猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

佐伯啓思は なぜ それほどに安倍晋三を弁護するのか

2022-11-27 23:05:38 | 思想

日本社会は、いま、安倍晋三の残した負の遺産に苦しんでいる。円安、物価高、政府の借金がGDPの3倍、国際競争力が落ち、この9年間 経済成長なし。それなのに、使途と効果がわからない、バラマキの大型補正予算を求める自民党議員。戦略もなく、敵地基地の攻撃の軍備増強を求める自民党議員。このどうしようもない自民党議員を増やしたのも安倍晋三の負の遺産である。

それなのに、11月25日の朝日新聞紙上で、佐伯啓思が安倍晋三を弁護した。「戦後レジームから脱却」しかない「闘う政治家」の安倍晋三の暴走を許したのは、彼をはじめとする保守論客陣の過ちではないか。

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佐伯は記者のインタビューに答える。

「私自身も〔アベノミクスに〕かなり批判的です。だが他にどんな政策ありえたか。」

「アベノミクスは成功とはとても言えない。ただ失敗と断定するのも難しい。」

後ろ向きに安倍晋三を弁護している。安倍晋三は選挙に勝って左翼を壊滅することしかなかった。電通と組んでキャッチフレーズで国民を騙すことに終始した。

本来、政府がとりうる短期的経済政策は金融政策と財政政策としかない。もちろん、規制緩和のような社会制度を変える政策、あるいは、教育や基礎研究など人に投資するインフラ政策もありうる。しかし、安倍の8年間の政策の実態は経営陣を甘やかしつづけたことである。政治家と結びついていれば、企業経営はなんとかなるという無責任体制が日本経済をダメにした。

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佐伯は現在の日本経済の問題を国民やジャーナリストの責任にする。

「政治家が時代の流れや世論に抗するのは大変難しい。」

「政治家は言えないが、ジャーナリズムなら言える。マスメディアがそうした議論をすれば政治も動くでしょう。だからマスメディアが言うべきです。」

「野党もメディアも安倍政治の批判ばかりやっていたので安倍さんはかわいそうでした。」

世論をリードしたり、新しい時代の流れを作るのは政治家の役割ではないか。

ジャーナリストに責任をなすりつけるが、安倍政権はテレビの自由な発言を抑え込んだではないか。NHKの経営陣を入れ替え、論調を変えた。また、民間テレビの経営陣に対しても、電波割り当ての認可をめぐって脅しをかけた。

安倍晋三は、株価だけでなく、世論をも操作したのではないか。

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佐伯は米国を批判する。

「米国は自由競争を主張しながら実際は明らかに国家資本主義です。」

「一方、日本政府は何もせず民間に任せるやり方でしたが、第2次安倍政権は大規模に米国のまねを始めました。」

「戦後日本の基本的価値観は自民党も含めリベラルであり、近代主義的な価値観です。これにあらがうことができなかった。集団より個人を重視し、人間の合理的作為を信じ、それを超えた神聖な領域は存在しない。」

「〔安倍さん?保守?は〕経済中心にしてしまい、個人主義や金銭主義を拡散しました。」

「戦後日本の場合、万事が米国の受け売りだからでしょう。」

「国家社会主義」とは聞いたことがあるが、「国家資本主義」とは初めてである。米国政府が米国兵器や飛行機を日本政府の売り込んだが、それは、政府要人が米国企業の利益の片棒を担いだのであって、国家が企業経営に介入したのではない。

「日本政府は何もせず民間に任せる」とは本当なのか。日本政府は、「法」でなく、細かい点まで「政令」「省令」で行政指導してきたではないか。日本政府は、企業合併を推進し、また、大企業の税を優遇してきたのではないか。

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佐伯が安倍晋三を弁護するのは、安倍が「戦後レジームからの脱却」を唱えていたからである。「戦後レジーム」とは民主主義と軍事力放棄のことである。

「集団より個人を重視し、人間の合理的作為を信じ」や「個人主義や金銭主義を拡散」とあるから、佐伯が民主主義を特に敵視しているのがわかる。

民主主義の基本は個人にリスペクトを払うことと、個々人間の対等な関係の確立である。佐伯は個人より集団を重視したいようだが、集団の意思とは何であると佐伯は考えているのだろうか。

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米国系の企業にいた私が社内研修で教わることは、企業内やその周り(顧客、株主、納品業者)に利害の異なる複数の集団(ステークホルダー)がいることである。マルクス主義では階級による利害の違いが強調されるが、実際にはもっと複雑に利害集団がわかれていると教わる。利害の異なる集団のあいだで、如何に交渉するか、如何に協調するかを重視することを教わる。

米国とか欧米諸国と言っても、国内が、1つの考え方、1つの利害でまとまっているのではない。日本国と同じように、各国に、いろいろな集団がいて、いろいろな利害の対立を抱えている。

民主主義の社会では、社会が個人からなるという現実にたって、社会として機能していくためにどうするかを論じる。保守論客の考えるような、個人より集団を重視すれば良い、という単純な問題ではない。

佐伯は「近代主義の価値観」や「個人主義」に劣等感があるのはないか、と私は疑いたくなる。


精神科「強制入院」を可能とする精神保健福祉法の政府改正案

2022-11-18 13:00:52 | こころの病(やまい)

この11月9日に、政府自民党は精神保健福祉法の改正案を国会に提出した。その問題点は、精神科病院に患者を本人の意思に反して強制入院させる「医療保護入院」「措置入院」が、削除されていないことである。そればかりか、これまで本人の意思に反して家族の同意によって行われていた「医療保護入院」が、改正案では、家族が意思表示しない場合でも市町村長の同意で入院を可能とするものである。

本人や家族が入院を求めていないのに、誰が入院を求めるのだろうか。本人は犯罪者でない。「保護」という名目での社会からの隔離してよいのだろうか。それに、市長村長が患者の入院か通院かを判断できるはずがない。

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3カ月前に、2014年に批准した「障害者権利条約」に基づき、日本政府がどのような取り組みをしてきたか、国連障害者権利委員会が審査した。そして、9月9日に出された報告書で、改善を勧告された1つが、「強制入院」の裏付ける法律の廃止であった。

東京新聞は10月28日の社説でつぎのように指摘している。

<改正案を作成した厚生労働省は当初、有識者検討会で「医療保護入院の将来的な全廃を視野に」と説明していたが、病院団体の反対で「信頼できる入院医療の実現」へと方向転換した。>

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私の子ども時代、私の住む田舎町で、もっとも裕福なのは、精神病院を経営する一族であった。子どもをしかるとき、親は、その病院に入院させると脅したものである。

昔、これは全世界で共通する問題であった。精神疾患者を強制的に社会から隔離し、精神科の劣悪な病棟に閉じこめた。患者の人権が無視されていたのである。

1960年代にはいると、アメリカでは、劣悪な環境に閉じ込められた精神疾患者を解放せよという社会運動が起き、精神疾患に効く薬の開発とあいまって、入院ではなく、通院があたりまえになった。患者の意思が尊重されるようになった。

ところが、日本では、1964年のライシャワー事件以降、精神疾患者に対する精神科病院への隔離収容の強化に傾いた。「ライシャワー事件」とは、その年の3月24日、米国駐日大使ライシャワーが、精神科治療歴のある19歳の若者に右大腿部を刺され重傷を負った件である。

私のいた理学部物理学科は、病院と面しており、1968年、毎日通学するとき、「閉鎖精神病棟粉砕」の立て看板を目にした。閉鎖病棟の中で、患者の虐待、生体実験が、「精神医療」の名のもとで行われていたのである。

精神疾患者を入院から通院に変えようと運動していた医局員、学生を医学部が処分したことに対する抗議が、東大闘争の発端である。私は東大闘争で日本が変わっていくものかと思っていた。

ところが、そうではなかった。

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1984年に宇都宮病院事件が起きる。

前年に、報徳会宇都宮病院の虐待を面会者に伝えたとして、入院患者が職員にリンチされ、死亡した。翌年、新聞にスクープされ、院長と4人の職員が殺人、暴行、詐欺の容疑で逮捕された。それだけでなく、宇都宮病院の死亡患者の脳が、普段から、東大医学部の武村信義医師に送られ、脳研究に使用されていたことが、発覚した。

これを転機に閉鎖病棟廃止の動きが日本でも再燃した。

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しかし、形式的な改善にとどまっていて、精神疾患者を社会から隔離するという実体は変わっていない。

いま、入院患者のほとんどは、本人の意思に基づかかない「医療保護入院」である。

きのう11月17日の朝日新聞によれば、「医療保護入院は2001年度は11万930件だったが、21年度時点も13万940件と高止まりしている」。

また、9月30日のNHKの時事公論で、解説員が「精神科病院の入院患者数は、厚労省の調査によると2020年はおよそ29万人。平均入院日数は277日とOECDのなかでも突出しており、特異な状況」と言っている。補うと、OECD Health Statistics 2020によれば、人口1,000 人当たり精神病床数は、日本がOECDのトップであり、2番目のベルギーの約2倍、9番目のフランスの3倍である。イタリアでは、精神疾患者を病院に閉じこめることが禁止されている。

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患者が密室に閉じこめられれば、虐待が起きてしまう。入院か通院かは本人の意思にもとづくという慣習を日本に確立しないといけない。現在の法でも、病院は、入院患者が外と連絡できる手段を用意しないといけないのに、数年前の朝日新聞に、精神病院の半分で病棟に公衆電話が置かれていなかったという報道があった。

NHK時事公論の解説員が「私はネット中継で(国連の)審査を見ていたのですが、質問と回答がかみ合わない場面が多く見られました。象徴的だったのが障害のある人が施設を出て地域で暮らすことや精神科病院の退院支援について問われたときの厚生労働省の回答です。『日本の施設は高い塀や鉄の扉で囲まれてはいない。桜を施設の外や中で楽しむ方もいる』」と述べていた。政府や役人の人権意識がとっても低いのである。

他の先進国では、精神疾患者も入院でなく通院ですむことが明らかになっている。ところが、日本では、津久井やまゆり園殺傷事件、京アニメ放火事件、大阪の診療所放火事件のため、また逆風が吹いたようである。

アメリカの精神医学会の精神疾患の診断・統計マニュアルDSM-5 に、次のようにある。

<敵意と攻撃性が統合失調症に伴うことがある。しかし自発的あるいは突発的な暴力行為はまれである。(中略)統合失調症をもつ人の大半は攻撃的ではなく、一般人口よりも高い頻度で暴力の犠牲者となっていることである。>

私は、自分の経験から、地域社会の差別・排除が精神疾患者を生むと思っている。地域社会は異質の者を抑圧し、排除する傾向がある。

政府が率先して精神疾患者の人権を守るべきなのに、自民党や精神病院経営者に押されて、強制入院を正当化する改正を行おうとすることに、私は反対する。


だらしない岸田文雄、安倍晋三の死を活かしきれていない

2022-11-08 23:08:04 | 政治時評

一週間前の月曜日の夕刊に、元首相の大平正芳を讃え、岸田文雄を叱る佐藤武嗣の記事『時代を先取りした「総合安保」 宏池会の先達の広い視野』がのった。

確かに岸田文雄はだらしない。岸田は9月に「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」を立ち上げたが、「生前の安倍晋三元首相らに配慮して自ら議論を主導もせず、年末までの新戦略策定が迫るなかで、有識者会議をにわか作りしても、熟議は望めない」と佐藤は指摘する。

岸田は大平の作った宏池会の後継者にあたる。安倍は福田赳夫の作った清和会の後継者にあたる。大平は国力の柱を経済力に据え、福田は国力を軍事力に据えた。大平はアメリカ頼りの日本経済から脱却するため、東アジア、東南アジアとの関係改善を図った。福田は日本の再軍備のために、戦後レジームの脱却、憲法改正、愛国教育を追い求めた。大平と福田は自民党内の主導権を争って、大平が死ぬまで手を携えることがなかった。総裁選での争い、四十日抗争などが語り継がれている。

岸田は、こともあろうに、安倍政権の外相になり、自分に政権が禅譲されることを待った。岸田には、大平と福田の抗争がわかっていない。

今年の2月24日に始まったロシア軍のウクライナ侵攻で、「核による抑止力」はまったく意味を持たないことが明らかになった。アルマゲドン(最終戦争)を避けるというだけで、戦争そのものは日常的に行われている。

日本が「抑止力をもつ」ということの意味も検討されていない。自民党は抑止力というが、仮想敵国はどこで、どれだけの戦力が必要なのか、それにいくらかかかるのかが、議論されていない。

北朝鮮は、アメリカを仮想敵国としているが、アメリカに核爆弾を打ち込むような技術をもっていない。また、アメリカは国土が広いから、将来、技術を確立できたとしても、アメリカ全体に攻撃をかけれるほどの核爆弾とミサイルを製造できるほどの経済力をもちあわせていない。北朝鮮は先制攻撃を仕掛けれない。起こりうることは、窮鼠猫を噛む、ぐらいである。

中国は日本の3倍のGDP(国民総生産力)をもつ経済大国である。人口は日本の10倍はあるから、いずれ、アメリカのGDPを抜き、日本のGDPの10倍をもつだろう。中国に負けない軍事力を日本がもつことは、どだい無理である。

日本の経済力は世界ではたかがしれている。国と国との紛争を軍事力で解決しようとすれば、無理である。とすれば、わざわざ、軍事力で物事を決めようという意思表示は、外に向かってするのは愚の骨頂である。正義というものが軍事力に負けることを知っていても、日本は、相手を正義は何かという議論に持ち込むしかないのである。それに、日本は勝たなくても、負けなければ、それでいいのである。

国力に経済力があるのと同じく、メッセージ力、ブランド力があるのだ。現実の国は、支配者層と被支配者層とからできている。相手の被支配者層に、相手を武力で支配しない、平和を愛している、というメッセージを伝えることだ。また、国内では、民主主義が行き届いており、みんな平等で、幸せに暮らしているというイメージを持たれることがだいじである。

外交においては、相手の立場を理解して寛容でなければ、大国とやっていけない。

中国だって今以上に豊かになりたい。ヨーロッパと陸路で結ばれたいというのは、無理のない要求である。中国の一路一帯というスローガンを私たちは非難できない。

また、中国が太平洋に出てくるのも、ある程度、認めないといけない。アメリカ軍は、台湾・韓国・日本の軍事基地で、中国を取り囲んでいる。それに対し、中国はアメリカを取り囲む軍事基地をもっていない。明らかに不平等である。

日本のメディアは、安倍派に取り込まれており、今年なって、防衛省の防衛研究所所員、元自衛隊幹部がでてきて、危機を煽っているが、その危機への対応は軍事力一点張りである。せっかく、安倍晋三が殺害されたのだから、「戦後レジームの脱却」の妄想から抜け出ないといけない。岸田文雄はしっかりしろ。