今年も小学校のサポーター登録をしてしまった。
子どもも卒業して1年が過ぎ、私でなくてもいいような気も充分する。
昨年度人数が少なかったせいで、今年度を懸念して卒業生も応援を頼まれる。
しかし喜ばしいことに今年は現役母の人数が増え、
全部で18名もの登録になったのだった。(よかったよかった)
そして、従来登録している人から
読み聞かせのやり方や選書の方法など不安だ、という申し出があった。
年長のわたしは知らん顔するわけにいかず
対面朗読などで見知っている図書館員の方に
読み聞かせのやり方を伝授して下さる講師はいらっしゃらないかと
尋ねた。
その結果、図書館員でよければということで、図書館の研修室で
急遽読み聞かせレクチャーをやっていただけることになった。
(ありがたや~)←図書館にはそういう役割も当然あるのだが・・・
5月のとある月曜日、18名中15名参加という画期的な熱心さで
読み聞かせについて、そのあり方や選書方法、具体的な持ち方など習った。
当初1時間程度ということだったが、館員の方の熱い思いから
2時間を越える講義となったが、終わった後もいろいろと
おかあさん方は個人的に質問などされていた。
その後、紹介された絵本等を図書館で借りて帰られたようだった。
(実に熱心です)
読み聞かせについてはいろいろな考え方がある。
朗読する人やら俳優さんなどは違うかもしれないが
読み聞かせの原点は子どもを育てている人がわが子に読む
ということだった。
母でも父でも祖父母でも、日常の中にあるもののはずである。
特別頑張ったりしなくても母は母なりに、父は父なりに
祖父母は祖父母なりに、読んでくれればいいはずだ。
あれこれ「理論」を振りかざす必要があるのだろうか?
本を読む行為を「本好きな子に」とか「将来頭がよくなるように」
なぞいうのは不純だ。
手渡す人も「ご利益」など唱えないでほしい。
ただただ本を介していっしょに楽しい時間を過ごせばいいではないか。
(現代人はこういう目的のない時間の使い方が嫌いである)
東京にいたとき、たしか井上ひさし氏だかをトップにして
「よい本を子どもに手渡す会」とかの決起大会?に
行ったことがあった。
その頃わたしも「読み聞かせはいいんだ」という観念に捕われていた。
実際は子ども文庫や親子読書会などの重鎮が終結してこの会を
つくっていたようだった。(行ってみて、見知った人が多かった)
子どもの活字離れをなんとかしなければ!
みたいな話が続いたように記憶している。
いまから16.7年前だったと思う。
当時、読み聞かせは「草の根運動」的なものだったが
いまはどうだろう、お上の方から「読書を推進する」お達しがある。
朝の読書の時間を採っている 小学校中学校も数多くあると思う。
しかし、本って「読みなさい」といって読むものなのか???
いや、その前に学校の図書室にたくさん本があるのかどうか。
大人が推薦する「おりこうさんな本」につまらないものもある。
子どもによって反応する本はまちまちだ。
いわゆる「よい本」に反応する子どもは、絵本をたくさん読んでもらっていて
耳が育っているのである、よって反応する。
トレーニングの賜物なのだ。
よい本に反応しないからといって、その子どもを「読んでもらってない子」などと
否定してはいけない。
感受性は本だけで育つものではないから、「読み聞かせ」世界の
価値観を現実の子どもに押し付けるのは傲慢というものだ。
絵本を読んでもらってなくても、
保育環境がよければ充分に感受性豊かな人間になると思う。
絵画でもスポーツでも音楽でも、何でもいいではないか・・・
ただそこに「本」もあったら、また別の楽しい世界をもつことができるよという
プラスアルファーで考えてほしいなと
図書館員の方の熱い講義を聞いて思ったことだった。
(長い・・・)
子どもも卒業して1年が過ぎ、私でなくてもいいような気も充分する。
昨年度人数が少なかったせいで、今年度を懸念して卒業生も応援を頼まれる。
しかし喜ばしいことに今年は現役母の人数が増え、
全部で18名もの登録になったのだった。(よかったよかった)
そして、従来登録している人から
読み聞かせのやり方や選書の方法など不安だ、という申し出があった。
年長のわたしは知らん顔するわけにいかず
対面朗読などで見知っている図書館員の方に
読み聞かせのやり方を伝授して下さる講師はいらっしゃらないかと
尋ねた。
その結果、図書館員でよければということで、図書館の研修室で
急遽読み聞かせレクチャーをやっていただけることになった。
(ありがたや~)←図書館にはそういう役割も当然あるのだが・・・
5月のとある月曜日、18名中15名参加という画期的な熱心さで
読み聞かせについて、そのあり方や選書方法、具体的な持ち方など習った。
当初1時間程度ということだったが、館員の方の熱い思いから
2時間を越える講義となったが、終わった後もいろいろと
おかあさん方は個人的に質問などされていた。
その後、紹介された絵本等を図書館で借りて帰られたようだった。
(実に熱心です)
読み聞かせについてはいろいろな考え方がある。
朗読する人やら俳優さんなどは違うかもしれないが
読み聞かせの原点は子どもを育てている人がわが子に読む
ということだった。
母でも父でも祖父母でも、日常の中にあるもののはずである。
特別頑張ったりしなくても母は母なりに、父は父なりに
祖父母は祖父母なりに、読んでくれればいいはずだ。
あれこれ「理論」を振りかざす必要があるのだろうか?
本を読む行為を「本好きな子に」とか「将来頭がよくなるように」
なぞいうのは不純だ。
手渡す人も「ご利益」など唱えないでほしい。
ただただ本を介していっしょに楽しい時間を過ごせばいいではないか。
(現代人はこういう目的のない時間の使い方が嫌いである)
東京にいたとき、たしか井上ひさし氏だかをトップにして
「よい本を子どもに手渡す会」とかの決起大会?に
行ったことがあった。
その頃わたしも「読み聞かせはいいんだ」という観念に捕われていた。
実際は子ども文庫や親子読書会などの重鎮が終結してこの会を
つくっていたようだった。(行ってみて、見知った人が多かった)
子どもの活字離れをなんとかしなければ!
みたいな話が続いたように記憶している。
いまから16.7年前だったと思う。
当時、読み聞かせは「草の根運動」的なものだったが
いまはどうだろう、お上の方から「読書を推進する」お達しがある。
朝の読書の時間を採っている 小学校中学校も数多くあると思う。
しかし、本って「読みなさい」といって読むものなのか???
いや、その前に学校の図書室にたくさん本があるのかどうか。
大人が推薦する「おりこうさんな本」につまらないものもある。
子どもによって反応する本はまちまちだ。
いわゆる「よい本」に反応する子どもは、絵本をたくさん読んでもらっていて
耳が育っているのである、よって反応する。
トレーニングの賜物なのだ。
よい本に反応しないからといって、その子どもを「読んでもらってない子」などと
否定してはいけない。
感受性は本だけで育つものではないから、「読み聞かせ」世界の
価値観を現実の子どもに押し付けるのは傲慢というものだ。
絵本を読んでもらってなくても、
保育環境がよければ充分に感受性豊かな人間になると思う。
絵画でもスポーツでも音楽でも、何でもいいではないか・・・
ただそこに「本」もあったら、また別の楽しい世界をもつことができるよという
プラスアルファーで考えてほしいなと
図書館員の方の熱い講義を聞いて思ったことだった。
(長い・・・)