C.G.ユングの『ヨブへの答え』(みすず書房)を読むのは、もう、やめた。
彼の『ヨブへの答え』を何度読んでも、彼の激しい怒りを惹き起こしたものがわからない。1950年当時の国際政治状況、思想状況を私が知らないのもあるだろう。彼の引用する『エノク書』は旧約偽典で、私のもつ聖書協会共同訳の『聖書』にのっていない。
その代わりにというか、8月15日がカトリックにとって聖母マリアの被昇天を祝う日だと、今回、はじめて知った。ユングの『ヨブへの答え』に、1950年にピオ十二世が「聖母の体も魂も天に召された」をカトリックの教義として宣言したことがでてくる。
この8月15日は、日本人にとって「終戦記念日」である。べつに祝日ではない。日本政府は、8月15日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」として、追悼式を主催する。
戦争が8月15日に終わったわけではない。大日本帝国軍がアメリカ軍に負けたと、軍の統帥者である昭和天皇が国民に向かっておおやけに告げた日である。海外にいる日本人を、兵隊も民間人も、如何に日本に安全に帰還させるかのなんの計画もなく、これから降参すると昭和天皇が国民に告げた日である。
激しい嘆きや怒りは、自分の力で不幸になんの対抗もできないときに、生まれるものである。旧約聖書のなかで、ヨブは神のもたらした不幸に抗議するが、神の恫喝に遭い、ヨブは全能の神ヤーヴェ(ヤハウェ)に答える。
「わたしは取るに足りない者 何を言い返せましょうか。わたしは自分の口に手を置きます」(ヨブ記40章4節)
『ヨブ記』は、全能の神におもちゃにされたヨブは神に「面従腹背」するが、全能である神はヨブの「面従腹背」に気づかないという物語である。
神は人間が作った虚構であるから、神を信じなければ良い。恐れて敬う必要などない。神の名で自分を不幸にした人間を呪えばよい。ヨブの怒りの根深さは、ヨブの友人までがヨブを非難し、神を擁護することにある。
しかし、南海トラフ地震や原爆投下や失業など、自分一人の力で対抗できないことが、この世にいっぱいある。が、ユングは、第2次世界大戦によるドイツの不幸やドイツの知識人に怒っているわけでもないようだ。
現在、イスラエル軍にガザで4万人以上が、殺されている。国際司法裁判所は、この7月19日、イスラエルによるパレスチナ占領政策は国際法に違反しているという勧告を出した。そのアメリカの議会は先週イスラエルへの軍事援助を続けると決めた。
長崎市長は、今年の8月9日の原爆犠牲者慰霊平和祈念式典にイスラエルを招待しなかった。これに抗議して、アメリカやイギリスやフランスなどの政府は、式典に代表者を送らなかった。抗議の内容は「イスラエルをプーチンのロシアと同列に置いている」というものである。市長は、イスラエル軍のガザでの残虐行為に抗議して、という理由を述べなかったが、アメリカ、イギリス、フランス政府はみずからそう判断したわけである。
原爆の被爆者が、一方的にガサの住民を傷つけ殺すイスラエルに、怒る気持ちは、わたしには十分にわかる。ユングの怒りの先がわからないまま、『ヨブへの答え』を読むのを私は止める。神はいない。宗教はいらない。