25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

思想の限界

2018年06月30日 | 文学 思想
 人間の観念の位相には3つのものがある、と論考したのは吉本隆明である。夜自分も部屋でひとり思うこと。これは個人幻想である。夫婦や恋人との一対一の関係で生ずる観念の位相を対幻想と呼んだ。さらに三人以上のつくられたグループ、集団がもつ決まりごとの観念の位相を共同幻想と呼んだ。そして個人幻と想共同幻想は逆立すると言った。極端にいえば「国家という共同幻想のためにきみは死ねるか」という問題である。
 人間はいまだこの問題を解決しておらず、戦争はむなしく起こり、逃げ惑う人々がいて、わが集団こどが正しいという党派性を自覚、自省のないままである。自分たちが正しいと思うとき、それが絶対的に正しいと思ったとしても、それが理解されるとは限らず、理解しないものは愚かだと思うことはあってはならない。

  迫害を受けるイエスのグループは次第に過激化した。パリサイ人や憎悪のごとく律法学者をののしった。自分に付き従え、といい放った。パリサイ人に言わせれば、どうしてお前の言うこときかなければならないのか、神の子の証拠でもあるのか、おまえは人を煽って暴動を超させようとする男ではないか、と言いたくもなるだろう。
 姦淫してはならない、と言われればパリサイ人も律法学者も「そのとおりです」というだろう。どれは社会の倫理だからと認められるからで、モーセの十戒にもあるからである。ところが聖書の主人公は「色情をもつ、思うだけでもダメだ」といい放つ。社会倫理がさらに矢の先を研いで、個人の内面にまで放つのである。このとき、マタイやマルコ、ルカの福音書の作者は共同幻想の危なかしさや党派性の思想であることがわかっていないのだろうと思う。
 思っただけでもダメ、目玉がえぐられるぞ、という。人を殺すな、は理解できる、だが兄弟とは争うな、父母とも争うなとつきつける。頬をうたれたら、もうひとつの頬をだせ、下着をぬすまれたら上着をあげなさい、ともうムチャクチャである。とても人間にできるものではない。これを平気で言う。個人幻想の世界に足を踏み込み、共同幻想にまでもっていこうとする。これを普通、洗脳というが、未だにこの問題も解決していない。
 連合赤軍とて、口紅を塗っているとかでリンチを受けて殺された。追い詰められていたのは聖書の主人公や弟子たちも同じだったろう。
 絶対的帰依が聖書思想の限界であった、とぼくは今のところ考えている。
 旧約はサムエル記事下、ダビデ王の全盛期である。もうすぐソロモンの登場である。新約は二度め読み返している。その間「不思議のキリスト教」と「マチュウ書試論」を聖書理解の参考にと思って読んだ。まだ道半ばである。









トラブル

2018年06月29日 | 日記
 あるポータルサイトに登録して民泊を受け付けた。そのポータルサイトは試してみればとても用心深く、客情報をこちらに渡さないこちらからは連絡をとって、あれこれ確認しておきたい。そにやりとりメールBoxが用意されていて、そのポータルサイトを通して連絡ができる。ところが客はそんなメールBoxな見ない。ぼくが客だったとしても見ないだろうと思う。
 カナダの女性二人から予約が入った。宿泊日7日前になるとホスト側客側の情報がわかるように
なっている。ようやく電話番号がわかる。カナダ連絡先までかけてみる。ところが、出ない。留守電になっている。
 仲介ポータルサイト運営する会社に電話した。「こちらでコンタクトを取ってみます。また連絡します」 1日、2日と待ったが、どちらからも連絡がない。
 たぶんポータルサイトとトラブルになる。日本の支社などは何の権限もないのだ。
 こんな事情なのにコンピューターには、「本日ゲストが参ります」と無人機みたいなAIから連絡がくる。AIは事情を知らない。
 明日キャンセルでしたよ、と伝えなければならない。でないと宿泊したと見なされて、こっちが手数料を払うことになる。こっちが被害者なのだ。
 日本支社の担当者に説明をしても、「すみません。こういうシステムなものですから」と答えるだけである。呆れる。

 きっとAIなどが普及してくたらこういうイライラ感が日常的になるのではないか、思う。コンピューターに判断まかせる、という事態。源に、今まさに行われている。
 今日は19時半時点で予約客から連絡なし。コンピューターには、「今日客がきますのよろしくお願いします」
ということで、来週中にはトラブルになると思う。


ラミダスからサピエンスへ

2018年06月28日 | 文学 思想
 アフリカのジャングルの木の上で暮らしていたラミダスは二本足で他って、腕で物を運ぶ方が有利であることを知った。チンパンジーと人類の間の変わった哺乳類である。身長は120センチほど。ジャワ原人もそのくらいの人類初だからラミダスの系なのかも知れない。
 やがて気候変動があり、アフリカはサバンナとなった。ラミダスは草原で他の動物園前を敵として生き残らねばならなかった。肥沃なナイル川、チグリスユーフラテス川の方面にラミダスも進化しながら移動した。他にも人類はいた。現在では20種までわかっている。ヨーロッパの方面にまで移動していたのはネアンデルタール人である。ともに同じ祖先をもち分かれたのはホモ`サピエンスである。

 ラミダスはきっと人類の共通の原初の祖先なのだろうか。その前か後に他の人類がいたのかもしれない。
 運動能力がまさり、脳も大きかったネアンデルタール人は大人数の集団を作ることがなかったゆえに滅んだ。弱きサピエンスは一夫一妻制の有利さを知った。人類に対幻想が発生した。また集団を作ると強くなり、家族を守れることも知った。やがて敵は動物ではなく、他の部族のもつものをとる有利さも知った。同じ共同幻想を共有するものと異なるものが戦争をした。
 エジプトやメソポタミアに移動定住した人類はBC3000年にはエジプト文明やメソポタミア文明ををもっていた。人類には力あるものが誕生した。部族も長、やがては部族を束ねる王である。奴隷もいた。

 エジプト、オリエントを出てヨーロッパに向かい、ロシアからカムチャッカ半島、アラスカへと渡るホモ・サピエンスもいた。インド、中国方面にわたったものもいた。

 日本はいわば人類の移動の極であり、渡るに最も困難な終着点でもあった。戦い逃れ、奴隷のまま死なず
より良い場所を求めて、生き残りをかけて、南インドから、中国やフィリピンから、モンゴル、朝鮮経由から、バイカル湖あたりから、日本列島に入ってきたのである。

 エジプトが繁栄している頃、日本は縄文時代であり、王もいなかった。また奴隷もいなかった。火山と津波のある島であるが黄金の国と呼ばれてもふさわしい国であった。海に囲まれ、天然の要塞であった。
 やがて、部族ができ、部族の連合ができた。さらに王が誕生した。
 大化の改新が始まる645年からわずか1000年もたたぬ内に日本は国を閉じた。
 この列島中で米や魚をとって暮らしていこうと徳川家が決めたのである。
 オリエント、ヨーロッパは戦いに明け暮れ、侵略、略奪、ついにはヨーロッパの強国は七つの海をを渡り、なおも侵略と略奪を繰り返したのである。その土壌に一神教があり、世界宗教のキリスト教がある。近代とはこのような土壌を受け入れるということでもあった。

 人類は、唐突であるが、老いるということはNADが減少していくことである、と発見し、そのNDAを増やす物質NMNも発見した。ここ2年くらいまでには臨床実験を終え、医薬界に登場するという。副作用も今のところないらしい。これを投与すれば、循環器系も免疫系も、あらゆる細胞が20年若返るということだ。この研究に日本人も関わっている。医学のシンギュラリティーはもうすぐである。近代はこのような科学も発展させた。インド医学や中国医学はすでに西洋の医学に呑み込まれている格好である。人類は神に替わるあたらしい共同幻想を必要としている。政治においてみ、経済活動、日常の生活においてもだ。もしくは共同幻想が解体されなければならない。個人幻想と個人幻想とが対等のものとしてあり得る倫理が必要なのかもしれない。生き残り続けた人類は現在のバカバカしさから、特に神をもちながら血と血で争ってきたオリエント、西洋は観念の克服をしなければならない。その脈々として流れる血を塩水で薄めなければならない。そしてどこの国も覇権を争ってはならない。




Three Billboards

2018年06月26日 | 映画
Three billboards は見応えのある映画だった。Shape of water とアカデミー賞を争ったにはわかる。shape of water の女優はもらえるはずの主演女優賞を逃したのはきのThree Billboard に女優の演技が半端なくすごかったからだ。
 舞台はミズリー州のある尾鷲みたいな田舎町。町の人は顔見知り。黒人への差別、取り締まりも厳しく、警察官は締まりなく仕事をしている。主人公の女の娘はレイプされてた上で焼き殺された。母、なけなしのお金で、国道に3つの広告看板をレンタルした。いつになったらv犯人は捕まる? 警察署長は何してるの、と捜査の連絡もよこさない警察への抗議である。これが波紋を呼ぶ。
  内容の紹介は省かせていただいて、あまりにもアメリカ的であることに驚く。想像を絶する。
 警察署長は膵臓がんで余命も少ない。白人仲間からは尊敬されている。かれは自殺する。馬小屋で。なんで馬小屋? 部下の一人が広告屋の男を襲う。母は警察を襲う。なにこれ?と思う。
 自分で自分の身を守るのが鉄則である。腐敗した警察に果敢に怒りをぶちまける。犯人がわかっていても捕まえようともしない。

 アメリカはこのまま統一された国家であり続け得るだろうか。
 たかだか150年くらいのものである。それぞれの州の独立や合併もあり得る。民主党と共和党の戦争だってあり得る。最終のあたりで犯人らしき人物の背景も暗示される。
 黙示録のような映画だった。アメリカと日本はまるで正反対のようにちがうなあ、と思うのである。とんでもなく激しく、戦闘的だ。
 No Country や Fargo をみたときにも思った。壮大な愛を語る映画もあれば徹底したアクション暴力映画、はたまた壮大なSF映画、コメディー映画。これらの中に現実のアメリカが散らばっているのだろう。それにしても、よくよく考えれば理解しがたいのである。ぼくは自分のことを無神論者で合理的に物事を考え、感情というものもわかっているつもりでいたが、どうやら歴史のページは超厚く深く、サピエンスが分化しているのではないかと思えるほどだ。
 考えこまされた映画だった。だが面白い。アカデミー賞作品賞か監督賞でもよかった。

  

戦いの遺伝子

2018年06月25日 | 社会・経済・政治
アフリカやシリアから難民がイタリアやトルコに押し寄せ、一部はハンガリーからドイツやフランス入り込む。
 これは5000年前の話ではない。現在の話だ。イスラエル人がエジプトファラオの奴隷となって450年。ついにイスラエル人はエジプトを出て、カナンの地を目指した。同じようなことがシリアやアフリカの国々で起こっている。いわば民族の大移動である。ヨーロッパは二度と民族が争わない誓ってEU作ったのに、難民に呑み込まれいくような様相である。
 歴史上、戦う人々である。それは遺伝子に染み込んでいることだろう。ヤハウェは初め一部族の戦いの神であった。旧約聖書ではこの神に導かれてエジプトを脱出し、エジプト人をさんざんに殺した。カナンにいくまでもさんざん戦った。
 イスラム教も戦いの中で生まれた宗教だった。しかもすでにこの頃のヤハウェは世界の絶対神であり、イスラム教もこの神を絶対とした。
 難民、テロとで西洋、東欧、アラブ諸国、イスラエル、パレスチナ、それに貧困のアフリカが加わって、さらに国内では排外主義と財政悪化が伴って混乱が増しそうである。そこへ戦いの遺伝子を強くもつ人々がいる。

 最近の西洋はどこか危なげである。
 日本にいればテレビニュースでみるくらいのものであるが、聖書や西洋史を読んでいると、ひどいものだ。激烈で苛烈で、無慈悲である。キリスト教にみじんも慈悲などいうものはない。
 儒教は君主いかに徳ある者にするか、もっと言えば
知識あ人やリーダーがいかに徳を積んだひとになるか。それが世を治めるにはよい。大衆の一人一人に難しいと考えた。現在の中国は儒教の国であるから、習近平は独裁者だといわれるけど、儒教的精神にたてば期待もされることだろう。
 一方アメリカに日本はくっついているが、やればハリウッド映画並みにバカスカやるから、それに巻き込まれれば、大変厄介なことになる。戦いの経験知と無意識が違うのだ。
 平和の国、麗しの小さなひ弱い日本は強そうな顔をすることも必要なく、永世中立国となればいいのだ。
 


近代化

2018年06月23日 | 文学 思想
 旧約聖書を読んでいると、律法の厳しさと守れない人々。領地の奪い合い、残虐な皆殺し人とー家畜殺し、信心が強い戦士と信心の弱い民に起こる様々な不幸そして平安の話が延々と続く。ルツ記に入ってようやく希望の明かりが示され、いよいよサムエル記上に入った。旧約の終わりまでの道程はまだまだ長い。
 1日に4、5ページ読むだけであるが、上下段で、字も小さいので、余計そのように思える。

 明治維新で日本は近代化を図った。明治政府の近代化とは軍隊と経済、そして最後に憲法だった。キリスト教も解禁された。しかし西洋の精神をよくよく考えたという風には思えない。鹿鳴館を作り、ワインを飲んでも西洋人になれるものではない。精神を理解するには時間がかかった。を

 海で囲まれた日本列島は他国の侵略を受けることがなかった。明治政府も侵略を免れた。
 一方現イスラエルやパレスチナの歴史を見てみると絶えず侵略と奪還の繰り返しで、奴隷ともなり、京都と思われるようなエルサレムが消滅し、時を経てまた再建されるという悲惨な歴史である。このような歴史の中、いわば旧約聖書を土台として拡がったキリスト教は近代化の根本的なところに人々の遺伝子に刻み込まれているように思える。

 「近代化」という言葉をぼくらはよく使うのであるが、日本の近代化は激しい迫害や虐待への困難な闘いを国民がしたわけではない。徳川家政権から天皇を頂点とする太政官政権に替わり、富国強兵、西洋に追いつけ追い越せで武士たちによる中央集権化だったのである。

 侵略されたことのない日本は朝鮮や中国に侵略したとき、とくに朝鮮が植民地化され、姓名や言語まで強制された経験とその屈辱はいかばかりもものであるかは旧約聖書を読んでいると、よくわかる。恨みという意識に日本人は疎いのではないかと思う。生ぬるいのだと思う。被差別経験もないから実感としてわからないのだ。聖書の神は容赦がない。

 さて近代とは何か? それは西洋化である。西洋化とは何か。物的には軍事、経済、科学の優勢であった。また西洋外見を真似した。
 戦後になって制度として民主主義が導入された。はじめて近代の精神が制度になったのだと思う。おしなべて見れば日本は穏やかな国であった。西洋人からは「おとぎの国」のように見えた。道徳もあった。日本を訪れた西洋人は人なつっこい人々や清潔な農村を見て、その礼儀礼節をみて西洋のようにならないようにと書き述べた。平穏な文明を築いていた江戸期はペルーの来航で武士たちが混乱した。擬制の近代化は日露戦争で気を良くさせ、日中戦争と太平洋戦争で終わった。軍人は滅んだ。伝統を守るためには西洋の精神も学んだ上で吟味することが必要となった。西洋の精神にはキリスト教教育が骨身にまで染み込んでいる。日本列島人はおおらかであった。西洋人はいきぐるしいほど厳格であった。男女の混浴にも怒った。

 そんなことをつらつらと考える。聖書は激烈である。この激烈さのうえに西洋やイスラム教がある。宇宙の法則を悟る仏教はすでに力なく、多くの神々は自然に戻った。仏教や神道を利用した商売だけが残った。飢饉からくる貧困も戦後経済成長で克服した日本である。
 まあまあうまくやってこれた日本である。豊かな四季を持っている列島である。ゆめゆめ加害者であったことを忘れるな。地続きの国境のある国は根本は激しい。我々のような呑気さや疎さはない。

THE SHAPE OF WATER

2018年06月22日 | 映画
 「The Shape of Water」を観た。最新のアカデミー賞作品賞、監督賞作品である。腮呼吸と肺呼吸両方の呼吸ができ、体には鱗があり、二本足で立つ。塩水の中にいるほうが心地よいらしい。そういう半魚人のような生物が生け捕られて、アメリカの秘密研究所運ばれる。
 主人公の女性は口がきけない障害者である。彼女は秘密研究所の清掃人をしており、優しい同僚がいる。アパートにも心優しい絵描きも住んでいた。
 この生物は解剖されることになっている。
 
 奇妙な映画であり、暗い画像であるが水を映すシーンは美しかった。舞台は1962年だった。ソ連との冷戦時代である。障害者の彼女は性欲ももつ生身の人間である。彼女は口の聞けない半魚人も同じではないかと思う。次第に半魚人を助けようと思い始める。
 卑猥な言葉、汚い言葉を使う人間も意図的にセリフの中にある。出世欲に充ちた管理人は半魚人に指の2本を食いちぎられるが、清掃員の女性には従順である。「共感」しあっているのだ。

 「愛」について描かれた映画だ。しかも綿密である。あり得ない話だが、その半魚人を何物かに象徴させているように素直に思える。人間というものが凝縮されているように思える。
 
 まだこの映画を消化できないでいる。夫婦仲が悪い清掃員の女性。写真よりも優れた絵画を描きたい絵描き。ソ連のスパイである博士。なんとしてもこの計画を遂行したい管理人。はて、人間とは七面倒臭い存在であることがわかる。
 
 最近の映画では「パイ オブ ウォーター」に続き優れた映画であった。
 ぜひおすすめしたい。

2018年06月21日 | 日記
 この4月から読書会のようなものに参加している。残念なことだが、賢いリーダーのMさんが弱音を吐いた。彼は84歳である。「家内が施設入ったこともあり、私の体も精神も老いを感じてならない」
そう愚痴た。記憶力もぼくらよりもしっかりとしており、耳をよく聞こえ、脳の反応速い。
 会員が持ち回りで、読んでくる本を決める。次は女性会員の方が提案する番である。芥川龍之介の「河童」となった。これは2年前に取り上げられたらしい。
 ぼくはまだ3回目なので、まだ様子がつかめない。1ヶ月で長編を課題にだすことは難しいそうである。次回の担当者悩んでいる。Mさんは「ええがな2回目でも。あれから読み方も違ってきとるかもいれんしな」
資格定規に、もう一回したんだからと言っていたのではこのような会は維持できないのだろうと思った。
 ぼくは過去に一度芥川龍之介の「ある阿呆の一生」を読んだおかげで、芥川の私生活での女性蔑視に呆れて(当時はそれが普通だったのだろうが)、こんな作家の作品は読まずとも本はいっぱいあるち思って以後芥川龍之介作品は読んでいない。
 次回は「河童」と決まった。

 この会にぼくより若い人はいないようである。現代の小説家のもの、外国の小説はあつかったことはないと言う。詩歌もないと言う。
 何かやり方を変える必要な時期きているのだろうと思った。
 長編小説は半年間の課題とし、途中で読めなくなってもよい、とか、短編小説を現代若い作家に無理して限ってみるとか、映画にも手を伸ばしてみるとか、音楽も扱うとかである。
 もっと世代の若い人を会員に募集するとか、何か策を講じないと、Mさんの退場で終わってしまうような気がする。それは寂しく、そのまま尾鷲が寂しくなっていくのと歩調を合わせているような気もする。
 なんとか、と思う。
 
 

メル・ギブソン

2018年06月20日 | 映画
「Passion of Crist」(イエスの受難)という映画を観た。2004年のメル・ギブソンが私財を投じて監督、プロデュースをした映画である。ネットで検索をすると、この映画を観てアメリカでは2人ショック死をしたという。イエスが捕まり、磔刑になるまでの十二時間を描いている。ネットでは賛否両論、よかった、涙がでた、見ているじぶんも痛かった、退屈だった、わけわからんかった、といろいろである。
。殴る、蹴る、落とす、鈎つきのムチによる傷めつけ、十字架を担がされて歩くときの傷めつけ、手と足に釘を打って固定する磔刑(たっけい)による死までが描かれている。ほとんど聖書の内容からは逸脱していない。目をそむかせるようなシーンが続くのだったらやめておこうと思ったが、結局目を逸らさず見入ってしまった。
 この磔刑と復活物語によってイエスは人間の内面に生きるのである。メル・ギブソンらは討議を重ねただろう。聖書からどこまでリアルな刑が想像できるか。ムチ打つ側の者も次第狂気じみてくるだろうとそうぞうした。
 徹底した刑がつづき、結末はわかっているのに、最後までみてしまうのはこの映画の力なのだろう。人間の罪を全部引き受けてくれるのだから、まだまだかもしれない。メル・ギブソンの畏れぬ勇気にも驚いた。2004年のころはぼくも映画を観る余裕もなかった。

 こういう映画を観て寄り道していると、聖書読みが遅々となる。
 しばらく、映画をストップしようと思ったのだった。




K

よもやま話

2018年06月19日 | 文学 思想
 図書館での「よもやま話」の講座テーマは「かぐや姫」だった。
 これをスマホの「青空文庫」で読んだ。それがきっかけとなった、今、ぼくは「聖書」を読んでいる。
 今日はもっと詳しく会員が話すのを聞きながら
かぐや姫は病気治す力をもっていた。また作者は大納言や中納言を小馬鹿にし、帝をもあしらっている。作者はこの「貴種流離譚」を本当はもっと展開できたはずだ。過激な反権力にならず、緩やかに貴族と帝を馬鹿にしている。しかも、知人である。帝に抵抗しながら月に逃げてしまう。しかも、帝に不死の薬をもらうことになっている、
多分このとおろは継ぎ足しであろうと思うがぼくが読んだ青空文庫そのようなっている。不死の薬をもって部下の者を行かせるのは静岡という地名があることから、たぶん富士山である。
 緩い反権力というのが日本常だ。それほど日本はいわば豊かであったのだろう。ある一定の生活が賄えれば反権力は弱々しく、書いて自慰をするのかもしれない。この作者内の心理がわかるような気がする。
 逆に、俯瞰し、比較的にみれば日本は暮らすによいところであるということである。奈良、京都、
 ぼくもそうである、権力者を小馬鹿にしながら生きている。過激に何かをするわけでもない。
 「かぐや姫」作者はそこまで考えていない。月を設定してそこに昇っていくことで話を終えている。物語の構想力としては空の遠くに見える月に帰るという不思議さを最後のインパクトにしている。見事か? 日本は話にならないほど基本的に豊かなのだ。戦うことなく、逃げる。月に行ってしまう。なんと優雅なことか。
 やがて日本は「望月の頃」となる。


 

呑気でいたいものだが

2018年06月18日 | 文学 思想
ちょうど尾鷲北インター付近のファミリーマートで車を止めたところで緊急地震速報が携帯に入った。いよいよ来るかなと思っても揺れを感じなかったので、そのままファミリーマートに入った。
 家に帰るとモーニングニュースは地震速報ばかりで、だんだんと震源地に近いところでの被災状況がわかってくる。
 最も怖いのはガス管が壊れ、ガス漏れを起こし、電気を点けると爆発して火災を起こすという元気象庁の人の話だった。尾鷲はプロパンガスだからまだしも、これは娘、息子らにもよくよく言っておかなければならない、と思ったのだった。
 阪神淡路大震災は日本の歴史上でも、近代都市が崩壊するという出来事で、以後、金融危機があり経済は停滞し、オウム真理教事件が起き、少年による殺傷事件が起きた。経済社会も世間も変化した。そして日本は国債発行による借金財政に入り、長らく停滞し、デフレとなった。続いて東北大震災では津波で多数の人が死に、原子力発電所が崩壊するという未曽有の事故が起きた。そして安倍政権が登場してもなお消費は思うように活発にならない状況が続いている。
 このところ地震が頻発しているように思えて、南海トラフ大地震や関東大震災も起こるのではないか、という<不安>をいつも抱えている状態となった。関連する土地・家屋の値は下がり、人口減少も始まり、人生の設計はたえず天変地異の大雨や震災を折り込んで生きなくてはならない。
 このような不安感は身体のどこかに澱のように積もっていくか、濁っていくかするのだろう。これを「無常観」で流してしまうか、いつかコップの水が溢れ出すかわからない。
 科学知識のない時代には何がなんだかわからなかったことだろう。旧約聖書の「ヤコブ記」
ではこれでもかこれでもかと災難が起こるが信仰をやめないヤコブが出て来る。多分、自然崇拝の名残りが如実に表されている。絶えることのない災難は誰にでも起こる可能性がある。今日の地震でさえ、女子生徒が学校の塀の下敷きになったと報じていた。
 飢饉こそなくなったが、日本も飢饉を克服したのは歴史上戦後のしばらく経ってからのことである。それまでの人間は自然による災難がいつ待ち受けているかわからなかった。
 現代では物の豊富さと情報の過多により、脳の方がおかしくなり、神経質で潔癖症で、飢饉がなくても子を殺し、親を捨て、自暴自棄となり殺人を犯し、健康には嫌になるくらい気を遣い、自分の老後を心配する。モーセやイエスが生きた苛酷な時代の環境と比べるものでもないが、2018年になっても「心配」と「不安」の種は尽きない。
 呑気でいたいものだが。


ひさしぶりに名古屋へ

2018年06月17日 | 文学 思想
 久しぶりに名古屋に行った。駅周辺はゲイトタワーができており、それが三つの棟からなっているためか、うろうろとした。
 カシオから英会話学習機がレベル別に出たいうことを知ったので、それを試してみたかった。ぼくが知っているものがなかったので、がっかりした。これまで毎日英語を使っていたが、ここ3年は使っていない。忘れてしまうと思ったからである。
 次に三省堂に行った。旧約、新約聖書の詳しい解説、例えば、イエスが生まれたところや育ったところなどの現在の風景写真や昔の絵画などがあるのを探したかった。また宗教学者たちが聖書をどう読んでいるのか知りたかったこともある。7冊ほど買って、尾鷲に戻った。
 しかしとりあえず、聖書そのものを全部読む必要がある。全部と言えば相当なページ数があり、字が細かい。聖書を文庫本にして20冊ほどにして文字も大きくすればよいのにと思う。 また、現在読んでいるおる聖書は戦後に翻訳された共同訳で、「主」と「イエス」に敬語を使っている。呼び名に確かに敬語はある。Master とか Mr. はあるが、私はは 英語では
I であり、あなたがたたは You である。言うは say であり、「言われた」というのは敬語である。この翻訳に違和感を持っている。しかたがないので、違和感を持ちながら読んでいる。
 聖書で出て来る土地の風景写真も買ったので、それは喫茶店ででも眺めることにしようと思っている。

 聖書と何の関係もないが、帰りが20時近くになったので、20年ぶりくらいに「宝来」という尾鷲市内の中華料理の店に行った。かねてから行きたい、行きたいと思っていたのだった。ところが開店時間が遅く、閉店時間が早いので、「食べたいが行けない」という状態が続いていた。ここの「焼きそば」が旨いのである。その味は舌にしっかりと記憶されていた。から揚げも旨かったがやはり「焼きそば」は絶妙に旨い。勘定の時に何時に店が開くのか、と聞いたら「6時で、オーダーストップが10時半」だということだった。ぼくはてっきり8時ごろ開いて、夜中の1時くらいまでやっているのだろうと思っていた。そんな記憶があったからである。そうか、6時か、だったらまた来れるかも知れない。
 たぶん無駄なく営業しているのだろう。また働き過ぎることを敬遠しているのかもしれない。人口が減っていく尾鷲の中で、目途というか、その自信があるのだろう、と勝手に思う。それにしてもやっぱり旨かった。

 民泊新法が施行となった。これまでグレーゾーンであった宿泊所は法律の下に置かれることになった。この民泊事業の届け出手続きはややこしい第一にパソコンが使えなければならない。BnBでは6万件とか7万件の件数が削除された。営業ができなくなったのである。
 その代わりに大手企業がこの宿泊事業に参入し、準備を進めている。届け出できなかった人の代理手続きをし、企業の参加に置き、大企業はマンション丸ごと買い取って、民泊を始めるのだろう。どんなポータルサイトが出て来るのか。やがて、大企業やBnBnoような外国の企業がきっと政府に圧力をかけるのかもしれない。ちょっとした「おもてなし」をしていた人達も傘下に取り込まれてしまうのかもしれない。マンション買い取りの外国企業も出て来るのかもしれない。
 ぼくは三重県では最初の民泊事業者となった。津のNHKから電話があり、少しこの事業法の欠点を語った。すると明日取材に行きたいと言っていたのが、その後連絡なしとなった。彼らが求めるニュース主題とは違っていたのだろう。

 夜、是枝監督の「海より深く」を観た。バクチ好きで売れない小説家が興信所で働いている。別れた妻のその後が気になり調べたりする。家庭を持っていた時期には妻と子供を放っておいたにも関わらず、月に一度の父親ごっこを楽しみにしている。それでも競輪博打がやめられない。いらつく男であった。やはりリリーフランキーはどこか恐ろしい所長役をしていた。この役者は善人も悪人も演じることができる。気味の悪い俳優である。
 寝床で聖書を読んでいたら、30分もせぬうちに瞼が下がって、文字が見えなくなった。
 

共同幻想の解体

2018年06月15日 | 文学 思想
レンタルのDVDやブルーレイをTSUTAYAで物色しているうちに、知らなかった映画に遭遇することがこの4月から今日までいくつかあった。オーエン兄弟という脚本、監督者はよく知っていたが、ぼくはリドリースコットや、ダーレン・アロノフスキー監督という名前は知らなかった。リドリースコットの「プロメテウス」「エリアン コヴェナント」「エイリアン」の三部作がSFとしては特に面白かったので、調べていると歴史叙事詩的な映画も撮っているので、観た。そうこうしているうちに「ダーレン。アロノフスキー監督を知ることになった。
 聖書を読みながら、想像力を働かせて、当時の状況、例えば、どれほど人々は支配者に虐げられ、苦しみ、極貧の中にあり、原始キリスト教者たちがどれほどの迫害を受けたかを想像してみると、原始キリスト教が出たあたりの地域の歴史も知りたくなってくる。長い年月をかけて作られたと思える旧約聖書の時代についても知りたくなる。ひいてはその後キリスト教を国教としたローマ帝国やおそらく、聖書の作者たちや布教者たちにも影響を与えたであろうギリシャ哲学との関連にも興味を寄せることになる。

 ぼくの知り合いで宗教法人を起こした人がいる。四つ上の兄貴分だったが、中学生の頃よく彼の家にお邪魔した。年下のぼくにも優しく接してくれた。凝り性の人だった。中学の修学旅行は東京だったので、東京の宿まで来てくれて外出したこともあった。その頃、彼は何をしていたのか知らない。尾鷲高校で喧嘩騒動を起こして彼は退学していたのは知っている。それから40年めごろに会ったときには宗教家で教祖であった。御手当みたおなもので、彼は「気」によって救われ、やがて自分にも「気」を発する力があることを知るようになった、と彼は言っていた。多くの人の悩みを聞き、手を当てて「気」を送り込む。すると「病」が治る人が出て来る。そのような人は信者となっていった。「病は気から」というのは95%ほどは当たっていることだろう。外科的なことについては手を出すことはなかったことだろう。ただ心の不安や心配を彼と接することで取り除くことができたのかもしれない。
 こういう人はどこにでもいるものである。彼の宗教集団は戦闘的ではなかった。静かであるが、信者の寄付行為に満悦していた彼を思い出す。
 一方、おそらくイエスも同じような「気」をもつ人だったのだろうが、実在したか、創造されたかは別として、原始キリスト教への迫害に対して、憎悪を剥き出しにしてユダヤ教、信心のない人を病的にまで、倒錯した心理状態で「マタイによる福音書」は書かれている。作者の恨み辛みは聖書の第一番目に置かれることになった。このうえなくおぞましく激烈な不信者への激励(脅迫)はヨハネの黙示録で終わる。

 彼は七十歳を迎えることなく死んだ。その後彼が教祖となる集団はどうなったのか知らないが、彼は教祖として生きながらえていくのだろう。
 原始キリスト教の聖書作りでは徹底的な布教活動のノウハウを示すことになった。言葉は苛烈で、脅しのようにも聞こえ、激励しているようにも聞こえ、ただ、神の言葉であるイエスの言葉を信じ切るようにと悲鳴のように執拗に、繰り返し、繰り返し書かれている。
 人々は洞窟の中の教会に隠れるようにして集まったのだろう。苛酷な環境の中で耐え忍び、不撓不屈の精神を磨いた者もいただろう。キリスト教は徐々に中心地ローマにも隠れるにして広まっていったにちがいない。

 新約聖書の肝はなんと言っても「復活劇」の発想である。イエスの復活は人間の内面への復活である。ここで現実的世界と内面的世界が分かれ、内面的世界にイエスは復活したのである。死人が現実に甦るなどと誰が信じることか。おそらくそれは言葉の力であった。そして旧約聖書に書かれたことが土台となっていた。当時のインテリ(作者たち)は知っていた。旧約聖書あ抜き出し、それを典拠として、弱者や病者や文字も知らない人々に語りかけていった。そして膨大な量の聖書という書物に易しい文で残した。

 オウム真理教の麻原彰晃とその弟子たちを簡単に殺すことができないのは宗教のもつ閉ざされた世界に大きな波紋を呼ぶことになるからである。オウム真理教は分派したものの今もなお信者を増やしている。信仰の灯りを消さないでいる。
 共同幻想は一度解体されなければいけない。共同幻想の構造が解体されて、それが人々の意識に根付く時。それはいつのことになるのだろう。

群がる人間

2018年06月14日 | 文学 思想
 結局、新約聖書の作者たちは、神に代わって語るイエスをおき、その証拠に、彼は奇跡を起こし、病人を治し、死人を生き返らせ、預言をし、彼を信じる人々が大きな集団となって来たときに、磔の刑となって死ぬ、そして復活する。これが4つの福音書であり、あとは信者や教会への脅迫めいた激励となり、最後のヨハネの黙示録で、脅迫とイエスへの絶対性を不気味に残して終えるように構成を考えている。この作者たちの執筆の原典は旧約聖書であり、マタイも、ヨハネも旧約のある箇所をこっそり抜き出し、脚色を加えている。自分だけの想像力では及ばなかったのだろう。イエスの人物描写がマタイとヨハネではまったく違い、ヨハネは旧約をヒントに、マタイは人物像にはふれずやり過ごしている。
 神に代わる人間がいることが必要で、これはどんなところに行っても神に代わる人間が教祖となって現れるのと同じであるが、聖書の作者や編纂者は時をかけて整備していったのだろうと思える。

 概して宗教は生きるに困難な地域や時代に現れる。キリスト教もイスラム教も、もっとも苛酷な地域である。鎌倉時代の新興仏教の登場時も、飢饉が各地で起こっているが、まだ日本はキリスト教やイスラム教のような厳しい宗教を持たなかったのは自然環境や苛酷さがあったのを中東の地より穏やかだったからなのかと思う。
 旧約聖書を早く読み終えたい。それにしても熱烈な宗教団体であることよ。世界の果てにまでも布教するというミッションに生涯をかける信者たちがでてくる。
 人間は、サッカーで熱狂し、群衆ともなり、銭湯のグループ歌手純烈にも熱狂する。あそこのラーメンが美味しいと聞けば列に並んでさえも食べようとする。ポケモンが流行れば同じことをする人がたちまちに増える。
 大衆は一人一人が個人であるが、群れることも好む。権力に従順なときもあれば逆らうこともする。脳と脳は伝染しあって、共鳴する。肉や魚がただで食えるとなると群がり、喜ぶ。一向宗の門徒は団結して信長と闘った。
 群れて集団をつくる有利さ知ったホモ・サピエンスは始め、群れることの有利さを本能で知っていた。しかし、サピエンスが支配者になると、群れは複雑化した。平和でいるために、戦争をするようになり、同じサピエンスを支配下におくようにもした。これらの問題は現代になってもちっとも解決していない。情けないものよ。  


 

JCスーパースター

2018年06月13日 | 映画
 今日は天気もよかったので、弁当を持って曽根へ行った。民泊の標示と掲示し、写真に撮り、県にメールで送った。ついでにまた草刈りをしておいた。前に横たわるようにある海は青く、遠くの山裾に古江がギリシャの島の町のように屋根や壁が折り重なるようにしてある、もちろん、ギリシャ的色合いではない。日本的、瓦的色合いである。
 あの壁が青で、あれが黄色、と思いながら古江のまとまった村落をしばらく見ていた。
 
 涼しいのだが、体を動かすと汗だくになる。自分で草刈りができなくなったら他人にお金をdscでぃて頼むことになる。床も傷んできている。床の張り替えも自分でしようかと思っているとこである。きっと面倒に思うだろうからと大工を思い浮かべるが、それの方が面倒な気もして決心を遅らせている。
 
 アマゾンで注文したDVDが間違ってCDが送られてきた。注文確認をみると、ちゃんと「ジーザスクライスト スーパースター」となっている。返品し、もう一度送ってもらうのも面倒なことだ。ぼくはこの映画をロンドンで見た。1973年のことである。ロックミュージカルでキリストが主人公である。2回目は東横線の自由ヶ丘の映画館んで今の妻と観た。テレビをつければトランプと北朝鮮のことばかりだから、この映画をみるつもりでいる。
  新約聖書は書簡入っており、異邦人への布教、教会の維持、活動、信徒としてのこころ構えのようなことをくどくどと説いているところである。もう読まなくてもいいのではないか、とも思うが、読んだからには最後までと思っている。
 
 イエスが生まれたあたりは生きるに難しいところだったのだろう。日本では考えられない苛酷さがあったのかもしれない。そのあたりのことは今週土曜日名古屋にでかけ、じっくりと書店で探そうと思っている、12使徒のうちヨハネをのぞき、ユダの自殺を除き、ぺテロはローマで逆さ磔で殺されて殉教、インドあたりまで行って殉教、斬首刑になるもの、胴体を真っ二つに切られるものと殉教者だらけである。そんな困難をしてまで布教をしようとする信念は、聖書のなかに源泉があるはずである。

 ロックミュージックは福音書の要点をうまくティム・ライスが作詞し、それにアンドリュー・ウェーバーが曲をつけている、
 確か、オペラ座談の怪人も、エビータや、キャッツも同じ作曲家でなかったか。傑出している。彼は時代が変わっても、譜面通りに演奏されること望んでいるらしい。70歳である。
 劇場のもより、ぼくは映画の方がずっとよかったと思っている。彼は映画が不満だったらしい。ぼくはノーマン・ジェイソン監督に軍配を上げる。