猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ドストエフスキーの「大審問官」の自由、新約聖書の自由

2019-03-31 21:55:30 | ドストエフスキーの宗教観
 
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章で、無責任にも自由という考えをイエスが民衆に吹き込んだ、と大審問官は長々と責める。この章は劇中劇で、アリョーシャの兄、イワンが語った物語詩である。
 
ハッキリ言って、私には、なぜイエスが責められるのか、わからない。
 
イエスが死んでから30年以上たって、新約聖書の『マルコ福音書』、『マタイ福音書』、『ルカ福音書』が書かれた。さらに、40年たって『ヨハネ福音書』が書かれた。
下層民のイエスもイエスの弟子も字が読めず字が書けなかったから、イエスの言ったことの直接の記録はないのである。イエスが、本当のところ、何をいったのか、わからない。
 
史的イエスの研究者M. J. ボーグは、『イエス・ルネサンス』(教文館)で、福音書にあるイエスの言葉のほとんどは、本当にイエスの言葉か疑わしいと言う。
 
福音書に先立つパウロの書簡が語るように、イエスがユダヤの王としてはりつけにされ殺されたことのみが、イエスについて確実な事実である。
 
パウロの書簡から分かることが、もう一つある。イエスと会ったことがなく、何かの教えを直接聞いたことがない人間、パウロが、イエスの弟子を名乗り、布教して歩いたのである。
 
それは、下層民が、宗教的権威へ「無秩序」に反逆し始めたということである。そして、イエスは反逆の象徴になったのだ。
 
したがって、この「無秩序」を「イエスが無責任に自由を民衆に吹き込んだ」と大審問官が責めたいのかもしれない。
 
私自身は「無秩序」「反逆」こそがイエスの愛すべき点と思っている。
 
日本の学校教育では、ドイツの宗教革命ばかりに光があてているが、古代ギリシア、古代ローマの民主制、知の自由、科学を復活したのは、イタリア・ルネサンスである。
これを暴力で抑えたのは、スペインの軍人上がりのロヨラであり、彼の軍隊、イエズス会である。イエズス会は反宗教改革の旗をしょって、知の自由を掲げたイタリア・ルネサンスを弾圧した。
だから、ドストエフスキーは、「大審問官」の舞台として、異端者を火焙りにするセヴィリアの広場を選んだのだろう。
 
しかし、大審問官の罵りは、下層民の反逆の扇動者イエスに向けられているというよりは、19世紀の文化の遅れたロシアで、反逆者として生ききれなかったドストエフキー自身への罵りであると思う。
 
その罵り言葉が異常なのである。常軌を逸している。亀山郁夫の訳で書き抜くと
 
「おまえ(=イエス)は世の中に出ようとし、自由の約束とやらをたずさえたまま、手ぶらで向っている。ところが人間は生まれつき単純で、恥知らずときているから、その約束の意味がわからずに、かえって恐れおののくばかりだった。」
 
「確固とした古代の掟にしたがう代わりに、人間はその後、おまえの姿をたんなる自分たちの指針とするだけで、何が善で何が悪かは、自分の自由な心によって判断していかなくてはならなくなった。」
 
「人間にとって、良心の自由にまさる魅惑的なものはないが、しかしこれほど苦しいものもまたない。」
 
「おまえは忘れたというのか。人間にとっては、善悪を自由に認識できることより、安らぎや、むしろ死のほうが、大事だということを。」
 
「おまえはほんとうに考えなかったのか。選択の自由という恐ろしい重荷におしひしがれた人間が、ついにはお前の姿もしりぞけ、おまえの真実にも異議を唱えるようになるということを。」
 
「人間の自由を支配するのは、彼らの良心に安らぎを与えてやれる者だけだ。」
 
「自由と、地上に十分にゆきわたるパンは、両立しがたいものなのだということを。なぜなら、彼らはたとえ何があろうと、お互い同士、分け合うということを知らないからだ!そしてそこで、自分たちがけっして自由たりえないということも納得するのだ。」
 
「彼らが自由でいるあいだは、どんな科学もパンをもたらしてくれず、結局のところ、自分の自由をわれわれの足もとに差しだし、こう言うことになる。『いっそ奴隷にしてくれたほうがいい、でも、わたしたちを食べさせてください』」
 
イエスは、歴史の記憶に偶然残った下層民の反逆者である。
 
しかし、「良心の自由」とか「選択の自由」とか「善悪を自由に認識」とか「人間の自由を支配」とかイエスは言わなかった。
イエスに従った無学の弟子たちも、そんなことを言わなかった。
新約聖書からの言葉でない。
 
これらは、低文化国ロシアに生まれた臆病な知識人の言葉にすぎない。
自由とは反逆である。自由は、誰かに差しだすべきものではない。

ドストエフスキーの「大審問官」、賢い悪魔の3つの問い

2019-03-29 11:09:41 | ドストエフスキーの宗教観
 
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章の、イワンの作った物語詩の中で、90歳の大審問官は、イエスが民衆に自由をあおった、と、牢の中の男を長々と罵る。
そして、この罵りは、「賢い悪魔の3つの問い」を軸に、なされる。
 
もちろん、聖書には「賢い悪魔」という言葉はなく、「恐ろしい、賢い聖霊、自滅と虚無の悪魔が、偉大な悪魔が」というイワンの言葉を、私がここで簡略化しただけだ。
 
ドストエフスキーは、『マタイ福音書』の4章1節から4章11節を、また、『ルカ福音書』の4章1節から4章13節をもとに、この「賢い悪魔の3つの問い」を書いている。
ヨハネ福音書には、それに対応する記述が、まったくない。
『マルコ福音書』にも、1章12-13節に
「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。」(口語訳)
とあるだけで、悪魔の3つの問いはない。
 
旧約聖書の『ヨブ記』以来、神が信仰をためすとき、サタンが神に代わって行うことになっている。サタンのヘブライ語“שטן”の意味は「邪魔する者」である。
サタンは、ギリシア語で、ギリシア語では、“διάβολος”(ディアボロス)と訳されたり、“σατανᾶς”(サタナース)と訳されたりする。
 
日本語聖書は、ディアボロスを「悪魔」と訳しただけだ。
「悪魔」は、決して、頭に角があったり、しっぽやひずめがあったりするわけではない。人間の顔をし、人間の体をもっている。ただ、口がたち、鋭い頭脳を持ち合わせているだけだ。
 
ドストエフスキーの賢い悪魔の3つの問いの順は、『マタイ福音書』の順と一致する。そのイエスの答えは、すべて旧約聖書の『申命記』からの引用である。
 
「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(『マタイ福音書』4章3節)と悪魔は試みる。
「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(『申命記』8章3節)とイエスは答える。
 
「もしあなたが神の子であるなら、(エレサレムの神殿の先端から)下へ飛びおりてごらんなさい」(『マタイ福音書』4章6節)と悪魔は試みる。
「主なるあなたの神を試みてはならない」(『申命記』6章16節)とイエスは答える。
 
「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのもの(権力と賞賛)を皆あなたにあげましょう」(『マタイ福音書』4章9節)と悪魔は試みる。
「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」(『申命記』6章13節)とイエスは答える。
 
「賢い悪魔」の口を借りて、ドストエフスキーは、精神的よろこびは、物質的よろこびを上まわるか、という根源的な問いを発している。
どうして、「反抗」をやめて、世の権力に「服従」しないのか、を問うている。
 
大審問官の口を借りて、ドストエフスキーは、なぜ、「奇跡」、「神秘」、「権威」の力を使わなかったのか、と、イエスを罵る。
 
たしかに、「賢い悪魔」の3つの問いに、イエスは、『申命記』のドグマを引用しているだけで、真面目に答えていない。
 
しかし、実体のない「奇跡」、「神秘」、「権威」なんかも、妄想の世界の外では、まったく無力である。頼るわけにはいかない。大審問官は、民衆をバカだバカだとささやいているだけである。
 
ドストエフスキーは、イワンの口をかり、『マタイ福音書』の非合理性を、暴いているのだろうか。
 
この章に、私は、ドストエフスキーの生きる立場の迷いを感じる。迷っているからこそ、小説を書かざるを得ないのだろう。迷いを、登場人物に叫ばせている。
 
私自身は、「奇跡」、「神秘」、「権威」に、なんの魅力も感じない。悪魔の3つの問いにも興味がない。
悪魔に正直に答える必要も感じない。
不都合な時代には、「めげない」、「ずぶとい」、「しぶとい」こそ、生きる力である。

ドストエフスキーの「大審問官」、大きな星が天から落ち

2019-03-28 21:54:47 | ドストエフスキーの宗教観

新約聖書『ヨハネの黙示録』8章10-11節に次のようにある。

「第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。
この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ。」(新共同訳)

フョードル・ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の章に、イエス再臨の舞台設定として、イワンにこの節を引用させている。
このとき、イワンに「大きな星」を「教会」と解釈させている。

「星が空から落ち」という句は、『マルコ福音書』にも『マタイ福音書』にもあるが、この場合、単に「大災害」「天変地異」を意味しているだけである。

似た句に、旧約聖書の『イザヤ書』14章12節の
「ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ」(新共同訳)
がある。
この場合は、「明けの明星」が、明らかに、バビロンの王をなぞらえている。
『イザヤ書』は、ユダ王国を滅ぼしたバビロンへの怒りを書き綴った書だ。

『ヨハネ黙示録』が、バビロンであるかの装いながら、実はローマに呪いをかけていることから、「大きな星」はローマの王、皇帝をさすと考えるが自然である。

ドストエフスキーが、『ヨハネ黙示録』を引用して、
「『松明に似た、大きな星が』つまり、教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』ってわけだ」
とイワンに言わしたのは、天国の扉を管理する「教会」に、大きな怒りがあったからではないか。

イワンの口を借りて、「異端」への同情を示していたのではないだろうか。

ドストエフスキーの「大審問官」、恐ろしい異端とは

2019-03-28 20:34:51 | ドストエフスキーの宗教観

フョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の第5編の「大審問官」の章に次の文がある。

「その彼が自分の王国にやってくるという約束をして、もう15世紀が経っている。彼の預言者が『私はすぐに来る』と書いてから15世紀だ。」
「ドイツ北部に恐ろしい新しい異端が現われたのはまさにそのときだった。」

この「世紀」は単に「100年」という意味であって、イエスが刑死してから1500年が経つと、1530年ごろだから、「ドイツ北部に恐ろしい新しい異端」は再洗礼派のことだろう。

バートランド・ラッセルは、『西洋哲学史』(みすず書房)の序説で、次のように書く。

「まだルーテルが生きている間にすでに、… ルーテルの弟子たちは、再洗礼主義という主張を展開し、それはしばらくの間ミュンスター市を支配した。」
1534年の再洗礼派のミュンスター市での反乱のことである。
再洗礼派は、善人はあらゆる瞬間に「聖霊によって導かれる」とし、すべての権力と法を否定し、「共産主義」や「性的雑交」の考えにいたった。
「そのために彼らは、英雄的な抵抗をおこなった後に、全部処刑されてしまう。」

「聖霊によって導かれる」というのは、カトリック教会、正教会から見れば、異端であるが、新約聖書のパウロ書簡や『マルコ福音書』、『ルカ福音書』、『ヨハネ福音書』を読めば、これが、初期のキリスト教の姿であることがわかる。
もともと、これが正統なキリスト教である。

『ヨハネ福音書』20章22、23節に、復活したイエスが
「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」
とある。

聖霊が降りるとは、直接、神の声が聞こえ、大いなる力も与えられる、ことだ。
初期の教会(エクレシア)は、聖霊に満ち溢れた集会の場所であった。
それが、教会が「聖職者の組織」に変わり、天国への扉を管理し、神の国への「代理店」になった。

ドストエフスキーは、どのような気持ちで、再洗礼派をイワンに「恐ろしい異端」と言わせたのか。
また、そのすぐ後に、
「『松明に似た、大きな星が』つまり、教会のことだが、『水源の上に落ちて、水は苦くなった』ってわけだ」と、何のためにイワンに言わせるのだろうか。
さらに、どうして、
反宗教改革の本拠地、セヴィリアの広場に、人間の姿をしたイエスを無言で歩かせたのか。
ロシア正教会については、ドストエフスキーはどう考えていたのか。
ロシア正教会はトルストイの共同体運動を迫害した。
ロシア正教会は、プーチン政権と結びついて、自由を迫害している。

「ミュンスター市」の反乱はなんであったのか、戦いに負けて皆殺しにされた側は、生きている権力側によって、あらゆる中傷を浴びるので、日本語版ウィキペディアの「ミュンスター市の反乱」の解説をうのみするのは危険である。

英語版ウィキペディアによると、再洗礼派の預言者、パン職人、ヤン・マティスは、殺され、頭は市の柱にさらされ、性器は市の門にくぎ打たれたという。また、三人の幹部は拷問を受け、殺され、檻に閉じ込められ、市の聖ランベルティ教会の塔につるされた。この檻は今もつるされているという。

ドストエフスキーは再洗礼派のミュンスター市での反乱をなぜ大審問官で言及したかわからないが、権力に逆らう者にとっては、「ドイツ北部の恐ろしい」事件であったことは間違いない。

ドストエフスキーの「大審問官」、「降臨」か「再臨」か

2019-03-28 18:45:43 | ドストエフスキーの宗教観

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)が、ネットで、ずいぶん評判が悪いようだ。

すでに色々な人々が訳している古典を、もう一度訳しただけなのに、売れたことへの嫉妬も、その要因の一つだろう。

訳者は、わざと、これまでの訳を踏み外し、聖書や教派や歴史の知識を不要にし、大胆に、自分の好きなように読めるようにしているようにも思える。

たとえば、光文社古典新訳文庫では、第5編の「大審問官」の章で、「これはあの降臨じゃない」とイワンが言ったと訳されている。
これは、正教会でも、日本語では、伝統的には「再臨」というところだ。
「降臨」は、聖霊が人間におりることをいう。
「あの再臨」がふつうの訳になる。

「降臨」としたのは、何か理由があるのだろうか。
「その彼が自分の王国に約束して」、もう1500年がたって、「彼を待ちつづけている」民衆をあわれに思い、ふたたび、地上に人間の姿で現れたのだ。
このロシア語の原語は何で、何と訳せば、良いのだろうか。

聖書との関連を見て行こう。

ドストエスフキーは、「あの降臨」を、「『稲妻が東から西へひらめきわたるように』生じるあの降臨のこと」、と書く。
実は、この句は、新約聖書の『マタイ福音書』だけにしか出てこない。24章27節である。
これにたいし、24章30節の「人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」の文は、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』にも、共通して現れる。
なぜ、この章で、ドストエフスキーは「稲妻」を選び、「人の子」を選ばなかったのか。

ドストエフスキーは、「人の子」がイエスなのか否かの論争があるのを知っていたのだろうか。

この「人の子」は、旧約聖書の『ダニエル書』の「人の子のようなもの」とは異なる。
『ダニエル書』の「人の子」は人間を意味し、「天の雲」の上に「人間のようなもの」が見えたという「幻視」を述べているだけだ。
新約聖書の『ヨハネ黙示録』では「人の子」ではなく、「人の子のようなもの」と『ダニエル書』と一致している。
『マタイ福音書』、『マルコ福音書』、『ルカ福音書』は「人の子」で、イエスとも解釈できるのである。

しかし、殺され、復活し、天に昇ったイエスが、わざわざ、「天の雲」に乗って戻ってくるのだろうか。
『再臨』は「人の子」が人間たちを罰するために「天の雲」に乗ってあらわれるのだ。
だから、ドストエフスキーは「あの再臨じゃない」と言いたかったのだろう。

実は、福音書を読む限り、復活したイエスは、天に昇った後、再び地上に戻ってくると、明確には約束していない。
しかも、新約聖書の『ヨハネ福音書』には、他の三福音書のような「再臨」も「世の終わり」もない。

最後になるが、光文社古典新訳文庫では、
第5編の「大審問官」の章で、ふたたび地上に降り立った彼が
「はかり知れない慈悲の思い」をもってセヴィリアの広場を無言で歩くさまを
「胸のなかでは愛の太陽が燃えさかり、栄誉と啓蒙と力が光のように瞳から流れ、人々の上に降りそそぎ、彼らの心をたがいの愛によってうちふるわせている」と、
ドストエフスキーが書くのに、違和感を感じる。

日本で育ったものとロシアでそだったものの感覚の差か。
翻訳の問題か。私はロシア語が読めない。