「そこで、私はその小さな巻物を御使いの手から受け取って食べた。口には蜜のように甘かったが、それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」(黙示録10:10新改訳)
ヨハネはここで、み使いから巻物を受け取り、食べるよう命じられた。たぶん患難時代の後半に起きる出来事を詳細(しょうさい)に記録するための準備と思われる。特に後半は大患難時代と言われているので、地上の苦難は最高潮に達するであろう。それを書き留めるヨハネの「腹が苦くなった」のはそのためであった。▼それにしても、ここで太陽のように照り輝く御使いが大声で叫んだ宣言は厳粛(げんしゅく)である。「もはや時は残されておらず、第七の御使いが吹こうとしているラッパの音が響くその日に、神の奥義は、神がご自分のしもべである預言者たちに告げたとおりに実現する。」(黙示録10:6,7同)▼この書を記したヨハネは患難期を目撃した証人で、それを記録させた神は、「人類が迎える終末はまちがいなくこの通りになる」と宣言しておられるのである。しかし私たちはむやみにおびえるのでなく、内容をしっかり心に刻みつける者でありたい。それがほんとうの備えなのだから。
思えば、この二千年間、ヨハネ黙示録が新約聖書からはずされなかったのは奇蹟的であった。なぜなら、20世紀に入るまで、そこに記されている内容は現実に起きることだといっても、だれにも説明できなかったのだから・・・。意味不明の書を正典に入れておいてよいのか、との批判者が現れたのもうなずける。そこでこの書は象徴文学だという説明がなされた。▼ところが産業革命が起き、科学機械文明が発達した結果、あれよあれよという間に20世紀になり、黙示録の内容が現実と接近して来た。そしていまなら、人類の三分の一が滅亡するといっても誰も笑わないが、江戸時代にそう言ったなら狂人扱いされたであろう。封じられた預言書・ヨハネ黙示録、それが今や現実世界の描写であることが理解され始めている。まさに主の来臨は近いことのしるしではないだろうか。▼むろん、主のおいでの時は父なる神がご自身の権威のうちに置いておられるから、いかなる人にも定め、予知することはできないし、ゆるされない。にもかかわらず、ときがじりじりと迫って来ていることはたしかである。同時にそれは救い、携挙、復活の確信を神からいただいた者にとっては、ものすごい喜びであり希望である。どんなに恐るべきことが起きても、その後に来る永遠の御国、新しい復活の世界は、ロウソクのあとの太陽の光のごとく、圧倒的なものだということも本書は告げているからだ。