しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
よかったら見てください。

朝の露 エペソ2章 <死んでいた者>

2019-07-27 | エペソ

グラジオラス「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、」(エペソ2:1新改訳)

少年時代、私が住む家の近くに寺と墓地があり、しばしば葬儀が行われていた。夕日が沈み行く中、棺を先頭に黒い喪服を着た列が念仏を唱え、鉢を鳴らしながら墓地に向かう姿は暗く、もの悲しかった。▼キリストなき死には何の希望もなく、明るい空気はいっさいない。あきらめだけがある。私はさびしい葬列を見て、子供ながら人間のはかなさと空しさを否応なしにおぼえたことであった。わが国はつい二百年前まで、墓の向こうが真っ暗な絶望の闇に閉ざされ、そこから脱け出せなかったのである。それがいかに悲惨なものであるか、私は救われてみて初めて分かった。▼放蕩息子が帰って来たとき、父は「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(ルカ15:24同)と喜びを表現した。キリストの福音を信じ救われたということは、私たちだけでなく、父なる神にとっても「死んでいた息子が生き返った」以上のお喜びなのだ、という事実を覚えたい。

 

 


朝の露 エペソ1章 <恵みの栄光>

2019-07-26 | エペソ

ハイビスカスピンク「それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」(エペソ1:6新改訳)

人の世界では、何かを他人に与える時、かならずそれに見合う対価を求める。まったく無償で与えることはない、といってよい。▼ところが父なる神は、私たちに愛するひとり子を完全な贈り物として与え、対価をいっさいお求めにならないのである。これは常識では理解できないことだ。しかもなにかの品物ではない、ご自身のいのちそのものとして愛しておられる愛子を、である。ヨハネも「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3:16同)というとおりに。御父はキリストを御自身のいのちそのものとして愛しておられるから、御子のいのちを私たちに与えたということは、ご自分のいのちを私たちにお与えになった、というに等しい。これは何というできごとであろう。私たちの理解をはるかに、はるかに超えたことが起こったのだ。▼パウロが好んでくりかえし記すのは恵みの栄光という語だが、その意味するところは以上の内容を指す。ああ実に、神はいっさいのものを無代価で私たちに下さることを、ただ喜びとされた。そのお喜びが天の父から光となって全天全地に放射されている。やがて私たち被造物が御前に立ったとき、永遠にほめたたえてやまないのは、この恵みの栄光である。「おどろくばかりの恵みなりき この身の汚れを知れる我に み国に着く朝 いよよ高く 恵みの御神をたたえまつらん」(詞:ジョン・ニュートン 新聖歌233)

 


朝の露 エペソ6章 <私たちの格闘>

2017-02-04 | エペソ

つつじ「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12新改訳)

オリンピックにレスリングの種目があるが、体力、俊敏さ、相手の動きを読む知恵、決してあきらめない不屈の意志など、それらがもろにぶつかり合い、見ていて飽きない。▼信仰者の格闘もこれと似ている。ただし、レスリングは勝つか負けるかだが、私たちの戦いは「食うか食われるか」で、永遠の運命のかかる真剣勝負であるところが大きくちがう。▼たしかに悪魔は、主の十字架で人に対する支配を破られ、永遠の滅亡は決定的になった。だが実際に「ゲヘナに落とされる」のは未来であり、今は神の監視のもと、キリスト者と戦わせられる羽目になっている。▼これには神の深い御心があり、あたかもダイヤが選別され研磨されて輝くように、ほんものの花嫁が一層美しくなるために戦わせられているのだ。つまりそこまで追い込まれているのが、悪魔とその一味の現実ともいえる。

 エデンの園でアダムたちが悪魔の奴隷とされて以来、彼はあらゆる人間の心を占領し、支配して来た。ところが十字架が成就してペンテコステの日に聖霊降臨となり、信じる人々の内に聖霊が来られて彼は追い出され、悪の牙城が神の住まいに代わった。▼かくてサタンの王国は次々と破られ浸食され、神の国を持った人々が絶えることなく増え続けている、これが福音時代の霊界の実相である。彼にしてみれば憎んであまりある教会とキリスト者だ。私たちが攻撃の的にならないはずがない。言ってみれば、宣教拡大によって彼の永遠の滅亡という「刑の執行日」が時々刻々近づいているのだから。▼ということで、キリスト者は油断せず、目をさまし、確信と喜び、希望と大胆に満たされて「天のレスリング」に臨むべきである。いかに厳しく激しい戦いであっても、最終勝利はキリストのはなよめたちのものである。「あなたがたは、世にあっては患難(試練、困苦、挫折)があります。しかし、勇敢でありなさい(堅く信じ、確信を持ち、臆せずにいなさい)。わたしはすでに世に勝ったのです(あなたたちのために、世からその害する力を奪い取った、世を征服したからである)。」(ヨハネ16:33カッコ内は詳訳参照)


朝の露 エペソ5章 <聖徒にふさわしく>

2017-02-03 | エペソ

ピンクシクラメン「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。」(エペソ5:3新改訳)

初代教会の信徒たちが、どんなに高い倫理道徳基準を求めていたかを示す聖句である。▼たぶんもパウロの時代のローマ帝国は現代とそれほど変わらなかったろう。私はかつて、火山の噴火で滅びたイタリア、ポンペイの遺品展に行ったことがあるが、あまりに下品で不道徳な発掘品の数々を見て驚いた経験がある。これでは、滅亡も仕方がない、とまで思ったことだ。使徒時代のローマ、ギリシャも同様だったろうが、そんななかで、キリスト者たちはみだらなことや下品な冗談を「口にすることさえいけません」と自戒し合い、聖潔の生活を求めていたのである。▼現代社会はTVやインターネットの普及で超便利になった反面、それを悪用する人々はあらゆる不品行、卑猥な情報、一獲千金の欲望をあおる情報などを流し続けている。もし私たちが教会に集うときは清い話題で信仰者らしい態度を維持しても、結婚式や会社の会合などでは別人のように酒を飲んで酔い、下品な冗談や下卑た笑いを発するのをなんとも思わない、そんな二重生活をしていれば、聖霊は悲しまれる。たとえ未信者主催の場所でも、キリスト者はキリスト者である。そこでこそ信仰を輝かせなかったら、どこで信仰を輝かせよう。少しも恐れることなく、堂々と聖潔の歩みを続けよう。▼「あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行い、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。」(Ⅰペテロ4:3~5同)


朝の露 エペソ4章 <聞く人に恵みを>

2017-01-28 | エペソ

姫路駅「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29新改訳)

人が神のかたちに創造されたとは、ことばを持つ存在として造られたことを意味する。その証拠に、主をほめたたえ、讃美歌を作り歌い、自由に祈ったり証しができる。ほかの地上生物にこのようなことはみられない。▼しかし同時に、人は言葉において罪を犯す。神をけがし、人をさばき、呪い、傷つけるのだ。舌先三寸よく人を殺す、と昔の人も言ったように。そこで私たち信仰者は、自分の出す言葉において、罪を犯さないようくれぐれも注意し、神のあわれみを祈りもとめなければならない。「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」(詩篇141:3同)▼主イエスも言われた、「人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません」(マタイ12:36同)と。私たちは、キリスト者といっても軽率で不謹慎なことばを安易に吐き、御聖霊が眉をひそめるようなことが、あまりに多いのではないだろうか。使徒パウロの警戒を深く心に刻みつける者でありたい。