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カメラ  DJI Osmo Pocket - In-Depth Review  毎日持ち歩いても苦にならない新ジャンルのカメラ

2020-12-27 19:56:28 | カメラ


DJI Osmo Pocket - In-Depth Review

 

ポケットサイズなのに単独撮影できるのがうれしい


Osmo Pocketはドローンなどでおなじみの中国DJIの“超小型ジンバルカメラ”だ。

ジンバルというのは、ひとことで言ってしまえば強力な動画用の手ぶれ防止装置。主に撮影者が歩いたり走ったりしながら撮影する時に使うもので、まるで見えないレールの上をカメラがホバークラフトのようにスムーズに進んでいくかのような映像を撮影できる。カメラ内の手ぶれ補正機能と違い、カメラそのものを取り付けて揺れを吸収してしまうものだ。

古くは映画用のSTEADICAMというカメラをやじろべえのような重量バランスをとったアームに載せて撮影するものだったが、本モデルを含む最近のものは「アクティブ・ジンバル」と呼ばれ、リアルタイムでセンサーが揺れを感知し、それをキャンセルするように電子アクチュエーターでカメラを動かして揺れを吸収する。Osmo Pocketはパン軸/チルト軸/ロール軸、つまり左右/上下/水平方向回転を補正してくれる「3軸アクティブジンバル」を備える。特別な訓練なしでもそれなりに美しい“ムービングカメラ”撮影ができると言っていいだろう。

これまでもジンバルカメラは業務用・家庭用を含めてたくさんリリースされてきたが、このOsmo Pocketが画期的と言えるのは、何といってもこのサイズ。高さ121.9mm、重量わずか116g。「ポケット」「ミニ」といった名前を冠したガジェットは多いが、間違いなくポケットに入るサイズだと言える

 










【国内正規品】 DJI OSMO POCKET (3軸ジンバル, 4Kカメラ)


新品価格
¥29,939から
(2020/12/27 19:54時点)





タッチ操作対応の1型液晶を搭載。スマホライクな直感的な操作が可能

タッチ操作対応の1型液晶を搭載。スマホライクな直感的な操作が可能

それにもましてうれしいのは、この小さな本体だけで単独撮影ができること。多くのジンバルカメラは、映像のモニターとしてスマートフォン(スマホ)を組み合わせて使わなくてはいけないのだが、咄嗟(とっさ)の撮影の時にこのセッティングが面倒なのだ。また、多くのモデルはスマホとの映像インターフェイスがWi-Fiなどの無線となっているため、撮影中にモニター映像が乱れることやセットアップに時間がかかることも多かった。

ところがOsmo Pocketは本体に切手サイズよりも小さい(実測20×18mmほど)のタッチ液晶パネルを搭載。電源ボタンを押したら、ものの5秒で撮影を開始できる。

本体にはボタンが2つしかなく、左が撮影のスタート&ストップを操作する「シャッター/録画ボタン」、そして右側が電源と動画/写真のモード切り替えの「電源/ファンクションボタン」だ。それ以外の設定はほとんどがタッチ液晶で行える。画面が小さいのでメニュー操作が大変ではないかと思ったのだが、ほとんどの項目は1画面1アイコンの大きな表示で、タップとスワイプで快適に行える。

スマホとドッキングでさらに便利に使える


実際の撮影も簡単だ。電源ボタンを2秒間押して電源を入れたら、あとは撮影スタートボタンを押すだけ。カメラで特定の被写体を追うのもとても簡単。画面上で撮影したい被写体を指でドラッグすると、その中の被写体をパターン認識していつも画面の中心あたりにくるようにカメラが追いかけてくれる。残念なのは、この便利な追従機能が4K撮影時には使えないこと。小型カメラとしてはまだ珍しい、秒間60コマの本格的な4K撮影機能を搭載しているだけに、ここで便利な機能が生かせないのは惜しい。

街などを歩きながらさまざまなものを写したい場合、ジンバルはカメラを左右に振ってもこれをブレとみなして思う方向に向きにくかったりするものだが、こういう場合にはFPVモードに切り替えれば、敢えて速い動きをキャンセルせずに素早い動きでもカメラが思う方向に向きやすくなる。

それでもあちこちにカメラを向けているうちにだんだんとカメラの向きがセンターからずれてしまったと感じた時には右ボタンをダブルクリックすればすぐさま上下左右ちょうど真ん中の初期位置に戻る。そしてタッチ画面右端を指で上下にスライドすれば、カメラの上下向きも調整可能だ。

大きなジンバルでは本体にジョイスティックが装備されていて、これを動かせばカメラの向きが自由に微調整できるものがある。Osmo Pocketにこれがないのは残念だが、スマホを組み合わせると可能になる点には唸らされた。

本体には付け替え式の「USB Type-C/Lightning」端子が搭載されているのだが、専用アプリ「DJI MIMO」をダウンロードしたスマホにこの端子をつなげればOsmo Pocketとスマホがドッキングし、スマホの画面で撮影中の映像をモニターしたり、細かなセッティングも画面で行うことができる。この時、スマホ画面にバーチャルジョイスティックが表示されるので好きな方向に指をスライドさせればカメラの向きがどの方向にでも微調整できてとても便利だった。
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ア字  真言密教の瞑想法  A character: Mantra esoteric meditation method

2020-12-27 18:47:57 | 瞑想

 

 

真言密教の瞑想法


 

 

宇宙の大生命と一体となる「密教の一宇禅」などともいわれ、前に述べた摩詞止観の瞑想にマンダラ(図画)

という目標をあたえたものと思えばよい。(だから、前述の小止観の作法につづいて、この阿字観をやればよいのである)

 喜言密教ではアという文字に神秘的な力があるとしている。どうしてかという論議がいろいろなされているが、ここでは略す。

 弘法大師空海の師、恵果アジャリは、わが心に月輪を観ず月輪の上に阿字を額ず阿字変じて如意宝珠となる宝珠驀法界に遍満して叫に阿字を誦す

 と述べている。

 

 要するにこれを瞑想化したものである。

 満月輪は清らかに澄みきって、清涼寂静の感をわれわれにいだかしめる。

 この清涼寂静の満月輪に、神秘不可思議の力を有する飛宇と、仏法のさとりをあらわす殷ぞとをあわせ、これとわが心をひとつに合致せしめて、わが心を清涼寂静ならしめ、飛宇の不可思議なる力と仏法の~とりとI体になろうとするわけである。

 

そこで、瞑想の目標(本尊)として、満月輪に飛宇と蓮花をえがいた図画を用いる。


作法書をもとに、しろしてみよう。


マンダラを用いる阿字観の行法


 

 月輪の相は一尺一寸二分(約三六・九センチ)にえがいて、月輪の中に蓮花をえがき、その上に驀宇を書いて本尊とする。

 座った座から驀字の中ほどまで、一尺六寸(約五二・八センチ)ばかりのところに本尊をかける。本尊と行者との間隔は、八寸(約二六・四センチ)から四尺(約一言一センチ)までの間なら行者の自由にしてよい。

 

 座にはふとんを敷いて、その上に半珈鉄座で座る。于には法界定印をむすぶ。

座ったら、からだを前後左右へ二、三遍ゆるがしてみて、心にとどこおることのないようにして、耳と肩とひとしく、鼻とヘソとひとしくして、両方の瞳で鼻柱を守るようにする。

 

 鼻柱を守るようにするとは、視線が鼻端の上部を通じて本尊(月輪イの中心にそそがれるようにすることである。舌を上の顎につければ、息もおのずから静かになる。腰はそらず、伏せず、まっすぐに座して、脈道(血液の循環)をよくするようにする。

 次に、数珠を二、三遍摺りながら、礼拝の喜言、

「オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノウ キャロ ミ」をとなえる。

 

次に、護身法(合掌すればよい)。

 

 次は、合掌して五大願をとなえる。

 

 しゆじようむへんせいがんど  ふくちむへんせいがんしゆうほうもんむへんせいがんがく によらいむへんせいがんじ  ぼだいむ

  衆生無辺誓願度、福智無辺誓願集、法門無辺誓願覚、如来無辺誓願事、菩提無

じようせいがんしよう じたほつかいどうりやく

上誓願証、自他法界同利益

 

 次に、胎蔵界五字の真言、アービーラーウンーケンを亘遍となえる。

 

 次に、法界定印をむすんでヘソの前に置き、観念せよ。

 

まず、わが心中に白色円明の月輪あり。月輪の中に蓮花あり。蓮花の上に飛宇あり・本尊の心の飛宇・蓮花・月輪とわが心の飛宇・蓮花・月輪と、衆生の飛

字・蓮花・月輪と平等々々にして不二一体なりと観じて、目を開いて本尊を観、ついで目を閉じてふたたび心中に観ずべし。

 

 このようにして、目を開き、目を閉じて観ずること数遍。

 

 次に観ぜよ。この飛宇・蓮花・月輪しだいに広く、しだいに大にして、三千大千世界ないし法界に周遍すると観じてのち、にわかに本尊と心とを忘れて、無分別



無念無想)に住すべし。

 やや久しゅうして、また観ぜよ。

 

大宇宙に遍満した飛宇・蓮花・月輪をしだいにまきちぢめて、元の一肘量二尺一寸二分)の大きさにおさめ、それを自身の胸の中に安置し奉ると観じる。

 このとき、すなわち、身と心とを忘れて、ただ無分別(無念無想)に住す。そのあと、疲れたるのを期として、定に入った瞑想を止め、念珠を摺って、祈念すべる。

 

次に護身法(合掌でよい)。

 

次に、両手をあわせて祈念せよ。

 おむかえした仏を本宮の浄土に送り奉り、自心の仏を自心の本宮に送り奉ると観じて、のち、大悲心(慈悲の心)に住して道場を出ずべし。以上。

 

口説。


 

 観念瞑想が終わって座を立とうとするときは、座に座ったまま頭から足下に至る

まで、上からしだいに身をなで、脈道をおぎなってから、座を立つようにせよ。そうしないと病を発することがある。

 

だれでもできる阿字観瞑想のやりかた


 

〈呼吸法〉

 阿字観実習中に、三通りの呼吸法があるとされる。

 

 ―、息の出入するごとに、驀を感じる方法

 2、出る息ごとに、驀をとなえる方法

 3、出る息にアをとなえ、入る息に、ウンをとなえる阿吽合観の方法である。

 いずれでもよいが、2の方法がよいように思う。ただし、ア、ととなえるといっても、それは声に出してアをとなえるわけではない。心の中で静かにアの音をとなえるのである。


広観と斂観


 

 この瞑想のいちばんの眼目(急所)は、この。広観”と。斂観”である。

 本尊を観じて行者と一体になった驀宇・蓮花・月輪をだんだん拡大して、ついには三千大千世界、この大宇宙いっぱいにひろげる観想を広観といい、その大宇宙いっぱいにひろがった本尊を、もとの一肘量の大きさに約める観想を斂観という。。斂”とは、ちぢめて小さくするという意味である。

 真言密教のアジャリは、この広観の観想を、本尊のみが宇宙大にひろがっていき、修行者はそれを見ているようなかたちとして解説される。たとえば、行者の眼の前にある阿字観の本尊を、眼をつぶっても、瞼の裏、ないしは胸中にはっきりと見え得るほどに、本尊と不二I体となって観想するのが阿字観

法のありかたであるが、今度はそのように行者と不二I体となった本尊を、だんだんと拡大していき、虚空一杯にひろげて了ったら、その極限はどうなるの

であろうか。結局は、それは無限大のものとなってしまい、眼識、意識等の対象としての条件をなくして了うのである。

 字としてのアの形や、円形としての月輪が見える間は、まだそれは無限大となっていないのである。無限大のものとなるがためには、行者の上方にも、下

方にも、前にも後にも、左右の両横にも、斜前や斜後にも、斜上や斜下にも、すべての方向に本尊がひろがっていかねばならず、人間がその眼識や意識で物

事を認識(にんしき}するためには、そのような十方世界へのひろがりの真只中にあっては、けっしてそれを一定の形として受け取り得なくなるのである。

 人間は自分の後方の文字は読めず、頭上の形は視線を向けねば見えず、まして上下前後左右一挙に物を認識することは不可能である。そこで阿字観の本尊

を無限大にひろげていくことは、阿字観の本尊と行者が不二I体となったまま、ア、蓮、月の形を越えた精神統一の無的境地へと突入するための于段であ

ろうと思う。

 

 それはあたかも、人間の小さな計らいを捨てて、仏陀の無分別智に身をゆだねようとする行為に似ている。―‐-対象を虚空大にひろげてしまったら、その対象は無的になる。無的になった対象を観ずるということは、無念無想、すなわち何も思わぬ状態になることと等しい。観想中に何も思わぬ状態になったとき、人間に体感可能な(体で感じられるのは)自己の心の働きそのものであ

る。                        (大野峻覧『阿字観の手びき』)

 

 なるほど、そうであろうと思われる。しかし、わたくしにはまたべつな見解がある。

 それは、飛宇・蓮花・月輪といっしょに、修行者自身もひろがっていって、大

宇宙いっぱいに遍満してしまうという観想のしかたである。

 

 行者と本尊は不二I体となっているのであるから、本尊が拡大していったら行者

自身もいっしょに拡大していかねばならない。行者だけとり残されてしまったら、

不二I体感が破れてしまって、そのあとの観想がチグハグになってしまう。

 ここはどこまでも不二I体を破らずに行者自身もどんどん拡大していって、大宇宙いっぱいに周遍するのがよいように思われる。

 阿字とはなにかというと、「阿字本不生」といって、ひと口でいうと、本不生とは「宇宙の大生命」「永遠の大生命」といった意味である。その宇宙の大生命のシンボルである驀字・蓮花・月輪の本尊が、いま行者の観想によって生命を吹きこまれ、大宇宙に遍満したのである。

 

 修行者もその大生命と一体になって、いまや大宇宙に遍満する大生命になったと観想するのも生き生きとした瞑想になるのではなかろうか。

 もちろん、大野師の伝統的な解釈もすばらしいし、読者は、そのいずれをもとって、自由に瞑想にふけられたらよろしいと思う。いや、ここのところはあまりむずかしい理屈は考えず、読者は自由にのびのびと心を遊ばせて、宇宙の大生命と一体

になる恍惚感を味わわれるがよろしいのだ。ここにあげた二つの解釈のほかにも、読者は、自由自在、不羅奔放の瞑想を楽しまれるがよい。

 大宇宙いっぱいにひろがった自分―--オヤ、爪さきのあたりを蚊のようなものが飛んでいくぞ、なんだ、ジャンボージェットか、おやおや、ウチの社長が乗っているぞ、なあんだ、ケシ粒みたいなヤツだ、うわっはっはっは、と、ノイローゼもヒステリーも吹きとんでしまう。どえらい企画やアイデアもとび出すかもしれない。

 

〈無分別観〉

 そこで、かんじんなのはここで出てくる無分別観である。

 「……にわかに本尊と心とを忘れて、無分別に住ずべし」

 とある。                  ”

 ここで恍惚感にも似た無念無想の境地に入るのである。ぜったい無我の境地である。

こで、身と心をはなれてしばらく無分別観に入るのである。

心と、阿字本不生の大生命の力と、また仏法のさとりとつねに一体の自分なのである。が、まあ、むずかしい理屈はよいから、理屈ぬきにまず座って、やってごらんなさい。モヤモヤなんぞはどこかにふきとんでしまう。これで、胃カイヨウや高血圧のなおった人が無数にいる。それに、

こせこせしなくなるだけでも気持ちがよいはずだ。

八八もない満月輪のすがすがしく清らか

これによって、阿字観の瞑想からはなれて日常生活にもどったのちも、一点のく

りもない満月輪のすがすい。

 

 

 

 
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ア字  真言密教の瞑想法  A character: Mantra esoteric meditation method

2020-12-27 18:47:57 | 瞑想


 

 

真言密教の瞑想法


 

 

宇宙の大生命と一体となる「密教の一宇禅」などともいわれ、前に述べた摩詞止観の瞑想にマンダラ(図画)

という目標をあたえたものと思えばよい。(だから、前述の小止観の作法につづいて、この阿字観をやればよいのである)

 喜言密教ではアという文字に神秘的な力があるとしている。どうしてかという論議がいろいろなされているが、ここでは略す。

 弘法大師空海の師、恵果アジャリは、わが心に月輪を観ず月輪の上に阿字を額ず阿字変じて如意宝珠となる宝珠驀法界に遍満して叫に阿字を誦す

 と述べている。

 

 要するにこれを瞑想化したものである。

 満月輪は清らかに澄みきって、清涼寂静の感をわれわれにいだかしめる。

 この清涼寂静の満月輪に、神秘不可思議の力を有する飛宇と、仏法のさとりをあらわす殷ぞとをあわせ、これとわが心をひとつに合致せしめて、わが心を清涼寂静ならしめ、飛宇の不可思議なる力と仏法の~とりとI体になろうとするわけである。

 

そこで、瞑想の目標(本尊)として、満月輪に飛宇と蓮花をえがいた図画を用いる。


作法書をもとに、しろしてみよう。


マンダラを用いる阿字観の行法


 

 月輪の相は一尺一寸二分(約三六・九センチ)にえがいて、月輪の中に蓮花をえがき、その上に驀宇を書いて本尊とする。

 座った座から驀字の中ほどまで、一尺六寸(約五二・八センチ)ばかりのところに本尊をかける。本尊と行者との間隔は、八寸(約二六・四センチ)から四尺(約一言一センチ)までの間なら行者の自由にしてよい。

 

 座にはふとんを敷いて、その上に半珈鉄座で座る。于には法界定印をむすぶ。

座ったら、からだを前後左右へ二、三遍ゆるがしてみて、心にとどこおることのないようにして、耳と肩とひとしく、鼻とヘソとひとしくして、両方の瞳で鼻柱を守るようにする。

 

 鼻柱を守るようにするとは、視線が鼻端の上部を通じて本尊(月輪イの中心にそそがれるようにすることである。舌を上の顎につければ、息もおのずから静かになる。腰はそらず、伏せず、まっすぐに座して、脈道(血液の循環)をよくするようにする。

 次に、数珠を二、三遍摺りながら、礼拝の喜言、

「オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノウ キャロ ミ」をとなえる。

 

次に、護身法(合掌すればよい)。

 

 次は、合掌して五大願をとなえる。

 

 しゆじようむへんせいがんど  ふくちむへんせいがんしゆうほうもんむへんせいがんがく によらいむへんせいがんじ  ぼだいむ

  衆生無辺誓願度、福智無辺誓願集、法門無辺誓願覚、如来無辺誓願事、菩提無

じようせいがんしよう じたほつかいどうりやく

上誓願証、自他法界同利益

 

 次に、胎蔵界五字の真言、アービーラーウンーケンを亘遍となえる。

 

 次に、法界定印をむすんでヘソの前に置き、観念せよ。

 

まず、わが心中に白色円明の月輪あり。月輪の中に蓮花あり。蓮花の上に飛宇あり・本尊の心の飛宇・蓮花・月輪とわが心の飛宇・蓮花・月輪と、衆生の飛

字・蓮花・月輪と平等々々にして不二一体なりと観じて、目を開いて本尊を観、ついで目を閉じてふたたび心中に観ずべし。

 

 このようにして、目を開き、目を閉じて観ずること数遍。

 

 次に観ぜよ。この飛宇・蓮花・月輪しだいに広く、しだいに大にして、三千大千世界ないし法界に周遍すると観じてのち、にわかに本尊と心とを忘れて、無分別



無念無想)に住すべし。

 やや久しゅうして、また観ぜよ。

 

大宇宙に遍満した飛宇・蓮花・月輪をしだいにまきちぢめて、元の一肘量二尺一寸二分)の大きさにおさめ、それを自身の胸の中に安置し奉ると観じる。

 このとき、すなわち、身と心とを忘れて、ただ無分別(無念無想)に住す。そのあと、疲れたるのを期として、定に入った瞑想を止め、念珠を摺って、祈念すべる。

 

次に護身法(合掌でよい)。

 

次に、両手をあわせて祈念せよ。

 おむかえした仏を本宮の浄土に送り奉り、自心の仏を自心の本宮に送り奉ると観じて、のち、大悲心(慈悲の心)に住して道場を出ずべし。以上。

 

口説。


 

 観念瞑想が終わって座を立とうとするときは、座に座ったまま頭から足下に至る

まで、上からしだいに身をなで、脈道をおぎなってから、座を立つようにせよ。そうしないと病を発することがある。

 

だれでもできる阿字観瞑想のやりかた


 

〈呼吸法〉

 阿字観実習中に、三通りの呼吸法があるとされる。

 

 ―、息の出入するごとに、驀を感じる方法

 2、出る息ごとに、驀をとなえる方法

 3、出る息にアをとなえ、入る息に、ウンをとなえる阿吽合観の方法である。

 いずれでもよいが、2の方法がよいように思う。ただし、ア、ととなえるといっても、それは声に出してアをとなえるわけではない。心の中で静かにアの音をとなえるのである。


広観と斂観


 

 この瞑想のいちばんの眼目(急所)は、この。広観”と。斂観”である。

 本尊を観じて行者と一体になった驀宇・蓮花・月輪をだんだん拡大して、ついには三千大千世界、この大宇宙いっぱいにひろげる観想を広観といい、その大宇宙いっぱいにひろがった本尊を、もとの一肘量の大きさに約める観想を斂観という。。斂”とは、ちぢめて小さくするという意味である。

 真言密教のアジャリは、この広観の観想を、本尊のみが宇宙大にひろがっていき、修行者はそれを見ているようなかたちとして解説される。たとえば、行者の眼の前にある阿字観の本尊を、眼をつぶっても、瞼の裏、ないしは胸中にはっきりと見え得るほどに、本尊と不二I体となって観想するのが阿字観

法のありかたであるが、今度はそのように行者と不二I体となった本尊を、だんだんと拡大していき、虚空一杯にひろげて了ったら、その極限はどうなるの

であろうか。結局は、それは無限大のものとなってしまい、眼識、意識等の対象としての条件をなくして了うのである。

 字としてのアの形や、円形としての月輪が見える間は、まだそれは無限大となっていないのである。無限大のものとなるがためには、行者の上方にも、下

方にも、前にも後にも、左右の両横にも、斜前や斜後にも、斜上や斜下にも、すべての方向に本尊がひろがっていかねばならず、人間がその眼識や意識で物

事を認識(にんしき}するためには、そのような十方世界へのひろがりの真只中にあっては、けっしてそれを一定の形として受け取り得なくなるのである。

 人間は自分の後方の文字は読めず、頭上の形は視線を向けねば見えず、まして上下前後左右一挙に物を認識することは不可能である。そこで阿字観の本尊

を無限大にひろげていくことは、阿字観の本尊と行者が不二I体となったまま、ア、蓮、月の形を越えた精神統一の無的境地へと突入するための于段であ

ろうと思う。

 

 それはあたかも、人間の小さな計らいを捨てて、仏陀の無分別智に身をゆだねようとする行為に似ている。―‐-対象を虚空大にひろげてしまったら、その対象は無的になる。無的になった対象を観ずるということは、無念無想、すなわち何も思わぬ状態になることと等しい。観想中に何も思わぬ状態になったとき、人間に体感可能な(体で感じられるのは)自己の心の働きそのものであ

る。                        (大野峻覧『阿字観の手びき』)

 

 なるほど、そうであろうと思われる。しかし、わたくしにはまたべつな見解がある。

 それは、飛宇・蓮花・月輪といっしょに、修行者自身もひろがっていって、大

宇宙いっぱいに遍満してしまうという観想のしかたである。

 

 行者と本尊は不二I体となっているのであるから、本尊が拡大していったら行者

自身もいっしょに拡大していかねばならない。行者だけとり残されてしまったら、

不二I体感が破れてしまって、そのあとの観想がチグハグになってしまう。

 ここはどこまでも不二I体を破らずに行者自身もどんどん拡大していって、大宇宙いっぱいに周遍するのがよいように思われる。

 阿字とはなにかというと、「阿字本不生」といって、ひと口でいうと、本不生とは「宇宙の大生命」「永遠の大生命」といった意味である。その宇宙の大生命のシンボルである驀字・蓮花・月輪の本尊が、いま行者の観想によって生命を吹きこまれ、大宇宙に遍満したのである。

 

 修行者もその大生命と一体になって、いまや大宇宙に遍満する大生命になったと観想するのも生き生きとした瞑想になるのではなかろうか。

 もちろん、大野師の伝統的な解釈もすばらしいし、読者は、そのいずれをもとって、自由に瞑想にふけられたらよろしいと思う。いや、ここのところはあまりむずかしい理屈は考えず、読者は自由にのびのびと心を遊ばせて、宇宙の大生命と一体

になる恍惚感を味わわれるがよろしいのだ。ここにあげた二つの解釈のほかにも、読者は、自由自在、不羅奔放の瞑想を楽しまれるがよい。

 大宇宙いっぱいにひろがった自分―--オヤ、爪さきのあたりを蚊のようなものが飛んでいくぞ、なんだ、ジャンボージェットか、おやおや、ウチの社長が乗っているぞ、なあんだ、ケシ粒みたいなヤツだ、うわっはっはっは、と、ノイローゼもヒステリーも吹きとんでしまう。どえらい企画やアイデアもとび出すかもしれない。

 

〈無分別観〉

 そこで、かんじんなのはここで出てくる無分別観である。

 「……にわかに本尊と心とを忘れて、無分別に住ずべし」

 とある。                  ”

 ここで恍惚感にも似た無念無想の境地に入るのである。ぜったい無我の境地である。

こで、身と心をはなれてしばらく無分別観に入るのである。

心と、阿字本不生の大生命の力と、また仏法のさとりとつねに一体の自分なのである。が、まあ、むずかしい理屈はよいから、理屈ぬきにまず座って、やってごらんなさい。モヤモヤなんぞはどこかにふきとんでしまう。これで、胃カイヨウや高血圧のなおった人が無数にいる。それに、

こせこせしなくなるだけでも気持ちがよいはずだ。

八八もない満月輪のすがすがしく清らか

これによって、阿字観の瞑想からはなれて日常生活にもどったのちも、一点のく

りもない満月輪のすがすい。

 

 

 

 
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梵字 阿字  he A-ji  Sanskrit character   siddhamātṛkā, シッダマートリカー

2020-12-27 13:24:55 | 梵字
すべての尊をあらわす(通種子)阿字を、実際に書いてみましょう いままで練
習してきた基本点線画を組み合わせて構成していきます。まず、ア点を正方形の中にきれいにかさるア点す打ち、き(⑥横斜線田の形になf」ま書きます。
次に、⑧湾線画Pを書きます。




Let's actually write the A-ji that represents all the honors (seeds).
We will combine and compose the basic dotted line art that we have learned. First, write a point (⑥ in the shape of a horizontal diagonal line f) by striking the point in a square.
Next, write ⑧ Bay line art P.



そして、③縦線両個を書き、筆を抜かずに続けて鴬点画を書きます。

Then, ③ draw both vertical lines and continue to draw the warbler without pulling out the brush.





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瞑想  講義テーマ 「密教の瞑想法」

2020-12-27 12:57:02 | 瞑想


ダイジェスト版の内容
・何のために瞑想するのか?・真言密教の2つの目的・「阿息観」の実習・「阿字観」の実習・八正道の「正語」について

完全版(2時間13分)では、ダイジェスト版の内容をさらに詳しく説明している他、・教えの本質をつかむ方法・霊的感性について・臨済の言葉・慈悲の祈り、などについて解説されています。
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今日の運勢 12月27日 Today's fortune December 27

2020-12-27 08:04:54 | 運命学

二黒土星の日


 仕事の事、旅行の事、病人の事、などが出やすい日。こみいった事が多い。いそがしい割に成果は少ない。 短慮は禁物。いやな仕事も進んで引き受ける位の気持ちが大切。

気分は上向き、何事も良い結果が得られる日。
自信をもって色々なことにチャレンジしましょう。
多少のリスクがあっても乗り越えられます。

Nikuro Saturn Day


A day when work, travel, sick people, etc. are easy to come out. There are many things that are complicated. Although it is busy, there are few results. Don't be short-sighted. It is important that you are willing to take on unpleasant work.

A day when I feel better and get good results.
Let's challenge various things with confidence.
You can overcome even some risks.
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