25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

村上春樹とマラソン

2015年05月31日 | 文学 思想
村上春樹は長編小説をかくためには体力が必要だと考え、自分の体に適した(と思われる)マラソンをすることにきめたらしい。朝の4時頃に起きて、午前中は仕事に集中する。それからの時間は自由に過ごすという習慣なのだそうだ。
彼は書くことで不特定多数の人々と繋がって、自分の存在感を確認している。決して羽目をはずして飲んだり、食べたり、人とギャーギャー騒ぐ、論じ合うようなことはしないタイプのようだ。
バーを夫婦でやっていて、やりながら小説を書き、「風の歌を聴け」で新人賞をとった。そしてバーを閉じて、作家生活に入った。
彼の小説は文壇では酷評された。上野千鶴子や富岡多恵子などの座談会も読んだが、主人公像についてはぼろかすの批評である。
しかし、若い読者はついてきてくれた。日本にいられなくなった気持ちもわかる。彼はギリシャやイタリアに住み、「ノルウェーの森」を書き、これが大ベストセラーとなった。彼の出す小説を待つ人々が世界中で増えていった。
年代順を追って彼の小説を読んでいると、1997年の阪神淡路大地震とオウム真理教事件が彼の小説を大きく変えたことがわかる。これらの事件がなかったら、もう書くネタは あさそうだった。失礼かもしれないが、そう思う。時代のなかにひそむ第二の鉱脈を当てた、といってもいいし、彼の能力が感知し、小説として作り上げていった、t言ってもよい。とにかく読者をわくわくさせた。「神のこどもたちはみな踊る」には圧倒された。「1Q84」も発売前から大ヒットとなった。掛け値なしにおもしろかった。
批評家は黙ってしまったように見える。やがて彼はノーベル賞の候補に例年あがるようになってきた。冷ややかに見ているような人もいるだろう。

彼の小説をほとんど読んでしまったので、旅行記のようなものを読んでいるが、さすがに、時代の無意識のようなものが書かれていない。かれの書くべき材料は1968年から1973年ぐらいのところで、止まっているように思えた。しかしながら、彼の井戸掘り性格と、1997年の事件が、彼の井戸掘りに、大きな刺激(ショックという意味での)となったようである。
 彼の文学が深まったことは確かである、しかもエンタテーメント性、ファンタジー性、ストリーテラー性、漫画性、純文学性を合わせもった稀有な作家であることがわかる。
 地震やオウムがこのような作家をつうくるというのも人間社会というのは奇妙なものだ。


客員教授に

2015年05月30日 | 日記

 ぼくはバリ島の人々にとっては貴種流離潭としての人間に違いない。ぼくは自分のことを卑種であるだろうと思うが貴種などとおもったことはない。
 しかしバリ島の人々からしてみれば、経済大国(本当は借金大国)の日本からきて、なにかとても役立ちそうなことを言うからなのだろうか。ぼくの素性な全く関係なく信用してくれる。
 そうそう尾鷲にやってくる貴種を馬鹿にはできない。人間はいつだって、そうなってしまうことがあるのだなあとおもう。
 日本語のテキストを開発した。それをもって、バリ州政府の役人の仲介を得て、バリ医科大学の学長とウダヤナ大学の学部長さん、そこの先生方にプレゼンした。
 翌日はキャンパスと設備の見学を依頼された。看護と介護の日本語コースについては、可能性があるものと思っていた。
余分話として、
日本人は、特に女性の健康寿命が短いこと、日本政府は増える医療費日本人苦しんでいること、美容健康と病気予防だいじにしなければならない、ということ。悪いと思うが、バリ島セラピストの技術、知識が低いことなどを言った。
 なんだかだと話をしているうちに、来週、講座のスケジュールをきめようではないか、という話になってきた。いやいや、僕は今晩帰るのでむりだから、今度にしようということになった。
 こういうわけで、バリ島で2つの講座をもつことになった。僕が生徒を教えるのではない。そんなエネルギーはないと思う。先生たちを教えるのである。
 なんとなく、やれやれというような、やったるかと思うものの、もっとかんがえないとな、とかなにか不思議な気持ちである。
 今、空港にいる。シンとしてかんがえたい。卑種であるだろうことはすぐにわかることだから。
 


貴種流離譚

2015年05月23日 | 文学 思想
 尾鷲市に九鬼町という過疎化した浦村がある。ここによそから若者がやってきて、国の助成金を受けて、地元のご老人を集め、食堂を作った。茎の人々は嬉しい、やりがいがある、とテレビでのニュースは流す。テレビニュースというのはそういう題材が好きだ。しかも地方創生というキャッチフレーズを安倍首相が言っていることもあるのだろう。

 僕は「貴種流離譚」の現代版であると思っているし、以前からこんな話はいくらでもあった。
 おそらく、地元のある誰かが言い出したら、「あんな人がやるのだから」とか「ふん、客なんかこんぞ」「なんであの人が村おこしなんだ」とかとなってしまうのだろう。そこに、わけのわからない「にいちゃん」の登場である。わけのわからない人のことをとやかく言うことはできない。素性もわからない。ただ、遠くから神様がきたように崇めてしまうのである。桃太郎もかぐや姫も「貴種流離譚」である、どこかから「どんぶらこどんぶらこ」と赤ちゃんが流れてくる。それがやがて鬼退治をしてくれる。

 この「貴種流離譚」は「卑種流離譚」と表裏にもなっている。いずれ貴種もだんだんと素性がわかってくる。性格や物の考え方もわかってくる。政府からお金をぶんどって、それで過疎の町が潤って、元気になって、という発想のそもそもが僕に言わせれば、「卑種」である。僕も一度政府のお金を。つまりは税金を株として投資していただいたことがあるので、以後、大いに反省した時期があった。もう絶対に「卑種」にはならないと心に誓ったことがある。

 こういうところから村おこしなどと言っていても無理なのだ。自分たちの資金力で、必死にやる。退屈なので、おもしろいからやるでは無理なのだ。国からお金を助成してもらうなんてのもダメなのだ。責任がないのだ。本当は国民の税金のはずであるが、国が助成してくれたからとはしゃいでいてはいけないのだ。NHKの記者にはそんな視線が全くと言っていいほそなかった。素直に現象を喜んでいるのと、それをニュースで扱ってもらった喜びがあるだけだった。

 先日スーパーの前で、民生委員・児童福祉委員の方々がティッシュペーパーを配って、宣伝活動をしていた。おすらくあれも税金からでているものだ。そういうことはしないほうがいいのである。宣伝活動をするのだったら、何もティッシュを、無料配布しなくても市の広報紙や、辻辻の啓蒙活動や、夜毎の相談会などを開くほうが先だ。ティッシュ代がいくらかかるのかわからないけれど、地元新聞に広告を出してもいいのである。ティッシュペーパーには民生委員や児童福祉委員が何をするものなのか書かれていなかった。

 「地方創生」という言葉は竹下登首相のころから言っていた。小渕首相にいたってはすいたいするべく産業にも大いにお金をばら撒いた。よく覚えている。1998年頃のことだ。一時は衰退産業も息をついたが、やがてほとんどが衰退し廃業していった。

 気がついたら、国の借金は1000兆円を超えている。あと、5,6年で国民の貯蓄を上回ってしまう。国の借金の80%は銀行にに国債を買ってもらうことだ。そして日本銀行はそれを保証していることだ。日本銀行は異次元の金融緩和などと言って、危ない綱渡りをしている。これは危ないなんてものじゃない。

 日本の地方はどうして行かなければならないのか。老人たちが退屈しのぎにワイワイとやっているような呑気さは本当はないはずなのだ。真剣に、どうしたら、地方は、尾鷲は衰退せずにやっていけるのだろうか、と考えなければならないのだ。しかし、周縁からの人の声しかきかないという狭い村落共同体の宿命は用意に変わるものでもない。いくところまでいくか、という感じになる。
 

ドローン

2015年05月22日 | 文学 思想
 SNS 例えば、ツイッターであるとか、フェイスブックであるとか、ラインのようなものが登場してきた。発展途上国は固定電話を飛び越えて、携帯、スマホが席巻し、検索さえできれば翻訳機能もそれなりに役割を果たせるようになり、写真はもちろんのこと、You-tube にしても動画が世界に発信できるとうようになっている。
 空の世界では尾鷲から東京までよりも那覇ー沖縄の方が運賃がやすい。札幌ー東京の方がJRでいくより安い。世界の交通の便も20年前とは全く違うものとなった。

 それで人間というものが変わるのだろうか。あるいはそれで人間と人間の関係性が変わるのだろうか。ありえないように思う。確かに便利になったが、人間の善悪などや人間同士の関係性は変わらず、ただ勢いがつきやすい強さと脆さが同居することになったぐらいにしか思えない。ロシアのクリミア半島侵攻をSNSが止められたわけでもないし、タイの軍事政権誕生もSNSが止められたわけでもない。原子力発電所反対が過半数を越える日本でもそれをとめることもできないのだから、SNSはただの遊びか、商売のツールぐらいで有効なのではないか、と思ってきた。そして今もそう思っている。

 コンピュータやセンサーや無線の技術発展は凄まじく、その凄まじさを感じさせるのは「ドローン」だとふと昨夜寝床で思ったのだった。もしもハチやハエくらいのドローンができたら薄気味悪い。例えば、ある場所で、どこかの国の首相が演説をしているときに、虫のようなものが飛んでくる。それがチクリと猛毒の入った針を刺す、みたいなことを想像した。
 テロ集団は人間ではなく、虫のようなものだったら、と思うと恐ろしい。そしておそらく製造は将来可能になるのではないか。

 ISと呼ばれる武装集団がシリアの世界遺産のある地域を占領したというニュースを聞いた。ISに武器を売っているのはどこなのだろう。本当は武器を入手できなくすればいいはずなのに、武器を使って空爆し、それでもない、IS に別の地域が占領されてしまう。いたちっごこの原因は武器になる。どこかの武器商人が売っているのだろう。それを止められないようなら、人類というのは摩訶不思議な悪を抱えた個人の集団だということになる。止められないのだから。お金がほしいのだから。すると、「ドローン」を使った武器が早速登場してくるに違いない。

 「核兵器」の開発は人類に大きな重荷を背負わせた。仮に「ドローン」を使った武器ができれば、それは核よりも恐ろしい混乱を招くことだろう。
 21世紀後半は「ドローン戦争」になるのかもしれないと思わせる。戦争で犠牲にな人がいて、傷つく人がいて、ボートで逃れる難民がいて、シリアはまさに戦国時代の様相である。戦国時代よりもより複雑に外からの攻撃もある。この国が再出発するのはいつの日になるのだろう。
 「ドローン」を便利な運送や撮影など使う会社なども出てきている。
 こういうものはいくら資格制や登録性にしても無効のように思える。革命というのはそもそも無効性を主張するものだからだ。

 しかし、世界はなにか、おっとり、のんびりしているように見えるのは僕だけなのだろうか。 

リトルピープルの時代

2015年05月21日 | 文学 思想
 今から30年ほど前、僕はふと喫茶店で読んだ雑誌の記事で愕然とし、人生がそれで変わったことがある。目からウロコが落ちたのだ。それは片岡義男の「デキゴトロジー」という毎週のエッセイであった。彼は教育の携わる人間ではないから、英語の教授法を言っているのではなかった。アメリカに音素を元にした絵本があるよ、というものだった。

 当時の僕らはアルファベットと言えば、「エイ・ビー・シー・・・」というものだった。このエイビーシーから教えていたのが生徒の英語学習を躓かせる一番の原因だと思った。僕はこの時、英語の教授法の世界で井戸の穴を掘ったのだった。
 それを掘って、掘ってほりまくっていった。エイビーシーが当たり前の世界が間違っていると思い、考えなおし、日本人にどのようにして「エイビーシー・・・」をやめさせていくか。Aは「ェア」と教える。Bは「ブ」と教える。Cは「ク・ス」と教える。こんな風に、表音文字に慣れ親しんでいる日本の子どもに「音が文字」になっていることをまず教える。つまり、アルファベットの音素を教えるのである。tap は トゥ と ェア と プからなっている。続けて言えば「タップ」となる。こうすれば「あいうえお。かきくけこ、・・・」と同じ感覚で子供は理解するのである。このことをつきつめていった。
 井戸を掘りまくったところに普遍性のようなものが見えてきた。しかしそこには「壁」があった。壁を抜けることが必要だった。この壁をすり抜けるのに、調査し、考えていたら、ニューヨークのロングアイランドにもう70歳を過ぎた女性に7ついて知った。どうやって知ったのか、僕は今残念ながら覚えていない。
 すぐに会いに行った。彼女は歓迎してくれた。それは壁を突き抜ける理論だった。たとえば、book の oo と boot の oo は音が違う。だから彼女は英単語の表記法を変えるべきだと言った。book の場合だと oo の上に印をつける。パソコンで表すことができないから ^ の反対マークだと思ってもらえればいい。food の oo のように音が伸びる場合にはーを oo の上につける。

 これで参ったと思った。これは英語表記の究極であった。100年、200年経ったら、新聞などはそうなっているかもしれない、と思うほどだったが、それは一番実際的で真実に近い表記法だと思った。

 僕は壁をすり抜けたのだった。「井戸を掘って壁をすり抜ける」これは村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」の象徴的な言い方だ。
 僕はきっと彼が言う、井戸掘りと壁抜けを経験しているように思う。
 大きな勘違いかもしれない。しかし、それは壁を越えたのでもない。壁の外側に違う世界があり、その世界は真実であるものの認められない世界だった。ほとんどの人にとってわからない世界だった。日本の権威あるっぽい英語教育雑誌など話にもならなかった。

 僕は、まず、アルファベットの音素を教え、3文字単語でそれを組み合わせ、次に2文字子音(sh,ch, th, wh, ph, ck, ng )の音を教え、それをまた組み合わせる。すると、benchや lunch やship elephant などと辞書がなくても読むことができる。
 そうして、次の段階で初めて「名前読み、つまり a i u e o が エイ・アイ・ユー・イー・オウ」と読むこと」を実例を示して納得させるのである。

 この辺で「おおい。Aくん、tap ってどう書くの?」と尋ねてみる。Aくんは 「トゥ ェア プ」 というしかない。先生は離れてみる。「聞こえない」という。 英語の音素で人に文字を伝える場合には トゥや プは遠くからでは聞こえるはずがない。
 そのために、それまでに習った文字の音素には名前があるんだと初めておなじみに「エイ・ビー・シー・・・」を伝えるのである。

 そして、 tap に e がつくとTa は 「ェア」ではなく、「エイ」と変わる。つまり「タップ」が「テイプ」になることを教えるのである。 pin に e がつくと i は「アイ」とかわる。u は 「ユー」に、e は「イー」に。 o は「オウ」と変わるのである。

 このように英語の単語というものの読み方・書き方のルールを教えていくべきなのである。

 こんなことは僕にとっては井戸を掘ることであった。しかしどこまで掘っても壁はある。今更穴の上まで戻っていくわけにもいかない。そこから壁を抜けるにはたいへんなことがいっぱい起こった。その意味がわからないこともあったろうし、まだ知られていないことに挑戦していくことに抵抗する人たちもいた。
 しかし、僕は壁を抜けて、ニューヨークまで行ってしまった。それはたった個人の世界であった。

 なぜ、こんな話をするかというと、「リトルピープルの時代」という1978年生まれの宇野常寛という新進の評論家の村上春樹解釈が全く違うからだ。彼は壁をビッグブラザーの象徴だと考え、井戸掘りを壁の前に佇む個人のようなものと考えている。
 おそらく、宇野常寛という人はまだ井戸を掘った経験がないように思える。

 僕の友人も剣道という井戸を掘っている。壁はある。八段までは最高位という壁がある。そうすることで、彼は壁を抜けていくことだろう。そう思う。

Body & Soul

2015年05月19日 | 日記
やったぞ。アイラ島のシングルモルトのうち3種を飲みました。ボウモア12年、カリラ12年。ラガゲーリン16年です。煙臭さは、ボウモアが一番でした。これがウイスキーかという迫力でした。
アイラ島のシングルモルトはブレンドウイスキーをつくるために、ジョニーウォーカーやバランタインなどが仕入れるそうです。
サントリーの山崎はシングルモルトなのに、まったく煙臭さがありません。不思議です。余市は少し煙臭さがあります。どちらも世界一になったのですから、日本人もたいへんなものです。山崎や、余市の12年もの以上は手にはいりません。
俄然、余市に行ってみたいと思いました。会津から続く余市開拓のことを、菅原文太主演の大河ドラマで知りました。苦労の末に林檎農場を作り、ニッカも、初めは日本果汁という名前でした。山崎を離れて、余市でウイスキー作りを始める前のことです。
あの強力なアイラ島のウイスキーや、ブレンドされたものに、負けない、とろりとした、まろやかなウイスキーは煙臭さをとるサントリーの志向があり、余市にはスモーキーさにこだわった竹鶴のよさがあります。
因みに、アイラ島のウイスキーは食事をしながらのむものではありません。あくまでも、食事後に、楽しむものです。
それにしてもこの頃のバー、タバコも禁止です。ジャズのライブでさえ禁止で、葉巻の香りなどだそうものなら、熱心に聞き入るだけのおきゃくさんから文句がでます。
ジャズを聴きながら話をしていたら注意を受けます。
困ったもんだと思います。
真面目なジャズファンがジャズバーを衰退させているように思えてなりません。
青山の「Body &Soul」。もっと自由にさせたらと思います。僕らは飲み食いします。音楽も聴くし、話もします。けど、ほとんどのひとがほとんど飲まず 、音楽チャージにお金を使うくらいです。これでは店はもたないとおもうし、ジャズを無口に聞き入るなんて、ぼくにはできません。
続くものでしょうか。
それはそれとして、尾鷲では飲めないウイスキーが飲めてたいへん、ありがたかったと感じています。


心情は善でも悪でもないが

2015年05月17日 | 社会・経済・政治
石川県小松市で天皇陛下も出席して植樹祭が行われた。
  歓迎のセレモニーのヤンキーたちのソーランの変形というかもっと進化したものが披露された。
  天皇陛下を迎えるのに、何がよいか、県職員も市職員も考えただろう。「それがソーランかよ」と僕は思った。

 僕はあんまり好きでないのである。踊りは一人や二人で踊ればいいと思っているし、彼らには気迫がありすぎて、技は稚拙ということがある。絆を大事にしていそうである。なんだか情で動いているようにも思える。

 天皇陛下は決して知性の象徴ではなく情というものの象徴なのだから、こういうヤンキーたちに景気づけをしてもらいたいと地方の官僚や首長は思ったのかもしれない。
 わからぬ気持ちではない。ありがちな選択だと思う。植樹祭でなぜソーランなのかわからない。もっと違う、ファンタジーの世界もあったのかもしれない。あるいは厳かな儀式を作り出してもおかしくはない。ただ天皇陛下のことをおもんばかると、ああいうふうになってしまうのかと、僕らは外野席から思うのだ。
 しかも小松市の多くの人が日の丸の旗を振っていた。これは妙に気持ちが悪かった。

 このところ、「戦争論」を読んできた。日清、日露、そしてさきにあの戦争をいろいろな人がそれぞれの視点で語る。日露戦争のかろうじての勝利が国民を熱狂させた。その時から日中戦争、太平洋戦争の終結に至るまで、誰に責任があるのか、識者は意見を言う。
 司馬遼太郎も半藤一利もここは避ける。国民にあったとも、マスコミにあったとも、政治家にあったとも軍部にあったともいう。時代の趨勢だという人もいる。自虐史観はいけないという人もいる。

 僕は統帥権が天皇にあったのだから天皇の戦争責任はあると思っている。天皇が「戦争をやめろ」と言えば終わっていたのだと思う。同じようなことを言った長崎市長は暗殺されかかったが一命をとりとめた。あの事件のとき、日本には「意見をいう自由」というものがないんだな、とつくづく感じたものだ。

 ヤンキー文化は「心情の文化」である。そこに客観性や分析知性はないように思える。
 みんなで同じ振付をして、下手でもいいから気合いを入れて頑張る、という感じである。それが地方の隅々までいきわたっている。善いも悪いもない。そういう時代になったのだ。
 小さな会社なども「気合い」でいくところが多いのかもしれない。以前にそんな相談を受けたことがあった。

 中国を「悪」とする風潮もこの頃見える。中国からしてみれば、の視点がない。あれだけ、中国を蹂躙していれば中国も政府代表とすれば、日本との仲をそう簡単にはスムースにはいけないはずだ。韓国もしかりである。
 日本は日露戦争の勝利で東南アジアの人々を有機づけたが、その後の振舞が悪かった。

 僕の言っていることが自虐史観だとは思わない。戦争放棄に賛成するのを「平和ボケ」だとも思わない。人類が未来に残しえる憲法をもっているのは日本だけだ。それがアメリカ産だろうと、何産だろうと、あの当時の日本人では今の憲法や農地解放や教育の改革などやれるはずもない。

 大衆は、大衆にとってよい政府があればいいのである。それでやっていくのである。アメリカ進駐軍がきても案外平気だったのである。人々の噂話のほうが嘘だったのである。「奴隷にされる。女はみな強姦される」などなどである。

 そしてアメリカによって原子力爆弾が投下された。日本人はこのことさえも恨みに思っていないように見える。逆に言えば、戦争を終わらせてもらうにはあの方法しかしかたがなかったのではないかと、心の基底で思っているのではないかと思える。

 現在の安倍政権の安保法制でも国民の小さな声は届いていない。少数の大きな声とテレビジョンが吠える。
 しかし、時代はすっかり変わっている。政権というのは大衆の手のひらの上にいるのだ。握りつぶすも、踊らせるのも人々である。もっというなれば「消費社会の人々」である。この人々が財布のひもを締めたら政権は倒れる。この20年すっとそうだったではないか。

 日本はすでに近代資本主義社会を超えてしまっている。それに気がつかないのは、実は法律を作る政治家なのだ。僕はそう思っている。

床屋さん

2015年05月17日 | 日記
 僕は床屋さんが苦手です。病院や歯医者さんも苦手ですが、普段の生活では床屋さんが苦手です。特に丁寧に時間をかけてやってくれる床屋さんほど苦手なものはありません。ガマガエルのように鏡の中の自分を見ていると汗がでてきます。さらに「スパスパ」と7やればいいのに、同じところを何度もいったりきたりするそのスピード感が嫌いです。
 今日は3日後に、東京で研修会もあるので、床屋さんにいきました。一言、「ちょっと髪の毛が長くなってくると、髪が立ち上がってきて、丸まってくるんですよ。歳なんですかね」と言ってしまいました。すると、張り切って、床屋さんは説明を始めたんです。以下の会話は床屋さんだけの文句で、僕は「へえ」とか「なるほど」しか言っていませんので、それは割愛し、彼が言うたびに「なるほど」とか「へえ」と言っていると思ってください。

「歳をとってくると髪の毛が細くなってくるんです」
(へえ)って感じです。
「日本人はくせ毛の人が圧倒的に多いいのです。優勢遺伝なんですけど。」
「若いうちは髪の毛が太いので、その重さでくせ毛のようにならないんですね。それを自分は直毛だと思っているんです」
「わかりますよね。アフリカ人をみたらチリチリですよね。直毛なんてめったにないんです」
「あなたの髪は細くなってきてますが、まだ産毛のようになっていないので、育毛剤で増えますよ」
「だいたい人間には重力がかかっているから髪の毛もあるんです」
「火星人の漫画なんか、毛がないでしょ。漫画家というのはよく研究してるんdすよね」
「重力のないところでは骨も筋肉もありません。必要ないからです」
「ですから宇宙から帰ってきた人は筋肉や骨が弱ってしまって、リハビリをしますよね」
「だいたい便利便利と言ってなまくらな人は早く死んだほうがいいんです。それは退化を自分で認めているということですから」
「私なんかはいつも立っていますから立っている筋肉の維持ができているんですね。座る筋肉は結構退化しているものですから、座っていることが苦痛なんです」

 えんえんと続くのです。
「人間は退化しています。女性は100kgの米俵を担いで歩けないでしょ。退化している証拠です」
「退化したまま死んでしまうのです」

 でもさっさとする人で、自信があるようですし、客がなにものかも考えず、遠慮もなさそうですし、頭は真っ白の白髪です。
「ストレスがかかると白髪になる人がいます。僕のは違いますけどね。僕のは遺伝子ですね。そういう家系です。ストレスで白髪になるというのは髪の毛の根本のところにある毛細神経がプッツンと切れてしまっているんです。この神経はまた生えてくるし、伸びすぎると痛みなんかを感じるんですが、まあ、神経というのは太い神経でも再生するんですよね。それがリハビリですね」

 ということで、ひげを剃るところに来ると、「へえ」というと危ないので、黙りこくりました。僕は本当は10分ほどでやってほしいのですが、この人の場合、25分ほどで終わりました。短い方です、長い人だと1時間かかる人もいるのです。
 ですので、なるべく都会に行ったときに10分でさっさとやってくれるところがあるので、そこへいきます。小型掃除器切った髪などを吸い込んでいきますからね。洗髪なんかもいらなし髭剃りなんかも不要です。

 とまあ、今日は土曜日だったので、この床屋さんのうん蓄には少々閉口もしましたが、すっきりして帰りました。頭のてっぺんのほうがかなり薄くなってきています。あと10年ぐらいもってほしいとは思いました。

あの戦争と日本人 3回目

2015年05月16日 | 文学 思想
 あの戦争中に中学生や高校生だったものの多くは軍国少年であった。尊敬する吉本隆明も軍国少年だった。半藤一利は吉本よりも若かったが、やはり軍国少年であった。時代の雰囲気、熱狂は新聞もラジオも煽り、国民も新聞をあおり、熱狂の新聞は部数を伸ばした。吉本の「戦争論」だったか、なにかで、父親にぼそっといわれたことがあった。「戦死なんてのは勇ましく死ぬなんてもんじゃないんだよ。病気になったり、飢えて死ぬのがほとんどなんだよ」と。それが吉本少年の記憶に残った。
 「あその戦争と日本人」を読み終えて、太平洋戦争だけで、戦闘員の戦死者は陸軍で165万人。海軍で47万人とされている。このうち餓死のよる戦死者は70%である。また海軍の海没者(戦わずして海に沈んで死ぬということ)は18万人である。戦争は飛行機の時代になっていたのに、大和や武蔵のような軍艦を作った。その費用があれば戦闘機を何千機も作れるものだった。兵士の持つ銃剣は日露戦争のときと同じもの。これもものすごい数を作り、機関銃などを作ることもなかった。

 広島や長崎では戦争で忍耐していたふつうの人々が瞬時に、わけもわからず死んでしまった。
 半藤一利はあれだけ慎重であり、戦争を避けたかった明治の日露戦争で、もう大砲の弾もなく、銃剣の弾もなく、どうにもならない状況の中で、奇跡的に日本海海戦でロシア艦隊を打ち破ったところで、講和を果たした。講和はすでに準備されていたのである。もう戦争をする余力はなかったのである。国民は狂喜した。尾鷲史にも日露戦争勝利を祝う写真が残されているが、全国で祝典が行われた。その勝利に水をさすようなことは政府も言えなかった。
 やがて明治を作ってきた元勲たちは死んでいって、世代交代が行われていった。戦争の分析ではなく、「精神論」だけが受け継がれていった。

 現在、ぼくらは歴史の大転換期の中にいる。戦争放棄をうたった平和な日本の70年間は終わり、戦争ができる国といつの間にか、内閣によって決められてしまった。自衛隊の母親は「なんで国民のみなさま反対してくれないのでしょう」という人も、「不安です」とう自衛隊員の奥さんの言葉などがテレビで紹介されているが、新聞もテレビも大反対の論調にはならず、勇ましいのだけが声を張り上げている。だいたい勇ましいことをいうやつほど本当は勇ましくないというのは僕らもまた知っているが、それにしても、犠牲者はいつも下の隊員である。悩み、苦しみ、精神に異常をきたすのも下の隊員である。小泉内閣のときに紛争のない地域で支援活動が始まったが、あれ以降、参加自衛隊員の自殺者が多いのは新聞で発表されたとうり、多いのである。

 ひとつどうなっているのかわからないことがある。仮に自衛隊員が集団的自衛権の行使で外国に行き、戦死したとすると、やはり靖国神社に奉られるということになるのだろうか。天皇でさえ行かない神社に強制的にということなのだろうか。それとも憲法の精神で個人の自由が許されるのだろうか。この論議を「縁起でもないことを言うな」といえば、これは日本人の悪しき「言霊思想」であり、悪しき「精神論」である。その辺のことが何も知らされていない。僕だけがしらないのだろうか。

 と、テレビをつけたら、「淡谷のり子名曲アルバム」が出てきた。戦争中でも国防婦人隊が跋扈する中で淡谷のり子は派手な服を着て、派手に化粧をし、個を貫きとうしたという。彼女を紹介するナレーターは「大衆が一番怖い」とも言っていた。

 日本はあの戦争でまたもや分析をしていない。分析せずに、「押し付け憲法だ」「戦勝国の裁判だ」などと言っている。政治家や軍部、天皇はどこで、何を間違い、マスコミはどうあったのか、国民はどうあったのか、徹底的に朝鮮に謝り、中国に謝る。そしてリセットする。それがなぜできないのか、僕にはわからない。その思想もわからない。

パソコンの不快

2015年05月15日 | 日記
コンピュータのポータブルサイトも姑息な手段で、競争を繰り返し、僕らは迷惑千万である。中国のものが急に出てきたり、E-
なんとかというのものが出てきたり、そのたびにクリックする回数が増えていき、時間もかかる。すると、今度は、あなたの不要なソフトがこれだけあるとか、言って、それをクリアにするかどうか、とか、ウィルスのことだとか、なんだかんだと画面に出てくる。脅迫のようなものだ。
 
悪質であると思う。パソコンの知識が十分でないと、これは「だます」とか「鬼のいない間に洗濯をする」というものである。
 この頃、Explorer を使っていると、「終了しました」「新しいExplorerをだします」などと出て来る。
 こっちは何もしているわけでもないのに、雲の上の向こうが作戦を練って、各自のパソコンを支配しようとしてくる。

 これはとんでもないことで、自分の希望に従ってパソコンは機能できればいいのである。不便だと感じれば、もっと便利なものはないかと消費者側が言えればいいと思う、ところがあいつらは一方的に、勝手にやってくる。

 ああ、こんな世界とも付き合いきれないと思うが、パソコンは便利である。今、僕は裁判の準備をしている。ところが弁護士がパソコンができない。資料を送るにも郵便。話し合うのも、わざわざ出かけて、話し合い、同じようなことをなんどもなんども記憶を呼び覚ますように出かけなければならない。裁判訴訟が遅れてしかたがない。僕の予想だとすでに3月には裁判が始まっていなければならない。
 ところがそれができない。弁護士がパソコンを使えないからだ。資料など添付すれば7よい。ちょっとした確認などラインでもスカイプでもよい。

 ところがこのようなパソコンにつきあっていると、その付き合いの面倒さが出てくる。勝手に遠慮会釈なく支配しようとして来たり、自分が書いた文の下に自分らの仕事と競合する広告が出てきたりと、この頃相当パソコンが不便になっている。要らぬものがでてくるからだ。

 テレビも好きだ。コンピュータも好きだ。スマホも大好きだ。しかし煩わせてほしくない。
 「煩わせないパソコン」が出てきたら、僕は即刻買うだろう。それほど、厄介になりつつある。パソコン画面上でお金をとろう、とろうという意思が見えてくる。

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楽しい

2015年05月14日 | 日記
昨日はたいへん愉快だった。岡田さんと「与太呂」で酒を飲み、舌鼓をうち、純米酒だけではなく、セントリュースという美味しいウイスキーまでも飲んで、次の飲み屋に突入したのだった。
 剣道の話、骨ストレッチの話。酒やウィスキーの話、男の女、人間の関係の話、安保法制の話、村上春樹の「1Q84」もでてきたし、青豆もヤナーチェクも多崎つくるも、リストもでてきてたいへん愉快であった。ここまで愉快にさせてくれたのはママさんが僕らに気を許していることもあったのだろう。彼女もそんな話が好きで、岡田さんは、僕がぼんやり思っていることを具体的な言葉にしてくれるので、納得、目からウロコ、そんな見方があるのか、腑に落ちる、とつくづく思ったのだった。これをそのまま録音記録して会話として書いたらよほどおもしろいことだろうと思ったのだった。今それを根気よく再現する力がない。酔っぱらってもいるので、脳がまだらになって記憶の言葉が抜け落ちている。

 どれだけ飲んだかって、相当飲んだ。日本酒は一升の半分以上は飲んだし、ウィスキーは余っていた「竹鶴」と「山崎」も飲んでしまったし、新しい「竹鶴」も半分までとはいかないが飲んだ。ようするにしこたま飲んだ。僕はその前の日、日本酒を一升ほど飲んでいたが、この日のアルコール量もたいしたもんだが、翌日はなんということもない。二日酔いもない。逆に爽やかである。草刈までしてしまったし、クマの手もまでも買いに行って、精を出した。
 気持ちのよい酒を飲んでいたら体なんてなんということもないのだ。つらい、悲しい、腹が立つ、苦しい、やけっぱちだという中で酒を飲むときっと翌日は身体の調子が悪いだろう。僕はそういうときに酒を飲んだことがないので、知らない。
 楽酒に限る。あと、音楽などききながら、ゆったりと、というのもよい。
 
 話がいがある人というのはめったにいないものだ。そんな人がそばにいるというのはとてもありがたいものだ。
 昨日岡田さんは酒の席で、僕が日本語学習のテキストを作っている、と言ったら、エルサレムではヘブライ語を速習させるメソッドがある、という話を聞いたことがある(読んだことがある、といったかもしれない)と言った。それは僕のアンテナに触れた。僕は彼から有効な知識をもらうことが多い。日本語を習うにしても英語を習うにしても「教授法」、つまりメソッドが大事で、これが案外、重要視されていないで、だらだらとテキストは受け継がれている。英語の教科書も相変わらずで、教え方も相変わらずである。日本語学習テキストを見ていてもそこに「速習させるぞ」という意気込みも知恵もない。当然、僕はそのヘブライ語の教え方のメソッドを調べてみるつもりだ。
 ちょっとした話だ。それがちょっとのことか重大なことかは、こっち側のアンテナの話である。
 ああだ、こうだ、と気兼ねなく聞けたり、話せたりするのは実によい。そこに女がいればより楽しいという雰囲気だった。岡田さんの分析は鋭かった。

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日露戦争話

2015年05月10日 | 社会・経済・政治
  引き続き日露戦争の話です。半藤一利の「戦争と日本人」からの感想です。司馬遼太郎の「坂の上の雲」ででてくる第三軍参謀長の判断能力のなさを辛辣に書いています。ところが彼は戦争後、爵位をもらっているのです。明治という時代はこの日露戦争で終わったようです。それ以後の日本はロシアからの復讐におびえます。そして大衆も戦勝気分に酔って、日本人は負けない、先進国の仲間入りだという気分になっていきます。つまり合理的判断とか分析とか、知性を忘れてきわめて心情的になってしまいます。

大帝国ロシアに戦力も10分の1にもならない小さな島国の日本が大帝国ロシアに勝ったというニュースは東南アジアを元気づけます。中国からの留学生も日本には約6000人もいました。孫文もそのひとりです。ヴェトナムからも留学生は来ていました。インドではガンジーは不服従運動を起こすのは日露戦争の翌年からです。

 ところが一流気分になった明治政府はヴェトナム人や中国人を締め出します。格下の国の人間ども、とみるわけです。この気分は昭和の50年、60年代までは続いたのではないでしょうか。今でもヨーロッパ大好きで、東南アジアを汚いとみる人もいます。年配者に多いのはそういう影響なのでしょう。日本はひたすら西洋化をめざし、それが世界の優秀国の一員だと思うようになります。気分です。データではありません。本当のところは先進国におちゃらけにされていたわけですが、当時の中国人は清朝を倒し、中華民国を作ります。その幹部は日本から追放された留学生たちです。それを思うと、締め出しさえしなければ今の中国とも関係が変わっていたのかもしれません。
 
今年のゴールデンウィークで一番多かったのは東南アジア観光でした。平成時代に入って、アジア地域の発展とともに、若い人々の気分のほうが年配者と違ってきているように思います。
 日本が再軍備化をすすめると恐れる気持ちはわかるような気がします。やはり全体とすれば、アジアを見下しているような感じがするからです。それは政治家だけではなく、一般国民も同じようだからです。

 尖閣列島の問題でも、マスコミ、コメンテーターやテレビに出てくる評論家も、心情的です。共同統治という案さえ出てこず、「あれは日本の領土だ」とばかり言っています。そんなに尖閣列島が大事なら話し合うべきだと思いますが、なんとか尖閣をとられないように、アメリカ頼みをするという有様で、それがリアリストだと自慢しているような向きがあります。

 とにかく、日露戦争以来、その戦争で動員した100万人にも上る戦闘員と。遼陽の戦いでは23.714人が戦死。沙河の戦いでは 20.574人、奉天の戦いでは 70.061人が死にました。他の戦いも含めて、1.08.9000人を動員して 戦死者 84.400人が戦死。戦傷が140,000人でした。ひとつの大砲で50発分の用意をしていたのが1日の戦いで30発使ってしまうというすざましいものだったようです。実は、日本軍にはもうなにもなかったのです。一方ロシアはロシア革命の運動がすすんでいました。それでアメリカを仲介としたポーツマス条約に両者とも調印したのです。
 しかし新聞も世論も「勇ましい」ことしか報じません。政府もそういう気分に冷や水を浴びせるようなことはできません。それで内実を隠したのです。

 現在は国民の世論というよりは世論無視の形で集団的自衛権だとか、地球規模にまで自衛隊の活動範囲を議会の承認もなく政治家主導で「戦争できる国」になろうとしています。
 いつも犠牲になるのは一般大衆です。安倍首相が前線にでて闘うはずもありません。大言壮語している老いぼれの老人もいくはずがありません。
 今日はこういったところで。

釣り・磯遊び・戦争と日本人など

2015年05月09日 | 日記
  春雨の降る中、ガシ釣りに出かけた。例の穴場である。一時間ほど遊ぼうと思い、スーパーでカツオの切り身を貝、包丁で切って餌にしてから、いざ出陣した。雨の中でも向かい側の堤防では釣り人が二人いる。静かそうに集中している。俗世間のことなど忘れているだろう。
 僕の場所には船が一艘ついていたので、攻めるのは三面のみである。一投目からガシが釣れた。おお、これは今日もか、と独り言をいいながら、ワクワクと七匹までいった。大きな一匹は穴に逃げ込まれ、さらにもう一匹は途中で落としてしましった。雨粒が大きくなったのか、海上に雨の波紋ができて見にくくなってきた。今晩のおかずに7匹もあれば上等だろうと、竿をおさめて、例の丸太の私を慎重に渡った。ここは荷物をもっているだけに緊張する。出かけたのが1時半だったから、まだ三時である。雨も激しくならない。今日の潮は小潮である。干潮は4時過ぎ。ムラムラとチャンポコをとろうと思った。今晩の晩酌の分だけでよい。

 ここの磯はひじき、ほんだわら、スギ藻が生えているから、貝類も磯魚も美味しいのだろう。岩と岩の間に溝がある。その溝が砂地のほうに続く溝にはヤドカリが多い。シリタカは波というか、海の水が干潮でも満潮でもあるところにいる。さざえのフツのようなチャンポコはそれより磯上や溝脇にいる。だいたいこれはかたまっている。それを見つけて指でとりながらすでに目は別の場所を探している。
 誇らしくオレは縄文人か、と思ったりする。この小さな磯で人が何人も生きられるわけではない。やはり外へ漁にいかないと。タカノツメがおおく岩間にいるので、点検する。小さい過ぎる。ナザレで食べたタカノツメは大きかった。大きいタカノツメがあるところをいずれ探すつもりだ。

 磯のむこうは大きな砂粒の浜である。もしかして掘ってみたらアサリがいるかもしれないと一瞬思うがアサリは河口付近の砂浜に多いから、ここは生息地ではないだろうと思いながらもひとかきふたかき手で掘ってみる。砂に貝の破片がいっぱいある。三回ほど掘って、やっぱり一粒もでなかったので止めた。普段着る薄手のジャンパーを着ていたが、雨水が次のシャツにも沁みてくる。ジャンパーのポケットのスマホも濡れているかもしれない。シューズは磯靴ではなくふつうのテニスシューズだ。磯でなんどかすべっていて、都度怪我をしているので、用心に用心してあちこちと歩く。今度きたときはどの辺を狙うか、見当をつけておくのである。

 夜は半藤一利の「戦争と日本人」を読んでいる。日露戦争の新たな、細部にわたった150ページもの記録が出てきたらしい。桂内閣は戦争をさけることに一生懸命で、外交でなんとか切り抜けようとするが、東大の教授7人がロシアと戦争をやれ、と進言する。大衆もそんなおえらさんが言うことなのだから、と、新聞も含めて「やれやれ」となる。やがてロシアは朝鮮半島も満州も自分たちものにすると進軍する。日清戦争で勝ったものの、三国干渉でイギリス、ドイツ、ロシアに戦利を横取りされ、さんざんだった日本は国家予算の半分まであて、国民は耐え忍ぶが、やがって「やってしまえ」と興奮してくる。それでも桂内閣は万が一戦争になっても終結のしかただけは探る。昭和の15年戦争とはえらく違っている。なぜ、日中戦争、太平洋戦争で日本の軍部はだめだったのか。それは日露戦争がどれほどのすさまじく、悲惨で、なぜあれほどまでに屍を築いたものか、その検証が隠されたからだと半藤は言う。軍部は150ページの詳細な記録を3冊作った。宮内庁に1冊。あとの2冊は戦争中に消失した。その宮内庁にあったものが出てきたというわけである。
 二百三高地での乃木将軍の戦い方などは司馬遼太郎の「坂の上の雲」とは違ってくる。

 磯遊びとは全く違う話だが、人の時間の流れとはそんなものだ。僕はこれを書きながらヴェートーヴェンのの「弦楽四重奏15番と16番」を聞いている。頭の中というのは自由自在、混合乱雑だ。娘と孫に「今日も釣ったぞ」と写真メールを送った。

異汗性湿疹なのか

2015年05月09日 | 日記
 人間の体は複雑なものだ。特に身体の内部やネットワークシステムなどは見えないから、想像が及びにくい。

いきつけのスナックのママさんがしばらく前から手足が痒いと悩んでいます。ステロイドを塗っても聞きません。内蔵からくるものなのか、と心配して大きな病院にも行きました。漢方処方もしたそうです。それでも治りません。肝臓でも悪くしたの、あと思ってお酒も控えています。検査では肝臓は大丈夫なのだそうですか。

 5月6日の「ためしてガッテン」で「異汗性湿疹」と「連鎖型果物アレルギー」の最新研究の成果を紹介していましたので、それを見ました。異汗性湿疹とは金属アレルギーだそうです。特にコバルトが汗とともに出てきて、汗の多い手足に湿疹を起こすのだそうです。
 番組に出てきた女性の食事の分析が紹介されました。彼女の朝食は、炊いた米、卵焼き、納豆、冷やっこ、わかめと豆腐入りの味噌汁、ひじきと大豆の煮物でした。
 異汗性湿疹の真犯人は「納豆、豆腐、大豆」でした。これらの食べ物にはコバルトが含まれているのだそうです。
 コバルトを含むその他の食べ物を紹介します。 あさり、枝豆、チョコレート、ココア、アーモンド、玄米があります。

 早速、ママさんに電話をしました。
 「朝食ではどんなものを食べとるん?」
 「あたし、朝昼兼用なんさ」
 「それで、何食べる?」
 「和食とパンとかなんとかの交替かな」
 「ふ~ん。飲み物はコーヒーを飲むん?」
 「ココア」
 「納豆とか豆腐とか豆類は好き?」
 「大好き。アーモンド好き、豆腐も好き。チョコレートも好き」
 「ためしてガッテン、で紹介していたけど、金属アレルギーを疑ってみる、ってゆうとたったで。それが今言った食べ物。原因はコバルト」
 「そういえば、金属アレルギーかもしれないって医者に言われて、その薬飲んでないんさ」
 「どうして?」
 「かもしれん、で具体的に何が原因でいわんし、金属アレルギーなんてありえんと思ったし。ピアスもできるし、金属触ってもなんにもやし、と思って飲まなんだ。」
 「本当のところはわからんから、とりあえず、一週間はその食べ物を控えてみたら。」
 「そうかな。やってみるわ。薬も飲んでみるわ」

 さあ、どうなるんだろう。
 楽しみなことです。

ビ・バップ

2015年05月08日 | 音楽
ディジーガレスピーのビ・バップジャズを聴いていると、ほとんどニューヨークにいるような気がしてくる。ハーレムを散策したことがあった。アポロ劇場にも行ったことがある。一人旅だった。ハーレムは危ないと言われていた時期だったが、なんともなかった。ケージョン料理も食べた。僕はその頃はたぶん人生に興奮していたのだと思う。
 ワシントンでもシアトルでもニューヨークやシカゴでもジャズライブのあるところに飛び込んだ。といってジャズのことは何も知らない。一人とて、ジャズミュージシャンの名前を知っているのではなかった。
 雰囲気だ。音から出てくる情緒がまるで違ってしまうのである。

 この男(ディジー)がスウィングジャズからビ・バップジャズへと変えたのは今知ることである。
 ジャズが生まれてから何年になるのか知らないけれど、クラシックの時代がバロックから古典、ロマン派、民俗学派、印象派と移っていったようにジャズも変遷の歴史があるのだろう。山下洋輔などはフリージャズと呼ばれている。
 その山下洋輔が三人の男と対談している本があって、二晩続けて、二人との対話を読んでいる。今夜は第三人目である。それで終わりだ。
 僕は音楽家というものを一番リスペクトしている。即興で演奏することも、間違いなく弾くということも、小刻みに同じリズムで叩くという小太鼓にしても、僕には感嘆するばかりである。なぜプロは間違えないのだろう、といつも思う。
 ジャズは間違っていいのか、と言えばそうではないのだ。ひとつの音とて間違えない。それがプロというものなのだ。
 その音楽界の中では僕の知らない専門用語がいっぱいでてくる。

 いつもうざったいと思うのは、三味線奏者が洋楽をしたり、尺八奏者が管弦楽をバックに演奏したり、ジャズと邦楽をミックスしたりすることだ。インド音楽はインド音楽でいいし、長唄は長唄でいいと強く思うのだが、演奏者というのは腕があがってくると、ミックスしたくなってくるものらしい。

 バッハは即興音楽のように聞こえるし、モーツアルトなどはバリバリアドリブで弾いただろう。ヴェートーヴェンが即興の名手だったことは最近知った。しかし当時のヴェートヴェンが東洋にこれるとは思えない。西洋音楽は楽譜技術を発展させ、西洋音楽を完成させた。邦楽奏者は邦楽をやればいいと思うのだが、技を見せたかったり、好奇心で融合させようと思ったり、おもしろいものが生まれるんじゃないかと思ったのだろう。それはあるのかもしれない。しかし僕はいつも違和感を感じている。

 さてディシーガレスビーを聴いている。ああ、タモリや中上健次などは地下のジャズ喫茶でこんなのを聴いていたんだなあ、と思う。僕よりいくつも上の世代である。その雰囲気は異様でもある。退廃も、どん底も、こころの虚ろも、陶酔も、逃避も、猛烈なエネルギーにも満ち溢れている。