猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

日本は他国からの侵略に何を準備すべきか、ウクライナに学ぶ

2022-04-30 23:24:31 | 戦争を考える

昨日のつづきである。『<侵略>と<戦争>を考える』朝日新聞のオンラインで日本近代史の加藤陽子は、ウクライナ侵攻におけるプーチンの誤りは、ウクライナの過小評価であるとし、ウクライナ政府はロシアの侵攻を予期し、準備していたと言う。彼女はどう準備していたか言わなかったと思うが、敵地攻撃能力や抑止能力ではないことは明らかである。

私が思うに、準備していたのは、ウクライナに属するという意識と侵略に抵抗する力である。ウクライナはソビエト連邦の崩壊で人工的に作られた国である。ウクライナ人というものは存在しない。ウクライナ語を「話す人」と、ロシア語を「話せる人」との数は同じぐらいだったと思う。

ウクライナは歴史的にはコサック(カザーキ)の地だが、ニコライ・ゴーゴリ(1809-1852年)の小説を読むと、コサックはみんな黒い髪、黒いひげ、黒い眉、黒い瞳となっている。長いキセルでタバコを吸い、酒好きである。現在、テレビに出てくるウクライナの人の髪の色はいろいろである。ときたま、コサック風の髪形の若者を見かけるが、少数である。

第2次世界大戦後、ポーランドとの国境が西に移動したためか、ポーランド文化もウクライナ国にはいってきている。ウクライナのキリスト教に限っても、東方正教、カトリック、その他と多様である。東方正教は過去の民族主義運動と絡んで、モスクワの正教から独立している。

ウクライナのいる人々は働き場所を求めて、たまたま、流れて込んできた人々の子孫と言える。

私が言いたいのは、彼らがウクライナを自分の国として選択したのは、民族主義的な感情ではないという事実である。自分の生き方を他国の大統領に命令されたくないということである。自分の生活を他国の大統領に壊されたくないということである。

日本が、国民の生命を守るに必要な最小限の軍備しかもたないとしてきた、この国是を変える必要がない。

〈日本国憲法第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

○2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。〉

自分の言い分を通すために他国に侵攻しないという憲法は世界に誇るべきものだと思う。そういう憲法をもたない国と同盟をもつのは間違っている。自由民主主義(リベラル・デモクラシー)を外国に押しつけるアメリカとは同盟関係をもてないと思う。

このリベラル・デモクラシーがいかがわしいのは、アメリカやイギリスのリベラルが「私的所有」のことを意味するからである。ジョン・ロックの『統治論』を読んで、じっさい、びっくりしてしまった。人間関係に上下がないという意味の「自由」ではなく、自分の私財を守るという意味の「自由」であったからだ。この点では、ホッブスのほうが「まっとう」である。気前のよくない金持ちは身をほろぼすと『リヴァイアサン』で言っている。

憲法学の長谷部恭男は、日本の守るべき価値は「リベラル・デモクラシー」や「まっとうな議会制民主主義」と言っている。

この「議会制民主主義」にも いかがわしい点がある。

宇野重規は、『民主主義とは何か』(講談社現代新書)のなかで、歴史的には「議会制民主主義」は、統治が国民の多数派に押し切られないために、ヨーロッパで導入された、と書いている。選ばれた代表が政治を行う仕組みでは、選ぶ過程をコントロールすれば、既得権益を守ることができるからだ。しかも、日本や多くの国々では行政府がいろいろな恣意的な決定権をもっている。さらに、日本の法律では、その施行の詳細が、政令、省令、通達で決めることができるようになっている。政令、省令、通達が国会で紛糾したと聞いたことがない。「安定与党」を確立しているので、議会制民主主義が機能していない。

宇野はデモクラシーの根本は「平等」であるという。「直接民主主義」の現実的な代替とならなければ、ダメな「議会制民主主義」である。その意味で、デモに参加することの意義を教えない、中学の公民の教科書は何なのかと思う。

右翼的と思われている育鵬社の『新しいみんなの公民』が「デモ行進」を表現の自由として書き、横浜市が採用した中庸の東京書籍にはその記述がない。(ブログ『公民の中学教科書の「自由権」について東京書籍と育鵬社を比べる』)

侵略には「抵抗する力」がだいじなのである。侵略しても維持できないとわかっていれば、侵略をためらう。これこそ、本当の抑止力である。

中国を仮想敵国として、中国に反撃する(中国を攻撃する)軍備を抑止力をもつとか、核を共有する(核兵器をアメリカが日本に配備する)とかではなく、日本が本当の民主主義国になるのが先ではないか。

また、その間、現実的な対処として、政治学の杉田敦のいうように、攻撃されれば壊滅的災害を起こす原発を廃止するとか、地下壕を整備するとか、攻撃を受けても耐えられるインフラを整えるべきである。

日本の防衛予算をGNPの2%以上にあげるという、自民党、日本の維新の会、国民民主党の方針に私は反対である。


「〈侵略〉と〈戦争〉を考える」朝日新聞のオンライン討論に参加して

2022-04-29 23:25:39 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

この2カ月間、テレビをつけると、笹川平和団体幹部とか防衛庁の防衛研究所幹部とか元自衛隊幹部とが、ロシア軍のウクライナ侵攻を解説をしている。聞いていて私は何か不快に感じる。なぜ、ロシアは、先に空爆をしてから、地上部隊を送らなかったのか、となど、ロシアの戦争のやり方が非効率的だとをのべ、自分たちが軍事専門家として優秀だと暗に自慢している。

戦争とは人を殺すことではないか。そんなに効率的に戦争することが、そんなにいいことだろうか。まったく おかしい。それなのに、効率的な戦争が、今のアメリカ軍のうたい文句になっている。テレビ出てくる日本人の彼らはそれを代弁し、暗にアメリカを称賛している。

大多数のアメリカ人は、戦争で不具や死人になりたくないから、自分は戦争に行きたくないと思っている。だからこそ、アメリカ政府は、戦争をゲームのように見せ、自分たちは効率的に戦争を遂行できると、国民に思わせているのだ。

日本にもう少し知的な人間はいないのだろうか。笹川平和団体や防衛研究所や元自衛隊よりマシな人間はいないのだろうか。

そう思っていたところ、きょう、朝日新聞の考論オンライン『〈侵略〉と〈戦争〉を考える――歴史・憲法・政治の現在地』があった。さっそく、オンラインに参加した。討論者は憲法学の長谷部恭男(65歳)、政治学の杉田敦(63歳)と日本近代史の加藤陽子(61歳)である。

戦争はしてもよいのか、という話しから始まった。杉田は、戦争犯罪を行わなければ、戦争しても良いという考えはオカシイと言った。ウクラナイでは18歳から60歳までの男は出国禁止だということは、総力戦である。戦闘員と非戦闘員との区別はなくなる。長谷部も、戦争というものは始まったら地獄であると述べた。「地獄」ということに私も同意する。

戦争をなぜするのか。それは、古代や中世では略奪が目的であったが、現代では、自分の意見に相手を従わせるためであると私は思っている。

杉田は戦争にホッブスの考え方とルソーの考え方があるという。ホッブスは、国と国が安全のために戦うが、国の安全よりも自分自身の生命のほうが大事であるから、国が自分の安全を保障しないなら、戦争を拒否できる自由がある、という。いっぽう、ルソーは、共同体を守るため、共同体の構成員は死を決して戦うべきだという。

長谷部は、ロシアはホッブスの立場で、ウクライナはルソーの立場だと述べた。聞いていて、これは政府の立場をいうのか、国民のタテマエなのか、国民の本音なのか、私にはわからない。ロシアは徴兵制ではなく、今回のウクライナ侵攻にあたっても、兵の補充のための募集広告が地下鉄にぶら下がっている。また、戦争に加担したくない若者は国外に逃げているし、国内も広いのでどこかに隠れて暮らせるという。

私自身は、国が「共同体」であるはずがないから、ホッブスの言うとおり、自分の生命を守るのが当然だと思う。

杉田は、戦争の目的は、ルソーのいうように憲法体制をめぐる争いなのか、加藤のいうように歴史観をめぐる争いなのか、と問うた。この質問の意図は良くわからないが、前者は長谷部の持論である。加藤も著作の中では長谷部の主張に賛意を示していた。

しかし、「略奪」型の戦争と違い、どちらにしても、相手とを倒さないと戦争が終結しない。したがって、「決闘」型の戦争となることは、長谷部も杉田も同意していたと思う。アメリカが西側の価値「自由」と「民主主義」の守る戦争をウクライナに押しつける限り、妥協点がみいだせない。加藤もその点に疑問を提示し、ロシアが侵略戦争を仕掛けた点の犯罪性を意識すべきと言っていたような気がする。

杉田は、「決闘」型の戦争でも、「冷戦」のように、相手を閉じ込めることで、ミサイルや戦車が出てくる「戦争」にならないで済むと言っている気がした。長谷部は「冷戦」も危険な状態であることは変わりがない、とした。長谷部は、ロシアはまっとうな議会制民主主義の国でないとした。

私は人を殺すという状態から抜け出るためには、「決闘」型では妥協できなくなると思う。

加藤は、ウクライナ侵攻の初めの段階でアメリカが強く出るという選択は、核戦争を引き起こすリスクがあったと言った。私は、アメリカはロシアとチキンレースをすべきだと思っている。核の使用は望まなくとも、全世界で廃棄しない限り、いずれ使われると思っている。

関連して、杉田は、敵基地攻撃能力よりも、専守防衛なら、原発の全廃、地下壕の建設が必要と言った。杉田は、また、ロシアのメンツを立てても、戦争状態は変わらないと言った。杉田の現実認識を私は支持する。

話の順は前後するが、ウクライナがロシアの軍事侵攻にすぐ下らなかったのは、加藤は、ウクライナがロシアの侵攻を予測して準備していたからではないか、と問題提起していたが、他の二人から言及がなかった。加藤の事実認識を支持する。

軍事専門家の技術論より、意味がある討論であった。今後の議論の発展を期待する。


政府与党の物価対策はバラマキである、朝日新聞の社説に賛同

2022-04-28 22:48:07 | 経済と政治

きょうの朝日新聞社説『物価対策 負担分かち合う戦略を』の見出しは、社説の趣旨とずれている。

社説は、「ロシアのウクライナ侵攻で加速した物価高に対応する緊急対策」として、予備費の中からガソリン価格を抑える、補助金の拡充を柱とする政府の「緊急対策」を、「税金の使い方として重大な問題がある」とするものである。

現在、日本で進行の物価高は、急激な円安によるものである。きょうの午後7時のNHKニュースでは、130円後半に突入したという。日経電子版では、午後10時現在、130.73円から130.76円である。まだ、「ウクライナ侵攻」の影響ではない。西側諸国のロシア経済封鎖はまだ一部しか実行されておらず、その影響は半年から1年後であろう。

現在の物価高は、安倍政権の推進してきた株価操作、異次元の金融緩和に問題がある。円安を招く政府与党の経済政策を改めず、お金のバラマキでこの物価高を乗り切ろうというのは、安易すぎるし、新たな禍根を生む。

社説は、また、「ガソリン価格の形成に政府が介入し続ける」ことを批判する。

なぜ、ガソリン価格を柱にするのか。輸送を担うトラックはディーゼルエンジンではないか。軽油の価格が問題ではないか。自家用車を使う人には、この「円安」の痛みを実感してもらい、ガソリンを使うことを遠慮してもらったほうが良いのではないか。

社説は「値上がりで自然に需要が抑えられる働きを妨げ、脱炭素社会にも逆行するからだ。燃費の悪い大型車を持つ富裕層にも大きな恩恵が及び、所得分配をゆがめかねない」と言う。ここ数年、小金持ちがやたらと大きい高級車を買っている。燃費ということが社会の共通理念から落ちている。

物価高対策は、円安を招く政府の経済政策を改め、生活保護費とか年金の額に、物価の上昇分を反映することではないか、と思う。

野党の立憲民主党は、慢心の政府与党のバラマキ政策を激しく批判して撤回させるべきである。泉執行部は何をしているのか。

朝日新聞も12面に社説をひっそりと掲載するのではなく、1面にもってきて、政府与党を罵倒してよいと思う。


ロシア軍のウクライナ侵攻は続いている、「戦果」より毎日の「戦禍」を私は知りたい

2022-04-27 22:57:01 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

ウクライナ軍事侵攻の報道がだんだん少なって、停戦協議とか人道回廊とかだけになっていく気がする。しかし、ロシアのミサイルは毎日ウクライナの地に撃ち込まれているはずであり、大量のロシアの戦車がウクライナの地を動き回っているはずであり、多数の人命が失われているはずであり、国内難民や国外難民が今なお続いているはずである。

毎日起きていることは、煽動的な報道をしたいタイプの人びとにとっては、価値がないかもしれないが、人道的立場からすれば、毎日起きているからこそ、許しがたいのだ。

毎日、どこに、どれだけミサイルが撃ち込まれ、どれだけの人が住居を失ったのか、いま、ロシア兵は何人、戦車は何台、ウクライナの地にいるのか、きょうは何人死んで何人負傷したのかを私は知りたい。ロシア軍に占領された地域に、何人が住んでいて、難民になったのか、殺されたのか,強制移住になったのか、を私は知りたい。「戦果」ではなく、「戦渦」を私は知りたいし、みんなに知ってほしい。

ロシアの戦略は、ウクライナに軍事侵攻しているという事態を、世界の人びとから忘れさせようとしている。お金をかけずに、持久戦に持ち込み、実効支配の範囲を広げようとしているように見える。西側の政府の本気度を確かめているようにも思える。

ロシアは、攻め込む側であり、自国の直接の被害は少ない。ウクライナは攻め込まれる側であり、住居だけでなく、インフラが破壊され、経済的打撃が大きい。最初から対等でない戦争をしている。ウクライナは世界からの支援を必要としている。兵士だって、どんどん死んでいき、補充ができない。ウクライナの支援のために政府を動かすには、「戦果」より「戦禍」の報道こそ、必要だと思う。


映画『市民ケーン』、自分が生きたいように生きた男の物語

2022-04-26 23:17:58 | 映画のなかの思想

今日の午後、思わず、BSプレミアムで白黒映画『市民ケーン』を見入ってしまった。じっさい、立ちすくしたまま、見入ってしまった。

あとでウィキペディアで調べてみると、25歳のオーソン・ウェルズの初映画監督の作品である。1941年に公開されたアメリカ映画である。「主人公のケーンがウィリアム・ランドルフ・ハーストをモデルにしていたことから、ハーストによって上映妨害運動が展開された」とあるが、映画ではウェルズが主人公ケーンを非常に魅力的に描いている。もし、ハーストが偏見なくこの映画を見ていたら、自分の伝記映画として満足したのではないか。

映画のケーンは自分の生きたいように生きたのだから、世間的には偉人ではないが、まさに、アメリカン・ヒーローではないか。映画では、妻との関係がうまくいかなく、一番目の妻からも「愛がない」、二番目の妻からも「人の評判を気にしている」となじられ、離婚される。が、自分の思いを新聞に書きたて、発行部数をどんどん伸ばし、全国の新聞社を配下に納めていく。これも、生き方の選択としてはあり得る。

ハーストは、妻をだいじにしないといけないという、世俗的なドグマを気にしていたのだろうか。

映画は、ケーンが死ぬときの最後の一言「バラのつぼみ」が何であるかの謎を追い求めて関係者の証言でケーンの一生が描かれる。そして、「バラのつぼみ」を女のことではないかと想像しながら、誰も真実を解明できないまま、最後のシーンで映画の観客だけに真実が伝えられる。ケーンの所有物の整理が行われ、がらくたが燃やされるのだが、そのなかにケーンが子ども時代に遊んだ雪そりがある。その商品名が「バラのつぼみ」だったのだ。女のことではなかったというオチである。

ウェルズはジャーナリストとしての市民ケーンを描いていない。アメリカの労働者の不満を満足させるべく、ケーンは政治家の不正を暴き、大衆の心をつかんでいく。しかし、ウェルズは思想に立ち入っていない。社会主義者でも共産主義者でもない。目立ちたり屋の腕白なガキとしてケーンを描いている。

きのう、イーロン・マスクはツイッター社から買収の同意を得た。買収の前の段階で、ツイッター社の自主規制は、アメリカの言論の自由に違反している、とマスクは攻撃した。トランプや共和党はマスクの主張に喝采した。『市民ケーン』と似た構図に感ずる。ポピュリズムを梃子(てこ)として、自分の思いをとげようとしている。目立ちたり屋の腕白なガキである。

20世紀は新聞が社会に影響力をもった。とくに20世紀前半はそうであっただろう。20世紀後半はテレビが影響力をもった。21世紀はSNSが影響力をもっている。だから、イーロン・マスクは自分が21世紀の市民ケーンだと思っているのではないか。