猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

投資しない日本人がいけないのか、『マタイ福音書』と資産所得倍増計画

2022-07-29 23:56:52 | 聖書物語

きょうTBSの『ひるおび』で日本人が「投資」しないという話しがでた。なぜ、そんな話が出たのか思い出せないが、そのとき突然、新約福音書の「タラントのたとえ」が私の頭に浮かんだ。

「タラントのたとえ」は『マタイ福音書』の25章14節から30節にかけて書かれている物語である。書き出しはつぎのようである。

「天の国は、ある人が旅に出るとき、しもべたちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。」(マタイ福音書25章14節)

この節自体、わたしはうさん臭く感じる。後から誰かが書き加えたのだろう。「天の国」とは、ギリシア語で「天が支配すること」を意味する。

その主人は「しもべのそれぞれの力に応じて、1人には5タラントン、1人には2タラントン、もう1人には1タラントンを預けて、旅に出た」という。1タラントンは数千デナリウス銀貨と言われ、1デナリウスは1日分の日雇いの給料だったと言うから、とにかく大変な額である。

5タラントンを預かったしもべは取り引き(ἠργάσατο)で5タラントをもうけ、2タラントンを預かったしもべは2タラントンをもうける。当時の規模の大きい取り引きは、いまでいう「貿易」のようなもので、途中で盗賊団に遭遇するかもしれなく、もうけが大きいがリスクの大きい行為である。

旅から帰ってきた主人は、もうけた彼ら2人を「良い忠実なしもべ」とほめる。

ところが、1タラントンを預かったしもべは、なくして主人にしかられることを恐れ、地中に埋めて隠しておいたので、お金は増えていない。主人のことを「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方」と言って、埋めていた1タラントンを返す。

主人は「それなら、私のお金を銀行(τραπεζίταις)に預けておくべきだった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」と言って、そのしもべを外の暗闇に追い出す。そして、「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」とのたまう。

「銀行」というが金貸しのことである。ギリシア語τραπεζίταιςとは両替商が商売するときのテーブルのことで、両替商のテーブルにお金を置くと、後で利息(τόκῳ)とともにお金が返ってくるが、大もうけはできない。なお、ユダヤ教やイスラム教では利息をとる金貸し業は社会的に容認される職業ではない。

この主人は、金貸し業を肯定しているだけでなく、貧富の差を拡大する社会構造を肯定している。

この物語は、25章14節に「天の国とは・・・」とはじまるので、牧師は大まじめにこれを聖書の良い教えとして信徒に説明しようとして、道徳的困難におちいる。もちろん、一生懸命働いてお金をもうけることは、プロテスタントのカルヴァン派では肯定される。特にリスクを冒してお金をもうけたのは神に愛されている証拠であると考える。

ところが、私の近所のカトリック系中高一貫校の神父まで「リスクを冒せ」というイエスの教えだとして、大胆にもネットでその説教を公開している。カトリックは人間の弱さを肯定する宗派であるから、リスクを冒さない人を非難してはいけないはずである。その神父は、カルヴァン派に影響されて、カトリックの道を踏み外しているのではないか、と私は思う。

岸田文雄は「資産所得倍増計画」と言っているが、その中身は金融商品を買えと言っているにすぎない。ハイリスクハイリターンのゲームに参加しろと言っている。産業資本主義は生産設備に投資しましょうということだから、人の道にまだ反していない。ところが、アメリカの金融資本主義となると、投資がギャンブルになって、物の生産やサービスに結びつかない。なぜ、こんな岸田政権を支持する人が存在するのか、私は不思議でたまらない。

岸田文雄は「タラントのたとえ」をイエスのありがたい教えだと思いこむ牧師や神父と同じ知的レベルの低さなのだろうか。それとも、彼の道徳意識が低いのだろうか。

「タラントのたとえ」と類似した物語が『ルカの福音書』19章17―23節にある。これはもっとおぞましい話で、「ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ」で物語が終わる。


トーマス・レーマーの『100語でわかる旧約聖書』を読む

2022-07-22 23:17:04 | 聖書物語

図書館から借りだしたトーマス・レーマーの『100語でわかる旧約聖書』(白水社)をきのうから読んでいる。原題は“Les 100 mots de la Bible”である。このmotsはイタリア語のモットーに近く、ヘブライ語聖書についてよく語られる100の言葉の1つ1つを1ページ程度で説明している。語の選択はキリスト教徒の関心に合わせたものと思う。

1つ1つの内容はかなり深く、理解するに予備は知識を必要とする。日本語のタイトルは詐欺でである。

レーマーは、ヘブライ語聖書の『申命記』『ヨシュア記』などは、アッシリア帝国の条約文、軍事宣伝文書の構成、語彙の影響を強く受けていると言う。聖書のヤハウェは戦いの神としても書かれているが、アッシリアの守護神、アッシュール神をモデルとしている。

彼は『申命記』のもっとも古い形は、ヨシヤ王の政治・宗教改革を擁護するために作られたとする。この改革は王が礼拝の儀式を独占的に管轄すること、王権の強化である。『申命記』の構成・語彙は、アッシリア王、エサルハドンが臣下に求めた息子アッシュルバニパルへの忠誠の誓約をまねていると言う。

レーマーは、「十戒」についても、ユダヤ教では10の戒というものはないという。聖書には「神が民衆に伝えたという戒律の数がまったく記されていない」という。

彼は指摘しないが、じつは、新約聖書にも、「十戒」がでてこない。私はキリスト教カルヴィン派の教会に通っていた時期があるが、毎日曜日の礼拝で「十戒」をみんなで唱える。私はオカシイと感じた。

このオカシナ行為は、人間に原罪があるという教条と通じる。レーマーは、聖書の『創世記』がエデンの園でアダムとエバが神に背いたことを罪としていないと主張する。これはユダヤ人に古くから知られていることで、私自身はエーリッヒ・フロムの指摘で知った。レーマーはさらに、聖書の『雅歌』と合わせて読むと、『雅歌』は、性愛の肯定と、性愛における男女平等を唱えているのだと言う。

私は、不登校、引きこもり、家庭内暴力の子どもたちと接するとき、彼らに罪はないということを全面的に打ち出す。「原罪」という考え方をしていたら、救える子どもたちを救えなくなる。「原罪」はパウロの書簡の読み間違いから発生したのではないかと思っている。

レーマーは、出エジプトを歴史的出来事ではなく、1つの「神学的産物」とする。イスラエル王国やユダ王国の滅亡のとき、一部の人びとはエジプトに逃げている。エジプトは「単なる抑圧の地であるばかりか、安住の地や受け入れの地として描かれている」と主張する。

レーマーは、聖書に、捕囚から解放されたあと、ディアスポラを選択する人と100年前の地に帰ろうとする人の思想の違いと対立が反映されているとする。多くのユダヤの人はディアスポラを選んだという。

レーマーは、モーセ、ダビデ、ソロモンも実在した人物とは考えられないと指摘する。モーセ―を、ジークムント・フロイトの指摘を想定してか、エジプト人かイスラエル人かわからないと言う。長谷川修一は、イスラエル王国とユダヤ王国が統一された時期があったとする『列王記』の記述を否定するが、この問題に対しては、レーマーは言及していない。

とにかく、本書は内容が盛りだくさんで深い。


統一教会の異常な献金強要と新約聖書に残る血なまぐさい献金事件

2022-07-14 23:48:28 | 聖書物語

安倍晋三を統一教会の被害者が殺したおかげでに、統一教会が名前を変えて日本の社会にくいこんでいることが明らかになりつつある。

名前を変えただけで、韓国で生まれた反共の新宗教団体であることが変わらない。したがって、ここでは、「旧統一教会」と言わず、「統一教会」と呼ぶことにする。

統一教会が日本の信者に要求する献金が異常に大きい。限りなく献金を要求する。教義的には信者が自分のお金をもたないということからきているらしい。しかし、普通は、自分のお金をもたないということは、みんなでお金を共有するということで、自分が生活するに必要なお金に困らないはずである。ところが、お金は韓国の本部に送金されて、信者たちはお金を共有していない。その点が、日本で生まれた新宗教団体のオウムと異なる。オウムの場合は、土地を購入し共同生活をしていた。

統一教会が日本の信者に法外な献金を要求できたのは、信者が悪行を起こして地獄に陥っていると思いこませることのようだ。献金をして自分のお金をもたないようになることが、地獄から脱出できる唯一の方法と信じ込ませるようだ。

これは、極端な自己否定である。私は、人間がこんな極端な自己否定をして生きていけるのかが不思議に思ったが、じっさいは、そうでもないから困る。安倍晋三を殺した犯人の母親は、献金で自分自身が破産するだけでなく、まわりの人間を絶望に追いやり、自殺させたり、殺人者にしたりしている。異常な献金をすることで、極端な自己否定が快感になっている。

     ☆     ☆     ☆     ☆

新約聖書の『使徒行伝(使徒言行録)』にも異常な献金の話が出てくる。イエスが死んだあと、使徒ペテロのもとに、初期教会、信者の共同体ができた。

〈 信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。〉

(4章32節-34節 新共同訳)

注意深い読者はこれを読んで、「お金を共有しても、土地や家を売ってしまえば、共同体の存続は、献金だけにたより、持続不可能になる」となると思うだろう。古代において、土地こそがだいじな生産手段である。のちに出てくる修道院などは、土地を所有し耕すことで、持続していけたのである。

『使徒行伝』の5章で、その共同体に血なまぐさい事件が起きる。

〈 ところが、アナニアという男は、妻のサフィラと相談して土地を売り、妻も承知のうえで、代金をごまかし、その一部を持って来て使徒たちの足もとに置いた。すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。 売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。〉

(5章1節-5節 新共同訳)

このあと、アナニアの妻もペトロに責められて死ぬのである。たぶん、ふたりとも殺されたのであろう。

『使徒行伝』を続けて読むと、このあと、ペテロは教会から放り出され、教会は霊を共有するために集うところに変わり、信者は教会の外に生活の場をもち続けるようになる。

     ☆     ☆     ☆     ☆

統一教会も、日本の信者にすべてを献金させ、再分配しないというのは、意図的に信者に過酷な環境に置くことに等しい。幹部は日本の信者を罰しているのだ。

しかし、不思議なのは、もう韓国に「戦前の日本の悪行を謝らないぞ」と言っていた安倍晋三が、統一教会に帰依していたことだ。祖父の岸信介の場合は、統一教会の反共の教義が利用可能だと考えたと思う。安倍の場合の1つの合理的説明は、安倍が統一教会から特別待遇を受けていて、統一教会の教義の異常さに気づかなかったのであろうか。

統一教会と自民党やメディアとの結びつきが暴かれることをのぞむ。


聖書になぜか残された、奇怪なイメージと怒りに満ち溢れた黙示録

2021-04-25 23:10:34 | 聖書物語


バート・D.アーマンの『破綻した神キリスト』(柏書房)の原題は“God’s Problem”、その副題は“How the Bible Fails to Answer Our Most Important Question — Why We Suffer”である。すなわち、「我々がなぜ苦しむのか、という最も大事な問いに、なんと聖書は答えられていない」が副題である。

アーマンの問題提起は、「神は全能である」「神は愛である」「この世には苦しみがある」を同時に「真」とはできないということである。そして、この世には「苦しみ」がある。

よく分からないのは、その苦しみは彼自身に起きたことなのだろうか、ということである。もっとも私がそう思うことは「不謹慎」なのかもしれない。

地震や津波で 突然 死に直面する。新型コロナにかかると、1%以上の人が苦しんで死ぬ。ミャンマーで軍事政権によって人が殺されている。ウイグルの人が強制収容上に入れられる。アーマンは、これらを「苦しみ」と言っている。

アーマンにとって、どうも、彼の「苦しみ」は心の状態ではないように思える。彼は、人を「苦しむ」かもしれない状態に置くこと自体がいけないといっているようだ。だとすると、「この世に苦しみがある」というのは事実である。

「宗教家」としてできることは、慰めることだけである。アーマンは牧師だった。当然、無力感に襲われる。客観的な事実の「苦しみ」を軽減するには、医療従事者や福祉従事者や政治家の力に頼らざるをえない。

私自身についていえば、家族の問題で悩んだとき、色々な人にうったえたが、慰めの言葉をもらえなかった。全身できもので苦しむ『ヨブ』の主人公のように、「あなたは悪くない」という言葉も 誰からも もらえなかった。

そうなんだ、苦しむ人の心を慰める人は少なく、あなたは会うことができないかもしれない。慰める人はもっともっと必要なのだ。

アーマンは彼の本の最後に、聖書の黙示録について、なぜか論じている。1つは、『ダニエル書』の7章以降である。もう1つは『ヨハネの黙示録』である。「黙示」とは、神からの幻視のことである。ありありと心に浮かぶイメージのことだ。

『ダニエル書』の7章は、つぎのように始まる。

《ダニエルは夢を見た。それは寝床で頭に浮かんだ幻であった。彼はその夢を書き記し、概要を次のように語った。》(聖書協会共同訳)

『ヨハネの黙示』は、つぎのように始まる。

《イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである。 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分が見たすべてを証しした。》(聖書協会共同訳)

黙示録の特徴は、奇怪なイメージで怒りを表現していることである。どうしようもない怒りを読み手にぶつけている。黙示録が聖書の中に残ったのは、人は怒ると苦しみが和らぐから、と思う。

『ヨハネの黙示録』では、おどろおどろしいイメージだけでなく、天使がラッパ(角笛だと思う)を吹くたびにバッタバッタと人が死ぬ。

《第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明のように燃えている大きな星が、天から降って来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んでしまった。》『ヨハネの黙示録』8章10-11節、聖書協会共同訳

これを、フョードル・ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の節に、イエス再臨の舞台設定として引用した。

戦前、国を批判し東京大学を追放になった矢内原忠雄が、戦前戦中、国家権力との孤独な戦いのなかで、『ヨハネの黙示録』に大きく支えられたことが知られている。戦後、彼は復職し、東京大学総長になった。

A.R.ホックシールドは『壁の向こうの住人たち アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』 (岩波書店)で、ルイジアナ州南西部で、大企業の環境破壊で、これまでの素朴な生活から追いたてられる住民の気持ちを、つぎのように書いている。

《携挙〔キリストが地上に再臨し、信者を天国に運び去ること〕の到来を信じていて、「終末のとき」のことを話した。黙示録の言葉を引用し、「大地がすさまじい熱に焼かれるんですよ」と説明する。火には浄化する力がある。だから千年後に、地球は浄化される。それまではサタンが暴れまわるのだそうだ。エデンの園には、「環境を傷つけるものは何もありません。神がご自分の手で修復なさるまでは、神が最初に創造なさったとおりのバイユーを見ることはできないでしょう。でもその日はもうすぐやってきます。だから人がどんなに破壊しようとかまわないんですよ。」》

《アレノ夫妻やそのほかの人々と同様、マドンナも携挙を信じていた。聖書によれば、そのときには「大地がうめく」のだと、彼女は言う。「竜巻、洪水、雨、吹雪、争いが起こって、大地がうめくのよ」と。ヨハネの黙示録と旧約聖書のダニエル書の言葉から、マドンナは今後千年のうちに、信心するものが重力から解き放たれて天国へ上り、不信心者が「地獄」とかした地上に取り残される日が来ると信じているのだ(黙示録20:4-20、ダニエル章9:23-27)。彼女の説明によると、携挙の後、世界は滅びるが、やがてキリストが新たな世界を作り、また平和な世界が千年続くのだという。》

「黙示録」は、圧倒的な暴力の前で、怒っている無力な人びとの慰めになるが、確かに慰めだけではいけない場合が、アーマンの言うようにあるのだ。


苦しみは罰でも試練でもない、友達なら重荷をともに背負おう

2021-04-04 23:34:03 | 聖書物語

私は人を慰めるとき、あなたは悪くないということを伝えることが重要だと考える。

2,3日前のブログで、アメリカ映画『グッド・ウィル・ハンティング』で、子どものとき虐待を経験した数学の天才児(マット・ディモーン)が挫折の経験のあるセラピスト(ロビン・ウィリアム)に「あなたは悪くない、悪くない、悪くない」と迫られて、心を突然開いたシーンをのべた。

世の中には不条理や説明のできない大災害が起きる。自然災害で多くのだいじなものを人びとは失うだけでなく、復興の過程で不公平が起きる。自分が不幸なのにあいつは幸せそうに暮らしている思いである。

この問題をバート・D・アーマンが『破綻した神キリスト』(柏書房)で論じている。柏書房がつけたこのタイトルがよくない。もっと読まれて良い本だと思う。原題は、“God’s Problem: How the Bible Fails to Answer Our Most Important Question — Why We Suffer”である。訳すれば、『神の宿題:私たちのもっとも大事な問い、なぜ自分たちは苦しめられるか、に聖書はなにも答えられていない』という感じだと思う。

アーマンは本書で、聖書を書いた記者たちがこの問題をどう答えたか、それは答えとなっているかを論じている。第6章の旧約聖書の『ヨブ記』の議論が特に読むに値すると思う。

アーマンは、『ヨブ記』は2つの異なる構成のものをつなぎ合わせたもので、それぞれを書いた記者たちの答えは違う、という。

ひとつはヨブにたいする「神の試練」という寓話であり、もうひとつは、その間にヨブと彼の友人たちとの対話である。アーマンは寓話の部分は散文になっており、対話の部分は韻文になっている。散文の部分にはユダヤの神の名ヤハウェが出てくるが、韻文の部分には出てこない(対話の間にはいくつかヤハウェが出てくるが韻文ではなく、すべて地の文である)。散文の部分は短く、1章、2章、42章だけで、韻文の部分は3章から41章までである。

寓話は、金持ちのヨブを敬虔である(神を畏れ 悪を遠ざける)と神が言ったことに、何かの益なしに神を畏れることがあるだろうか、とサタンが反論して始まる。それで、神は、ヨブに試練を与えることをサタンに許す。サタンは、ヨブのビジネスを破綻させ、彼の使用人を殺す。そして、彼の10人の子どもを殺す。しかし、ヨブは神を非難しなかった。それで、サタンは、ヨブを足先から頭のてっぺんまで「できもの」に侵す。さすがのヨブも我慢できずに、自分が生まれてきたことを呪う。ここで、韻文の対話に切り替わる。

韻文の対話で、ヨブが神に屈服したところで、散文の寓話に戻り、神は試練を与えるのをやめ、ヨブの財産をもとの2倍に戻し、死んだ子供の代わりに、新たな10人の子どもを授ける。

アーマンはここで怒る。人が死んだのだから、財産を2倍したって、新たな10人の子どもをさずかったって、試練の埋め合わせにならないではないか。この寓話の作者は、使用人や子どもを単なる物、財産の一部としか考えていないのである。この寓話は、現代に映画化すれば総スカンを食うだろう。

そのことをのぞいても、人びとの苦しみを強くなるための試練だという考えは、私もおかしいと思う。苦しみは本来不要なものである。すなわち、避けられるのなら、避けた方がよい。わざわざ試練をあたえるのは、気違い沙汰である。

韻文のところは、ヨブが苦しんでいると聞いて友だちが次々とやってきての対話である。友だちは、ヨブが苦しんでいるのは神の罰だという。神は万能なのだから、お前が悪いと神が判断したことに誤りがない。いっぽう、ヨブは、悪いことをしていない、無実であるのに罰せられるのは おかしい、と言い張る。この対話が延々と繰り返される。

ここでも、アーマンは怒る。友だちなら慰めるべきだ。ヨブの悪かったことを具体的に挙げることができず、神のしたことだからヨブが悪くて神が正しいでは、神は人をもてあそぶ専制君主ではないか。神を正当化する理由はどこにもないではないか。

世の中には不条理は常にある。そして、人力でどうにかなる部分は人力をつくさねばならない。そして、友人なら、責めずに、その悲しみを慰め、共有しないといけない。

2011年5月のNHKの「こころの時代」で、気仙沼市の山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)が東日本大震災の津波の翌日の朝のことをつぎのように言っていた。

《すべてを失って、今、すがすがしい朝を迎える、
 自然は、今までと同じく、いや、それ以上に美しく、よみがえる、
 神は、人々を罰するために、地震と津波をもたらしたのではない、》

苦しみは罰でも試練でもない。説明のできない不条理である。こういうときこそ、慰め合い、助け合おうではないか。できたら、ずっと助けあっていこうではないか。