4月27日の朝日新聞「ひもとく」で、憲法学者の石川健治が『憲法と平成 「文明のあり方」を支える役割』という評論を書いている。
「文明のあり方」を支える役割が憲法である、という趣旨のようだ。
評論は、「皆さんとともに日本国憲法を守り、これに従って責務を果たすことを誓う」という、天皇即位後朝見の儀の明仁の言葉で始まる。
石川健治は、その誓いが果たされたかどうかの評価をくださない。
そのかわりに、即位の年、1989年を「惑星直列的な記念(の)年」にたとえ、歴史的転換点として捉える。そして予言するかのように書く。
《安倍長期政権を支える統治構造は、「89年」後の世界に対応すべく行われた種々の制度改革がもたらしたものであり、この改革の継続は、いずれ憲法改正を求めることになるだろう。》
この憲法改正は、武力放棄の条項のことだろうか、それとも、象徴天皇制に関する条項のことだろうか。
続いて、立憲主義という「ひとつの文明のあり方を支えるものとしての憲法」と旧来の天皇中心の「国体」との間の、「文化摩擦」に話を移す。
美濃部達吉が1912年の『憲法講話』で次のように書いたという。
《世界の重なる文明国は、あるいは民主国たるか、しからざればみな立憲君主政体を採ることとなった》
そして、「全国民の代表者」としての「国会」を重視する。統治権が天皇「御一身の利益のため」だけにあるとするのは、「我が古来の歴史に反するの甚だしい」と言い切った。
ここで、私は大正デモクラシーの限界を感ぜずにはいられない。
民主制も立憲君主制も、平等と自由を求めた民衆の戦いの結果であって、「文明」の進展によるものではない。「文明」の言葉に、欧米に対する劣等感と、欧米から輸入した底の浅い大正デモクラシーとを、感ずる。
石川健治は、「文化摩擦」が完全に解消されたのではなく、いまでも、「憲法もろともに立憲主義を押し流そうとしてきた」と言う。
次に、話を人工知能(AI)に移す。これにはついていけない。
平等と自由を求めた民衆の戦いという視点こそ、憲法と天皇制の議論で必要だと私は思う。