徳丸無明のブログ

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三幸製菓 雪の宿 サラダ・黒糖みるく味

2022-03-18 23:30:38 | 
今日は北国の宿泊施設です。






商品名が詩的でステキ。『ふしぎ駄菓子屋 銭天堂』のパッケージ。春の訪れが待ち遠しいですね。
これね、僕が前々から思ってることなんですけど、どうして日本の中高生の部活動って、あんなに頑張らないといけないんでしょうか。文化部はともかく、運動部は毎日一生懸命練習して大会優勝目指す、っていうのがお定まりじゃないですか。体育会系ノリがすみずみまで浸透しているというかね。文化部の一部にもこのノリが浸潤していますよね。ブラスバンドとかね。
スポーツって基本的に楽しいからやるものだと思うんですけど、部活の現場は必死になることばかり求められて、楽しむ余地がほとんどありません。
なぜ、日本の部活は楽しめないのか。練習頑張って大会での勝利を目指す、というコースばかりではなく、のんびりお気楽にスポーツ楽しむ、というコースだってあっていいはずです。
僕は体育会系=スポ根を否定しているのではありません。それはそれで選択肢としてあっていい、と思います。しかしなぜ、そればかりでないといけないのか。

甲子園大会を見ていると、「部活の歪み」が典型的に表れています。高校球児は、ケガをしてでも最後まで全力で試合をすることを求められ、観客もそのことを不自然に思わない。あまつさえ、将来性のある球児が致命的なケガをしないようにと登板を控えるようなことがあれば、学校に苦情の電話を入れるような鬼畜ぶり。佐々木朗希の話ですよ。
「高校球児がいくらケガをしようが構わない。どうせ1年後には新しい生徒が入ってくるんだ。代わりの生徒が新しいドラマを見せてくれる。ケガした球児がプロになれなくなろうが、一生後遺症で苦しもうが知ったこっちゃない。どうせ他人の人生なんだから。ケガしたやつがひとりで背負えばいい。そんなことより俺の娯楽(高校野球観戦)を充実させることのほうが大切だ。高校球児よ、俺の楽しみのためにケガをしてでも試合しろ」
高校野球ファンは、大方このように考えているのでしょう。そして、野球以外のスポーツ、および武道にも、多かれ少なかれ同様の認識が横溢しています。
ついでに言わせてもらいますけど、星稜高校時代の松井秀喜の5打席連続敬遠の時なんかひどかったですよね。対戦相手の明徳義塾高校を「卑怯だ」って言ってね。あのね、卑怯っていうのは、ボールやバットに細工したりとか、食事に下剤を入れたりとか、ルールの外側で仕掛けを行うことを言うんですよ。ルールの内側で行われる敬遠は、卑怯でもなんでもない。そんなこともわからずに野球観てんのか?
明徳義塾に対しては「高校生らしくない」という批判もありました。なぜ高校生が高校生らしくなくてはならないのでしょう。高校生といえど、人それぞれです。高校生が100人いれば、100人とも違っている。それが当たり前です。なぜ高校生というだけで、「高校生らしい高校生」という、ひとつの理想像に適合していなくてはならないのか。多様性を否定するつもりでしょうか。
第一、大人が口にする「高校生らしさ」というのは、あくまで大人の側が理想像として意図的に造形した「高校生像」であって、高校生自身の側から自然に形作られたものではありません。大人からの理想像の押し付けであって、極めて不自然なものなのです。そんな不自然な理想像に、なぜ高校生が適合しなくてはならないのか。

僕が小学生の時の話なんですけど、小学校には野球部がありまして、僕が6年生の時の担任の男性教師が監督をしていました。母親から聞かせてもらったんですけど、ある日、野球部の練習が長引いて、日が暮れてしまったと。先生がノックして、部員に捕球練習をさせていたんですけど、ひとりの部員が、「先生、ボールが見えません!」って訴えたそうなんです。そしたら先生は、「根性で捕れ!」と答えて、練習を続行したとのこと。
母親はこれを笑い話として聞かせてくれたんですけど、僕はまったく笑えませんでした。その時はうまく言葉にできなかったんですけど、すごく「嫌なもの」を感じていたのですね。
その先生は、とにかくそういう人でした。四六時中競争に駆り立て、ことあれば生徒を殴る。そんな人でした。
その手の人って、「頑張る」以外のかかわり方を認めようとしません。とにかくつねに全力を求める。なぜつねに全力でなければならないのか、という疑問を抱くことすらないのです。
繰り返しますが、僕は頑張る部活を否定するつもりはありません。熱血だ気合だ根性だといった、スポ根ストーリーを歩みたい人は歩めばいい。でも、そのルートしかないのはおかしい。
たとえば野球部であっても、甲子園優勝を目指すAコースと、お気楽に楽しみながらそこそこいい汗かくBコースという、2つのコースがあって、生徒の希望に応じて自由に選べるようにすればいいと思うんですよね。どうしてそれができないのでしょうか。
学校側の対応が煩雑になる?でもBコースは基本ほったらかしでいいんですよ。運動する場所さえ与えてもらえればね。
スポーツ嫌いの人って少なからずいますけど、日本の場合、スポ根的なかかわり方しか認めてこなかった公教育のせいで嫌いになってしまった人の割合がけっこう高いと思うんです。
勝利なんかどうでもいい。強くならなくてもいい。自分の限界なんか追い求めなくていい。気合も根性もいらない。そんな考えが公教育のスポーツ現場にもっと広がれば、スポーツ好きの人はもっと増えるはずです。
なぜそのような発想がないのでしょうか。体を鍛えすぎて、脳ミソまで筋肉になってしまったのでしょうか。


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、および雑感。
今週3回目のワクチン接種を行いました。僕は福岡に住んでますけど、住民票は熊本市にあるため、接種はそちらでしか行えません。なので1,2回目と同様、日帰りで熊本に行ってきました。
前回の接種会場は小さな町医者だったのですが、今回は地域でも1,2番目くらいに大きな病院。書類の確認→医者の問診→別の医者による接種→予防接種済証の手続きという流れで行われたのですが、4箇所すべてで名前を聞かれました。取り違えがないよう徹底していたのですね。
接種済証と一緒にタイマーを受け取り、15分待機。時間が来たら待機場の職員さんに体調の異変がない旨伝えて帰宅しました。
夜になって筋肉痛のような痛みが腕に出てきましたが、動かさなければ問題ないレベル。翌日までうっすらとした痛みが残っていましたが、それ以外の体調の異変はなし。1,2回目の時と同じで、体調不良を起こさずすみました。


予防接種済証。前回はファイザーでしたけど、今回はモデルナ。交互接種になりました。






ところで、早くも4回目接種の話が出ていましたね。モデルナの日本支社の11日の発表なんですけど、今年の9月から12月に4回目の接種が必要になると。そのうえ、来年の夏に向けて、新型コロナとインフルエンザとRSウイルスの3種混合ワクチンを開発中で、それは1年に1回の接種ですむタイプなのだそうです。そうきたかって感じですね。

ロシアがウクライナに侵攻して以降、ニュースはウクライナ関連がメインになりました。そのぶんコロナのニュースは短くなり、感染した人の経験談や、飲食店経営者の胸の内といった、細かい報道は排除されています。つまりコロナのニュースが、必要最小限になっているのですね。
戦争は忌むべき行為であり、歓迎する余地など1ミリもないのですが、しかし結果として、はからずもコロナの過剰報道を抑制している、という側面もあるのです。コロナに対する反応が少し大袈裟だと思っている僕としては望ましい事態。いや、ほんとに喜んじゃダメなんですけどね。戦争が起きてるわけだから。
ウクライナ・・・。イゴール・ボブチャンチンくらいしか知らない。
ボブチャンチンはどうしているでしょうか。無事でしょうか。PRIDEで稼いだお金で食堂を開いたそうですが、お店はどうなっているのでしょうか。オバチャンチンも気になる・・・。
ボブチャンチンは家族思いでねぇ、年越しは家族と一緒に過ごすって決めてたそうなんですよ。だから大晦日の「男祭り」には一度も出場したことがないんです。オファーをすべて断っていたそうでね。もし出場していたら誰と戦っていたのか、興味のあるところですが。
え?コロナと関係ない話すんなって?
うっせーボケ!ロシアンフック喰らわすぞ!
・・・よくよく考えてみれば、ウクライナ人なのにロシアンフックって、だいぶ安直なネーミングですね。