2日前(1月29日)に、朝日新聞『〈耕論〉韓国司法なぜ覆す』で、韓国の司法が日本企業や政府の戦前の行為を裁くことについて、小此木政夫、内田雅敏、山田哲也の3人が論じていた。
小此木政夫、内田雅敏、山田哲也の3人が、それぞれの立場から、控えめに安倍政権の対応に非を唱えていたが、私は同意するとともに、安倍晋三の非をもっと強く責めてよいと思う。安倍の国家主義的な偏狭な世界観のために、韓国人と日本人の良好な関係を築く絶好の機会を失ったと私は考える。
私は、韓国人が戦前の日本の行為に対して損害賠償を韓国の裁判所に訴え、裁判が行われることに、日本人がとやかく言う権利はないと思う。日本政府がその裁判に参加せず、また、企業に参加させないことのほうが、ずっと問題であると思う。また、判決を覆すために、あとで、日本政府が経済制裁を加えるということは、韓国の司法制度を否定することになるから、反対である。
訴訟を受けてたたないということは、はじめから、自己の罪を認めることになる。じっさい、有罪になることを日本はしてきたのであるから、罪をはっきり認めて謝り、「未来志向の韓国人と日本人の新しい関係」を裁判で訴えれば良かったと思う。そのほうが、互いに、わだかまりを生まず、現実的な判決もでてきたであろう。
加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)を読むと、明治時代に、韓国、清国(今の中国)にも近代化の波が押し寄せ、「立憲君主制」が目指されたとある。
〈1897年10月、朝鮮は、大朝鮮国だった国号を大韓帝国に変え、種々の近代化を目指した改革を行います。99年には憲法ともいうべき九ヵ条の大韓帝国官制を発布している。その第1条には「大韓帝国は世界万国の公認したる自由独立の帝国なり」との文句が見えます。〉p.178
〈19世紀末の1898年、戊戌の変法というのですが、清朝の開明的な一部の勢力によっていくつかの改革が進められました。〉p.187
〈韓国においても、1897年に大韓帝国ができ、99年に憲法ができている。この頃は同時代的な変化が起きていたといえます。〉p.187
このような極東の状況の中で、日本政府は1894年に日清戦争を行い、1904年に日露戦争を行い、1910年に韓国を併合する。
しかも、日清戦争直後の1895年には、日本陸軍は韓国の王妃を暗殺している。
〈朝鮮の朝廷内では、日本側に不満をもっていた勢力が閔妃(明成皇后)のもとに集まるようになります。また、朝鮮政府内にもロシアに接近しようとする親露派が多くなりました。〉p.177
〈これに驚いた日本側が行った行為はひどいものでした。講師として赴任して三浦梧楼は、もともと陸軍中将でした。三浦は大院君をふたたび擁立しようとして、公使館守備兵などに景福宮に侵入させ、なんと、閔妃暗殺事件を起こしたのですね。〉p.178
当時の維新の元老、山縣有朋、伊藤博文は、日清戦争、韓国併合に反対であったが、幕末の動乱を経験していない新時代の軍人、官僚は元老の意見を聞かず、列国に追いつけと、暴力的に領土拡張をはかる。その後、日本は、満州国建設、日中戦争、日米戦争に走る。そのなかで、属国とした韓国のひとびとを日本がなす戦争に動員する。この文脈で、韓国人の徴用工、慰安婦の問題をとらえなければならない。
昭和天皇は、戦後、日本が領土の45%を失った、先祖の天皇にどうお詫びしようと嘆く。このことは、戦前の日本は、日清戦争、日露戦争、韓国併合、第1次世界大戦、満州国建設と、武力で、国土を2倍近くに広げたのである。
2015年の戦後70年安倍談話では、「列国」がみんな他国を侵略していたから、日本もしたのだと言っているが、それが、韓国人に通用するか否か、真面目に考えれば、通用しないとわかることだ。安倍政権は、通用しないと思ったから、韓国の裁判で申し開きをしなかったのだ。20世紀にはいると、英米は武力による極東の征服をやめ、貿易を通してのソフトな収奪に変わる。日本の直接的な侵略は、欧米からの批判の対象になった。
国と国との条約が「正義」に優先するという日本政府の主張もおかしい。米ソの冷戦下で、クーデターで成立した軍事独裁政権、朴正煕が、国民を代表していたとは言えず、そのもとで結ばれた1965年の条約に、韓国の国民が縛られるとはいえない。