(殺されたジャマル・カショジ)
先日、たまたま図書館で高橋和夫の『中東から世界が崩れる イランの復活、サウジアラビアの変貌』(NHK出版新書)を見つけた。ネットで本を探すのも悪くないが、図書館で偶然、本と出合うことはもっと楽しい。
彼の国際政治の講義を、10年以上前、放送大学で聴いていたが、それよりも、本書は、大胆に率直に現在のアラブ世界の実像を語っている。
高橋は、アラブ世界の政治を理解するのに、宗教というものにとらわれては、例えばシーア派とスンニ派の教義の違いなどにこだわっては、本質を見まちがうと言う。宗教の教義ではなく、歴史的ないきがかりや経済的な事情が現在のアラブ世界を作っているという。
彼は、ヨーロッパよりもずっと長い文明の歴史をもつアラブが、100年前の極東アジアがそうだったように、ヨーロッパやアメリカの工業化社会の力の前に圧倒され、どう変わっていくべきか、いま混乱しているのだという。
アラブの国々は、イラン、トルコ、エジプトを除き、第1次世界大戦後に、ヨーロッパやアメリカによって、人工的に作られた国々だという。サウジアラビアなどは「国もどき」にすぎないという。
「国もどき」というのは、国境で囲まれた中の住民が、国民の一員という意識がないということだ。国に属するというより、部族に属するという意識のほうが強いのである。
私がアラブ世界の部族主義を感じ取ったのは、2014年12月のことである。「イスラム国」(IS)を攻撃したヨルダン軍パイロットのムアーズ・カサースベ中尉がISにつかまったが、このカサースベ家は名門の部族で、ヨルダン政府に彼の解放交渉を求めるデモが、ヨルダン、イラク、トルコで起きた。国を越えて、部族が示威行動をしたのである。
サウジアラビアの政治は、たまたま得た自分たち部族の王権をいかに守るかで、動いているという。自分たちを大きく見せるために人口を3千万人と言っているが、2千万人の自国民に1千万人の外国籍労働者を加えての数である。高橋はその2千万人も「かなりのインフレ気味」であるという。
石油がとれていなければ、サウジアラビアの王族は砂漠の遊牧民にすぎないのだから、国としての実体がないのは当然だろうと私は思う。
これまで、サウジアラビアは身の丈にあった慎重な外交をしていたが、国王が代替わりし、新国王の息子のムハンマド・ビンサルマン副皇太子がイエメンを爆撃するなど、暴走をはじめたと高橋はいう。サウジアラビアが新たな不安定要素をアラブ世界につくっているという。
私の記憶に新しいところでは、副皇太子のビンサルマンは2018年、自国のジャーナリスト、ジャマル・カショジをトルコ国内の大使館で生きたまま切り刻んで殺させた。
高橋は、欧米がトルコやイランやエジプトの社会を理解せず、自分たちの国内政治の駆け引きで動き、これらの国々の思いを裏切ってきたという。せっかくの「アラブの春」でエジプトで民主的選挙が行われ、ムスリム同胞団が政権の座についたのに、アメリカは軍事クーデターを黙認し、エジプトが独裁国に戻ってしまったという。
私たちが、日ごろ、アメリカ寄りのメディア報道に騙されているアラブ理解を修正してくれる良書である。
本書は2016年の出版である。昨年6月、イスラエルで、12年ぶりに政権交代があった。8月には、バイデン政権はアフガニスタンから米軍を完全撤退させた。また、昨年末から今年に掛けて石油価格が高騰し、アメリカのバイデン政権が日本に備蓄石油の放出を要請している。
高橋によれば、ここ数年の石油の低価格は、サウジアラビアがイランやロシアやアメリカに揺さぶりをかけるために行なったことだという。じっさい、現在の石油価格の値段はそれ以前に戻っただけである。石油価格が上がったほうが、アメリカのシェール・オイル産業にとっては利益がでる。
昨年来の新しい展開のなか、『中東から世界が崩れる』の続編を、高橋和夫にぜひ出版して欲しい。