野宮神社から小径を東へ回って長辻通りに行きました。長辻通エリアに近づくと御覧のように観光客でごった返していました。まだコロナ流行前の、外国人観光客も大勢来ていた頃の風景です。狭い道はどこでも人混みであふれ、真っ直ぐに歩くこともままなりませんでした。
長辻通に出ました。北へ進みましたが、同じように歩いている観光客も少なくありませんでした。大部分は北の清凉寺または北西の二尊院や常寂光寺、鳥居本へ向かってゆくのでした。
丸太町通との交差点に着きました。その南西隅に上図の毘沙門堂があります。かつては臨川寺の寺領に含まれた境内地結界の要所を占め、天龍寺のかつての旧境内地の鬼門に位置します。中世戦国期からの位置をとどめて現存する、数少ない寺院の一つです。
現在は小堂一宇を残すのみですが、「山城国臨川寺領大井郷界畔絵図」では出釈迦大路に面した短冊型の細長い敷地に描かれます。現在も細長い境内地のままですので、雰囲気は中世戦国期と余り変わらないのではないか、と思います。
かつては西に「大日堂」、南に「願成就院」が隣接し、出釈迦大路つまり現在の長辻通をはさんで向かいには「梅谷」とあります。「梅谷」についてはよくわかっていません。
毘沙門天を祀る小堂の傍らには、中世期の石仏が集められています。かつては嵯峨の各所の寺院にこのような石仏が祀られていたことと思われますが、いまに伝わる遺品は少なく、天龍寺や臨川寺の境内地でもあまり類例を見かけません。毘沙門堂そのものが中世から存続して現在に至っているからこそ、当時の石仏も辛うじて残され得たのでしょう。
丸太町通との交差点も賑わっていました。人力車も通っていたし、大して広くない長辻通へ大型観光バスや市バスが連続的に曲がってきますので、歩道も最低限の幅しかないこの辺りは、ちょっと歩行者には危ないかなと思います。
丸太町通を見ました。ちょっと前までは丸太町通の延長部分ということで新丸太町通と呼ばれていましたが、最近はあまりそういう呼び方を聞かなくなりました。この近所に家がある職場の同僚の方も、普通に「丸太町通」と呼んでいます。
かつては大井津で荷揚げした材木を、平安京へ運んだルートが大体この通りに重なるようです。材木を丸太を運んだ通りだったから丸太町通、というのは大変に分かりやすいです。
他に梅津で荷揚げして四条通または五条通を運ぶルートもありましたが、平安京における大型の建設事業というのは内裏があって寺院や貴族邸宅が集中していた丸太町通沿いに最も多かったわけですから、やはり大井津からの運送ルートというのは最重要だったのだろう、と思います。 (続く)