片付けや、モノを処分する動画やブログを見ていると、「捨ててよかったモノ〇選」「手放してよかったモノベスト〇」というタイトルを、よく目にします。
私も、処分したモノは山のようにありますが、果たして「処分してよかった」と思えるモノって、どのくらいあるだろう?と気になったので、今回は処分してよかったモノを思い出してみます(笑)
処分することのメリットはたくさん感じている
モノを処分すると、当然のことながら空間が増えるので、その分自分の行動に物理的な余裕が出てきます。
余裕ができると動きがスムーズになるので、結果的に作業が素早くなりますし、一度にいろいろな事を熟しやすいので、作業効率が抜群に上がります。
作業効率が上がった結果、今度はゆとりの時間が増えて、その分を自分の好きなことに費やすことができるので、メリットの方が大きいと感じています。
また、処分してしまって後悔したモノは、今のところありません。
たまに、突発的に起きたことに対処したいときに、処分してしまったアイテムを思い出して「アレがあったら、解決できたんだけど」と考えることがありますが、そういうときも、思考を変えて対処したら大体は解決するので、問題を感じたことはないですね。
では、処分したモノの中でも、特に処分してよかったモノ、メリットを実感できたモノは、一体何だっただろうか?ということを、振り返ってみます。
大きなモノ
いちばん最初に思い浮かぶのは、大型の家具です。
両親が結婚してから、子どもが生まれ成長していく過程の中で、大きな家具は徐々に増えていきました。
この増えた家具は、私が処分に着手するまでは、増えることはあっても減ることがなく、何十年も家の中にありました。
人が減り故人のモノを処分し、中が空になり使い道がなくなっても、家具は数年間ずっとそのままでした。
家具の大半を処分して、得られたのは部屋の広さ。
これまで、自分の家は狭くて人様に自慢できる家ではないと思い込んでいましたが、使わない家具を撤去しただけで、広々としていて、開放感のある家になりました(笑)
大きな家具は、部屋を狭くするだけではなく、人の心も狭めてしまうのか、なんとなく窮屈な気持ちで住んでいたのだなあ、と家具のない部屋を見て、初めて気がつきました。
家具を処分したことは、結果的にはよかったと思うのですが、それは今の自分にとっては、という但し書きが入ります。
今は不要となってしまった家具でも、購入した当時は必要だと感じていたわけですから、処分してよかったかどうかは、はっきり感じないというのが本音です。
家具の他には、大きな雑貨やインテリアは、処分してスッキリしました。
壁にかけていたB1サイズのポスターや、やたらと分厚くて大きな座布団や、使っていなかった家電品などですね。
これらは、今思えば視覚的なノイズが大きくて、結構精神的な影響が大きかったかもしれません。
ただ、ポスターや好きなグッズは、見ていて幸せな気持ちになれると思っていたからこそ、壁や棚に飾っていたわけなので、処分してよかったか、と問われると、どうかな?という感じですね。
こまごましたモノ
使っていない、あるいは今後使う機会が格段に少ない、また持っていたことを忘れていたり気が付かなかったりしたモノは、処分したおかげで他のモノが整理しやすくなりましたし、その後は不要なモノを見つける精度が上がりました(笑)
体力的なこともあるので、まだまだ処分しきれていない小さなモノはたくさんありますが、数日後に処分したとしても後悔することはないでしょうね。
ただ、処分してよかったと実感できるかというと、それも少し違うような気がします。
ルーティンの変更
モノとは違いますが、やめてしまったり、現在休止しているルーティンに関して、いまだに復活することがないことに関しては、やめてよかったのかもしれません。
ただ、はたから見たらムダな行動に見えていても、本人はそのムダな工程を楽しんでいたりするので、一概に皆が同じルーティンをやめればいいということでもないな、と思っています。
私が今休止しているルーティンは、ごみの細かい分別です。
自治体のルールで決まっている分別はしていますが、任意の分別(通常は家庭ごみとして処分されるモノだがリサイクル可能な素材のモノ)は、以前はしていましたが、その細かい分別に疲れてしまったので、休止することにしました。
またいつか、気持ちにゆとりができたら始めようと思いますが、今のところ再開時期は決めていません。
メンタル的なことはどうか?
よく聞くのが、人間関係を整理するということ。
少し厳しめな言い回しですが、要するに社交辞令でアドレスの交換をした人の連絡先を消すとか、その人から貰った名刺を処分するとか、そういったことです。
仲良くしている人と縁を切る、ということでは、決してありません。
また、気が合わないけれど、無理やり合わせてしまう相手や、自分を攻撃してくる相手については、気持ちを解放するためにも、付き合いを思い切ってやめてしまおうということです。
私は、とりあえずアドレスを交換したけれど、一度もやり取りをしたことがない人に関しては、半年か1年でアドレス帳から消去しています。
連絡を取り合っていない時点で、もう付き合いが全くないわけですが、アドレス帳のメモリが増えるだけでも、なんとなくスッキリ感はありますよね。
ただ、アドレスの連絡先を消去したところで「消してよかった」と思ったことは一度もなく、なんで社交辞令で連絡先を交換しなきゃいけないのかな、と妙な反省をしてしまうことがほとんどです。
人間関係と、少しつながりがあるかもしれませんが、プライドや見栄を捨てるというのも、よかったこととして挙げる人がいます。
たしかに、人生においてムダなプライドや見栄は、さっさと捨てた方がいいですよね。
私の場合は、プライドや見栄を競争意識の中に抱いていました。
私が育った時代背景もあるのかもしれませんが、競争に勝った人間がエリートになれると信じられていた時代に10代20代を過ごしたので、誰かに勝てる何かを持っておくことが、人生のステータスだったのだろうと思います。
今思えば、自分が理想とすることに向かって、人の目を気にせず、誰かと比較することもなく、真摯に取り組んでいくだけでよかったのに、私の若い頃は誰かよりも上に行くこと、誰かに自慢できる何かを持っていることを求めすぎていた気がします。
今は、逆に残りの人生をどうやって快適に過ごそうか、ということばかり考えていて、人がどう過ごそうが、人が何を持っていようが、どうでもいいと思えるようになりましたが、それは意識してプライドや見栄を捨てたわけでもなく、自然とそういう気持ちが大きくなっただけのことなので、結果としてよかったと言える感じです。
暮らしの方向転換として
モノを処分して、プライドも見栄も捨てて、メリットはたくさん感じていますが、改めて「よかったこと〇選」に該当するようなことは、思いのほかありませんでした。
むしろ、モノを無駄に購入したことへの後悔や、自分の未来を優先した結果、過去を処分している感じがあるので、よかったというよりは、暮らし方の方向転換をする方法だった、といった方がしっくりくるような気がします。
未来に向かって、また今現在をよりよく暮らすための努力や工夫は、正直楽しいです。
しかし、それはたまたまモノを処分することとリンクしただけのことであって、モノを処分したから楽しいということでも、ないような気がしています。
今をたのしく過ごすなら、私は小説や漫画をたくさん読みたいとか、好きなドラマを思う存分視聴したいとか、大したことのない娯楽を優先したいです(笑)
でも、そういったことは時間のムダだと感じる人も、たくさんいますよね。
そのムダな娯楽を捨てて、自分磨きに力を入れましょう、とおっしゃる方も多いですが、私はムダな時間も大切にしたいというのが、正直な気持ちです。
結果、どうしても処分できない漫画や小説やDVDが、いまだに手元にあるわけですが、特にそのことについて後悔していることはないですし、これらを処分したらスッキリする前に、また買い集めてしまいそうな気がしています(笑)
処分することがいいことだとは言いません
モノを処分すれば、たしかにメリットはあります。
でも、それは処分することがいいことだということとイコール(=)にはなりません。
処分するのには、体力と気力が必要ですし、処分し終わったら、身体と脳には疲労感がいっぱいに広がります。
そして、モノを処分しても、結局自分だけがスッキリするのであって、どこかでその処分したモノに時間を奪われている人がいるのも事実です(例えば粗大ごみの回収を業とする人など)
人のことをいちいち考えると、キリがないのはわかっていますし、いざモノを処分するときは潔く思いきりしてしまう性質なので、少しも優しくない自分を感じますが、誰かの時間を拘束しているという事実は消えることはありません。
だからなのか、モノを処分して時間が経過した今、当初感じていたスッキリ感よりも、ムダに何かを購入しては処分する、という悪循環を今後は徹底的に断ち切らなくてはいけないな、という気持ちが強くなってきました。
処分すると、メリットはたくさんありますが、よかったことをランキング形式で語ることができるかどうかは、モノとの向き合い方にも左右されるのかもしれませんね。
私は、なんだかんだで、やはり心のどこかでエコロジーや勿体ないを考えてしまうので、処分してよかったモノをおススメする域には、まだ達していないのかもしれないです。
ということで、結局処分してよかったモノを、明確にすることはできませんでしたね。
でも、それでいいのかな、とも思いました。
モノを引き寄せたら、大事にするのが当たり前。
しかし、過剰に所有してしまったら、処分すべきモノも出てきて当たり前。
その、当たり前のバランスを常に意識することができるようになったことが、今のところいちばんよかったことなのかもしれませんね。
私も、処分したモノは山のようにありますが、果たして「処分してよかった」と思えるモノって、どのくらいあるだろう?と気になったので、今回は処分してよかったモノを思い出してみます(笑)
処分することのメリットはたくさん感じている
モノを処分すると、当然のことながら空間が増えるので、その分自分の行動に物理的な余裕が出てきます。
余裕ができると動きがスムーズになるので、結果的に作業が素早くなりますし、一度にいろいろな事を熟しやすいので、作業効率が抜群に上がります。
作業効率が上がった結果、今度はゆとりの時間が増えて、その分を自分の好きなことに費やすことができるので、メリットの方が大きいと感じています。
また、処分してしまって後悔したモノは、今のところありません。
たまに、突発的に起きたことに対処したいときに、処分してしまったアイテムを思い出して「アレがあったら、解決できたんだけど」と考えることがありますが、そういうときも、思考を変えて対処したら大体は解決するので、問題を感じたことはないですね。
では、処分したモノの中でも、特に処分してよかったモノ、メリットを実感できたモノは、一体何だっただろうか?ということを、振り返ってみます。
大きなモノ
いちばん最初に思い浮かぶのは、大型の家具です。
両親が結婚してから、子どもが生まれ成長していく過程の中で、大きな家具は徐々に増えていきました。
この増えた家具は、私が処分に着手するまでは、増えることはあっても減ることがなく、何十年も家の中にありました。
人が減り故人のモノを処分し、中が空になり使い道がなくなっても、家具は数年間ずっとそのままでした。
家具の大半を処分して、得られたのは部屋の広さ。
これまで、自分の家は狭くて人様に自慢できる家ではないと思い込んでいましたが、使わない家具を撤去しただけで、広々としていて、開放感のある家になりました(笑)
大きな家具は、部屋を狭くするだけではなく、人の心も狭めてしまうのか、なんとなく窮屈な気持ちで住んでいたのだなあ、と家具のない部屋を見て、初めて気がつきました。
家具を処分したことは、結果的にはよかったと思うのですが、それは今の自分にとっては、という但し書きが入ります。
今は不要となってしまった家具でも、購入した当時は必要だと感じていたわけですから、処分してよかったかどうかは、はっきり感じないというのが本音です。
家具の他には、大きな雑貨やインテリアは、処分してスッキリしました。
壁にかけていたB1サイズのポスターや、やたらと分厚くて大きな座布団や、使っていなかった家電品などですね。
これらは、今思えば視覚的なノイズが大きくて、結構精神的な影響が大きかったかもしれません。
ただ、ポスターや好きなグッズは、見ていて幸せな気持ちになれると思っていたからこそ、壁や棚に飾っていたわけなので、処分してよかったか、と問われると、どうかな?という感じですね。
こまごましたモノ
使っていない、あるいは今後使う機会が格段に少ない、また持っていたことを忘れていたり気が付かなかったりしたモノは、処分したおかげで他のモノが整理しやすくなりましたし、その後は不要なモノを見つける精度が上がりました(笑)
体力的なこともあるので、まだまだ処分しきれていない小さなモノはたくさんありますが、数日後に処分したとしても後悔することはないでしょうね。
ただ、処分してよかったと実感できるかというと、それも少し違うような気がします。
ルーティンの変更
モノとは違いますが、やめてしまったり、現在休止しているルーティンに関して、いまだに復活することがないことに関しては、やめてよかったのかもしれません。
ただ、はたから見たらムダな行動に見えていても、本人はそのムダな工程を楽しんでいたりするので、一概に皆が同じルーティンをやめればいいということでもないな、と思っています。
私が今休止しているルーティンは、ごみの細かい分別です。
自治体のルールで決まっている分別はしていますが、任意の分別(通常は家庭ごみとして処分されるモノだがリサイクル可能な素材のモノ)は、以前はしていましたが、その細かい分別に疲れてしまったので、休止することにしました。
またいつか、気持ちにゆとりができたら始めようと思いますが、今のところ再開時期は決めていません。
メンタル的なことはどうか?
よく聞くのが、人間関係を整理するということ。
少し厳しめな言い回しですが、要するに社交辞令でアドレスの交換をした人の連絡先を消すとか、その人から貰った名刺を処分するとか、そういったことです。
仲良くしている人と縁を切る、ということでは、決してありません。
また、気が合わないけれど、無理やり合わせてしまう相手や、自分を攻撃してくる相手については、気持ちを解放するためにも、付き合いを思い切ってやめてしまおうということです。
私は、とりあえずアドレスを交換したけれど、一度もやり取りをしたことがない人に関しては、半年か1年でアドレス帳から消去しています。
連絡を取り合っていない時点で、もう付き合いが全くないわけですが、アドレス帳のメモリが増えるだけでも、なんとなくスッキリ感はありますよね。
ただ、アドレスの連絡先を消去したところで「消してよかった」と思ったことは一度もなく、なんで社交辞令で連絡先を交換しなきゃいけないのかな、と妙な反省をしてしまうことがほとんどです。
人間関係と、少しつながりがあるかもしれませんが、プライドや見栄を捨てるというのも、よかったこととして挙げる人がいます。
たしかに、人生においてムダなプライドや見栄は、さっさと捨てた方がいいですよね。
私の場合は、プライドや見栄を競争意識の中に抱いていました。
私が育った時代背景もあるのかもしれませんが、競争に勝った人間がエリートになれると信じられていた時代に10代20代を過ごしたので、誰かに勝てる何かを持っておくことが、人生のステータスだったのだろうと思います。
今思えば、自分が理想とすることに向かって、人の目を気にせず、誰かと比較することもなく、真摯に取り組んでいくだけでよかったのに、私の若い頃は誰かよりも上に行くこと、誰かに自慢できる何かを持っていることを求めすぎていた気がします。
今は、逆に残りの人生をどうやって快適に過ごそうか、ということばかり考えていて、人がどう過ごそうが、人が何を持っていようが、どうでもいいと思えるようになりましたが、それは意識してプライドや見栄を捨てたわけでもなく、自然とそういう気持ちが大きくなっただけのことなので、結果としてよかったと言える感じです。
暮らしの方向転換として
モノを処分して、プライドも見栄も捨てて、メリットはたくさん感じていますが、改めて「よかったこと〇選」に該当するようなことは、思いのほかありませんでした。
むしろ、モノを無駄に購入したことへの後悔や、自分の未来を優先した結果、過去を処分している感じがあるので、よかったというよりは、暮らし方の方向転換をする方法だった、といった方がしっくりくるような気がします。
未来に向かって、また今現在をよりよく暮らすための努力や工夫は、正直楽しいです。
しかし、それはたまたまモノを処分することとリンクしただけのことであって、モノを処分したから楽しいということでも、ないような気がしています。
今をたのしく過ごすなら、私は小説や漫画をたくさん読みたいとか、好きなドラマを思う存分視聴したいとか、大したことのない娯楽を優先したいです(笑)
でも、そういったことは時間のムダだと感じる人も、たくさんいますよね。
そのムダな娯楽を捨てて、自分磨きに力を入れましょう、とおっしゃる方も多いですが、私はムダな時間も大切にしたいというのが、正直な気持ちです。
結果、どうしても処分できない漫画や小説やDVDが、いまだに手元にあるわけですが、特にそのことについて後悔していることはないですし、これらを処分したらスッキリする前に、また買い集めてしまいそうな気がしています(笑)
処分することがいいことだとは言いません
モノを処分すれば、たしかにメリットはあります。
でも、それは処分することがいいことだということとイコール(=)にはなりません。
処分するのには、体力と気力が必要ですし、処分し終わったら、身体と脳には疲労感がいっぱいに広がります。
そして、モノを処分しても、結局自分だけがスッキリするのであって、どこかでその処分したモノに時間を奪われている人がいるのも事実です(例えば粗大ごみの回収を業とする人など)
人のことをいちいち考えると、キリがないのはわかっていますし、いざモノを処分するときは潔く思いきりしてしまう性質なので、少しも優しくない自分を感じますが、誰かの時間を拘束しているという事実は消えることはありません。
だからなのか、モノを処分して時間が経過した今、当初感じていたスッキリ感よりも、ムダに何かを購入しては処分する、という悪循環を今後は徹底的に断ち切らなくてはいけないな、という気持ちが強くなってきました。
処分すると、メリットはたくさんありますが、よかったことをランキング形式で語ることができるかどうかは、モノとの向き合い方にも左右されるのかもしれませんね。
私は、なんだかんだで、やはり心のどこかでエコロジーや勿体ないを考えてしまうので、処分してよかったモノをおススメする域には、まだ達していないのかもしれないです。
ということで、結局処分してよかったモノを、明確にすることはできませんでしたね。
でも、それでいいのかな、とも思いました。
モノを引き寄せたら、大事にするのが当たり前。
しかし、過剰に所有してしまったら、処分すべきモノも出てきて当たり前。
その、当たり前のバランスを常に意識することができるようになったことが、今のところいちばんよかったことなのかもしれませんね。