1960年。私はどうしても病気の原因を化学的に調べてみたい
という思いに駆られて、関連した研究をしていたO助教授の研究
室で卒業研究をしたいと希望を出した。O助教授の研究室を選
んだのにはもう一つの理由があった。それは当時有機化学と生
化学が大変人気が高く、学生の多数がその方面に行きたいと
望んでいたので殺到というほどではないが希望者が多かった。
一つの研究室に10人近くの卒業研究生が行くと使用出来る機
器類の順番がなかなか回ってこないということや器具類が十分
に使用出来ない可能性があると予想した。それで卒業研究希望
者が少ない研究室を選びました。
当時、O助教授は水俣病の原因調査をT社側の立場で行って
いました。1960年という年は、T社水俣工場の診療所医師が原
因物質を水銀とほぼ突き止めて動物実験をやっている最中でし
た。 私は水俣工場から送られてくる水俣湾で捕れた魚と東京
湾で捕れた魚の水銀含量の定量分析に追われていました。そ
の方法は今でほとんど使用されないヂチゾン法という大量のク
ロロホルムを使用する比色法でした。ヂチゾンは水銀と反応す
るとオレンジ色に発色します。水俣の魚の分解物中の水銀は
大変な量で東京湾産の魚中のものとは比較にならないほど多
量に存在していました。そして実験動物の臓器中の水銀は、水
俣湾で捕れた魚を食べさせたもの(試料群)と他地域で捕れた
魚を食べさせてもの(コントロール群)を比較するとこれまた前
者の水銀量は後者よりも数百倍の濃度で検出されました。これ
で明らかに水俣湾の魚が多量の水銀を含んでいることが分か
り、その魚を食べた人達が水俣病を発症したことが実証された
わけですが、T社はなかなか因果関係を認めませんでした。
その頃、週刊朝日(多分まだ保存しているかも知れません)に
水俣病の実態が掲載されました。また映像としても報道されま
した。
水俣病の原因物質が水銀に特定されるまでには、いろいろな
物質が過去の事例から疑われ見当されてきました。
T社は当時はこのようなことになることを予想もしていなかった
のでしょうが、やはり危機管理の面を全く検討していなかったの
でしょう。工程で使用された水銀が海へつながる排水溝へその
まま流されていました。そのために食物連鎖によって人間の脳
を始め各種の臓器に蓄積されてしまいました。それで非常に多
数の人を犠牲にし社会に大きな不安を与えその上に莫大な損
失を出してしまったのですね。
今取りざたされている建設現場での杭打ち問題や原発事故も
同じことが言えるのではないでしょうか。コストを抑え工期を短縮
するために擬装をする。水俣病の問題とは異なるところもありま
すが危機管理上の手抜きが原因であることは否めません。
私の卒業研究は、その年度の日本化学会大会で報告しました
が、肝心なところは伏せられてしまいました。