猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ユングの『ヨブへの答え』がわからない、8月15日は何の日

2024-08-18 10:43:10 | こころ

C.G.ユングの『ヨブへの答え』(みすず書房)を読むのは、もう、やめた。

彼の『ヨブへの答え』を何度読んでも、彼の激しい怒りを惹き起こしたものがわからない。1950年当時の国際政治状況、思想状況を私が知らないのもあるだろう。彼の引用する『エノク書』は旧約偽典で、私のもつ聖書協会共同訳の『聖書』にのっていない。

その代わりにというか、8月15日がカトリックにとって聖母マリアの被昇天を祝う日だと、今回、はじめて知った。ユングの『ヨブへの答え』に、1950年にピオ十二世が「聖母の体も魂も天に召された」をカトリックの教義として宣言したことがでてくる。

この8月15日は、日本人にとって「終戦記念日」である。べつに祝日ではない。日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として、追悼式を主催する。

戦争が8月15日に終わったわけではない。大日本帝国軍がアメリカ軍に負けたと、軍の統帥者である昭和天皇が国民に向かっておおやけに告げた日である。海外にいる日本人を、兵隊も民間人も、如何に日本に安全に帰還させるかのなんの計画もなく、これから降参すると昭和天皇が国民に告げた日である。

激しい嘆きや怒りは、自分の力で不幸になんの対抗もできないときに、生まれるものである。旧約聖書のなかで、ヨブは神のもたらした不幸に抗議するが、神の恫喝に遭い、ヨブは全能の神ヤーヴェ(ヤハウェ)に答える。

「わたしは取るに足りない者 何を言い返せましょうか。わたしは自分の口に手を置きます」(ヨブ記40章4節)

『ヨブ記』は、全能の神におもちゃにされたヨブは神に「面従腹背」するが、全能である神はヨブの「面従腹背」に気づかないという物語である。

神は人間が作った虚構であるから、神を信じなければ良い。恐れて敬う必要などない。神の名で自分を不幸にした人間を呪えばよい。ヨブの怒りの根深さは、ヨブの友人までがヨブを非難し、神を擁護することにある。

しかし、南海トラフ地震や原爆投下や失業など、自分一人の力で対抗できないことが、この世にいっぱいある。が、ユングは、第2次世界大戦によるドイツの不幸やドイツの知識人に怒っているわけでもないようだ。

現在、イスラエル軍にガザで4万人以上が、殺されている。国際司法裁判所は、この7月19日、イスラエルによるパレスチナ占領政策は国際法に違反しているという勧告を出した。そのアメリカの議会は先週イスラエルへの軍事援助を続けると決めた。

長崎市長は、今年の8月9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典にイスラエルを招待しなかった。これに抗議して、アメリカやイギリスやフランスなどの政府は、式典に代表者を送らなかった。抗議の内容は「イスラエルをプーチンのロシアと同列に置いている」というものである。市長は、イスラエル軍のガザでの残虐行為に抗議して、という理由を述べなかったが、アメリカ、イギリス、フランス政府はみずからそう判断したわけである。

原爆の被爆者が、一方的にガサの住民を傷つけ殺すイスラエルに、怒る気持ちは、わたしには十分にわかる。ユングの怒りの先がわからないまま、『ヨブへの答え』を読むのを私は止める。神はいない。宗教はいらない。


ユングの激しい怒りに興味を覚え、『ヨブへの答え』を読む

2024-07-23 23:41:49 | こころ

図書館でC. G. ユングの『ヨブへの答え』(みすず書房)が目に留まり借りて読む。じつは、ずっと以前から、そこにあるのに気づいていたが、ユングが好きでないので、読もうと思わなかった。

読みだしてみると、非常に興味深いものであった。自分の気づいていない聖書の読みが随所にあり、ユングの博識が生きている。それに加え、私が興味を持った理由は、ユングの激しい怒りである。晩年の彼が、なんに対して怒っているのか、誰に対して怒っているかを、知りたくなったからである。

「ヨブ」は旧約聖書の『ヨブ記』のヨブのことである。神の気紛れからヨブがサタンに預けられ、サタンはヨブの家族や部下や財産を奪い、それでも神への信仰を失わないヨブを皮膚病に落す。正義を求めるヨブに、友人たちは神を讃えヨブを罵る。そういう物語である。

ユングがここに神の不正義、暗黒面を見る。そしてそれに腹を立ている。ユングにとって、「神」というものは、人の心の奥にある集団記憶である。

もともとの仏教にとって、「神」は魔物である。「神」は人間を不安と恐怖におとしこむ魔物である。不安と恐怖に落とし込める魔物、心を動揺させるものから自由になることが、「悟り」を開くことである。そのためには、人間界の上下関係や暴力に関与せず、世俗から離れてみずから社会の最下層になることである。しかし、もっとも古い経典の中にも、釈迦の弟子たちの間の憎しみと争いの痕跡がある。

「神」を魔物という考えに対して、もう一つは、「神」を「守り神」という考えがある。平均的日本人の風習に、賽銭箱にお金を投げ入れて、神にお願いすることがある。

古代の「神」は、共同体の「守り神」で、正義をもたらすか、不正義をもたらすかは、追求されなかった。守り神はお供えに答える神であり、不正でかまわないのだ。ユダヤ人の「神」もそんな神である。

ユングは、ヨブが「神」に正義を求めたのは、人間の心の成長と考える。人の心の奥にある集団記憶が変わってきたのである。そういう意味で「神」は人間との相互作用で変わり、人間は「神」に近づき、「神」は人間に近づくのである。エーリヒ・フロムも類似の考えを『自由であるということ―旧約聖書を読む(You shall be as gods)』(河出書房新社)で表明している。

「神」のイメージにもう一つある。「愛の神」である。愛する人と一緒にいるとき、静かにわき上がる喜びである。「愛の神」の「愛」は「快楽」と異なる。ユングは、「神」が人間に近づいて「愛の神」となると願っていたようである。

ユングの怒りは、『ヨブへの答え』の後半で、旧約聖書の『ヨブ記』の「神」への怒りから、新約聖書の『ヨハネの黙示録』の「キリスト」や「神」への怒りに移る。黙示録の「キリスト」や「神」は怒りに満ち溢れ、神が人間に近づき、道徳的になっていくはずだった神が、「恐怖の神」、「復讐の神」に戻っている。

どう考えても、ユングは昔に書かれた書物に怒っているのではない。1952年に『ヨブへの答え』を出版したとき、ユングは、現実の何かのできごとに、現実の人々の心の奥の何かに、現実の善人ぶる誰かの言動に激しく怒っていたと思われる。それが何かを理解したくて、『ヨブの答え』を読み続けている。


せんせい!おかげで生きとられるわ ~海辺の診療所 いのちの記録~

2024-06-03 23:03:06 | こころ

きのうのNHKスペシャルは、三重県・熊野灘の入り江の奥ふかくにある診療所の平谷一人医師(75歳)の、町の人々との日常を追ったドキュメンタリーだ。番組紹介に「にぎやかな診察室や、最期の時を支える往診など、いのちと向き合う日々を4年間にわたり記録。先生と町の人々との関係は、人がおだやかに“生”を全うするとはどういうことか静かに語りかけてくる」とある。

後期高齢者となった私が見ていて興味をもったのは、診療を拒否するお年寄りや食事をしなくなるお年寄りがいることだ。

平谷はこれらのお年寄りにどう対応したらよいのかわからないと言う。彼が「わからない」というのは、彼らの気持ちが分かるからだろうと思う。その気持ちとは「自分は充分生きた」ということではないか、と私は思う。

アメリカの会社には「定年」というものはない。役にたたないとして会社からクビになるか、「自分は充分働いた」と思って自分から退職するのだという。私が日本で定年になったとき、「自分は充分働いた」と思って自分から退職する気持ちが、理解できなかった。

番組では、診療を拒否するお年寄りや食事をしなくなるお年寄りは、90歳とか100歳であったが、「自分は充分生きた」という気持ちが時々浮かんでくるようになった私は76歳である。


カズオ・イシグロの『クララとお日さま』

2024-04-07 21:06:25 | こころ

最近は色々なことが つぎからつぎと起こり、年老いた私には、情報の洪水で処理できない。ウクライナの戦争もガザの戦争も、何もかも解決していない。きょう日曜日は、ガザ戦争の発端から半年にあたるというので、朝日新聞はガザ戦争でのイスラエルの暴虐を特集していた。

しかし、マルチタスクができなくなった老人の私には、きょうは『クララとお日さま』に話を絞りたい。金曜日の夜に、仕事の終わった後、明け方まで、カズオ・イシグロの『クララとお日さま』をいっきに読んだ。ちょっと寝ての土曜日のゴミだしは、若くないので、体に こたえた。

クララは、太陽光(お日さま)発電で動く人造人間で、子どもの玩具である。クララが人間界を観察し語るSF小説である。

読んで感じたのは、イシグロは、誰かに仕えるだけの人生をあえて描くということである。『日の名残り』を読んだときもそう感じた。仕えるだけの人生を送ったのにも関わらず、人造人間のクララも執事のスティーブンスも後悔しないのである。自己肯定感が崩れないのである。

イシグロの作品は、いつも非常に考えて創作されたプロットで、普通の人の普通の人生体験ではない。

イシグロは小説家として成功しているにも関わらず、屈折しているように感じる。普通のイギリス人ではなかった自分の幼少期の体験に自信を持っていないのではという気がする。舞台を日本にしたり、執事という特殊な職業をえらんだり、クーロン人間とかAF(人造友人)を主役にしたりして、虚構の舞台設定で、人間の心理劇を描いている。イシグロは自分の幼少期のことを隠している。

誰かに仕えるだけの人生、それは、マイノリティが必死で社会のなかを生きていくすべでもある。私が40年前にカナダで親しくさせていただいた日本からの研究者の息子は大人になってから自殺している。2世のほうが、葛藤を抱える。1世は国を捨てるのは、生き抜くためにしかたがないと納得している。自分の選択であると納得している。2世は自分の選択ではない。なぜ、差別されるのか、納得いかないが、親の祖国日本で生きていける自信もない。

せっかく、イシグロは名声を確保したのだから、SFに逃げるのではなく、マイノリティとして暮らした幼少期をモデルにした作品も書いてみて欲しい。


昭和も子どもを叩くことが当たり前ではなかった

2024-03-29 12:34:04 | こころ

けさテレビを見てたら、TBSの金曜ドラマ『不適切にもほどがある!』の宣伝として、昭和には先生や親が子どもを叩くのが当たり前だったという町の女子生徒の声が流れた。私はそんなことはない、と思う。昔も、子どもを叩くのは間違ったこととの認識があった。

22年前に出版された榊原洋一の『アスペルガー症候群と学習障害』の序章の冒頭は「日本は昔から、子どもをかわいがる文化的背景を持った国であった」で始まる。昭和でも、子どもを叩く親は異常なのである。病気なのだ。

二日前の朝日新聞に、日本のカウンセリングの先駆者、信田さよ子はインタビューでつぎのように言う。

「1995年当時、40歳前後の女性の虐待経験が他の世代と比べて際立っていました」

「多くは『父は復員して人が変わり、酒飲みになって暴力的になった』という話しに行き着きます」

「米国では(ベトナム戦争の帰還兵の)PTSD(診断名)の誕生と前後してDV・虐待を処罰する法律が各州に広がり、戦争トラウマと家庭内暴力とつながりました」

ここで、括弧内は私が補ったもので、「つながった」とは、影響を及ぼしていることがわかったという意味である。信田の主張で注目すべきはつぎである。

「こうした構図は虐待の『連鎖』にも見えますが、連鎖という荒っぽい言葉には注意が必要です。『元兵士は加害者だが、被害者でもあり可哀想だ』という言説につながりかねません。それでは殴られ続けた妻や子が置き去りにされてしまいます」

被害者だからといって加害者になる必然性はない。子どもを虐待するのは犯罪である。トラウマによって犯罪を犯すのは病気である。病気は直すべきである。

イジメの調査報告が最近でたが、言葉による暴力が肉体的暴力の3倍あるという。自分のストレスを子どもにぶつけるのは病気であり、犯罪である。最近は、塾が子どもへの虐待の隠れた発生源ではないかと感じている。中学受験進学塾「四谷大塚」の盗撮犯は「ふだんから騒がしい児童に対して盗撮で『仕返し』してやろうと思った」と裁判で語った。

この講師も病気である。病気は直すべきである。犯罪は犯罪として罰するべきである。虐待を「しつけ」であるかのような誤解を社会に生みがちなのは、言論界には いつの世も権威主義的な知識人、人を支配したがる知識人が幅をきかしているからだ、と思う。