頃なのだろう。11年前の荒れ地から東京は回復していた。
 尾鷲も、6歳の頃は幼稚園に行っていたし、元気にあそびまくっていた。姉がいたし、路地にはぼくより二、三歳上の子供が結構いたので、よく遊んでいた。当時はまだ路地の向いは役場で路地では役場の男たちが丸い筒のようなところから紙を取り出して、設計図を日光であぶってというか、なんらかのことをして、のんびりと仕事をしていた。尾鷲はそれまでの町から市になり、役場の移転も決まり、それまでの役場と消防署は取り壊され、小学6年生頃までは空き地となった時期があった。紀勢本線をつなげる工事があり、続いて水力発電の工事、国道42号線の建設、三田火力発電所の工事と続き、尾鷲市はぼくが高校生になる頃には3万4千人ほどの人口となり、外からの労働者も来て、賑わっていた。現在の商店街は見る影もないが、昔は商店街通りを歩けば肩があたるくらい人がいたのである。

 東京のこの映画の商事会社もこれから大きくなっていくのだろう。芸者屋や置き屋は戦後の復興と洋式のものが入ってくることで、すたれ始めた。スナックやバーができ始め、飲み代は会社のツケとなって、社用族が夜の遊びを変えていった。この辺の変化は有吉佐和子の「木瓜の花」に詳しく書かれている。

 源氏鶏太のサラリーマン小説が売れる中で、青春小説は石坂洋次郎の「青い山脈」を代表に明るいよ、日本は変わってゆくよ、女性だって物言うぞ、希望なんていくらでもあるさ、みたいな世の中だったように映画を見ていて思える。知らないところでは貧困や、貧困からくる誘拐事件や殺人事件はあり、差別されるものはされ、外を知らない島国人間そのものだったのだろうが、兎に角復興、そのための工事、建設だったから戦争が一番の経済復興の要因であったと認めるしかない。その復興、それを引き継ぐように高度経済成長期が終われば、日本人はどうしてよいかわからなくなった。西洋、アメリカから真似るものはほとんど真似た。社交ダンスといえば、着物を着てまでして踊る女性の姿があった。ロックが流行れば日本列島の若者も真似た。

 今を映画で、社長シリーズなど作りようもない。映画はストーリーが重視され、面白く、または切なく、感動を呼び、憤怒にテンションを上げるしかない。
 まさに日本の現代とは是枝裕和監督が描いたように「万引き家族」に象徴されるのかもしれない。

万引き家族をみた

2019年07月25日 | 映画
 遅ればせながら映画「万引き家族」を見た。リリー・フランキー、安藤サクラ、松岡茉優、樹木希林/俳優として冴えわたる人物でこの映画はできていた。小悪人風の男がよく合うリリー・フランキー。やさぐれているけど優しい安藤サクラ。こっそり悪いことをしている樹木希林。よいとこのお嬢さんで家が嫌いな家出の松岡茉優の不埒なアルバイト仕事。
 こういう疑似家族がいるのは創作だとしてもありそうな話で、社会上よさそうに見える夫婦が子供を虐待したり、メンツばっかり重んじたりする人というのはゴマンといる。そういうゴマンといる家族からこぼれ落ちて集まったのが「万引き家族」である。
 この映画を作ったからと言って、この問題の本質が解けるわけではない。ああ、とため息をつくばかりだ。
 家族関係が崩壊していると言われ出してから20年や30年経つ。
 地方から出てきて大手企業の労働者となり、家庭を築けあげてきた一家の主婦は息子が大学進学することを夢見ていた。この息子が酒鬼薔薇聖斗だった。1997年のあの事件以降、家庭内に犯罪の原因があるような事件頻発するようになった。
 また祖母が死んだら年金が入らなくなると、死亡届けをださないという事件も続いた。

 現代のなかになにか歪みが生じている。非正規社員の増加。正規社員の減少。見えない老年期の姿。見えない明日。見えない夢。夢がきえるとは命が消えるより残酷なことだ。
 是枝監督はこういう人間たちの処方箋は書いてないが、「落ちこぼれることは避けたい」と思わせ、じつは「刑務所にいくニセ母親」の方が「世間体ではまともにみえる本当の母」より優しい、と思わせたのだった。賞をもらったには刑務所内の扉を開けて面接者らにむける微妙な笑顔である。
  

太平洋の奇跡

2019年07月11日 | 映画
 新書「日本軍の兵士」を読んでから、戦争を扱った本物に近い映画はないかと探していた。日本で作られる戦争物映画はどことなく、なじめない。特攻隊員のものでも、終戦時の会議にしても、これはもうまさに観客動員を意識した映画であり、映画に批判精神がない。

 Tsutayaで何か戦争物がないか結構コマメに探していたら「太平洋の奇跡」というDVDがあった。2011年の作品らしい。日米合作の映画かな、と思った。
サイパン陥落に反抗する軍の兵士。アメリカ軍を恐れる民間人。実話に基づいているということなのだ、ドキュメントを見る気で観たのだった。サイパン島では軍人も民間人もことごとく死んでいく。アメリカ人の大将は早く戦争を終わらせたい。日本軍兵士は上層部からの命令がない限り、投降する気はない。収用所に行けば殺されると思っている。軍人、民間人186人が残ったところで、民間人をアメリカ軍に渡す決意を軍の隊長がするのである。大場隊の隊長は竹野内豊が演じている。民間人には阿部サダオや井上真央もいる。入れ墨のある暴れ者の兵士を唐沢寿明が演じている。大場隊長はその頭の良さから「フォックス」と呼ばれている。
 大場隊は徹底抗戦の構えであるが、結局大場は敗戦を知り、本土の惨状をビラ写真で知り、日本軍の上官から命令があれば投降すると言い告げる。投降するときに行進して歌うのが、「歩兵の本領」という歌である。10番まであるらしい。

     歩兵の歌

   作詞:加藤 明勝(中幼10期)
   作曲:永井 建子

 万朶(ばんだ)の桜か襟(えり)の色
 花は吉野に嵐吹く
 大和男子(やまとおのこ)と生まれなば
 散兵戦(さんぺいせん)の花と散れ

 尺余(しゃくよ)の銃(つつ)は武器ならず
 寸余(すんよ)の剣(つるぎ)何かせん
 知らずやここに二千年
 鍛えきたえし大和魂(やまとだま)

 軍旗まもる武士(もののふ)は
 すべてその数二十万
 八十余ヶ所にたむろして
 武装は解かじ夢にだも


 こういう精神論が美しいものでもない。大衆の一人一人が徴集されて編成された大場隊である。映画では死を完全に覚悟している部隊であり、共同幻想に身を捧げる兵士である。愚かであるともいえるし、しかたなかったろう、とも、勇ましいとも言えるが、その精神が尊いものだとは思えない。尊いのは命である。大和魂などというのはない。
 戦後多くの人が戦争体験を語らず、黙り込んだような感があるが、言うべきことを言う人たちもいて、テープに残し、インタビューに答えることもしている。

 ぼくは、自衛隊員がこんな歌を歌ってほしくないと思う。決してホルムズ海峡には行ってほしくないと思う。精神が狂ってしまう。