新型コロナの感染で昔の友達に会うこともない生活が1年以上続いている。
糖尿病の症状が悪化したのか、NPOでの子どもの指導の疲れが、この土日でとれなかった。頭もすっきりしないし、目も良く見えない。
それで、4年前の、まだ、今より元気であったときの、ブログを再掲させてもらう。
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先日、高校のときの同窓生が4人、下町のすし屋に集まったとき、期せずして、子供のときの学校の先生への感謝の話がでた。もちろん、恵まれて大学まで行けた老人たちが言っていることだから、割り引いて考えるべきかもしれない。
昔と今の教師がどう違うかは客観的な把握するのが難しい。歳をとればとるほど色々な事例を見たり聞いたりするから、まずい事例も知ってしまう。
きのうの朝日新聞の「耕論」に『忙しすぎる先生』で3人へのインタビュー記事が載っていた。
政治的な視点、倫理的な視点が抜け落ちており、「忙しすぎるのは政府の陰謀かもしれない」という意見が出てこないのが淋しい。たぶんにインタビューした記者の責任もあるだろう。
戦前の大日本帝国の権威主義、集団主義、規律主義の手先になったことへの反省が、日教組(日本教育組合)の出発点だった。私が子どものときは 9割以上の先生が組合に加入していた。1960年代にはいると急激に組合加入率がさがり、新規採用の教師の加入率は1990年から約20%になっている。
私は、組合が不人気になったというより、組合に入らない人間を意図的に採用しているからだと思う。「忙しすぎる」という問題は本来は組合が扱うことである。
自民党や文部科学省は、公立学校を自分たちの統治の一手段、洗脳教育の場としてきた。良い教育とは、勉強ができて勤勉であり上に逆らわず空気を読む人間を作ることだとしてきた。
これに逆らう子どもたちがでてきてもおかしくない。集団で逆らうという話は1970年代で終わっている。1980年代には孤立した子が、隠れて、学校の窓ガラスを割り、壁に落書きするようになった。1990年代にはいり、不登校、ひきこもりがでてきた。ここ10年は、小学校の低学年のうちに「発達障害の疑い」で、隔離され、別教室での学習になる。逆らう子どもたちには「発達障害の疑い」の烙印が押される。
「先生が忙しすぎる」という問題は、仕事量が多すぎるか教師の数が少なすぎるかである。以前に教師の弟にきいたら、作るべき報告書が多すぎるからだと言っていた。それに、学校行事、部活、研修が多すぎる。これらは子どもたちのためではなく、報告書は国の管理のため、そのほかは町の有力者や学校の名誉のためである。さらに、これから、教育への公費が経費削減の対象となるから、教師の数が少ないという問題も深刻化するだろう。儲かるのは IT 企業だけである。
また、公立学校の教師は毎年春に移動の対象となる。職場移動は、戦前の大日本帝国が官吏をこき使うときのテクニックである。下級官吏に仲間意識が芽生えるのを防ぐためである。下級官吏が地域住民と仲良くなるのを防ぐためである。
一方、不思議なのは、いじめ問題が外部に漏れると、学校単位で組織防衛に走る。本当に仲間意識があって助け合って教育に当たっていれば、もっと、初期の段階でいじめを防止できたはずだ。
私は、現在の、教師の資格や採用制度を疑う。放送大学で教育学の講義を聞いていると、公的教育というものは政府の方針に忠実であるが第1で、ことがあれば校長を中心に組織を防衛せよと言っているにすぎない。
また、児童心理学の講師は実際の子どもの教育にあたったことがないように見える。子どもたちも個々の人間である。個々の人間の心、すなわち、記憶の多様性を教えていない。放送大学を聞いていると、類型化された虚構の話しかしていない。
だから、戦前の大日本帝国の時代と同じく、先生の資格は、政府の優秀なロボットであるというお墨付きにすぎない。そして、恐ろしいことに、AI 技術を使って、生きている教師を、感情のない本当のロボットに置き換えようという話まで出ている。恥ずべきことである。
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4年前のブログはここまでだが、いま、先生方は、新型コロナ騒ぎでもっと苦労しているだろう。
私のNPOでも、通ってくる子供の学校に新型コロナ感染者がでたとか、こどもの家族の一人が新型コロナで家族全体が自宅待機になったとか、身近で感染騒ぎが起きている。リモート指導にも慣れてきたが、まだ苦労が絶えない。ただ、うつの子にはリモートでも気分を上向きにでき、指導をして良かったと思っている。