阿含経( Ⅰ) 雑 阿含経: 一切 事 経 出家 仏教 とは 世 を 捨て て 家族 と 離れ、 僧侶 として 修業 を 進め て いく。 要するに お 坊さん を 主体 と し た 仏教 です。 出家 し ない で 世俗 で 生活 し ながら 仏教 を 信心、 修行 し て いく 在家 の 人 を 主体 と する のが 在家 仏教 です。 在家 として 仏道 を 実践 する 人 にとって は、 一番 重要 な お 経 と 言える でしょ う。 それ は なぜ かと いう と、 この お 経 に 基 ずい て 修行 する なら ば、 在家 の 者 で あっ ても 出家 以上 の 存在 になり、 現世 で 成仏 する こと も 可能 で ある と 説か れ て いる から です。 お釈迦様 の 仏教 は 出家 仏教 でも なけれ
ば 小乗仏教 でも なく、 在家 の 者 でも 成仏 できる と 説か れ て いる の だ、 という こと が はっきり 示さ れ て いる のが、 この「 一切 事 経」 なの です。 < 如是我聞( に ょぜがもん) > 「私 は この よう に 仏 さま から うかがい まし た」 という 意味 です。 この 私 とは お釈迦様 の 十大弟子 の ひとり で、 記憶 力 第一 と 言わ れ た アーナンダ( 阿 難) で ある とさ れ て おり ます。 アーナンダ という 方 は、 二十 五 年間 にわたって お釈迦様 の お そば 近く に 仕え、 その 説法 の 一言一句 を 残ら ず 記憶 し て い まし た。 お釈迦さま が お 亡くなり に なっ た 直後、 この アーナンダ や 大 長老 の マハ― カッ サバ を 含め た 五百 人 の 仏弟子 たち
< 如是我聞( に ょぜがもん) > 「私 は この よう に 仏 さま から うかがい まし た」 という 意味 です。 この 私 とは お釈迦様 の 十大弟子 の ひとり で、 記憶 力 第一 と 言わ れ た アーナンダ( 阿 難) で ある とさ れ て おり ます。 アーナンダ という 方 は、 二十 五 年間 にわたって お釈迦様 の お そば 近く に 仕え、 その 説法 の 一言一句 を 残ら ず 記憶 し て い まし た。 お釈迦さま が お 亡くなり に なっ た 直後、 この アーナンダ や 大 長老 の マハ― カッ サバ を 含め た 五百 人 の 仏弟子 たち
(Ⅰ-1) この よう に 私 は 聞き まし た。 或 る 時、 仏様 が カピラヴァットウ の ニグローダ 園 に おと どまり に なっ て おら れ まし た。 そこ へ 在家 の 弟子 で あり、 仏様 の 従兄弟 でも ある マハナーマ が、 数人 の 在家 信者 を 引き連れ て 現れ、 仏 足 頂礼 の 礼 を し て 仏 さま の 前 に 座り、 質問 いたし まし た。 「世尊 よ、 優婆塞( うば そく・在家 仏教 徒) とは どの よう な 人 に対して 名 つけ られ た もの で あり ましょ う か?」 と。 仏様 は マハナーマ に「 在家 の 者 が 仏 や
師 と なる 僧侶 の もと に 行き、『 自分 が 生き て いる 限り、 死ぬ までの 今後 一生 を通して 三宝 に 帰依 いたし ます。 私 を 優婆塞 として お 認め ください』 と 申し出 て、 仏 や 僧侶 が それ を 認める なら ば、 その 者 は 優婆塞 となり ます」 と 告げ られ まし た。 (Ⅰ-2) マハナーマ は 仏様 に 申し上げ まし た。「 世尊 よ、 完全 な 優婆塞 に なる には どの よう に すれ ば よろしい の でしょ う か?」 と。 仏様 は マハナーマ に 告げ られ まし た。「 その 者 に 信 が あっ ても 戒 が なけれ ば 真 の 優婆塞 とは 呼べ ませ ん から、 精進 し て 浄戒 を 守っ て、 信 と 戒 の 両方 を 身 に つけ なさい」
(Ⅰ-3) 「信 と 戒 が そろっ ても、 布施 を 行わ なけれ ば 真 の 優婆塞 とは 呼べ ませ ん。 努力 と 工夫 によって 布 施行 を 実践 し、 信 と 戒 と 施( 布施) を 円満 に 納め なさい」 (Ⅰ-4) 「もろもろ の 都合 を つけ て、 おり ある ごと に 出家 の ところ へ 参詣 し、 正法 を 拝聴 し なけれ ば 真 の 優婆塞 とは いえ ませ ん。 努力 と 工夫 を 重ね て 出家 の いる 塔寺 に 参詣 し、 沙門 の 教え を 受け なさい。 この 修行 を 聞( もん) と 言い ます。 一心 に 正法 を 拝聴 し て 聞 を 実践 し なさい。 しかし 拝聴 する だけで その 内容 を 身 に つけ なけれ ば、 やはり 真 の 優婆塞 とは 言え ませ ん。 です から おり ある ごと に 出家者 を 訪れ、 専心 し て 説法 を 拝聴 し、 聞い た 内容 を よく 身 に つけ て 保ち なさい。 これ が 持( じ) の 修行 です。 諸法 の 深い 意味 を 観察 する 修行 を 観( かん) と 言い ます が、 この 観 が なけれ ば、 やはり 真 の 優婆塞 とは 言え ませ ん。 努力 と 工夫 を 重ね て 信・戒・施・聞 の 修行 を 行い、 聞 で 学ん だ こと を 持 の 修行 で よく 保ち、 保っ た 内容 の 深い 意味 を 観察 し て、 観 の 修行 を 実践 し なさい」 (Ⅰ-5) マハナーマ は 仏様 に 質問 し まし た。「 世尊 よ、 自分 を 安 慰し ても 他 を 安 慰し ない 優婆塞 とは どの よう な 優婆塞 を 指す の でしょ う か?」
仏様 は マハナーマ に 告げ られ まし た。 「自分 は 仏 の 戒 を 受け て それ を 守っ ても、 他者 に 仏 の 正しい 戒 を 受ける こと も、 又 それ を 保つ こと も 勧め ない。 自分 は 布施 を 行っ ても、 他者 が 布施 を 実践 する よう には 勧め ない。 自分 は 塔寺 に 参詣 し て もろもろ の 沙門 に 見え ても、 他者 に 塔寺 に 参詣 し て もろもろ の 沙門 に 見える よう には 勧め ない。 自分 は 熱心 に 沙門 の 説法 を 拝聴 し ても、 他者 に 正法 を 拝聴 し て それ を 受け 保つ よう には 勧め ない。 自分 は 仏法 の 深遠 な 教義 を よく 観察 し て それ について 熟考 し ても、 他者 には 仏法 の 深遠 な 教義 を よく 観察 し て、 それ について 熟考 する よう には 勧め ない。
自分 は 深遠 な 仏法 を 知り、 法 に 近 つき、 法 を 追求 し ても、 他者 が 法 に 近 つき 法 を 追求 する よう には 勧め ない。 マハナーマ よ、 この よう に 八 法 だけを 成就 する もの は、 自分 を 安らか に し 慰め ても 他 を 安らか に し 慰め ない 優婆塞 という の です。」 (Ⅰ-6) マハナーマ は 仏様 に 申し上げ まし た。「 世尊 よ いくつ の 法 を 成就 する 優 婆 塞が、 自分 を 安 ん じ 他 を 安んずる 優婆塞 なの でしょ う か?」 と。 「優婆塞 の 十六 法 を 成就 する 者 が、 自分 を 安 ん じ 他 を 安んずる 優婆塞 です。 では 十六 法 とは どの よう な もの でしょ う か?
マハナーマ よ。 自分自身 が 正しい 信 を 持つ と共に、 他者 にも それ を 確立 さ せる。 自分 が 浄戒 を 保つ と共に、 他者 にも 浄戒 を 確立 さ せる。 自分 が 布施 を 行う と共に、 他者 にも 布 施行 を 教える。 自分 が 塔 寺 参詣 し て もろもろ の 沙門 に 見える と共に、 他者 にも 塔寺 への 参詣 と 沙門 に 見える こと を 教える。 自分 が 沙門 の 説法 を ひたすら 拝聴 する と共に、 他者 にも 説法 を 拝聴 する こと を 教える。 自分 が 法 を 受持 する と共に 他者 に 受持 する こと を 教える。 自分 が 仏法 の 深 義 を 観察 する と共に、 他者 に 仏法 の 深 義 を 観察 する こと を 教える。 自分 が 仏法 の 深 義 を 知っ て 法 に 近 つき
つき 法 を 追求 する と共に、 他者 に 仏法 の 深 義 を 理解 さ せ て、 又 法 に 近 つき 法 を 追求 する 修行 を 行わ せる。 マハナーマ よ。 この 十六 法 を 成就 する 優婆塞 の もと には、 あの もろもろ の 大衆 が すべて 参詣 する よう になり ます。 その 大衆 とは いわゆる バラモン たち、 クシャトリア たち、 長者 たち、 沙門 たち で あり、 それら の 人々 の 中 において も 十六 法 を 成就 する 優婆塞 の 威徳 は 大いに 輝き 続ける のと 同じ よう に、 優婆塞 の 十六 法 を 成就 する 者 の 威徳 は 大いに 輝き 続ける の です。 マハナーマ よ。 この よう に 優婆塞 の 十六 法 を 成就 する 者 は、 世間 に 得 難い 存在 なの です」 と。
マハナーマ は この 仏 さま の 説法 を 拝聴 し て 大いに 喜び、 また 仏 の 教法 を 讃 歎 し た のち に 座 を 立っ て 礼 を 行い、 その 場 を 去り まし た。
の 解説 (Ⅰ-1) < 優婆塞( うば そく) とは 何 か > パーリ 語、 サンスクリット 語 の ウパーサカ を 漢字 に 音 写し た もの で、 普通 は 男性 の 在家 信者 を 指し ます。 女性 の 在家 信者 は 優婆夷( うばい) と 呼び ます。 「寿 尽く る まで 三宝 に 帰依 し」 の 三宝 とは 仏・法・僧、 つまり 仏様 と 仏 さま の 教法、 そして お釈迦様 の 教法 を 実践 する 僧伽( そう ぎゃ・教団) の こと。 ひとたび 入行 し て 本当 の 仏 さま の 修行 を 始め た なら ば、 やはり 一生涯 にわたって 仏 さま の 教え を 守っ て いく という 気持ち気持ち が 生ずる のは 当然 です。 自分 は 生涯 を かけ て 修行 を する、 という つもり で 信仰 し て いる だろ う か? と よく 考え て ごらん なさい。 もしも そういう 気持ち が なけれ ば、 因縁 を 切る こと など とても でき ませ ん。 (Ⅰ-2) < 修行 の 根本 と なる 信 > 宗教 において は 信 が 一番 の 根本 です。 この 気持ち が あっ て 初めて、 お釈迦様 の 教え を 実行 しよ う という 気 に なる の です。 そこで 優婆塞 に なる。 お釈迦様 は、 この 自分 に対して お 説き くださっ て いる。 その よう に 心 の 底 から
感激 し て 読む のが、 正しい お 経 の 読み方 です。 < 正しく 信 を 育てる 戒 > お釈迦様 は「 信」 だけでは だめ だ、「 戒」 が 必要 なの だ と おっしゃっ て い ます。「 戒」 には 二つ の 意味 が あり ます。 一つ は 修行者 として やっ ては いけ ない こと の 取り決め。 もう 一つ は 修行者 として やら なけれ ば いけ ない こと です。 私 たち がやら なけれ ば いけ ない 戒 は、 まず 第一 に 一日 一回 必ず 勤行 を する こと です。 そして 導師 から 授かっ た 戒行・課 行 を 必ず 実行 する という こと。 修行 も 同じ。 一生懸命 に 勤行 を し、 先祖先祖 の ご 供養 を し て、 信仰 の 種 を まく。 その 種 が すくすくと 伸び て いく ため には、 戒 が なけれ ば いけ ない の です。 (Ⅰ-3) < 徳 の もと と なる 布施 の 行 > お釈迦様 は、 布施 を し なけれ ば、 信 と 戒 が あっ ても 完全 な 優婆塞 とは 呼べ ない と 説か れ て おり ます。 布施 によって 初めて 徳 が 生じる から です。 信 を 持ち 戒 を 保つ という こと は、 自分 だけの こと を やっ て いる に すぎ ませ ん。 他 の 人 に 何 かを 施す という こと は、 他 の 人 に プラス を 与える こと になり ます。 どの よう な 難行苦行 で あっ ても、 自分の こと ばかりを 考え て い た のでは、 徳 は 生まれ ませ ん。 他 の 人 に 何 かを 与え て こそ、 自分 の 身 に 徳 が 生じる の です。 人間 という もの は 徳 が なけれ ば 何一つ 成功 さ せる こと は でき ませ ん。 私 は いつも「 人 の 不幸 の 元凶 は 因縁 で ある。 その 因縁 を 切る 成仏 法 を 実践 する こと によって のみ、 人 は 本当 の 幸福 を 得る こと が できる」 と 申し上げ て おり ます。 しかし 不徳 の 身 では、 その 成仏 法 でさえ やり 通す こと が でき ない の です。 一つ の こと を 成功 さ せよ う と 思っ た なら ば、 自分 を 助け て くれる 縁 が なけれ ば いけ ませ ん。 これ が 助 縁 です。 助 縁 は 徳 から 生じ ます。 その 縁 は 徳 に 応じ て 生じる の です。
ソロバン 勘定 を 離れ、 欲得 を 抜き に し て 仏 さま の ため に 働く こと によって のみ、 奇跡的 な 素晴らしい 結果 が 得 られる わけ です。 損得 勘定 を 捨て なさい。 少なくとも 仏 さま の お 手伝い を する、 あるいは 仏様 を 礼拝 する 時 は、 ソロバン 勘定 を 捨て て やっ て ごらん なさい。 そして 本業 にも 精 を 出し て 御覧 なさい。 そう すれ ば、 必ず 素晴らしい 結果 を 導き出す こと が でき ます。
Akane Sutra (I) Satsuki Aru Sutra: All the events of the family Buddhism Abandon the world and leave the family, and continue training as a priest. In short, it is a Buddhism whose main subject is a monk. In-home Buddhism is mainly composed of in-home people who practice and practice Buddhism while living in a secular world without having to go home. For those who practice Buddhism as a resident, it can be said to be the most important one. The reason for this is that if we practice based on this process, it is said that even if a person is a resident, it becomes more than a birth, and it is possible to conclude in this world. Buddha's Buddhism is also a Buddhist Buddhism
It is this "everything" that clearly states that it is said that it is possible to practice Buddhism not only in Mahayana Buddhism but also in the home. <Nyoze gamon> It means that I was asked by the Buddha in this way. I am one of the 10 Great Disciples of Buddha, and is said to be Ananda, who was said to have the highest memory. For twenty-five years, Ananda served near the Buddha's side and remembered every word of his doctrine. Immediately after the Buddha died, 500 Buddhist disciples, including this Ananda and the elder Maha Kassaba
<Nyoze gamon> It means that I was asked by the Buddha in this way. I am one of the 10 Great Disciples of Buddha, and is said to be Ananda, who was said to have the highest memory. For twenty-five years, Ananda served near the Buddha's side and remembered every word of his doctrine. Immediately after the Buddha died, 500 Buddhist disciples, including this Ananda and the elder Maha Kassaba
● Ah Sutra (I) Miscellaneous Ah Sutra: A modern translation of everything
(I-1) I heard this way. At one point, the Buddha stayed in the Nigroda Garden in Capilavatto. Mahanama, a disciple of the resident and a cousin of the Buddha, appeared with a few followers of the house, and sat in front of the Buddha to ask and question. "Oh, what kind of person is the Ubasou (a Buddhist priest)?" The Buddha said to Mahanama that “the resident is a Buddha or
I went to my master monk and said, "As long as I live, I will devote myself to the three treasures for the rest of my life. Please admit me as an apostolic fortress.” If a Buddha or a monk admits that, that person will become an abomination.” (I-2) Mahanama told the Buddha. "Sir, what is the right way to become a complete fortress?" The Buddha was told Mahanama. ``If a person has faith, but if the command is proper, then it cannot be called a true dominance, so vegetatively defend the sanctification and acquire both the trust and the belief.''
(I-3) “Even if you have all the faith and commandments, you cannot call it a true domination if you do the service. You will practice the service with your efforts and ingenuity, and you will be satisfied with the belief, command and action. (I-4) “For every reason, visit the birthplace at every opportunity and listen to the law, but it is true that even though it is a true dominion, efforts and efforts are repeated. Please visit the temple where the priest is at home and take the teachings of Shamon. This practice is called Mon. Listen to the Holy Law and practice the hearing, but just listen to it. After all, it is still a true doomsday, so it is important to visit the ancestors, listen to the sermons devotedly, and keep what you hear. The practice of observing the deep meaning of various laws is called "Kan", but if this view is not true, it cannot be said that it is a true dominion. Practice the belief, commandments, practices, and hearings, and keep what you have learned in your training well, and observe the deep meaning of the content that you have held, and practice the training of observation” (I-5). Mahanama asked the Buddha a question. “Sir, what do you mean by a prince who comforts himself but not the other, what does it mean?
The Buddha was told Mahanama. “I do not accept or obey the Buddha's commandments, nor do I recommend others to receive or retain the correct Buddha's commandments. Even if I give them, others do them. I don't recommend that I look at all the temples of Tomonji and look like all the same, but I don't recommend others to see all the temples of Tomonji. However, even if you carefully observe the profound doctrine of Buddhism and ponder it, it is not recommended to others. We do not recommend that you carefully observe these doctrines and reflect on them.
Even if I know profound Buddhist law, approach it, and pursue it, I do not encourage others to approach it and pursue it. Mahanama, the one who fulfills only the eight laws in this way is a dominance that comforts oneself and comforts the other but does not comfort. (I-6) Mahanama told the Buddha. "How many honors do you have, fulfilling the law of the world, is it the one that secures oneself and the other?" “A person who fulfills the 16th law of the Yuba fortress is the Yuba fortress who keeps himself safe and rests. Then what is the 16th law?
Mahanama. While having the right belief in yourself, establish it in others. While maintaining the sanction of oneself, establish the sanctification of others. Not only do you do it, but you also teach others how to do it. Teach yourself that you will be able to see all kinds of temples when you visit the temple, and teach others that you can see the temple and temples. Teach yourself to listen to Shamon's doctrine and teach others to listen to it as well. Teach yourself to accept the law and accept it to others. Teach yourself to observe the profound meaning of Buddhist law and to observe others as well. I approached the law by knowing the deep meaning of Buddhism
At the same time as pursuing the law, let other people understand the deeper meaning of Buddhism and also practice to pursue the law. Mahanama. Under the Yuba fortress, which fulfills this 16th law, all the masses will come to visit. The masses are the so-called Brahmins, Kshatrias, the elders, and the Shamons, and among them, the dominance of the dominion that fulfills the 16th law continues to shine as much as the dominance. The virtue of those who fulfill the sixteenth law will continue to shine greatly. Mahanama. Those who fulfill the 16th law of domination in this way are inaccessible to the public.”
Mahanama was very pleased to hear this Buddha's doctrine, and after praising the Buddhist doctrine, he stood at the stage to thank him and left the place.
● Ah Sutra (Ⅰ) Miscellaneous Ah Sutra: All things
(I-1) <What is Yuba Soku?> Uparisaka in Pali or Sanskrit is a transcription of the characters in Kanji, and usually refers to a male resident. A female layman is called a prince. The three treasures of "return to the three treasures until the end of their lives" are the Buddha, the law, and the monks, that is, the Buddhist and Buddhist teachings, and the Buddhist monks who practice the Buddhist teachings. It is natural that once you enter and begin to practice the real Buddha's training, you will feel the desire to keep the Buddhist teachings for the rest of your life. Do you believe that you will practice for the rest of your life? Please think carefully. If I feel that way, I can't really cut the ties. (I-2) <Belief that is the basis of training> In religion, belief is the most fundamental. Only with this feeling will I be motivated to carry out Buddha's teachings. There, it becomes an auntie. Buddha is preaching to me. Like that from the bottom of my heart
Impressed reading is the correct way of reading. <Kai to grow faith correctly> Buddha says that "Kai" is not enough, and "Kai" is necessary. "Kai" has two meanings. One is the arrangement of things that must not be done as a practitioner
ば 小乗仏教 でも なく、 在家 の 者 でも 成仏 できる と 説か れ て いる の だ、 という こと が はっきり 示さ れ て いる のが、 この「 一切 事 経」 なの です。 < 如是我聞( に ょぜがもん) > 「私 は この よう に 仏 さま から うかがい まし た」 という 意味 です。 この 私 とは お釈迦様 の 十大弟子 の ひとり で、 記憶 力 第一 と 言わ れ た アーナンダ( 阿 難) で ある とさ れ て おり ます。 アーナンダ という 方 は、 二十 五 年間 にわたって お釈迦様 の お そば 近く に 仕え、 その 説法 の 一言一句 を 残ら ず 記憶 し て い まし た。 お釈迦さま が お 亡くなり に なっ た 直後、 この アーナンダ や 大 長老 の マハ― カッ サバ を 含め た 五百 人 の 仏弟子 たち
< 如是我聞( に ょぜがもん) > 「私 は この よう に 仏 さま から うかがい まし た」 という 意味 です。 この 私 とは お釈迦様 の 十大弟子 の ひとり で、 記憶 力 第一 と 言わ れ た アーナンダ( 阿 難) で ある とさ れ て おり ます。 アーナンダ という 方 は、 二十 五 年間 にわたって お釈迦様 の お そば 近く に 仕え、 その 説法 の 一言一句 を 残ら ず 記憶 し て い まし た。 お釈迦さま が お 亡くなり に なっ た 直後、 この アーナンダ や 大 長老 の マハ― カッ サバ を 含め た 五百 人 の 仏弟子 たち
● 阿含経( Ⅰ) 雑 阿含経: 一切 事 経 の 現代語 訳
(Ⅰ-1) この よう に 私 は 聞き まし た。 或 る 時、 仏様 が カピラヴァットウ の ニグローダ 園 に おと どまり に なっ て おら れ まし た。 そこ へ 在家 の 弟子 で あり、 仏様 の 従兄弟 でも ある マハナーマ が、 数人 の 在家 信者 を 引き連れ て 現れ、 仏 足 頂礼 の 礼 を し て 仏 さま の 前 に 座り、 質問 いたし まし た。 「世尊 よ、 優婆塞( うば そく・在家 仏教 徒) とは どの よう な 人 に対して 名 つけ られ た もの で あり ましょ う か?」 と。 仏様 は マハナーマ に「 在家 の 者 が 仏 や
師 と なる 僧侶 の もと に 行き、『 自分 が 生き て いる 限り、 死ぬ までの 今後 一生 を通して 三宝 に 帰依 いたし ます。 私 を 優婆塞 として お 認め ください』 と 申し出 て、 仏 や 僧侶 が それ を 認める なら ば、 その 者 は 優婆塞 となり ます」 と 告げ られ まし た。 (Ⅰ-2) マハナーマ は 仏様 に 申し上げ まし た。「 世尊 よ、 完全 な 優婆塞 に なる には どの よう に すれ ば よろしい の でしょ う か?」 と。 仏様 は マハナーマ に 告げ られ まし た。「 その 者 に 信 が あっ ても 戒 が なけれ ば 真 の 優婆塞 とは 呼べ ませ ん から、 精進 し て 浄戒 を 守っ て、 信 と 戒 の 両方 を 身 に つけ なさい」
(Ⅰ-3) 「信 と 戒 が そろっ ても、 布施 を 行わ なけれ ば 真 の 優婆塞 とは 呼べ ませ ん。 努力 と 工夫 によって 布 施行 を 実践 し、 信 と 戒 と 施( 布施) を 円満 に 納め なさい」 (Ⅰ-4) 「もろもろ の 都合 を つけ て、 おり ある ごと に 出家 の ところ へ 参詣 し、 正法 を 拝聴 し なけれ ば 真 の 優婆塞 とは いえ ませ ん。 努力 と 工夫 を 重ね て 出家 の いる 塔寺 に 参詣 し、 沙門 の 教え を 受け なさい。 この 修行 を 聞( もん) と 言い ます。 一心 に 正法 を 拝聴 し て 聞 を 実践 し なさい。 しかし 拝聴 する だけで その 内容 を 身 に つけ なけれ ば、 やはり 真 の 優婆塞 とは 言え ませ ん。 です から おり ある ごと に 出家者 を 訪れ、 専心 し て 説法 を 拝聴 し、 聞い た 内容 を よく 身 に つけ て 保ち なさい。 これ が 持( じ) の 修行 です。 諸法 の 深い 意味 を 観察 する 修行 を 観( かん) と 言い ます が、 この 観 が なけれ ば、 やはり 真 の 優婆塞 とは 言え ませ ん。 努力 と 工夫 を 重ね て 信・戒・施・聞 の 修行 を 行い、 聞 で 学ん だ こと を 持 の 修行 で よく 保ち、 保っ た 内容 の 深い 意味 を 観察 し て、 観 の 修行 を 実践 し なさい」 (Ⅰ-5) マハナーマ は 仏様 に 質問 し まし た。「 世尊 よ、 自分 を 安 慰し ても 他 を 安 慰し ない 優婆塞 とは どの よう な 優婆塞 を 指す の でしょ う か?」
仏様 は マハナーマ に 告げ られ まし た。 「自分 は 仏 の 戒 を 受け て それ を 守っ ても、 他者 に 仏 の 正しい 戒 を 受ける こと も、 又 それ を 保つ こと も 勧め ない。 自分 は 布施 を 行っ ても、 他者 が 布施 を 実践 する よう には 勧め ない。 自分 は 塔寺 に 参詣 し て もろもろ の 沙門 に 見え ても、 他者 に 塔寺 に 参詣 し て もろもろ の 沙門 に 見える よう には 勧め ない。 自分 は 熱心 に 沙門 の 説法 を 拝聴 し ても、 他者 に 正法 を 拝聴 し て それ を 受け 保つ よう には 勧め ない。 自分 は 仏法 の 深遠 な 教義 を よく 観察 し て それ について 熟考 し ても、 他者 には 仏法 の 深遠 な 教義 を よく 観察 し て、 それ について 熟考 する よう には 勧め ない。
自分 は 深遠 な 仏法 を 知り、 法 に 近 つき、 法 を 追求 し ても、 他者 が 法 に 近 つき 法 を 追求 する よう には 勧め ない。 マハナーマ よ、 この よう に 八 法 だけを 成就 する もの は、 自分 を 安らか に し 慰め ても 他 を 安らか に し 慰め ない 優婆塞 という の です。」 (Ⅰ-6) マハナーマ は 仏様 に 申し上げ まし た。「 世尊 よ いくつ の 法 を 成就 する 優 婆 塞が、 自分 を 安 ん じ 他 を 安んずる 優婆塞 なの でしょ う か?」 と。 「優婆塞 の 十六 法 を 成就 する 者 が、 自分 を 安 ん じ 他 を 安んずる 優婆塞 です。 では 十六 法 とは どの よう な もの でしょ う か?
マハナーマ よ。 自分自身 が 正しい 信 を 持つ と共に、 他者 にも それ を 確立 さ せる。 自分 が 浄戒 を 保つ と共に、 他者 にも 浄戒 を 確立 さ せる。 自分 が 布施 を 行う と共に、 他者 にも 布 施行 を 教える。 自分 が 塔 寺 参詣 し て もろもろ の 沙門 に 見える と共に、 他者 にも 塔寺 への 参詣 と 沙門 に 見える こと を 教える。 自分 が 沙門 の 説法 を ひたすら 拝聴 する と共に、 他者 にも 説法 を 拝聴 する こと を 教える。 自分 が 法 を 受持 する と共に 他者 に 受持 する こと を 教える。 自分 が 仏法 の 深 義 を 観察 する と共に、 他者 に 仏法 の 深 義 を 観察 する こと を 教える。 自分 が 仏法 の 深 義 を 知っ て 法 に 近 つき
つき 法 を 追求 する と共に、 他者 に 仏法 の 深 義 を 理解 さ せ て、 又 法 に 近 つき 法 を 追求 する 修行 を 行わ せる。 マハナーマ よ。 この 十六 法 を 成就 する 優婆塞 の もと には、 あの もろもろ の 大衆 が すべて 参詣 する よう になり ます。 その 大衆 とは いわゆる バラモン たち、 クシャトリア たち、 長者 たち、 沙門 たち で あり、 それら の 人々 の 中 において も 十六 法 を 成就 する 優婆塞 の 威徳 は 大いに 輝き 続ける のと 同じ よう に、 優婆塞 の 十六 法 を 成就 する 者 の 威徳 は 大いに 輝き 続ける の です。 マハナーマ よ。 この よう に 優婆塞 の 十六 法 を 成就 する 者 は、 世間 に 得 難い 存在 なの です」 と。
マハナーマ は この 仏 さま の 説法 を 拝聴 し て 大いに 喜び、 また 仏 の 教法 を 讃 歎 し た のち に 座 を 立っ て 礼 を 行い、 その 場 を 去り まし た。
● 阿含経( Ⅰ) 雑 阿含経: 一切 事 経
の 解説 (Ⅰ-1) < 優婆塞( うば そく) とは 何 か > パーリ 語、 サンスクリット 語 の ウパーサカ を 漢字 に 音 写し た もの で、 普通 は 男性 の 在家 信者 を 指し ます。 女性 の 在家 信者 は 優婆夷( うばい) と 呼び ます。 「寿 尽く る まで 三宝 に 帰依 し」 の 三宝 とは 仏・法・僧、 つまり 仏様 と 仏 さま の 教法、 そして お釈迦様 の 教法 を 実践 する 僧伽( そう ぎゃ・教団) の こと。 ひとたび 入行 し て 本当 の 仏 さま の 修行 を 始め た なら ば、 やはり 一生涯 にわたって 仏 さま の 教え を 守っ て いく という 気持ち気持ち が 生ずる のは 当然 です。 自分 は 生涯 を かけ て 修行 を する、 という つもり で 信仰 し て いる だろ う か? と よく 考え て ごらん なさい。 もしも そういう 気持ち が なけれ ば、 因縁 を 切る こと など とても でき ませ ん。 (Ⅰ-2) < 修行 の 根本 と なる 信 > 宗教 において は 信 が 一番 の 根本 です。 この 気持ち が あっ て 初めて、 お釈迦様 の 教え を 実行 しよ う という 気 に なる の です。 そこで 優婆塞 に なる。 お釈迦様 は、 この 自分 に対して お 説き くださっ て いる。 その よう に 心 の 底 から
感激 し て 読む のが、 正しい お 経 の 読み方 です。 < 正しく 信 を 育てる 戒 > お釈迦様 は「 信」 だけでは だめ だ、「 戒」 が 必要 なの だ と おっしゃっ て い ます。「 戒」 には 二つ の 意味 が あり ます。 一つ は 修行者 として やっ ては いけ ない こと の 取り決め。 もう 一つ は 修行者 として やら なけれ ば いけ ない こと です。 私 たち がやら なけれ ば いけ ない 戒 は、 まず 第一 に 一日 一回 必ず 勤行 を する こと です。 そして 導師 から 授かっ た 戒行・課 行 を 必ず 実行 する という こと。 修行 も 同じ。 一生懸命 に 勤行 を し、 先祖先祖 の ご 供養 を し て、 信仰 の 種 を まく。 その 種 が すくすくと 伸び て いく ため には、 戒 が なけれ ば いけ ない の です。 (Ⅰ-3) < 徳 の もと と なる 布施 の 行 > お釈迦様 は、 布施 を し なけれ ば、 信 と 戒 が あっ ても 完全 な 優婆塞 とは 呼べ ない と 説か れ て おり ます。 布施 によって 初めて 徳 が 生じる から です。 信 を 持ち 戒 を 保つ という こと は、 自分 だけの こと を やっ て いる に すぎ ませ ん。 他 の 人 に 何 かを 施す という こと は、 他 の 人 に プラス を 与える こと になり ます。 どの よう な 難行苦行 で あっ ても、 自分の こと ばかりを 考え て い た のでは、 徳 は 生まれ ませ ん。 他 の 人 に 何 かを 与え て こそ、 自分 の 身 に 徳 が 生じる の です。 人間 という もの は 徳 が なけれ ば 何一つ 成功 さ せる こと は でき ませ ん。 私 は いつも「 人 の 不幸 の 元凶 は 因縁 で ある。 その 因縁 を 切る 成仏 法 を 実践 する こと によって のみ、 人 は 本当 の 幸福 を 得る こと が できる」 と 申し上げ て おり ます。 しかし 不徳 の 身 では、 その 成仏 法 でさえ やり 通す こと が でき ない の です。 一つ の こと を 成功 さ せよ う と 思っ た なら ば、 自分 を 助け て くれる 縁 が なけれ ば いけ ませ ん。 これ が 助 縁 です。 助 縁 は 徳 から 生じ ます。 その 縁 は 徳 に 応じ て 生じる の です。
ソロバン 勘定 を 離れ、 欲得 を 抜き に し て 仏 さま の ため に 働く こと によって のみ、 奇跡的 な 素晴らしい 結果 が 得 られる わけ です。 損得 勘定 を 捨て なさい。 少なくとも 仏 さま の お 手伝い を する、 あるいは 仏様 を 礼拝 する 時 は、 ソロバン 勘定 を 捨て て やっ て ごらん なさい。 そして 本業 にも 精 を 出し て 御覧 なさい。 そう すれ ば、 必ず 素晴らしい 結果 を 導き出す こと が でき ます。
Akane Sutra (I) Satsuki Aru Sutra: All the events of the family Buddhism Abandon the world and leave the family, and continue training as a priest. In short, it is a Buddhism whose main subject is a monk. In-home Buddhism is mainly composed of in-home people who practice and practice Buddhism while living in a secular world without having to go home. For those who practice Buddhism as a resident, it can be said to be the most important one. The reason for this is that if we practice based on this process, it is said that even if a person is a resident, it becomes more than a birth, and it is possible to conclude in this world. Buddha's Buddhism is also a Buddhist Buddhism
It is this "everything" that clearly states that it is said that it is possible to practice Buddhism not only in Mahayana Buddhism but also in the home. <Nyoze gamon> It means that I was asked by the Buddha in this way. I am one of the 10 Great Disciples of Buddha, and is said to be Ananda, who was said to have the highest memory. For twenty-five years, Ananda served near the Buddha's side and remembered every word of his doctrine. Immediately after the Buddha died, 500 Buddhist disciples, including this Ananda and the elder Maha Kassaba
<Nyoze gamon> It means that I was asked by the Buddha in this way. I am one of the 10 Great Disciples of Buddha, and is said to be Ananda, who was said to have the highest memory. For twenty-five years, Ananda served near the Buddha's side and remembered every word of his doctrine. Immediately after the Buddha died, 500 Buddhist disciples, including this Ananda and the elder Maha Kassaba
● Ah Sutra (I) Miscellaneous Ah Sutra: A modern translation of everything
(I-1) I heard this way. At one point, the Buddha stayed in the Nigroda Garden in Capilavatto. Mahanama, a disciple of the resident and a cousin of the Buddha, appeared with a few followers of the house, and sat in front of the Buddha to ask and question. "Oh, what kind of person is the Ubasou (a Buddhist priest)?" The Buddha said to Mahanama that “the resident is a Buddha or
I went to my master monk and said, "As long as I live, I will devote myself to the three treasures for the rest of my life. Please admit me as an apostolic fortress.” If a Buddha or a monk admits that, that person will become an abomination.” (I-2) Mahanama told the Buddha. "Sir, what is the right way to become a complete fortress?" The Buddha was told Mahanama. ``If a person has faith, but if the command is proper, then it cannot be called a true dominance, so vegetatively defend the sanctification and acquire both the trust and the belief.''
(I-3) “Even if you have all the faith and commandments, you cannot call it a true domination if you do the service. You will practice the service with your efforts and ingenuity, and you will be satisfied with the belief, command and action. (I-4) “For every reason, visit the birthplace at every opportunity and listen to the law, but it is true that even though it is a true dominion, efforts and efforts are repeated. Please visit the temple where the priest is at home and take the teachings of Shamon. This practice is called Mon. Listen to the Holy Law and practice the hearing, but just listen to it. After all, it is still a true doomsday, so it is important to visit the ancestors, listen to the sermons devotedly, and keep what you hear. The practice of observing the deep meaning of various laws is called "Kan", but if this view is not true, it cannot be said that it is a true dominion. Practice the belief, commandments, practices, and hearings, and keep what you have learned in your training well, and observe the deep meaning of the content that you have held, and practice the training of observation” (I-5). Mahanama asked the Buddha a question. “Sir, what do you mean by a prince who comforts himself but not the other, what does it mean?
The Buddha was told Mahanama. “I do not accept or obey the Buddha's commandments, nor do I recommend others to receive or retain the correct Buddha's commandments. Even if I give them, others do them. I don't recommend that I look at all the temples of Tomonji and look like all the same, but I don't recommend others to see all the temples of Tomonji. However, even if you carefully observe the profound doctrine of Buddhism and ponder it, it is not recommended to others. We do not recommend that you carefully observe these doctrines and reflect on them.
Even if I know profound Buddhist law, approach it, and pursue it, I do not encourage others to approach it and pursue it. Mahanama, the one who fulfills only the eight laws in this way is a dominance that comforts oneself and comforts the other but does not comfort. (I-6) Mahanama told the Buddha. "How many honors do you have, fulfilling the law of the world, is it the one that secures oneself and the other?" “A person who fulfills the 16th law of the Yuba fortress is the Yuba fortress who keeps himself safe and rests. Then what is the 16th law?
Mahanama. While having the right belief in yourself, establish it in others. While maintaining the sanction of oneself, establish the sanctification of others. Not only do you do it, but you also teach others how to do it. Teach yourself that you will be able to see all kinds of temples when you visit the temple, and teach others that you can see the temple and temples. Teach yourself to listen to Shamon's doctrine and teach others to listen to it as well. Teach yourself to accept the law and accept it to others. Teach yourself to observe the profound meaning of Buddhist law and to observe others as well. I approached the law by knowing the deep meaning of Buddhism
At the same time as pursuing the law, let other people understand the deeper meaning of Buddhism and also practice to pursue the law. Mahanama. Under the Yuba fortress, which fulfills this 16th law, all the masses will come to visit. The masses are the so-called Brahmins, Kshatrias, the elders, and the Shamons, and among them, the dominance of the dominion that fulfills the 16th law continues to shine as much as the dominance. The virtue of those who fulfill the sixteenth law will continue to shine greatly. Mahanama. Those who fulfill the 16th law of domination in this way are inaccessible to the public.”
Mahanama was very pleased to hear this Buddha's doctrine, and after praising the Buddhist doctrine, he stood at the stage to thank him and left the place.
● Ah Sutra (Ⅰ) Miscellaneous Ah Sutra: All things
(I-1) <What is Yuba Soku?> Uparisaka in Pali or Sanskrit is a transcription of the characters in Kanji, and usually refers to a male resident. A female layman is called a prince. The three treasures of "return to the three treasures until the end of their lives" are the Buddha, the law, and the monks, that is, the Buddhist and Buddhist teachings, and the Buddhist monks who practice the Buddhist teachings. It is natural that once you enter and begin to practice the real Buddha's training, you will feel the desire to keep the Buddhist teachings for the rest of your life. Do you believe that you will practice for the rest of your life? Please think carefully. If I feel that way, I can't really cut the ties. (I-2) <Belief that is the basis of training> In religion, belief is the most fundamental. Only with this feeling will I be motivated to carry out Buddha's teachings. There, it becomes an auntie. Buddha is preaching to me. Like that from the bottom of my heart
Impressed reading is the correct way of reading. <Kai to grow faith correctly> Buddha says that "Kai" is not enough, and "Kai" is necessary. "Kai" has two meanings. One is the arrangement of things that must not be done as a practitioner