猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

デモクラシーとは何であるか宇野重規の『西洋政治思想史』

2025-04-06 17:34:07 | 民主主義、共産主義、社会主義

宇野重規の『西洋政治思想史』(有斐閣アルマ)を病室のベッドで読んでいて、結章で気になる一節に出くわした。

〈共和政が「公共の利益が支配する政治」であるとすれば、デモクラシー(民主政)は「社会の多数を占める、貧しい人々の利益が支配する政治」にほかならなかった。〉

西洋政治思想の歴史の中でデモクラシーが否定的意味合いで使われてきた、と宇野は言いたいのであるが、上の言明は私にはとても唐突に感じた。

共和政が「公共の利益が支配する政治」というのは、たぶん、ローマの政治思想を肯定的に捉えた風潮を指すのだろう。

デモクラシーは「社会の多数を占める、貧しい人々の利益が支配する政治」というのが理解しがたい。本当にそういう風潮が西洋政治思想にあったのだろうか。

考えてみるに、アリストテレスの政治学の読み違えではないかと思う。そこで、アリストテレスは、寡頭政(oligarchy)は少数者による支配、デモクラシーは多数者による支配、富者は少数、貧者は多数と言っている。しかし、「貧しい人々の利益が支配する政治」とは言っていない。

多数者による支配と貧者のための政治と別ものと考える。

デモクラシーはあくまで一人や少数の人たちが支配する政体ではないということである。トマス・ホッブズは『リヴァイアサン』で〈集まる意思のあるすべての者の合議体の場合は《民主政》(デモクラシィ)あるいは人民のコモンウェルス〉と定義し、〈「民主政」のもとで苦しんでいる人々は、これを「無政府」(アナキィ)〔統治の欠如の意〕と呼ぶ〉と言っている。

安定したデモクラシーの実現は容易ではない。

多数の人々が1つの政治的意思をもつというのは明らかに難しい。したがって、多数の人々が1つの政治的決断にいたるには、説得や妥協などのコミュニケーションの技術がいる。

宇野は『西洋政治思想史』のなかで、〈トクヴィルが言うデモクラシーとは、単なる政体分類の1つではなく、平等な諸個人からなる社会状態のことを指す〉と書いている。この言明がわかりにくい。

宇野は『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)につぎのように書いている。

〈アメリカ社会では政府の存在は強く感じられず、あたかも「統治の不在」のごとくであるが、にもかかわらず社会は正常に機能している。その背景にあるのは、社会の底辺における自然発生的な「デモクラシー」なのではないかというのが、トクヴィルの観察であった。〉

宇野が言いたいのは、デモクラシーが政体として機能するには平等な諸個人からなる社会状態がいるということであろう。政治家だから偉い、高級官僚だから偉い、大学教授だから偉いと人々が思っているようでは、デモクラシーが機能するのは難しい。


古代アテネのデモクラシーとは?フィンリーの『民主主義』

2025-03-02 17:57:27 | 民主主義、共産主義、社会主義

M.I.フィンリーの『民主主義 古代と現代』(講談社学術文庫)は、古代ギリシアの民主政(デモクラシー)について述べた名著である。その第1章はつぎで始まる。

「近代の世論調査が「発見」したものの中で、おそらく最も知られておりまた最も誇れることは、西欧の民主主義国の大多数の選挙民が政治に無関心であり、無知であるということである。彼らは争点がよくわかっていないし、そのほとんどについて関心すら抱いていない。…… 国によっては、大多数の人が、かけがえのない投票権を行使さえしない。」

フィンリーは何を言いたいのか。決して、政治への無関心を勧めているのではない。民主政が教育の普及している現代なお実現していないことを非難しているのだ。

エイブラハム・リンカーン米大統領の有名な言葉 “government of the people, by the people, for the people”(人々の人々による人々のための政治)は、近代社会において、あくまで理想で、実現していない。多くの人々は政治に無関心で政治に参加しないのである。

それに対し、古代ギリシアでは、人々は政治に積極的に参加していた、とフィンリーは言いたいのである。

「戦争や平和、条約、財政、律法、公共事業、つまり統治活動の全領域に最終的な決定権を持つ民会は、18歳以上の年齢で、その日に出席した何千何万もの市民からなる野外の大衆集会であった。」

「最高意思決定機関である民会への出席はすべての市民に開かれていたし、官僚機構もしくは公務サービスは少数の書記を除いては存在しなかった。その書記と言うのは国家自体が所有している奴隷であって、彼らは条約や法律の文書、税金滞納者のリスト、その他のどうしても残さざるをえない記録の保管に携わっていた。したがって統治機構はまさに文字通り『人民による』ものであった。」

したがって、古代において、まさに、「人々の人々による人々のための政治」が実現していたのである。

古代のアテネには公的教育制度はない。経済格差もある。当時の知識人たちは、フィンリーによれば、大土地所有者、大商人などの子どもたちで、広場でゴロゴロしながら、対話を通じて知識を増やしていたのだという。しかし、彼らは、農夫、小売商、職人など下層民(デモス)を助けて、「最高意思決定機関である民会」の体制を継続したのである。

デモクラシーは政治体制として見ることも、政治思想として見ることもできる。政治思想としては、デモクラシーは人びとはみな平等である。そして、自分たちの運命を自分たちみんなで決めるということになるだろう。

行政機構の発達した現代社会では、古代ギリシアのような直接民主制は実現は無理だろう。しかし、政治思想としてのデモクラシーは実現したいし、実現すべきである。選挙の時だけ政治参加がある社会はデモクラシーでない。プーチンやトランプのような独裁官はいらない。独裁は、社会に恐怖と腐敗をもたらす。


宇野重規や論壇は現在の代議制民主政に危機意識をもって解決を模索すべき

2024-06-28 11:31:37 | 民主主義、共産主義、社会主義

きのうの朝日新聞《論壇時評》に、宇野重規が『分極化で求められる「政治」の力』を書いていたが、表層的で私にとって満足いかないものであった。もう少し、現在の代議制民主政に危機意識をもつべきである。宇野がなさけないのか、論壇がなさけないのか、それとも、両方ともなさけないのか。

日本の選挙の投票率は毎年下がっている。現在、国政選挙の投票率は50%前後である。地方選挙の投票率は40%前後である。自分の代理人を選ぶことに無関心な あるいは あきらめている国民が半分もいるのだ。

今年の4月、手製の銃を作成した若者を千葉県警が逮捕した。彼は銃マニアではない。手製の銃はパイプ銃で、販売されている銃のようなカッコよさはない。彼は、「日本の政治を含め、世の中に失望した。こんな国にした者らを攻撃することを考えていた」と警察に話したという。

今年、政治パーティでの収入を自民党議員が裏金化していることが、明らかになった。しかし、その問題の本質が議論されず、自民党内の権力争いに利用されただけであった。自民党と公明党で国会の過半数を占めているため、政治資金規正法の形式的な一部改正でお茶を濁された。このとき出された内閣不信任案にたいする反対の討論で、岸田文雄首相および自民党議員は「廃止、廃止では、民主政は維持できない、民主政はお金がかかるものだ」と叫んでいた。

なぜ、政治にお金がかかるのかが、問題の本質である。政治にお金がかかるのではなく、選挙にお金がかかるのである。

お金がかかるのは、もともと利害が異なる集団から、国という人間社会が、できているからである。現在の代議制民主政では、政治家がお金のある集団からお金をもらい、それで選挙民を買収し、お金のある集団のための政治をする仕組みになっている。もちろん、選挙のときだけでなく、議会で減税するとか、給付金を出すとか、バラマキもして、国の借金を増やすこともしている。

現在、政治家は職業である。政権党では特に職業として政治家を目指すものが多くなる。元首相の菅義偉がそうである。地方から東京に出てきてブラブラしていた怠け者の菅が、ある日、政治家が日本社会で権力が一番あるのだと気づき政治家になったと、告白していたのを新聞で読んだ記憶がある。

国が利害のある集団からできているとき、すでにお金のある集団(既得権益者)は、自分の利権をいかに守ろうかと真剣に政治を考え、政治家にお金を払う。お金のない集団は政治に無関心か諦めている。お金のある集団とお金のない集団の政治への関りは対称でない。

これでは、議会が国民の代表の集まりとして機能するはずがない。

いま、20世紀初頭のヨーロッパと同じく、日本の代議制民主政は危機を迎えていると私は考える。宇野重規も政治学の論壇もこれを真剣に論じ、問題の解決を模索すべきである。たとえば、選挙期間というものを廃止し、いつでも選挙運動をしてよいとするとか、小選挙区を廃止し、全国1区にするとか、何か方法があると思う。


寝ぼけて池上彰の中国共産党批判を聞く

2022-01-08 23:38:39 | 民主主義、共産主義、社会主義

最近、寝ている時間が増えている。きょうも夕食が終わると寝ていた。

ふっと気づいたとき、池上彰がテレビで、社会主義では人びとは働かなくなり生活はが貧しくなるとしゃべっていた。鄧小平が社会主義市場経済を導入したことで中国経済が発展した。市場経済とは自由にお金儲けをしてよいことだから資本主義である。社会主義資本主義というのはおかしい、と言っていた。

まだ、脳が寝ていたから、社会主義というのがオカシイというのか、資本主義というのがオカシイというのか、わからない。

だが、社会主義だから生活が貧しくなるというのはオカシイという気がする。数学の論理では、真理の命題の対偶は真となる。すなわち、生活が貧しくならないためには社会主義であってはならないということになる。そんなに、社会主義とは悪なのか。

根本的な問題は、社会主義とは国家が市場を管理することだからいけないのか。それとも、一部の人びとが、富を独占することが良いことなのか。他人の幸せを考えてはいけないのか。

社会主義とか共産主義とかいう場合は、社会における人間関係のあり方を言うはずである。市場経済とは経済活動におけるありかたである。しかも、経済学者がつくった理想化された概念である。

たとえば、J. K. ガルブレイスは『ゆたかな社会 決定版』(岩波現代文庫)のなかで、市場経済とは理想化された虚構で、本当は、人間は市場経済社会の中の自由競争で耐えられず、安定を求めてイカサなな仕組みをつくってきた。お金持ちのほうが政治的発言力が強いからお金持ちに都合の良いルールがしかれた。市場経済の名のもとに不公平がまかり通ってきたという。

社会の根本的理念として、社会主義、共産主義に対抗するものとして、自由主義(リベラリズム)がある。そして、自由主義に対抗するものとして、国家主義というものがある。

新型コロナが社会を覆う前に、5年前だと思うが、高校以来あったことのない友達にあって自慢話を2時間ほど聞いた。大学を出た後、NECの開発研究所に務めたという。人に命令されることが嫌いなので、つぎつぎと上司をはめて、どんどん上に上り詰めたという。結局は、大きなビジネスに失敗したので、退職金をたっぷりもらってNECをやめたという。

自慢話だから、すべてが事実とは限らない。しかし、人に命令されるの嫌だというのは本音だろう。だからといって、上司をはめる必要があるのか、は疑問である。人の上にたたないと自由がないのか。

自由主義というのも、現実社会では心もとない理想である。自由主義は富や自由の独占を認めているのだろうか。中国共産党を叩いているだけで、日本社会の現状の肯定しているのでは、イケナイと思う。

私の脳はまだ半分寝ている。


リベラルとは何か、ハト派なのか

2021-10-07 22:27:01 | 民主主義、共産主義、社会主義

岸田文雄は「リベラル」という言葉を使わないが、宏池会系であることで、「リベラル」と見なされることがある。日本の古い世代には、リベラルとハト派と似たひびきがあるようだ。しかし、岸田自身は外交においては安倍路線を引き継ぐようだ。

リベラルとは何であるか、私にはよくわからない。その語を使う人によって意味が変わるからだ。

11年前、マイケル・サンデルの『ハーバード白熱強熱』がNHKで放映されたとき、リベラルとリバタリアンと違いが分かったような気がした。他人のことも思う自由主義がリベラルで、自分のことをしか思わないのがリバタリアンという説明だったようである。しかし、これがみんなに共有されているわけでもなく、また歴史的な定義でもない。

宇野重規の書評を見て、田中拓道の『リベラルとは何か 17世紀の自由主義から現代日本まで』(中公新書)を読んだが、ますます、わからなくなった。宇野重規自身は田中のこの本を褒めて、「リベラルを切り捨てる前に、ぜひこの本を読んで欲しい」と言っていた。

田中が彼の本で明らかにしていたのは、リベラルがとる政策は、時代と国によって大きく変わるということである。

そこから、私が読み取ったのは、一貫したものとして、リベラルは「共産主義」に反対する立場であることだ。リベラルは私有財産を肯定するのである。リベラルの創始者と言える、ジョン・ロックは、彼の「統治論」で、王や大衆から私有財産を守るために、政府や法が、あるのだと主張している。

ロックをはじめとするリベラルの考え方は、バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』にコンパクトにまとめられている。リベラルの考えは、三権分立のように、現在の代議制民主政の基礎となる概念を生んだ。しかし、リベラルは、あくまで、上からみた「気前の良い」福祉国家であり、「反共」や「中間層を増やす」など、私が納得できないものを多く含んでいる。

中間層を増やすのではなく、貧困層を減らすか、富裕層を撲滅するのが筋ではないか。

細かく見ると、ロックは、『統治論』で、「共有」が基本で、「私有財産」を個人の労働の成果として控え目な形で主張している。人間が本当に自分だけの労働の成果と主張できるものが、どれだけ明確にあるか、という問題を念頭において、ロックは書いている。自分だけの成果でなければ、格差が大きいことは、搾取である。人の労働の成果を盗んでいるのである。

岸田の「新しい資本主義」は、「資本主義」というものはどう定義しているのだろうか。なぜ資本主義にこだわるのだろうか。共産主義が、個人のささやかな貯蓄や持ち物を奪い取ると、怯えているのだろうか。「資本」というものが、自由な企業(ビジネスの立ち上げ)の障害になっているではないか。