猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

佐伯啓思のいう「リベラルな価値」は変である

2024-10-05 23:56:41 | 思想

佐伯啓思は欧米の思想・文化にコンプレックスをもっていて、自分の被害妄想を広めているので、私は彼が好きでない。今回の朝日新聞〈異論のススメ〉も、タイトルが『自民党は保守なのか』なのに、副題は『米と「リベラルな価値」を共有しても 異なる歴史観』である。多義的な意味をもつリベラルという語を持ち出して、自分の妄想をもって欧米の思想・文化を排斥するというのは、160年前の「尊王攘夷」の論者と何も変わらない。

単語「liberal」をOxford英英辞書を引くと、

  1. giving generously, 2, given in large amount, 3. not strict, 4. broadening the mind in a general way, 5. tolerant, open mind

とある。ここには「自由主義者の」という意味はない。英国では、リベラルは、「太っ腹の」「こころの広い」という意味である。トマス・ホッブスの『リヴァイアサン(Leviathan)』を読んでも、自由はlibertyで、liberalは「太っ腹の」の意味で使っており、金持ちは太っ腹でないと殺されるとの文脈で使っている。

日本語の「リベラル」は、どうも米国のliberalから来ているようだ。

J. ガルブレイスの『ゆたかな社会(The Affluent Society)』では、liberalsはconservativesと対になって使われている。みすず書房の鈴木鉄太郎訳では、liberalsを「自由主義者」、conservativesを「保守主義者」と訳している。しかし、対になっているから、「改革派」と「保守派」というニュアンスであろう。自由市場に政府が介入するニューディールの推進派をリベラルと呼んでいる。

また、岡山裕の『アメリカの政党政治』(中公新書)を読むと、1868年の大統領選挙の後、共和党のリベラル派は「共和党は改革の党であることをやめたとして、リベラル・リパブリカン党を立ち上げ」とある。この場合も「改革派」である。

「リベラル」は、その時点までの主流に対抗する政治的あるいは経済的立場を表わすだけなので、どうしても多義的になる。しばしば反対の思想的立場さえ、リベラルと称することがある。「リベラル」でひとまとめにするのは控えるべきである。

もとに戻ると、佐伯は「リベラル」をつぎのように使っている。

「冷戦における自由主義陣営の勝利は、米国を中心とした世界規模の市場を生み出し、また、自由・民主主義・法の支配、といったこれも米国流の「リベラルな価値」の世界化をもたらした。」

「米国にとって、近代の戦争はすべて「リベラルな価値」を守るための「正義の戦争」なのである。」

「このような歴史観を表明したのは、「ネオコン(ネオコンサーバティブ)」つまり「新保守派」と呼ばれる知識人や政治家であった。」

佐伯は、コンサバティブ(conservatives)がリベラルな(liberals)価値を表明したと言っている。完全に、日本語の理解で語っていて妄想である。また、「自由・民主主義・法の支配」が「米国流のリベラルな価値」だというのも変である。

さらに、「自由主義陣営」というのも日本の保守派のことばで、liberal blocもliberal campも和製英語である。英語では「Western Bloc」「Capitalist Bloc」を使う。これらは、冷戦期に共産主義陣営に反対する諸国のことを言う。

佐伯はこう結論する。

「日本の指導者は、ことあるごとに「日米は価値観を共有している」という。それは、「リベラルな価値」の普遍性を実現するという「ネオコン型」の歴史観の共有ということである。」

確かに自民党執行部が「日米は価値観を共有している」というが、これは、「米政府の意図に日本政府は逆らわない」という言明にすぎない。日本企業が米国市場から締め出されないために、自民党執行部がなさけない発言を繰り返している点については、私は佐伯と同感である。自民党は本当になさけない。


政治不信、代議制民主主義の機能不全をどう克服するのか

2024-07-21 21:50:43 | 思想

1週間前にドナルド・トランプが銃撃されてから、メディアでは、政治の場で暴力に訴えてはいけないという論調が増えている。確かに暴力で正義が実現されるわけではない。しかし、現状の代議制民主主義で正義が実現されているわけでもない。

現在の政治不信は、多くの人にとって自分の意見を代弁する代表が政治の場にいないことと私は考える。政治家にたいする不信である。

2年前の安倍晋三殺害事件の直後の参議員選では、NHK党から立候補したガーシーが当選した。私がNPOで7年間担当している青年は、安部の死に動揺し、はじめて投票権を行使したが、ガーシーに投票した。このときの投票率は52%である。

今月初めの都知事選は彼は投票しなかった。誰に投票したら分からないから棄権したという。選挙結果は、蓮舫を抑えて、石丸伸二が2位になった。

1週間前の朝日新聞に、石丸の選対事務局長のインタビュー記事が載っていた。それによると、街頭演説では具体的政策を何も言わずに、自己紹介に徹したという。ガーシーと同じ戦術である。

現在の政治不信は、政治家に対する漠然とした不信かもしれない。政策なんて誰も聞いていないようだ。

しかし、そもそも、政策で代表を選ぶなんて、できるのだろうか。議会で審議される内容は多岐にわたる。自分たちの代表を選ぶということは、自分たちの利益を守ってくれるだろうという期待しかない。誰にも期待していなければ、目立つオカシナ奴に投票するということになる。

ハンナ・アーレントは、このような状況を階級社会の消滅と言っている。社会には格差が蔓延しており、資本家や経営者は現に存在し、経済や法律の専門家を雇って、自分たちの利益を最大化する政策を立案し、政権に要請している。そのために、自民党にお金があつまる。

階級社会の消滅とは、抑圧されている集団、不等な扱いを受けている集団が、集団としての自己意識を持たず、政治の舞台に参加していない状態である。

正しくは、階級は消滅したのではなく、階級意識をもっている集団と階級意識をもたない集団とで社会が構成されただけである。現実には、社会に不正が蔓延しているが、集団としてそれを抑える意志が政治の場で働かない状態に陥っている。この中で、組織性をもたない「テロ」という暴力事件が起きていると私は考える。

この代議制民主主義の機能不全は、政策で代表を選びましょうでは、解決しない。集団としての自己意識を育てるような文化活動が社会に必要であると考える。


佐伯啓思の『異論のススメ』に異論、彼は偏見を広めている

2024-06-29 22:39:46 | 思想

私は、どうして朝日新聞の編集部がいつも佐伯啓思に戯言を述べさせるのかわからない。彼は、『異論のススメ』と言って、いつも、欧米の民主主義、普遍的価値、一神教の悪口を言って、社会に偏見を広めている。今回は「一神教」を非難している。

彼が悪く言う「民主主義」とは、「代議制民主制」であり、「民主主義」でない。歴史的には、ヨーロッパの議会制は人々を抑え込むために導入したものである。しかし、暴力が政治の前面に出るよりは、選挙と言う平和的なやり方のほうがましである。ハンナ・アーレントの言うとおり、人々の政治への無関心を打ち破る地道な努力が求められる。統治者と統治される者は政治的にも社会的にも経済的にも対等ではない。統治される者は、より高い自己意識と権利意識が求められる。

人間社会は利害の対立する集団からできている。その集団を階級と呼んでも良いし、民族と呼んでも良い。それらの間で妥協が成立するには、何か「普遍的な価値観」が必要となる。したがって、「普遍的価値」の中身が問題で、「普遍的価値」を求めること自体が悪いのではない。「普遍的価値」は「絶対的真理」ではない。

「一神教」も「多神教」も優劣があるのではない。問題は宗教を信じるという行為の危険性である。統治者は人間の宗教を信じる特性を利用するからだ。

「一神教」といっても、いろいろある。

ユダヤ教の神は「民族の守り神」である。ユダヤ教の神は「ヤハウェ」という個人名がある。ユダヤ人はほかの神に尽くしてはいけないというのが、ユダヤ教の本質である。長谷川修一やトーマス・レーマーが述べているように、国を失ったユダヤ人が団結を保持するためにヘブライ語聖書書(旧約聖書)は書かれたものである。いわば、偽書である。

20世紀前半に生じたユダヤ人問題は、ユダヤ人社会が取り巻く社会に同化を進めていたにもかからわず、中欧、東欧で起きた民族主義運動が、ユダヤ人の同化を拒否し、排除し、絶滅に手を貸したことである。ドイツのナチス政権だけでない。ポーランドやウクライナの民族主義者も手を貸したのである。

このとき、英国や米国の政府は、ユダヤ人の避難民に冷たかった。受け入れを絞った。それが、1948年のパレスチナのユダヤ人の国、イスラエルの建設につながったのである。国連はその前年にパレスチナの地をユダヤ人とアラブ人に2分すると決議している。この国連決議を破って、イスラエルはパレスチナの全土を占領しており、先に住んでいたアラブ人を高い塀に囲まれた狭い土地に閉じこめている。これがガザやヨルダン川西岸の現実である。

「平等」「自由」は人間にとって普遍的価値であるはずに、守られなかったことに、現在のパレスチナ問題がある。

これは「一神教」という問題もでない。「多神教」のヒンドゥー教のモディ政権もインド国内でイスラム教徒を抑圧するという問題が起こしている。40年前に、インドから来ているポストドクターからインド政府の横暴の話を私はカナダで聞いている。

人間の心には強欲さや残忍さが潜んでいる。いや、潜んでいるのではなく、それに突き動かされている人間もいる。民族の歴史意識の問題ではない。

佐伯啓思の次の結論は、私にとって、決して受け入れることのできないものである。

「日本の歴史意識の希薄さをわれわれは自覚すべきである。と同時に、21世紀おいてもなお一神教的世界が作り出した歴史観が世界を動かしていることを知るべきである。」

彼は偏見を広めるデマゴーグである。


「日本人」を決めるのは、血?国籍?それとも見た目?

2024-04-13 20:33:23 | 思想

3日前の朝日新聞〈耕論〉で、『「日本人」を決めるのは』をテーマに3人が論じていた。めずらしく3人の論者の方向が一致していた。

17年前から日本に暮らす文筆家のマライ・メントラインは「多様なルーツを持つ日本人が増えた現在、こうした「ザ・日本人」像の押し付けは、マイクロアグレション(何げない差別)」であると言う。

カメルーン生まれの星野ルネは「(僕は)あえて言うなら「アフリカ系関西人」」「いろいろな日本人がすでにいるのだから、その人たちの人生を見て、それから「日本人とは」という話しをすればいい」と言う。ステレオタイプな色メガネを通してみるのではなく、個人としての自分を見て欲しいと言っているのだと思う。

私と同じ年に生まれた老人の社会学者の福岡安則は「日本人とは何か。それは定義不能」と言う。

私も、定義不能なのに「自分が典型的な日本人だと信じる」のは集団妄想だと思う。精神分析家のウィルフレッド・ビオンが、自己愛の未成熟な人々の集まりは、強烈な自信の持ち主に引きずられ、集団妄想を抱きやすいと言ったらしい。ヒトラーに率いられた1930年代のドイツ、ネタニヤフ政権下の現在のイスラエル、プーチン政権下のロシアも、そうではないか、と思う。

集団妄想は、国のレベルでも起きるし、町や村のレベルでも起きるし、学校や塾や会社でも起きる。差別やいじめの要因となる。

私は、ナショナリズムは自己愛の欠如からくる個人の劣等感の現われ、と思う。早速、確認のために、ビオンの著作を図書館に予約した。

メントラインは「(ドイツも)1999年の法改正で出生主義の要素も採り入れました」と言う。これも、大事な指摘で、国籍を「血統」で決めるべきではない、ということである。

ナチスは、何代も前にキリスト教に改宗していても、ユダヤ人の血が流れているとの理由で、一緒に暮らしていたユダヤ人を強制収容所に送った。

日本人か否かを、血統で決めるべきでも出生地で決めるべきでもない。

民主主義(democracy)の語源 δημοκρατία の δημο は、もともと「地域」を意味する言葉であった。「血統」と対立する言葉である。どの両親のもとに生れたかでなく、同じ地で暮らすものはみんな平等であるというのが民主主義である。

メントラインは、日本の首相が「国民の皆さん」と呼びかけるが、ドイツの政治家は“Mitbürger”と呼びかけると言う。その意味は「ともに暮らす人々」と言う。血統や出生地が日本人であることを決めるのではない。ともに暮らしているという事実が大事なのである。ともに暮らしているのだから、その地の政治に参加できねばならない。


佐伯啓思の『トランプ現象と民主主義』

2024-04-02 18:28:58 | 思想

佐伯啓思が、また、朝日新聞の〈異論のススメ〉で「民主主義」を批判している。前回は「民主主義は非効率で滅びの道に進む」と批判していた。

今回も、佐伯は、民主主義は価値の相対主義を前提とし、最終的に数のよって意思決定する政治体制とする。このことが、大衆に媚びるポピュリストや大衆をだますデマコーグや不寛容な正義の絶対化(ポリティカル・コレクトネス)が生じると批判する。

この佐伯の論理は、大衆がバカだ、とする伝統的な西洋の保守思想に基づいている。大衆がバカなら、だれがバカでないか、私は、彼に聞き返したい。逆に、私は、大衆がそんなにバカでないから、自民党政府が小中高を通して道徳教育を強制し、「君が代」と「日の丸」に涙するよう、子どもたちを洗脳していると思っている。

佐伯は、今回、プラトンも民主主義を相対主義として批判していると書いている。ちょっと違うのではないか、と私は考える。また、プラトンはソフィストを批判しているとする。これも、本当はプラトン自身もソフィストだと思う。プラトンも平気で詭弁を使う。

バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』(第12章~第17章)によれば、プラトンは、戦争で勝ったスパルタに仕えるアテネの有力一族に属し、スパルタを理想に『Πολιτεία』(岩波文庫では『国家』)を書き上げた、という。

プラトンは『Πολιτεία』の中で確かに民主主義を批判している。しかし、プラトンの視点は佐伯のそれと異なる。プラトンは言う。

「貧しい人びとが闘いに勝って、相手側の人々のうちのある者は殺し、あるものは追放し、そして残りの人々を平等に国制と支配に参与させるようになったとき、民主制(δημοκρατία)というものが生まれる」(第8章557A)

「この人々は自由であり、またこの国家には自由が支配していて、何でも話せる言論の自由が行きわたっているとともに、そこで何でも思いどおりのことを行うことが放任されている」(同557B)

「さまざまの国制のなかでも、いちばん美しい国制かも知れない」(同557C)

そして、プラトンは、民主制国家は「自由」を善と規定するので、その自由放任が民主制を崩壊させると言う。一番うるさく話す奴が指導者になって、もてる人々から財産を取り上げて、大部分を自分で着服したあと、残りを民衆に分配し、僭主(独裁者)となると言う。

すなわち、民主制の自由放任が独裁者を招くからいけないとプラトンは言っており、「人々を平等に国制と支配に参与させる」自体を悪いとは言っていない。

民主制国家は人びとにとって居心地が良いのだから、大衆をバカにするより、どうしたら、独裁者を招かないようにしたらよいか、考えた方がよいと私は思う。

実際には、プラトンの言うほどは、民主制が自発的に崩壊して、独裁制に移行することはなかった。

M.I.フィンリーは『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)で、ギリシアの民主制は約300年近く続いたと言う。

また、ローマ帝国は君主政ではなく、共和政なので、これを民主政に含めれば、地中海沿岸の古代民主制社会は民族移動の波に飲み込まれるまで続いたともみることができる。