鹿王院から西へ進んで道なりに右へ曲がって、嵐電の踏切の南側の交差点に出ました。その向かいに上図の長慶天皇陵参道の入り口があります。
そのまま参道に進んで、陵墓の北辺から西側の拝所に行きました。とりあえず、拝礼しました。
とりあえず、というのはこの陵墓が本当の長慶天皇の墓ではなく、昭和19年4月に陵所に指定された場所であるからです。
長慶天皇は、後村上天皇の皇子にして南朝第三代の天皇ですが、詳しい動向がよく分かっていません。南朝の歴史そのものが不明な部分も少なくないためです。どこで崩御されてどこに葬られたのかも不明です。
私自身は、奈良県に住んでいた頃に宇陀市の覚恩寺にて国重要文化財の十三重石塔を見学し、それが長慶天皇の供養塔だと伝えられていたことにより、名前だけは一応知っていましたが、南朝での事績は殆ど知る事もなく、ただ晩年に出家して覚理と号したこと、京都に帰って嵯峨を在所としたらしいこと、ぐらいしか覚えていません。
長慶天皇の称号は慶寿院ですが、これは皇子の海門承朝(相国寺三十世・嘉吉三年(1443)寂)が止住した嵯峨の天龍寺塔頭の慶寿院に因みます。当時の天皇の称号はその在所をあらわすのが一般的でしたから、慶寿院は天皇が最晩年を過ごした地であった可能性があり、その崩後は供養所となったものとみられています。それで、この当所が長慶天皇ゆかりの地であったろうとの考察を前提として、慶寿院の跡地を整備して陵所とした経緯があります。
なので、陵墓域内には海門承朝の墓所も併置されています。なお、慶寿院は江戸期の嘉永三年(1850)の「天龍寺文書」の「絵図目録」に記載される塔頭の中に名がみえず、当時は既に廃絶していたようです。
明治16年に作成された天龍寺の「社寺境内外区別図」においても慶寿院の地は畑地になっており、また「天龍寺惣絵図」では同位置に「墓」および「藪」の記載があるのみです。その「墓」とはおそらく慶寿院の住僧墓地、つまりは海門承朝らの墓であったのかもしれません。この「墓」を拠り所にしての、長慶天皇陵の指定および整備であったのでしょう。
長慶天皇陵の拝所から南へ行くと海門承朝の墓所があり、その西側から外の道路に抜ける出入口を通って陵墓の南側へ回り、墓域の南東隅へ行くと、上図の安倍晴明墓所があります。長慶天皇陵と同じく西面して鳥居が建ちますが、こちらは室町期の「山城国嵯峨諸寺応永釣命絵図」等の史料にも記載がありますので、中世から存在していたことが分かります。
安倍晴明といえば平安期の陰陽師として知られますが、その墓所は京都をはじめ各地に伝承されています。安倍晴明は寛弘二年(1005)9月26日に85歳で亡くなり、嵯峨天龍寺の塔頭寿寧院に葬られたと伝わります。寿寧院は現在は天龍寺境内の内に位置しますが、中世戦国期には臨川寺の寺域内にてその塔頭として在り、その旧位置はこの安倍晴明墓所の西側にあたります。
なので、実際に墓所であるかはともかく、各地に分布する安倍晴明塚伝承地のなかでは最も古く、かつ由緒もある場所とされています。
ですが、寿寧院が衰退して天龍寺に移転した後は墓所も忘れられて荒廃していたため、昭和47年に晴明神社奉賛会が神道式に改修して再興、現在では一条戻橋の晴明神社の飛び地境内として管理されています。
なので、中世戦国期以来の古い晴明塚ですが、御覧のように装いも新しくなっています。二重の結界をあらわして並ぶ標石には五芒星が刻まれています。
塚の旧位置には、いまは真新しい石塔が建っています。昔の墓石などが全く見当たりませんので、荒廃していた時期に全て失われていたのかもしれません。
安倍晴明墓所の東隣には、角倉稲荷神社があります。名前の通り、戦国期から江戸期にかけての京都の豪商であった角倉了以が出身地でもあるここ嵯峨の邸宅内に建てた稲荷神社です。当地は角倉了以の邸宅跡としても知られ、現在の町名も「嵯峨天竜寺角倉町」です。
角倉了以は、朱印船貿易によって安南国との交易を行い、京都の大堰川および高瀬川を私財にて開削し、また保津川の開削整備を進めたことで知られます。それで地元京都では商人としてよりも水運事業者としての顔のほうで広く知られており、琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運の父」として有名です。
そして嵯峨においても天龍寺の御用関連などの商売を行なっていたようで、その関連記録が「天龍寺文書」に含まれています。もとは天龍寺の境内地なので、角倉家の屋敷地は本来は天龍寺からの借用地であったことが分かります。その屋敷地の一角に稲荷神を勧請したのが現在の角倉稲荷神社にあたりますので、いわゆる邸内社に分類されます。
一般的な神社の規模イメージでみると小さな神社ですが、邸内社であったのならば、かなり大きな部類に属すると思われます。屋敷地の北東隅つまり鬼門の一角に鎮座しますので、鬼門封じの役目も担っていたのでしょう。 (続く)
長慶天皇陵および安倍晴明塚の地図です。