猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

立憲民主党がリベラルで悪いのか、他党やメディアの悪意あるレッテル貼り

2021-11-30 22:56:54 | 政治時評

立憲民主党の新しい党代表に泉健太が選ばれた。立憲民主党は自分の旗を明確にし、他党からの攻撃やメディアからの攻撃にひるまないようにしてほしい。

きょうのNHKの9時のニュースで、泉健太は中道で、逢坂誠二と西村千奈美がリベラルと言っていた。何かリベラルが悪いことなのか、中道でないといけないのか。泉健太はリベラルでないのか。また、立憲民衆党は自民党の批判ばかりをしていると言うが、悪いものは悪いと言っていけないのか。

他党やメディアは明らかに悪意のある攻撃を行っている。

リベラルは私的所有権を認めている。私自身は、私的所有権に制限があっても良いと思っているから、リベラルではない。リベラルは、ブルジョア(市民)の立場から、社会保障、福祉を主張している。そして、全世界で平和主義である。しかし、リベラルでなくても、社会保障や福祉はだいじなはずである。リベラルな政党は必要なのだ。

今回の立憲民主党の党代表選では、泉、逢坂、西村、小川淳也の主張に大差があったわけではない。しいて言えば、泉は、前執行部に属しており、リベラルを党の旗印にした枝野幸男を弁護していた。その点で4人の中では、泉が一番信用できると思っている。

逢坂は、記者クラブでの代表選討論会で記者の質問につられて、共産党の「閣外協力」について批判を口にしたが、これには軽率だと思う。泉が、「閣外協力」とは「政権がとれても共産党を内閣に入れない」という選挙協力の合意であって、それ以上でもそれ以下でもない、批判される筋合いはないと はねつけたのは、大人の対応だと思う。

改憲一般論では、憲法に改憲の規定がある以上、憲法を改定できると考えるのは当然である。問題は、今、何を変えるのかという問題である。

変えるべきは、象徴天皇制である。天皇制を廃止すべきである。天皇をはじめとする皇族には、憲法に規定される普通の「国民」になってもらう。「すべての国民は、法の下で平等であって」「すべて国民は、個人として尊重され」「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」。皇族にとって良いことばかりである。

自民党の改憲案の問題は、自衛隊を軍隊とすること、緊急事態条項を創設することである。立憲民主党には、今後も、自民党の改憲案に絶対反対してもらわないといけない。

現実問題として、日本が外国から軍事侵攻を受ける可能性はゼロと言ってもよい。あり得ない軍事侵攻に備えるといっても、どれだけの軍備がいるのか、妄想だからキリがない。ミサイルは発射されてからでは防げないから、発射する前に敵国の軍事基地を攻撃するという発言が、自民党の総裁選に でてくる現状では、立憲民主党に平和主義の旗を高く掲げて欲しい。

これまでの世界の大国には軍備に力をいれ、国民の生活を壊し、自滅した例にことをかかない。軍備によって、国費が圧迫され、社会保障、福祉を維持できない。

緊急事態条項は、代議制民主主義を否定するものである。独裁政権の出現を生む。民主主義とは、すべての人が平等であるという考え方である。政治は、すべての人が参加でき、すべての人のために行われるものでありたい。民主主義とは、効率よりも、国民の一人ひとりを尊重するのだ。緊急事態を理由に、民主主義からの除外条項を憲法に設けることは、1933年のドイツの全権委任法の制定によるナチス独裁の例もあり、あってはならないことである。

軍備を増強し、政治を効率化することが、決して「建設的」なことではない。

社会保障や福祉を充実し、人びとが、強迫症になることもなく、楽しく働き、愛する人をみつけ、楽しく子育てをできる社会を実現することこそ、「建設的」なのだ。


納得できない是川夕の『「移民国家」になる日本』

2021-11-29 22:45:33 | 社会時評

4日前の11月26日の朝日新聞に、是川夕へのインタビュー記事『「移民国家」になる日本』がのった。日本に、観光客とは別に、働きに留学にどんどん外国人来日しているが、人口が減少している日本としては、いろいろな課題があっても、これが救いになるという是川の主張である。

読めば読むほど違和感の残るインタビュー記事であった。本当は、いろいろな課題にどうするかが、問題なのではないかということである。

入管の報告書によれば、2019年には、外国から日本に2,840万人が訪れている。そのうちの59万人が90日をこえる滞在である。

是川によれば、《多くの外国人労働者が、働くための在留資格という正面玄関ではなく、研修目的の技能実習制度や留学生のアルバイトなどのバックドアから入っているという見方が主流です。》

このバックドアは、必ずしも不法入国者という意味ではなく、働くための在留資格をとらずに入国したにもかかわらず、いつのまにか、日本で働いているということである。たとえば、日本語習得を目的として入国しても、それから大学に入学でき卒業できれば、日本人卒業生と同じく企業に就職でき、専門的知識を生かした永住資格を取ることも可能となってくる。

日本の企業の多くは、外国と貿易しているから、外国生まれの社員が必要である。

また、日本の企業はかたよった年齢構成になっており、給料の安い若年層の社員を求めている。国税庁の民間給与実態調査によると、2019年には、どの産業においても、45歳から49歳に労働人口の分布の山がきている。これは、日本人口の年齢構成と合致している。第2ベイビーブーマーが日本の労働人口のピークをなしている。

すなわち、国際協調ではなく、日本国内の格差社会を維持するために、外国からの若い移民が必要だと、是川は考えているのではないか。

日本が生きのこるための国際協調を重視すれば、外国の移民たちが日本で弱い立場にあることを見て見ぬふりをしてはいけないはずである。日本が外国から尊敬されるには、日本国憲法で「国民は」と規定されている人権を移民労働者にも当てはめないといけない。

私は若いとき4年間カナダの大学で研究者として働いたが、カナダ政府からカナダ人と変わらぬ社会保障を受けた。

是川が《ゆがんだ制度によって外国人労働者が来日し、それが故に人権侵害が一部でおきていることも否定できません。しかし、それだけでは大切なことを見落とすことに気付きました》という。

人権侵害がおきるのはまずいのではないか。強欲な経営者たちのために、「ゆがんだ制度」を作り維持する政府を、見ぬふりはできないのではないか。

是川は《各種調査によれば、アジア諸国から見て日本は憧れの国です。・・・他の国と比較くして相対的に、ドライに日本を選択しているだけだと思います》という。

この「ドライ」のいう言葉に違和感がある。是川の「ドライ」に「移民がつらい思いをしても移民の自己責任だ」という気持ちがあるのではないか。雇う日本人と雇われる移民の間に、互いの尊敬の念が生じなくても良いのだ、と言い切っているのではないか。

確かに、是川が、移民を日本文化に同化しなくてもよい、という主張、《文化的なものは私的な領域に属する部分も大きく、日本人も外国人もそれぞれが大切にすればいい》にはうなづける。

しかし、人権は普遍的な価値ではないのか。民主主義と人権とで尊敬される日本であるべきと私は思う。


自分の顔に自信をもとう、目が小さいのも そばかすも個性美である

2021-11-28 23:53:37 | 社会時評

きょうの朝日新聞に『ディオール、中国で発表の写真撤回 「アジア人蔑視」「ステレオタイプ」と批判』との小さな囲み記事が載った。この記事は、4日前のBBCの記事“China: Photographer sorry for 'small eyes' Dior picture”に触発されてのものと思われる。朝日新聞の前に、すでに、日本のメディア各社でも同様の報道があった。

記事をかいつまんでいうと、クリスチャン・ディオールのアート展で公開された冒頭の写真に、中国のネット上で《「アジア人を蔑視している」などとして批判され》、ディオールが撤回に追い込まれただけでなく、《撮影した中国人女性写真家も「深く反省し、当時の自分の無知を責める」と謝罪した》ということである。

問題は、何がアジア人(中国人)を侮辱したとネット中国のネット住民が感じたかである。

「陰気な表情」「悪い目つき」「腫れぼったい一重まぶた」「中国人は目が小さな人ばかりではない」「長年にわたってアジア女性は、小さな目とそばかすで表現されてきた」

美とは個々の人間の主観であるから、「目が小さい」からと言って、「そばかすがあるから」と言って醜いわけでない。

美は個性である。写真家は謝罪する必要がない。美しいと思って撮影したはずである。なのに彼女が謝罪したのが、この記事の怖い所である。

私が中学にはいったとき、最初に好きになった子は、長いまつげで瞳と白目が見えなかった。目が細かったわけである。

いま、電車にのって向かいの女性の顔をみると、横浜市は北日本に属するせいか、ほとんどの人の眼がしらに「蒙古ひだ」がある。私は、小さいときにマンガのせいで、みんな「どんぐりまなこ」であると思っていた。ある時、自分の母が「どんぐりまなこ」でなく、「釘字まなこ」であるのに気づいた。「蒙古ひだ」があって、眼がしらにカバーがかかっているのである。そのとき以来、しばらくは、みんなそんなものと思っていたら、東京で出会った四国出身の妻は、「蒙古ひだ」がないのである。

私は30歳前後にカナダにいて、大学で中東系の女の子によく声をかけられたが、目が大きいだけでなく、目がしらも目じりも同じ形をしているのである。ここで、ふたたび、認識をあらたにした。

人それぞれ目のかたちが違っていて いいのである。息子によると、日本では蒙古ひだを切除して目を大きく見せる美容整形が流行っているという。自分勝手に自分がブスだと思う必要がない。自分をブスだと思いこむことこそ、極東アジア人蔑視ではないか。

そばかすや染みだってそうである。私は可愛いと思う。あればあるで顔のアクセントになる。欧米人のほうがそばかすが多いのではないか。私自身も年老いて、染みが増えてきた。

母は自分の顔に劣等感をもっていたが、女性のかたには、自分の顔を美しいと思ってほしい。自信をもって、堂々としているのが一番美しいのだ。


「旅ガチャ」「肉ガチャ」、大人が中身を確認せずに買うだろうか

2021-11-25 22:49:11 | 社会時評

きょうのテレビ朝日の『羽鳥慎一モーニングショー』で「旅ガチャ」を保衛していた。「ガチャ」は、もともとは「ガチャポン」などスーパーなどにおかれた抽選式玩具販売装置である。私の息子が小さいときにはまっていた。

その「ガチャ」が、今年は初め「親ガチャ」という社会用語になり、いまは大人向けの抽選式商品販売方式になっているという。「旅ガチャ」「肉ガチャ」、本当かいな。

番組では、何を買うか自分で決めるのが大変だから、「ガチャ」がいい、と街頭インタビューで言わしていた。やらせではないか。

ガチャポンは、子どもにとって、100円で何がでてくるのか、の好奇心、冒険心、期待感があったから、はまったのであろう。

私の子ども時代にも、駄菓子屋で10円のくじでお菓子を手に入れることができた。私は小遣いをもらってなかったので、駄菓子屋に行ったことがない。人の話でそう聞いているだけである。

正月の初セリで、福袋を買うという慣習がある。これは、大人向けの「ガチャ」である。安く商品を手にいれることができるからと、いまでも福袋を買う人がいる。

私は商店街の生まれなので、福袋は、その前の年に売れなかったものを袋に詰めて、初セリでお客にサービスする、あるいは、安く売るもの、というのイメージが強い。だから、福袋を買いたいとの気持ちが 私には まったくない。

カードゲームのカードのことをトレーディングカードともいうのだと、最近、ある子どもに教えられた。カードゲームのカードにはいろいろなカードがあって、買うときには、どぱーとカードが袋に入っていて、カードを選べない。ガチャ方式である。

しかし、そのあとが面白いのだという。友達同士でカードを交換して、欲しいカードを手に入れるのだと言う。だから、トレーディングカードというのだ、とその子は言う。

大人がガチャ方式で商品を購入するとき、望みの商品でなければ、職場や近所の友だちと、商品を交換するのだろうか。私は自分の好みがはっきりしており、ガチャで物を買うなんて信じられない。少なくとも、お店で商品を自分の目で見て、選んで買いたい。

[追記]

きょう改めてバンダイの「ガチャポン」をスーパで確認したら確認したら、もはや、100円でなく、200円、300円、400円の3種類になっていた。「ガチャポン」の玉の大きさも昔より大きくなっていた。


共産主義と自由主義とのたたかいは「私的所有」をめぐる綱引き

2021-11-24 23:13:43 | 思想

最近、テレビのコメンテーターのなかに、自由主義が「善」で共産主義が「悪」であるかのように語る人が増えてきた。自民党が好きで共産党が嫌いというのは、好みで、そう思うのは人の勝手である。しかし、イデオロギーに善悪をつけてくると、薄気味が悪い。約70年前のマッカーシーの赤狩りを思い出されるからだ。

1930年代に大恐慌(大不況)がアメリカをはじめとして全世界を襲った。民主党のフランクリン・ルーズベルト大統領は、大量の公共事業を起こし、失業者を救った。ニューデール政策である。

この反動として1950年代に、共和党議員のジョセフ・マッカーシーが反共産主義運動を起こした。議会の公聴会に「共産主義者」の疑いがあるものを呼び出し、公開の場で罵倒し、アメリカ合衆国連邦政府やマスメディアやアメリカ映画界から追放した。

「共産主義」者を追放するのが「自由主義」というのは、あきらかに、言論や思想の自由に矛盾する。

じつは、この「共産主義」「自由主義」という訳語がおかしいから、このようなことが生じるのだ。「共産主義」というのは、「私的所有」を否定、あるいは制限する考え方である。「自由主義」とは「私的所有」を「個人の自由だ」と肯定する考え方でる。

橋や道路や鉄道を作ることが個人事業であった時代に、民主党のルーズベルト大統領が、金持ちから税金をとって、公共事業を行ったのだから、これを「共産主義」だと思って、怒るお金持ちがいてもおかしくない。

しかし、公共施設や公共事業は社会に必要なのだ。J.K. ガルブレイスも『ゆたかな社会』(岩波文庫)で、アメリカは道路や図書館などの公共施設が貧相すぎると怒っている。

「私的所有」を過度に主張する社会になると、公共施設がおろそかになり、道路を通るにも、橋を渡るにも、その所有者に使用料を払わないといけなくなる。現在、私たちの周りには、共有の施設がいっぱいある。それは、「私的所有」では不便だし、「共有」が必要だからだ。

また、「私的所有」を安易に認めてしまうと、金持ちは生活に必要とする以上の所得があるから、投資してますます金持ちとなる。経済的格差が広がらないためには、累進課税制を設け、「私的所有権」に制限をかけないといけない。これを昔から「再分配」と言ってきた。

つまり、日本はそんなに「自由主義」社会であったわけではなく、部分的に「共産主義」社会であったのである。それが、「自由主義が善で共産主義が悪」となると、道路や橋が個人の所有物となるだけでなく、お店や工場や耕作地などの生産手段をもたぬものはますます貧乏になり、働くことに喜びがなくなる。

「共産主義」は決して突拍子もない考え方でない。常識的な人が受け入れてきた考えであり、守るべき考えである。