きのうの朝日新聞〈多事奏論〉に『「ほめて育てる」親は不適切?』という「くらし報道部科学みらい部次長」の岡崎明子の記事がのった。彼女は「ほめて育てるは不適切」と主張する。
彼女は「私が育った昭和は、体罰上等、セクハラ夜露死苦、喫煙なめんなよの世界だった」と言う。育った時代が違うのか、育った階級が違うのか、私は昭和をそうだと思わない。
ベビーブーム世代の私が育った昭和は、まだ、戦後民主主義が生き残っていた。しかし、日本社会は1980年前後で、大きく右傾化した、と私は考える。「道徳」とか「武道」とか「国家」とが日本の教育に定着したのはその頃ではないか、と思う。
彼女は宮藤官九郎と生年月日は1日違いと言うから53歳である。彼女や彼は、「日本ナンバーワン」のもとに右傾化した日本社会のなかで、自我を成長させたのであろう。右傾化することがカッコいいと誤解したことは充分考えられる。
彼女は、TBSドラマ『不適切にもほどがある!』の初回のシーン、「ゆとり世代の社員が『期待しているよ』とZ世代の後輩をほめたら『ハラスメントだ』と訴えられた」のが印象的だという。まず、「期待している」がほめ言葉かどうか、わからない。結果が出てない人にいうのだから、「期待している」はそれ以上でもそれ以下でもない。プレッシャーをかけていると後輩が感じたのではないか。コメディーの脚本は登場人物が大げさに反応することで成立する。クドカンは受けを狙ってそうしただけだと思う。
「ほめる」は結果についての他者の反応である。他者が結果を評価しないで「ほめる」なら、ウソをついていることになる。結果を出した主体を他者が「ほめる」ことは正常な行為である。岡崎はいじけているのではないか。
私の勤めているNPOに、無理をしてほめる英語教師がいた。私はわざとらしい行為と思ったが、英語教育でそれなりの効果をあげていた。この場合、結果でなく、結果を出そうとする主体の努力をほめていたのだ、と思う。残念ながら彼女は白血病で若くして死んだので、確認していない。
「ほめる」のに根拠があれば、「ほめられた」子の「自己肯定感」を育むと私は思う。
岡崎は「ほめて育てたいという考えの裏には、『子供に嫌われたくないという親自身の自己愛も潜んでいるのではないか』と言う。そういう親もいるかもしれないが、一般的ではない。それは裕福な中流家庭に固有の問題ではないか。
やはり、「叱る」よりも「ほめれる」親になるよう助言するほうが「適切」だと思う。
岡崎が「小学生の娘の宿題の〇をつけ」たときの失敗談を述べていたが、朝日新聞の次長たる知識人が娘の宿題を手助けするなんて「不適切にもほどがある」と思ってしまう。宿題なんて本人がするものだ。本人がしたくなければしなければ良い。
私自身は学校の宿題なんてしたことがないし、私の親も手伝うなんてこれっぽちも思っていなかった。塾もない時代である。
親子が家庭で時間を費やすべきなのはコミュニケーションであって、庶民が味わってきた本当の歴史と生きていく知恵とを語り伝えていくことである。