猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

経尿動的膀胱腫瘍切除術とインスリン治療

2025-04-03 14:35:18 | こころ

一昨日せきたてられるように、一日早く大学病院を退院した。

入院したのは、膀胱がんの診断確定と早期治療のための「経尿動的膀胱腫瘍切除術」のためである。何か難しい術名だが、要は、全身麻酔のもと、おちんちんの先から直径8ミリの内視鏡と電気メス挿入し、腫瘍の削除と生検を行うものである。

ただ、私が血糖値のコントロールができていず、術を行うには危ないということで、糖尿病内科の意見のもと、術の2週間前に入院して、インスリン投与の治療を受けた。

同室の患者の多くは、入院翌日に術を行い、術後の経過が格別の問題がなければ、2、3日で退院していく。ベッドは次々と新しい患者で埋まり、私だけが術を受けることもなく、のんびりとしているようで、入院を要する患者に申し訳ない気がした。

しかし、これまで服薬で糖尿病治療を行っていた私は、はじめてのインスリン治療で四苦八苦していたのである。どれだけのインスリンを投与すれば、普通の血糖値になるか、なかなかわからなかったのだ。

今回初めて知ったのだが、高血糖より低血糖のほうが危険なのだ。高血糖は持続することで体に害を与えるが、低血糖は即座に脳に機能障害を起こす。

人間の体は、もともと、血液中のブドウ糖が過剰になればインスリンを放出し、ブドウ糖が少なくなれば自動的にインスリンの働きを抑えるようにできている。この自動的メカニズムが壊れた状態が糖尿病なのである。困ったことに脳はつねにブトウ糖を必要としている。

低血糖を起こさない程度に、インスリンを外部から注入し、術に安全なレベルに血糖値をコントロールするのが、意外と難しい。私は、3食ごとに、直前に自分で血糖値を測定し、指定された量のインスリンを自分で腹に打つ。寝る前にも血糖値を測定する。77歳の私には、手順正しく、自分で血糖値を測定し、インスリンを自分で投与すること自体が、大変だった。

低血糖を起こさず、血糖値を200未満に抑えるのに、内科の予告通り、本当に2週間かかった。

話しは、それで終わりではなく、言われた通りにインスリンを投与したのだが、退院した当日の昼食前、血糖値が71、昼食後4時間後には血糖値が74になった。血糖値70以下が低血糖である。大学病院に電話を掛けたが糖尿病の主治医がつかまらず、ブトウ糖を飲めという受付事務員と押し問答になった。その翌日には、朝食前の血糖値が77で、昼食前の血糖値が58になった。完全な低血糖状態である。インスリンの投与量がオカシイのだ。

今度は幸運にも主治医と直接電話で話すことができ、今回の昼食前のインスリン投与は中止、今後のインスリン投与量は半分にすることに決まった。きょうは3日目だが、投与量を半分にした結果、低血糖を起こさずに順調に血糖値コントロールができている。

この大学病院の売りは「チームで治療」だが、実際には柔軟に状況判断できるリーダーが重要である。チームリーダーが人間でなくAIに代わってもうまくいくはずがない。AIは例外的状況に対応できない。AIは平均的な答えしか出せないのである。

なお、私の膀胱がん治療は今後続く長い道にはいった。同じ階の泌尿器科の患者と話しても、みんな時間をかけて悪くなっていくので、あきらめはついている。


日本人ってみなが悪いと思ってるだろう?半藤一利の最後の言葉

2025-02-27 15:29:17 | こころ

きのう読んでいた半藤末利子の『硝子戸のうちとそと』(講談社)に、半藤一利の最後の言葉が載っていた。4年前、加藤陽子の朝日新聞への寄稿のなかの「日本人はそんなにわるくない」の言葉を私が曲解していたのに気づいた。一利の意図を感じとってもらうため、末利子の本から抜粋する。

>亡くなる日の真夜中、明け方だったかもしれない。

「起きている?」

珍しくも主人の方から声をかけてきた。 (……)

「日本人ってみなが悪いと思ってるだろう?」

「うん、私も悪い奴だと思っているわ」

私がそう答えると、

「日本人は悪くないんだよ」

と言う。<

これを読んで病床の私は涙が止まらない。一利はなんて優しい夫なのだろう。

末利子の応答からすると、一利は日ごろ「日本人は悪い」と怒りまわっていたのだろう。彼は、死ぬ間際に、自分の言葉が与えつづけた呪文から妻を解き放したいと思ったのだと思う。

日本人全員が悪いわけではない。悪意の人もいれば、善意の人もいる。何も考えていない人もいる。悪い人がいるのは日本人だけでない。

一利は悪い日本人に怒りまくっていたのだ。

夫婦の思いやりという文脈を離れて、「日本人は悪くないんだよ」という言葉が独り歩きして欲しくない。

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ユングの『ヨブへの答え』がわからない、8月15日は何の日

2024-08-18 10:43:10 | こころ

C.G.ユングの『ヨブへの答え』(みすず書房)を読むのは、もう、やめた。

彼の『ヨブへの答え』を何度読んでも、彼の激しい怒りを惹き起こしたものがわからない。1950年当時の国際政治状況、思想状況を私が知らないのもあるだろう。彼の引用する『エノク書』は旧約偽典で、私のもつ聖書協会共同訳の『聖書』にのっていない。

その代わりにというか、8月15日がカトリックにとって聖母マリアの被昇天を祝う日だと、今回、はじめて知った。ユングの『ヨブへの答え』に、1950年にピオ十二世が「聖母の体も魂も天に召された」をカトリックの教義として宣言したことがでてくる。

この8月15日は、日本人にとって「終戦記念日」である。べつに祝日ではない。日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として、追悼式を主催する。

戦争が8月15日に終わったわけではない。大日本帝国軍がアメリカ軍に負けたと、軍の統帥者である昭和天皇が国民に向かっておおやけに告げた日である。海外にいる日本人を、兵隊も民間人も、如何に日本に安全に帰還させるかのなんの計画もなく、これから降参すると昭和天皇が国民に告げた日である。

激しい嘆きや怒りは、自分の力で不幸になんの対抗もできないときに、生まれるものである。旧約聖書のなかで、ヨブは神のもたらした不幸に抗議するが、神の恫喝に遭い、ヨブは全能の神ヤーヴェ(ヤハウェ)に答える。

「わたしは取るに足りない者 何を言い返せましょうか。わたしは自分の口に手を置きます」(ヨブ記40章4節)

『ヨブ記』は、全能の神におもちゃにされたヨブは神に「面従腹背」するが、全能である神はヨブの「面従腹背」に気づかないという物語である。

神は人間が作った虚構であるから、神を信じなければ良い。恐れて敬う必要などない。神の名で自分を不幸にした人間を呪えばよい。ヨブの怒りの根深さは、ヨブの友人までがヨブを非難し、神を擁護することにある。

しかし、南海トラフ地震や原爆投下や失業など、自分一人の力で対抗できないことが、この世にいっぱいある。が、ユングは、第2次世界大戦によるドイツの不幸やドイツの知識人に怒っているわけでもないようだ。

現在、イスラエル軍にガザで4万人以上が、殺されている。国際司法裁判所は、この7月19日、イスラエルによるパレスチナ占領政策は国際法に違反しているという勧告を出した。そのアメリカの議会は先週イスラエルへの軍事援助を続けると決めた。

長崎市長は、今年の8月9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典にイスラエルを招待しなかった。これに抗議して、アメリカやイギリスやフランスなどの政府は、式典に代表者を送らなかった。抗議の内容は「イスラエルをプーチンのロシアと同列に置いている」というものである。市長は、イスラエル軍のガザでの残虐行為に抗議して、という理由を述べなかったが、アメリカ、イギリス、フランス政府はみずからそう判断したわけである。

原爆の被爆者が、一方的にガサの住民を傷つけ殺すイスラエルに、怒る気持ちは、わたしには十分にわかる。ユングの怒りの先がわからないまま、『ヨブへの答え』を読むのを私は止める。神はいない。宗教はいらない。


ユングの激しい怒りに興味を覚え、『ヨブへの答え』を読む

2024-07-23 23:41:49 | こころ

図書館でC. G. ユングの『ヨブへの答え』(みすず書房)が目に留まり借りて読む。じつは、ずっと以前から、そこにあるのに気づいていたが、ユングが好きでないので、読もうと思わなかった。

読みだしてみると、非常に興味深いものであった。自分の気づいていない聖書の読みが随所にあり、ユングの博識が生きている。それに加え、私が興味を持った理由は、ユングの激しい怒りである。晩年の彼が、なんに対して怒っているのか、誰に対して怒っているかを、知りたくなったからである。

「ヨブ」は旧約聖書の『ヨブ記』のヨブのことである。神の気紛れからヨブがサタンに預けられ、サタンはヨブの家族や部下や財産を奪い、それでも神への信仰を失わないヨブを皮膚病に落す。正義を求めるヨブに、友人たちは神を讃えヨブを罵る。そういう物語である。

ユングがここに神の不正義、暗黒面を見る。そしてそれに腹を立ている。ユングにとって、「神」というものは、人の心の奥にある集団記憶である。

もともとの仏教にとって、「神」は魔物である。「神」は人間を不安と恐怖におとしこむ魔物である。不安と恐怖に落とし込める魔物、心を動揺させるものから自由になることが、「悟り」を開くことである。そのためには、人間界の上下関係や暴力に関与せず、世俗から離れてみずから社会の最下層になることである。しかし、もっとも古い経典の中にも、釈迦の弟子たちの間の憎しみと争いの痕跡がある。

「神」を魔物という考えに対して、もう一つは、「神」を「守り神」という考えがある。平均的日本人の風習に、賽銭箱にお金を投げ入れて、神にお願いすることがある。

古代の「神」は、共同体の「守り神」で、正義をもたらすか、不正義をもたらすかは、追求されなかった。守り神はお供えに答える神であり、不正でかまわないのだ。ユダヤ人の「神」もそんな神である。

ユングは、ヨブが「神」に正義を求めたのは、人間の心の成長と考える。人の心の奥にある集団記憶が変わってきたのである。そういう意味で「神」は人間との相互作用で変わり、人間は「神」に近づき、「神」は人間に近づくのである。エーリヒ・フロムも類似の考えを『自由であるということ―旧約聖書を読む(You shall be as gods)』(河出書房新社)で表明している。

「神」のイメージにもう一つある。「愛の神」である。愛する人と一緒にいるとき、静かにわき上がる喜びである。「愛の神」の「愛」は「快楽」と異なる。ユングは、「神」が人間に近づいて「愛の神」となると願っていたようである。

ユングの怒りは、『ヨブへの答え』の後半で、旧約聖書の『ヨブ記』の「神」への怒りから、新約聖書の『ヨハネの黙示録』の「キリスト」や「神」への怒りに移る。黙示録の「キリスト」や「神」は怒りに満ち溢れ、神が人間に近づき、道徳的になっていくはずだった神が、「恐怖の神」、「復讐の神」に戻っている。

どう考えても、ユングは昔に書かれた書物に怒っているのではない。1952年に『ヨブへの答え』を出版したとき、ユングは、現実の何かのできごとに、現実の人々の心の奥の何かに、現実の善人ぶる誰かの言動に激しく怒っていたと思われる。それが何かを理解したくて、『ヨブの答え』を読み続けている。


せんせい!おかげで生きとられるわ ~海辺の診療所 いのちの記録~

2024-06-03 23:03:06 | こころ

きのうのNHKスペシャルは、三重県・熊野灘の入り江の奥ふかくにある診療所の平谷一人医師(75歳)の、町の人々との日常を追ったドキュメンタリーだ。番組紹介に「にぎやかな診察室や、最期の時を支える往診など、いのちと向き合う日々を4年間にわたり記録。先生と町の人々との関係は、人がおだやかに“生”を全うするとはどういうことか静かに語りかけてくる」とある。

後期高齢者となった私が見ていて興味をもったのは、診療を拒否するお年寄りや食事をしなくなるお年寄りがいることだ。

平谷はこれらのお年寄りにどう対応したらよいのかわからないと言う。彼が「わからない」というのは、彼らの気持ちが分かるからだろうと思う。その気持ちとは「自分は充分生きた」ということではないか、と私は思う。

アメリカの会社には「定年」というものはない。役にたたないとして会社からクビになるか、「自分は充分働いた」と思って自分から退職するのだという。私が日本で定年になったとき、「自分は充分働いた」と思って自分から退職する気持ちが、理解できなかった。

番組では、診療を拒否するお年寄りや食事をしなくなるお年寄りは、90歳とか100歳であったが、「自分は充分生きた」という気持ちが時々浮かんでくるようになった私は76歳である。