猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「経済安保」を名目に「身辺調査」法案を岸田政権が提出

2024-02-29 13:22:53 | 政治時評

きのうの朝日新聞1面のトップ見出しは『身辺調査 法案を提出』で、副見出しが「経済安保 民間も対象」であった。記事は2面に続いていた。

この法案が導入しようとする「セキュリティークリアランス(適正評価)制度」は、経済安全保障上の重要情報を扱う人の身辺を、広く民間人も対象に、事前に調べるものだ。

公務員を対象にした適正評価制度は、安倍晋三による2014年の特定秘密保護法で導入されている。今回の法案はこの制度を「シームレスに運用」するのだと岸田文雄は言う。安全保障に「支障」を及ぼす恐れがあるものを新法で指定し、「著しい支障」があるものを特定秘密保護法で指定するという。

問題は、機密の具体的指定なしに、事前に身辺調査をすると言うことだ。

普通、企業では、機密保護はプロジェクト単位で機密保持契約の形で行われる。したがって、プロジェクトには目的があって、そのプロジェクトに参加する人に限定して企業は機密保持を求める。参加者は、何が機密なのか、いつまで機密保持が求められるのかを理解して、機密保持契約に署名をして、プロジェクトに参加する。

いっぽう、適正評価制度は、経済安全保障という名目で、国家が事前に身辺調査をするというものである。国家が事前に身辺を調査するというが、あまりにも漠然として、身辺調査対象の人の範囲をどうするのか、何を調査するのか、いつまで調査されるのかが、わからない。誰が調査項目を決め、誰が適正かどうかをどう判定するのか、が判然としなければ、政府による思想調査になるのでは、という疑問が湧いてくる。また、身辺調査の内容が、性的嗜好や性的活動や飲酒癖であっても、個人の弱みを国家が握って恫喝できることになる。

保持すべき機密、調査対象者、調査内容、調査結果の秘密保持と用途を法律のなかで具体的に限定できないとすれば、政府が、「国家」の安全という名目で、恣意的な運用で個人に不利益をもたらさないという保証がなくなる。

民主主義国家は、国家は国民に奉仕する機関である。国民に奉仕したいと思って、公務員になる善意の人も少なくないと思う。あくまで、機密保持は個別の事項について限定された関係者が本人の意志によって国家と契約するものだと考える。

私の世代は、「学園紛争」の時代に学生であった。就職にあたって、企業による身辺調査が行われることが少なからずあった。したがって、国家が身辺調査をするということ自体に、違和感をもつ。現在、日本企業の経営者の質に問題があるのも、この身辺調査の後遺症だと考えている。

朝日新聞のこのタイミングでのこの報道を評価する。

メディアと野党が自民党のパーティー収入の裏金問題に大騒ぎをしている間に、人の心まで支配しかねない「全体主義的な」この法案が国会に提出されるとは、誰が、この国の本当の黒幕なのだろうか、との疑念が出てくる。安倍晋三が日本を全体的支配の方向に引っ張っていたと思っていたが、彼はすでに殺されている。

法案を作るのは役人である。誰かが役人に命令しなければ、このような火事場泥棒と言える法案提出はあり得ない。日本が全体的支配に進むことが好ましいと考える人間あるいは集団がいるのだ。すでに経団連がこの法案に歓迎の意志を示している。根回しがいつまにかなされている。自民党の高市早苗にそのような才覚があるとは思えない。


民主主義に「扇動」の責任があるのか、「秩序と正統性」に回帰することが良いことなのか

2024-02-26 23:24:21 | 政治時評

いま、アメリカ国民は可哀そうである。今年の11月の大統領選にジョー・バイデンかドナルド・トランプしか選択肢がなそうである。バイデンが民主党の大統領候補指名から辞退すれば、まだしも、面白くなったのだが。

2年前のロシアのウクライナ侵攻は、その前に情報を掴んでいたバイデン政権がアメリカ軍を投入する姿勢を見せていれば、起きなかったと私は考える。また、現在のイスラエルーハマス戦争は、バイデン政権がイスラエルへの軍事支援を止めていれば、早く収拾できたと思う。バイデンは、国内の政治勢力の均衡を気にするあまりに、世界政治で失策続きだ。

2週間近く前、朝日新聞は『《耕論》扇動に備える』というテーマで、3人論者にインタビューを行っている。編集部は一部の政治家が扇動を行っているとの観点で議論が深まることを期待していたようだが、安田浩一や阿古智子は、「扇動」とか言う前に、社会が差別と暴力に満ちているにも関わらず、人々が政治に無関心だということを問題にしている。

森本あんりが、ただ一人、編集部の意図に沿って、つぎのように言う。

「民主主義が定着し情報通信環境が一変した状況です。全員がフラットな社会になり、誰もが信じたいことを信じ、言いたいことを言えるようになる一方で、既存の権威や価値が揺らぐ。」

「自由と民主主義の社会だからこそ扇動が効果をあげやすくなったのかもしれない。」

「人間が秩序や正統性の大事さに気づく機会はやがてまた戻ってくると信じる」

ここで「正当性」ではなく、森本あんりが「正統性」と言っていることに注意したい。

じつは、ハンナ・アーレントも森本あんりと同じようなことを「全体主義の起源」で言っている気がする。彼女は「国民国家や階級社会の崩壊が全体主義運動を可能にした」と考えているようだ。

「階級社会」と両立する「国民国家」とは何なのか、と私は思うので、19世紀のプロイセンの政治を調べている。

現時点の私の理解では、1848年2月のパリでの革命に呼応して、プロセインをはじめとするドイツの諸国に自由と平等の革命運動が起きた。これを国王や諸侯が軍隊の力で抑えた。この後、策謀家のビスマルクが権力の中心に躍り出て、普通選挙を求める社会主義勢力を陰謀と力とで抑え込み、「鉄と血」のスローガンのもと富国強兵にまい進した。

当時のドイツ軍人は貴族の出なのだ。

20世紀にはいり、ナチスが選挙で政権を握った後、ヒトラーは古参の党員を殺し、ドイツの軍人の上にたって、全体主義的支配を進める。本当は、ヒトラーの暴走をドイツ軍人は抑え込めたはずだ、と私は考える。そうならなかったのは、貴族的なドイツの軍人たちは「秩序と正統性」をヒトラーのもとに回復できると考えていたのではないか。

いつの世も、「扇動」は、支配者や支配者にならんとする者の使う手段の1つである。「権威」「秩序と正統性」には胡散臭さがある。「言いたいことを言えるようになる」ことは良いことだと思う。


日本は経済力を誇る国であるべきか、政治の質を誇る国であるべきか

2024-02-16 11:24:31 | 社会時評

けさの朝日新聞1面トップは、「日本GDP4位に転落」であった。しかし、私はそれよりも政治の質のほうが心配である。

一人あたりのGDPで言えば、日本は、IMFの参加国198国の中で2018年に27位にすぎない。日本の経済力は、もともと、中のちょっと上にすぎない。日本の経済成長がとまったのは安倍晋三が政権を握った2013年ごろからである。株価操作を伴うアベノミクスが日本の経済に影を落とした。

私のところに毎週来る23歳の男の子に、これまでに何回投票にいったか、と聞いたら、選挙権を得てから10回の選挙があったが、投票に行ったのは1回だけ、と答えが返ってきた。

彼は特別かもしれないが、現在、日本の国政選挙の投票率は50%前後、地方選挙のそれは40%前後である。

ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読むと、第1次世界大戦後のドイツでも、政治への無関心が国全体をおおっていたようだ。彼女はその理由を「自分を代表する政党がいない」「厳しい競争社会の中で自分のことだけで精いっぱいだ」とする。先ほどの男の子に理由を聞くと同じだと言う。

政治への関心は公共財や福祉の充実に結びつく。政治への関心は、権力闘争劇への興味だけではない。野党が政権奪取を口にしないと票が伸びないというのは、健全でないと思う。

男の子の答えを聞いた夜、トンデモナイ夢を見た。行き交うバスや電車にとても多くの人が詰め込まれている。おしっこをしたくなって公衆トイレを探したが、どこにもない。やっと駅の片隅にトイレを見つけたが、すごく小さいうえに、とてつもなく汚かった。

多くの人々が政治に無関心なとき、公共財や弱者が見捨てられ、社会に不公平が増大する。ハンナ・アーレントは、そういうときに、全体主義運動が勢いをもち、権力を奪取すると、運動に参加した人びとを見捨て、全体的支配がはじまると言う。

第1次世界大戦後のドイツと現在の日本との違いは、当時のドイツでは人が余っていたが、いまの日本は人手不足である。ハンナ・アーレントは、全体的支配は、人が余っていて いくら殺してもかまわない時に、可能となると主張する。だから、全体的支配は、ロシアとドイツで可能となったという。

彼女は、プロイセンの社会に郷愁をもっており、ブルジョアジーの観点から、世界を見ている。彼女の言うことそのまま正しいと私は思わない。

しかし、「自分を代表する政党がいない」ということが、国民の大多数だとすると、それは「議会民主主義」の失敗を意味する。保守か革新かという抽象的な世界観、政権党か政権奪取かという権力闘争しか、政党が主張できないとすれば、その政党はすでに死にかかっている。


「AI時代 PISAが問うのは」に答える竹内良樹事務次長

2024-02-12 15:12:24 | 教育を考える

けさの朝日新聞の教育面に、『AI時代 PISAが問うのは』『OECD・竹内良樹事務次長に聞く』がのった。

PISAというのは、経済協力開発機構(OECD)が3年ごとに行なう学習到達度調査である。コロナで1年遅れに2022年に実施した学習到達PISAでは、日本は81ヵ国のうち「科学リテラシー」が2位、「読解力」が3位、「数学リテラシー」が5位とだったという。「リテラシー」とは基礎能力という意味らしい。

これは、経済力を支える「次世代の労働力」のレベルを問うものであって、社会の文化レベルを問うものでない。通常は、実用的教育に力を入れる産業後進国が上位を占める。したがって、この順位に一喜一憂するものではない。

武内は、「テストだけでなく全体をとらえてほしい」と前置きをして話す。しかし、「全体」とは何のことか話していない。単に、テスト以外にアンケートもとっているという形式的なことをいうだけである。大蔵省で次長、局長をなしてきただけあって、役人根性丸出しだ。

武内は語る。

「その狙いは、これまでの教育政策の『通知表』としてではなく、今後の自国の教育政策に反映してもらうことにある」

「『何を知っているか』より『何ができるか』が問われる。測ろうとしているのはこの力だ」

「『読解力』は、日本では文学を読み、味わう力が重視されるが、PISAでは論理的な文章を認識し、議論を展開する力を見る」

彼の話は、文脈上、「何ができるか」をPISA測って、その力を高めたいとなる。しかし、「何ができるか」ではあまり漠然としている。「読み書き」ができるということなのか。そうではなく、「論理的な文章を認識し、議論を展開する」ことのようだ。

しかし、「認識する」とはどういうことなのか、意味不明である。もしかしたら、understandingのことなのか。そもそも、日本語で論理的な文章を書けるのだろうか。夏目漱石は無理だと言っている。頭の中の論理的なものを文にするには、どうしても、日本語の枠を超えざるをえない。

また、議論では、「文章」ではなく「口頭」でする力が、より重要に思う。国会の政府の答弁は答えになっていない。

コンサル業界では、論理的思考の助けとして、図解を利用する。しかし、企業を助けようと思っても、企業のトップは自分を正当化する言葉を求めているだけで、論理的に思考しようとしない。

私は学校教育からはみ出した子どもたち、発達障害、学習障害、ASD、AD/HD、うつ、躁うつと言われる子どもたちを相手にしてきた経験から言えば、「論理的」理解の前に、自分の気持ちが伝えられる、相手の気持ちが分かることが、とっても大事である。このことがPISAで問題にされないとは、PISAは単なる労働力のレベルアップを狙っているとしか言えない。

ここで、明治政府が「和魂洋才」と言っていたことを私は思い出した。「和魂洋才」とは無理な要求である。「創造的な力」は「批判する力」なしには育たない。そして「創造的な力」や「批判する力」のまえに人間のこころがちゃんと育たないといけない。

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成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』が静かなブーム

2024-02-09 11:38:57 | 愛すべき子どもたち

(夜明け)

成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』(青春出版社)がいま売れているらしい。同社が2月2日の朝日新聞広告によると、発行部数は11万突破となっている。去年の3月に出版された本にもかかわらず、先週、私が横浜市の図書館に予約したとき、予約順位が116位だった。

私がこの本の存在を知ったのは、ちょっと前のことで、まだ読んでいない。

NPOで私が8年間担当している男の子(23歳)が「発達障害」について書かれている本を読みたいと言うので、ふたりでインタネットで探したとき、たまたま、目にはいったのがこの本である。

彼は、本のタイトルの「間違われる」が気に入って、私と別れた後、帰り道の本屋で即座に買った。翌週、彼は、その本がとても良かったと私に告げた。読んで悩みがすっきりと解決したと言う。私は、13年間に「発達障害」児が約10倍に増えたのは、発達障害もどきを「発達障害」と間違えたからだというところか、と思ったが、そうではなかった。彼は、著者のメッセージ「治る」がうれしかったのだ。

似たようなタイトルの本に岩波明の『発達障害はなぜ誤診されるのか』(新潮選書)がある。この本は、『「発達障害」と間違えられる子どもたち』と逆に、発達障害なのに ほかの精神疾患(mental disorder)と間違えられると主張している。もっと正確にいうと、精神疾患が、もともとの発達障害から生じた2次障害なので、発達障害を直さないと、治らないという主張である。

岩波明の主張の問題点は、「発達障害」は治るのか、あるいは、抑え込めるのか、ということが曖昧であることだ。また、精神疾患にたいする環境の影響が軽視されていることだ。

「発達障害」というカテゴリがアメリカの診断マニュアルDSMにあらわれたのは、自閉スぺクトラム症(ASD)や注意欠如・多動症(AD/HD)が幼児期の母親の育て方に責任があるのではなく、生まれつきの脳機能の問題だとし、周りからの攻撃に対し、親や教育者の気持ちを軽くする意図もあった。

そして、日本では、NHKなどマスメディは発達障害を生まれつきの特性だとし、社会に適応できないのは、その特性のためだと煽ってきた。しかし、「発達障害」と言われた本人は、生まれつきの特性だと言われて、気持ちが軽くなるわけではない。生まれつきだとすると治らないのではないか、個性でなく特性だとすると社会から拒否されているのではないか、と悩んでいたのである。

23歳の彼は、その悩みは自分だけでなく、メンタル・ヘルス・ケアに集まる若者の共通の悩みであると言う。診断名よりも、「治る」あるいは「社会に受け入れられる」ということが本人にとって大事なのだ。それが、成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』が静かにブームになっている理由のようだ。