寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

パリでテロ 再度事件発生

2015年11月15日 20時15分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 またも悲惨な事件が発生してしまいました。残念です。

数百人もの一般市民を死傷させておいて、我々が報復

としてやった。と声明文を発表する。何に対する報復か

といえば、ISに対するいわれのない爆撃の対してだと

いう。爆撃した側の言い分は、ISが一般住民や旅行者を

をいわれもなく殺害しているからだという。

 われわれは、新聞やTVあるいはラジオ等の報道によっ

て知ることが出来るだけなので、その報道が真実をどの程

度伝えているか不明ですね。ISによって殺害された日本人

は、IS側の写真をともなう発表によって知ることとなりました。

 殺害された日本人はどんな罪状で殺害の対象になったの

かということは明かされていなかったので不明ですね。報道

されないことは自分で想像することになりますが、ISはその

日本人がIS支配地で一般市民がどのような生活をしている

のかを報道しようとしていたといわれているので、殺害される

ほどの犯罪性はなかったと思われる。

 いずれにしても”目には目を、歯には歯を“という復讐劇を

続けるのは世界にとって不幸なことですね。早い時期に収集

する努力を世界で考えることが必要です。国を代表する政治

家や外交官の皆さんすぐ行動を起こして下さい。


雨の日のスーパーストアーにて

2015年11月14日 14時06分34秒 | 日記・エッセイ・コラム

 このところ天気がはっきりしない日が続いていますね。

これは大陸からの高気圧が少し北に偏って日本列島を

通過しているのが原因です。

 囲碁会にいった帰りに妻に頼まれたものを買うために

近くのSスーパーへ行きました。後一つで買い物が終わ

るというところで、私と同年代かと思われる女性がしきり

に”おじいさん”と呼んでいました。連れ合いを呼んでい

るのだと思いました。私は1人で来ていたので私を読ん

でいるなんて少しも思わなかったのでレジの方へ行きか

けました。するとその女性が私を呼んでいたのですね。

おじいさんというのはないですよね。もっとほかに呼び方

があるでしょうにと思いましたが。一生懸命な様子だった

ので話を聞くことにしました。

 話の要約はこういうことでした。バスに遅れてしまい次

のバスまでかなり時間があるので車で来ているのなら家ま

で乗せていってくれという。私が雨具をもっていないので車

で来た板と推測したのですね。場所を聞くと私の家の反対

方向だったのでお断りしました。それでもしきりに乗せていっ

てほしいと真剣な様子だったし、外はかなりの降雨でもあり

乗せることにしました。私は高齢であり他人を乗せて事故に

なることもあるということを承知してくれますかと。かの女性

は”はい”といってついてきました。車に乗るとバス代を払い

ますというので、丁重に遠慮しました。車中で年金をいくらも

らっているかとか、奥さんはいますかとか、私は仕事をして

いたが解雇されて今仕事を探しているとか、夫は厚生年金を

もらっているとかいろんなことを自分勝手に話し出しました。

私は少し後悔をし出していました。丁度その方の家の近くへ

ついたので早々に降りていきました。後を振り返ることもなく。

 私は人間として甘いと思いました。しかし同年代の人が困っ

ているのを見過ごすことはかなり勇気がいりますね。事故を

起こさなかったので良かったと思いました。これからは別の

判断を考えましょう。

 

 

 


同情を買うことは? 思い出話

2015年11月13日 08時37分38秒 | 日記・エッセイ・コラム

 電車に乗って通勤していたころの話です。幼子をずれの

女性が電車に乗ってくると私が座っているときはたいてい

席を譲ることにしてきました。それから何十年が経ち頭が

白くなったある日、久しぶりに山手線の電車に渋谷駅から

乗りました。電車内は少し混んでいて座席は空いていませ

んでした。すると私が立った前の席に座っていた30歳前後

の方が立ち上がって

「どうぞ」

 といって席を譲ってくれました。私は、

「ありがとうございます。品川までですから」

 といって遠慮したのですが、さらに

「ご遠慮なく」

 といって、にっこりしました。私の本心は、まだ席を譲られ

る年ではないと思っていたのです。ここで更に遠慮するの

は席を譲って下さった方に失礼だと思いお礼をいって座ら

せてもらいました。それが初めて席を譲られた経験でした。

 さて、私が副会長をしていた学会の若い方(A氏)が、面

白い研究をしていたので、公開ゼミを計画してその方にお

話をしていただきました。話の内容は狭い空間で魚を飼育

する研究で、水流の早さ餌のやり方など大変面白く拝聴し

ました。

 その後、非常勤講師をお願いして毎週講義に来ていただ

くことにしました。スラッとした今風にいうところのイケメンだ

ったので学生が多数聴講していました。もちろん講義の内

容は、さすがにT大学を大学院まで終了していたのでしっか

りしたものだったのはいうまでもありません。

 講義を終わると私の研究室にもよるようになりいろんな話

をするようになりました。そうこうしているとき、生命環境系

の教員を募集することになったのです。A氏はここぞという

ように売り込みを始めました。しかし、当時まだ博士に学位

をもっていなかったので選考に漏れてしまいました。その後

も、私の研究室へよってくれました。しかし、私は少し辟易し

ていました.というのはA氏はどうして東京にある大学の教

員になりたいかという理由を細君の病気のことや精神的に

脆弱なことを理由に挙げるようになりました。それは私にと

って同情を買ってほしいと言っているように聞こえました。

仕事の話に妻の健康状態を理由にするのはあり得ないこ

とではないでしょう。しかし、私としては一日でも早く学位を

取得することを心がけてほしいとお願いするだけでした。大

学の教員になるためには特に理工学系の教員になるため

には学位がパスポートのようなものです。それがなければ

路線に乗れないのはしようがないことですね。それを家庭

の事情などを理由にしたいということには私は賛成出来ま

せんでした。

 A氏は、その後学位を取得して、晴れて大学の教員にな

りました。

 話が飛びますが、小保方さんは早稲田大学の学位を剥

奪されてしまいましたが、審査員の方々の責任はどうなっ

たのでしょうか。
 


年賀状と喪中通知

2015年11月11日 15時50分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

  喜寿を越えたときに、毎年年賀状をいただいてきた方々に

一つのお願いをしました。それは私の方から賀状を差し上げ

るのを今年で終了し翌年からは遠慮したいというお願いでし

た。ただし、メールを受け取って下さる方には、メールで1年

間無事に過ごせた報告を差し上げることにしました。  年に

1回のこととはいえ数百通の賀状を書くのはさすがに困難に

なったというのがその理由です。

 ところで11月も半ばを過ぎる頃には、喪中のお知らせをい

ただく季節になります。今年も早くも喪中のお知らせをいただ

きました。お知らせを下さった方は、ここ数十年お会いしたこ

ともない方でした。私はどのようなお返事を差し上げたらよい

のか戸惑ってしまいます。

 TVコマーシャルではお線香をお贈りするのがよろしいとい

っていますが、何となくそれも気が引けますので困ってしまい

ます。結局、申し訳ないのですがお知らせをいただきっぱなし

にしてしまうことになります。

 依怙地な考えかも知れませんが、出来ることなら喪中のお知

らせもお送り下さらないようお願いしたいのです。どうしても義

理を欠かせないという方はメールでお願いします。メールなら形

だけでも簡単にお返事を差し上げることができますので。

  と書いてくると私のことを変な奴だと思う方がいるでしょうね。

しかしこの程度の変なのはご容赦お願いします。

 


立冬を迎えて

2015年11月09日 23時28分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 庭ではまだ虫が鳴いています。最盛期とは違って何故か

かわいい鳴き声に聞こえます。でも今は2種類の虫のよう

です。庭の花も菊とキョウチクトウそして買ってきた鉢植えの

花が咲いているだけになりました。

 タブロイド判の週一回発行される”タウン ニュース”は我

が町と隣町のざる菊が最盛期に入ったと伝えていました。

昨年見に行ったときは、かなり広い敷地に沢山のざる菊が

植えられていました。種類も数種類ありましたが、見事な

できばえでした。我が町のざる菊の栽培者は、希望者に

は来春苗を分けてくれると言っていました。

  ざる菊の株は直径50~60cmほど、高さは約40cmほど

でざるを伏せたような形に見えます。ざる菊の由来ですね。

近日中にまた見に行こうと思っています。写真を写してきた

らブログに掲載しますのでお楽しみに。

 


未来を見つめた神宮の森 造園計画

2015年11月09日 22時39分40秒 | 日記・エッセイ・コラム

  不勉強な私は知らなかったのですが、明治神宮の森は、

本多静六、本郷高徳、上原敬治氏を中心に多数の林学の

専門家達が1921年に「明治神宮御境内 林苑計画」を作

成したという。 その計画は、100年、150年、200年を見

据えた計画だったという。そこには現在の植生遷移という

概念を構想したという。時の首相は簡単に杉林にするよう

にと指示したが上記の構想に基づいた将来自然林にする

計画を譲ることはなかった。それは前述のように世紀を単

位とした広葉樹を中心とした極相林に到達するという計画

の中に自然の自己生産可能なように外部からあるいは外

部へ物質の移動をしないことそして下草刈りや枝落としな

どをしないことを決めたという。

 造園は全国から勤労奉仕隊が集まり植林の樹木も全国

から寄贈されたという。

 やがて100年になろうとしている神宮の森は武蔵野に広

がる自然林と同じ状態になった。世紀を超えた計画実行に

移し、成功した。これをもって日本における近代造園学の

創始と呼ばれることになった。

 例えばかって建設された各地のダムも計画から数十年を

経て完成するというのは珍しいことではないが、ダムの底部

に蓄積される土砂の対策は計画には入っていなかったのだ

ろうか。各地のダムは土砂の蓄積によってダムの機能に支

障が出ないという保証はどうだろうか。

 それは原子力発電所計画にも該当するのかも知れない。

特にモンジュ計画について言える。モンジュ計画は成功すれ

ばエネルギー問題に多大の貢献をするはずだった。しかしい

わゆる想定外の事故や支障が出ても一向に改善される見通

しが立たない状態のようですね。計画は将来を見据えた最良

のものと思われた。しかし計画当時はいろんな事態を想定し

たものと思うのですが、福島原発事故によって生じた幾多の

想定外な瑕疵を検討しなければならなくなってしまった。その

間にも各種の支障が生じ、管理団体が不適切と提言するこ

とになってしまった。

 この頃このような不祥事が多いような気がします。

 経済成長を極度に望む結果、人の心が失われてしまったの

だろうか。それとも責任ある立場にいる人達の能力が低くなっ

てしまったのでしょうか。何とかしなければいけませんね。


SRSエアーバッグは必要

2015年11月07日 22時33分47秒 | 日記・エッセイ・コラム

 どうしてこうなってしまったのでしょうか。

SRSエアーバッグは特別仕様で必要と分かっていても

高額だったので装着するのを躊躇下茂のでした。それ

が運転席に装着されるようになり、やがて標準仕様とし

て助手席も装備されるようになりました。これは運転者

と同乗者に大きな安心感を抱かせましたね。

 それから長時間が過ぎて、改良を重ねてきたことでしょ

う。それが何故自動車メーカーから使用しないという事態

になってしまったのでしょうか。

 私の独善的な想像を書いてみましょう。初めに生産が間

に合わなくなるほど販売が拡散した。そのために製品の安

全対策がおろそかになってしまった。次に昨今話題になっ

ている価格を下げるために検査結果を擬装して製品を販売

した。

 以上のことは何の証拠もない想像ですから、話を拡散しな

いでいただきたい。

 それにしても生命を守るべきエアーバッグ信頼できないとい

うのは困ったことです。


 


水俣病の悲惨 思い出話

2015年11月06日 11時57分17秒 | 日記・エッセイ・コラム

 1960年。私はどうしても病気の原因を化学的に調べてみたい

という思いに駆られて、関連した研究をしていたO助教授の研究

室で卒業研究をしたいと希望を出した。O助教授の研究室を選

んだのにはもう一つの理由があった。それは当時有機化学と生

化学が大変人気が高く、学生の多数がその方面に行きたいと

望んでいたので殺到というほどではないが希望者が多かった。

一つの研究室に10人近くの卒業研究生が行くと使用出来る機

器類の順番がなかなか回ってこないということや器具類が十分

に使用出来ない可能性があると予想した。それで卒業研究希望

者が少ない研究室を選びました。

 当時、O助教授は水俣病の原因調査をT社側の立場で行って

いました。1960年という年は、T社水俣工場の診療所医師が原

因物質を水銀とほぼ突き止めて動物実験をやっている最中でし

た。  私は水俣工場から送られてくる水俣湾で捕れた魚と東京

湾で捕れた魚の水銀含量の定量分析に追われていました。そ

の方法は今でほとんど使用されないヂチゾン法という大量のク

ロロホルムを使用する比色法でした。ヂチゾンは水銀と反応す

るとオレンジ色に発色します。水俣の魚の分解物中の水銀は

大変な量で東京湾産の魚中のものとは比較にならないほど多

量に存在していました。そして実験動物の臓器中の水銀は、水

俣湾で捕れた魚を食べさせたもの(試料群)と他地域で捕れた

魚を食べさせてもの(コントロール群)を比較するとこれまた前

者の水銀量は後者よりも数百倍の濃度で検出されました。これ

で明らかに水俣湾の魚が多量の水銀を含んでいることが分か

り、その魚を食べた人達が水俣病を発症したことが実証された

わけですが、T社はなかなか因果関係を認めませんでした。

  その頃、週刊朝日(多分まだ保存しているかも知れません)に

水俣病の実態が掲載されました。また映像としても報道されま

した。

 水俣病の原因物質が水銀に特定されるまでには、いろいろな

物質が過去の事例から疑われ見当されてきました。

 T社は当時はこのようなことになることを予想もしていなかった

のでしょうが、やはり危機管理の面を全く検討していなかったの

でしょう。工程で使用された水銀が海へつながる排水溝へその

まま流されていました。そのために食物連鎖によって人間の脳

を始め各種の臓器に蓄積されてしまいました。それで非常に多

数の人を犠牲にし社会に大きな不安を与えその上に莫大な損

失を出してしまったのですね。

 今取りざたされている建設現場での杭打ち問題や原発事故も

同じことが言えるのではないでしょうか。コストを抑え工期を短縮

するために擬装をする。水俣病の問題とは異なるところもありま

すが危機管理上の手抜きが原因であることは否めません。

 私の卒業研究は、その年度の日本化学会大会で報告しました

が、肝心なところは伏せられてしまいました。

 


カシン・ベック病 思い出話

2015年11月05日 23時13分47秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ある年の札幌雪祭りが始まる頃に1年先輩のA氏が私の

ところへ訪ねてきた。珍しいことがあるものだと思って、久し

ぶりにコーヒーを入れた。A氏は何か特別な話がある様子

だった。しばらく雑談をしてからA氏は2月10日後4日間ほ

ど体が空いていないかという。どうしてかと尋ねると、千葉

大学の病理学にO教授のお手伝いで北海道へ行くことに

なったが、1人では無理なので誘いに来たという。

 病理の教授というのは診療はしないが基礎医学では重要

な仕事を担っているという。そのO教授が北海道のある地域

で子供にだけ発生していたカシン・ベック病というのの予防

のために大変な努力をしている。その手伝いをするというの

だった。仕事の内容は水道水中の有機物の分析だという。

  カシン・ベック病というのは、その病気の発見者、カシンと

ベックというソ連の医師2人の名前を付けたという。症状は

幼児期から15,6才頃までの間にある種の有機物の入った

水で育つと指の関節に異常が発生して治療が出来なくなると

いう。

 私たち3人は札幌雪祭りが終わる頃に東京を出発した。A氏

と私は有機物測定用の薬品類と純水をもって出かけました。

その頃はまだ青函連絡船で青森から函館へ渡るために青函

連絡船に乗り換えました。船は1等寝台というのに乗せてくれ

ました。病理のO教授からはいろんな話を伺え幸運でした。札

幌に宿を取り現地まで3日間列車とタクシーで通いました。初

めて見たその地域の水道水の水は薄い茶色でした。それを目

の細かいフィルターと活性炭を通して濾過すると無色になるの

ですね。この装置をO教授が考案して無料で子供のいる家庭

に設置していたのでした。数ヶ月おきに点検と部品の交換に

いくのですが、その際に水質調査も行うのです。そのお手伝い

にいったのでした。今はきちんとした上水道を設備したと聞い

ています。

 


単なる風邪と思わないで

2015年11月02日 12時41分56秒 | 日記・エッセイ・コラム

 この度、罹患した風邪は今も咳が取れないので困って

います。医師の処方してくれた薬を飲んでいますが完全

に治りません。経過を書きますので早期治療の参考にし

て下さい。ちなみに妻が現在同じ症状を発していますが

初期段階で医師の診察を受け薬を処方していただき服

用し始めましたので重症化しなければよいがと願ってい

ます。


10月17日 所用で車で少し遠出をしました。片道2時間ほど

        運転をしました。


 20日    疲れを覚えたので静かに過ごしました。

  21日     全身に痛みが出てきました。関節・筋肉。

  22日   のどの痛みが出てきましたのでうがい薬で3時

         間おきにうがいをしました。のど痛は和らぎま

         した。夕食前の体温は36.8℃まあ普通でしょう。

  23日   咳が出始めました。夕方の体温37.2℃微熱でし

        た。ここまで食欲は普通でした。

  24日  全身軽度の倦怠感、疲れを感じました。37.4℃。


  25 日  倦怠感増加、咳・のど痛、体温38.4℃。

  26日(日) 朝の体温38.4℃。食欲無し。倦怠感増加。咳増加。

            昼の体温38.8℃。急遽当番医師を受診。診察の結果

        肺炎にはなっていないという診断。4日分の薬をいただ

              いて帰宅。服薬。抗生剤。鎮咳剤

  28日   体温下がる。36.3℃。咳は変わらずある。

  29日   かかりつけ医師を受診。経過説明。処方薬服用。

          体温平常。この間体重4.3Kg減少。食欲増加。

11月2日  咳減少もまだ残っていますが全快近いようです。

 今度の風邪は年をとったせいか長引きましたね。もっと早い内に

受診すべきでした。こういうことがあると若くないんだなあと感じま

す。一つ発見がありました。咳が酷いときにかゆみ止めの「ムヒS」

をのど元に塗ると1,2分で非常に楽になります。いってみれば鎮

静剤が入っていれば当然かも知れませんね。

 インフルエンザの予防注射は11月4日から受けることが出来ます。

高齢者の方は受けましょう。それと肺炎の予防注射も受けましょう。

最後に体調に異常を感じたら出来るだけ早く医師の診察を受けまし

ょう。私のようにガマンすると生命の危険に曝されることもあります。