猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

佐伯啓思の『異論のススメ』に異論、彼は偏見を広めている

2024-06-29 22:39:46 | 思想

私は、どうして朝日新聞の編集部がいつも佐伯啓思に戯言を述べさせるのかわからない。彼は、『異論のススメ』と言って、いつも、欧米の民主主義、普遍的価値、一神教の悪口を言って、社会に偏見を広めている。今回は「一神教」を非難している。

彼が悪く言う「民主主義」とは、「代議制民主制」であり、「民主主義」でない。歴史的には、ヨーロッパの議会制は人々を抑え込むために導入したものである。しかし、暴力が政治の前面に出るよりは、選挙と言う平和的なやり方のほうがましである。ハンナ・アーレントの言うとおり、人々の政治への無関心を打ち破る地道な努力が求められる。統治者と統治される者は政治的にも社会的にも経済的にも対等ではない。統治される者は、より高い自己意識と権利意識が求められる。

人間社会は利害の対立する集団からできている。その集団を階級と呼んでも良いし、民族と呼んでも良い。それらの間で妥協が成立するには、何か「普遍的な価値観」が必要となる。したがって、「普遍的価値」の中身が問題で、「普遍的価値」を求めること自体が悪いのではない。「普遍的価値」は「絶対的真理」ではない。

「一神教」も「多神教」も優劣があるのではない。問題は宗教を信じるという行為の危険性である。統治者は人間の宗教を信じる特性を利用するからだ。

「一神教」といっても、いろいろある。

ユダヤ教の神は「民族の守り神」である。ユダヤ教の神は「ヤハウェ」という個人名がある。ユダヤ人はほかの神に尽くしてはいけないというのが、ユダヤ教の本質である。長谷川修一やトーマス・レーマーが述べているように、国を失ったユダヤ人が団結を保持するためにヘブライ語聖書書(旧約聖書)は書かれたものである。いわば、偽書である。

20世紀前半に生じたユダヤ人問題は、ユダヤ人社会が取り巻く社会に同化を進めていたにもかからわず、中欧、東欧で起きた民族主義運動が、ユダヤ人の同化を拒否し、排除し、絶滅に手を貸したことである。ドイツのナチス政権だけでない。ポーランドやウクライナの民族主義者も手を貸したのである。

このとき、英国や米国の政府は、ユダヤ人の避難民に冷たかった。受け入れを絞った。それが、1948年のパレスチナのユダヤ人の国、イスラエルの建設につながったのである。国連はその前年にパレスチナの地をユダヤ人とアラブ人に2分すると決議している。この国連決議を破って、イスラエルはパレスチナの全土を占領しており、先に住んでいたアラブ人を高い塀に囲まれた狭い土地に閉じこめている。これがガザやヨルダン川西岸の現実である。

「平等」「自由」は人間にとって普遍的価値であるはずに、守られなかったことに、現在のパレスチナ問題がある。

これは「一神教」という問題もでない。「多神教」のヒンドゥー教のモディ政権もインド国内でイスラム教徒を抑圧するという問題が起こしている。40年前に、インドから来ているポストドクターからインド政府の横暴の話を私はカナダで聞いている。

人間の心には強欲さや残忍さが潜んでいる。いや、潜んでいるのではなく、それに突き動かされている人間もいる。民族の歴史意識の問題ではない。

佐伯啓思の次の結論は、私にとって、決して受け入れることのできないものである。

「日本の歴史意識の希薄さをわれわれは自覚すべきである。と同時に、21世紀おいてもなお一神教的世界が作り出した歴史観が世界を動かしていることを知るべきである。」

彼は偏見を広めるデマゴーグである。


宇野重規や論壇は現在の代議制民主政に危機意識をもって解決を模索すべき

2024-06-28 11:31:37 | 民主主義、共産主義、社会主義

きのうの朝日新聞《論壇時評》に、宇野重規が『分極化で求められる「政治」の力』を書いていたが、表層的で私にとって満足いかないものであった。もう少し、現在の代議制民主政に危機意識をもつべきである。宇野がなさけないのか、論壇がなさけないのか、それとも、両方ともなさけないのか。

日本の選挙の投票率は毎年下がっている。現在、国政選挙の投票率は50%前後である。地方選挙の投票率は40%前後である。自分の代理人を選ぶことに無関心な あるいは あきらめている国民が半分もいるのだ。

今年の4月、手製の銃を作成した若者を千葉県警が逮捕した。彼は銃マニアではない。手製の銃はパイプ銃で、販売されている銃のようなカッコよさはない。彼は、「日本の政治を含め、世の中に失望した。こんな国にした者らを攻撃することを考えていた」と警察に話したという。

今年、政治パーティでの収入を自民党議員が裏金化していることが、明らかになった。しかし、その問題の本質が議論されず、自民党内の権力争いに利用されただけであった。自民党と公明党で国会の過半数を占めているため、政治資金規正法の形式的な一部改正でお茶を濁された。このとき出された内閣不信任案にたいする反対の討論で、岸田文雄首相および自民党議員は「廃止、廃止では、民主政は維持できない、民主政はお金がかかるものだ」と叫んでいた。

なぜ、政治にお金がかかるのかが、問題の本質である。政治にお金がかかるのではなく、選挙にお金がかかるのである。

お金がかかるのは、もともと利害が異なる集団から、国という人間社会が、できているからである。現在の代議制民主政では、政治家がお金のある集団からお金をもらい、それで選挙民を買収し、お金のある集団のための政治をする仕組みになっている。もちろん、選挙のときだけでなく、議会で減税するとか、給付金を出すとか、バラマキもして、国の借金を増やすこともしている。

現在、政治家は職業である。政権党では特に職業として政治家を目指すものが多くなる。元首相の菅義偉がそうである。地方から東京に出てきてブラブラしていた怠け者の菅が、ある日、政治家が日本社会で権力が一番あるのだと気づき政治家になったと、告白していたのを新聞で読んだ記憶がある。

国が利害のある集団からできているとき、すでにお金のある集団(既得権益者)は、自分の利権をいかに守ろうかと真剣に政治を考え、政治家にお金を払う。お金のない集団は政治に無関心か諦めている。お金のある集団とお金のない集団の政治への関りは対称でない。

これでは、議会が国民の代表の集まりとして機能するはずがない。

いま、20世紀初頭のヨーロッパと同じく、日本の代議制民主政は危機を迎えていると私は考える。宇野重規も政治学の論壇もこれを真剣に論じ、問題の解決を模索すべきである。たとえば、選挙期間というものを廃止し、いつでも選挙運動をしてよいとするとか、小選挙区を廃止し、全国1区にするとか、何か方法があると思う。


「核のごみ」巡り分断される町、必要な議論阻む「お金の恩恵」

2024-06-25 23:59:32 | 原発を考える

きょうの朝日新聞夕刊の『Another Note』によると、宮崎県の木城町議会の5人が、原子力発電環境整備機構(NUMO)のお金で、一昨年8月に「青森県六ケ所村や北海幌延腸町などを視察」した。そのこともあってか、翌年の9月、久保富士子氏議員が議会で最終処分場に関して質問しようとしたら、視察に出かけた甲斐政治(まさはる)議長がその質問を不許可にしたという。

ネットで調べると、昨年の9月12日の読売新聞オンラインに次のようにあった。

「(議会の三隅事務局長は)久保議員に「質問者が(調査に)賛成なら筋が通るが、反対なら筋が通らない」「町議会は一枚岩ではないと広まる可能性がある」などと発言したという。」

宮崎県の町議会では、議会での質問内容を事前にチェックし、議長が質問を不許可にすることができるのか、唖然とする話である。

朝日新聞のAnother Noteよれば、その後、久保議員が不許可の件で12月の議会で甲斐議長を批判したら、視察に行った議員らから懲罰動議が出て、久保議員を「1日間の出席停止」処分にした。そして、現在、裁判沙汰となっているという。

この事件で、朝日新聞夕刊のつけた見出し『必要な議論阻む「お金の恩恵」』に、私は気にいっている。

「核のごみ」の最終処分場は迷惑施設だが、すでに原発を動かしてきた日本にとって、必要な施設でもある。しかし、原発の最終処分場が世界のどこかで安全に稼働できているのか、どうかを、私は知らない。現在の日本の技術で安全な「最終処分場」は本当に造れるのだろうか、と私は思ってしまう。

難しいとしたら、まず原発の稼働を止めてしまうべきではないか、とも思う。お金で地方の人々をダマしてその土地を奪う前に、政府は、そのお金で安全な最終処分場の研究を真剣に進めるべきだと私は考える。

また、日本で最終処分場を作ったら、どれだけの核のごみがそこに持ち込まれるのか、誰も言ってくれない。原発が稼働しているかぎり、無限に核のごみが最終処分場に持ち込まれることになる。すなわち、最終処分場を危険な場所として封印することができない。

地下に大きな空洞を造れば、何かの拍子に崩れる可能性がある。最終処分場の埋め戻しの計画はどうなっているのだろうか。また、作業員は高レベルの放射線をだす核のごみの倉庫で毎日作業するわけだから、安全性の確保がとても難しいだろう。

政府は核のごみの廃液をガラスで固化するというが、私がカナダの大学で働いていたとき、飲み友達にその研究をしている人がいた。ガラスは結晶状態でなく、アモルファス状態だから、ウランやプルトニウムやその他の放射性物質をいくらでも溶け込ますことができるのだという。しかし、アモルファス状態のため、金属よりも容易に、溶け込ました物質は拡散してしまうという。本当は、閉じ込めは難しいとこぼしていた。

じつは、核燃料はペレット上に焼固められ、それをジルコニウム合金でつくられた燃料被覆管につめられた状態にある。それを砕いて壊して、使用済み燃料からウランやプルトニウムを取り出し、そのときに出る廃液をガラス固化するというストリーになっている。「再処理」と称して、わざわざ、使用済み核燃料棒を壊して液体状態にするから、「ガラス固化」という怪しげな処理が必要になる。「再処理」は止めるべきだろう。

どのような形で、核のごみを保管すべきか、核燃料サイクルやプルトニウム爆弾の製造能力保持という話しを撤回し、安全性という観点から、もう一度、最終処分場を日本は研究し直すべきだろう。

日本政府は、これ以上、札束で国民をダマすのではなく、真剣に安全な最終処分場の建設を研究すべきだと、私は考える。


せんせい!おかげで生きとられるわ ~海辺の診療所 いのちの記録~

2024-06-03 23:03:06 | こころ

きのうのNHKスペシャルは、三重県・熊野灘の入り江の奥ふかくにある診療所の平谷一人医師(75歳)の、町の人々との日常を追ったドキュメンタリーだ。番組紹介に「にぎやかな診察室や、最期の時を支える往診など、いのちと向き合う日々を4年間にわたり記録。先生と町の人々との関係は、人がおだやかに“生”を全うするとはどういうことか静かに語りかけてくる」とある。

後期高齢者となった私が見ていて興味をもったのは、診療を拒否するお年寄りや食事をしなくなるお年寄りがいることだ。

平谷はこれらのお年寄りにどう対応したらよいのかわからないと言う。彼が「わからない」というのは、彼らの気持ちが分かるからだろうと思う。その気持ちとは「自分は充分生きた」ということではないか、と私は思う。

アメリカの会社には「定年」というものはない。役にたたないとして会社からクビになるか、「自分は充分働いた」と思って自分から退職するのだという。私が日本で定年になったとき、「自分は充分働いた」と思って自分から退職する気持ちが、理解できなかった。

番組では、診療を拒否するお年寄りや食事をしなくなるお年寄りは、90歳とか100歳であったが、「自分は充分生きた」という気持ちが時々浮かんでくるようになった私は76歳である。