アーリー R.ホックシールドの『壁の向こうの住人たち アメリカの右派を覆う怒りと嘆き』(岩波書店)の第3部に読み進む。いよいよ、アメリカ南部の白人貧困層の心の奥底深くにある思い「ディープストーリー」を読む。この「ストーリー(story)」という語は英語では個々人のもつ主観的な記憶をも指す。
「ディープストーリー」はつぎのように始まる。
〈あなたは巡礼の途上のように、山の上へと続く長い列に辛抱強く並んでいる。いま立っているのはその列のちょうど真ん中で、前後に並んでいるのも、あなたと同じような人たちだ。年配の白人で、クリスチャン、ほとんどが男性。大卒の人もいれば、そうでない人もいる。〉
「巡礼の途上のように」という言葉は、なんとなく崇高な雰囲気を与える。しかし、ここで意外に思ったの「ほとんど男性」という言葉である。女性はどこへいったのか。女性は発言権がないのか、投票しないのか。
これまで共和党がつよかった赤い州で、今回、ジョー・バイデンがアメリカ大統領選に勝てたのは、女性の投票のおかげであるという。したがって、男性のディープストーリーと女性のディープストーリーは異なるのだろう。
〈山頂を超えたところに、アメリカンドリームがある。みんなが列に並んで待っているのは、それを達成するためなのだ。〉
この「アメリカンドリーム」は豊かになることである。実現するかもしれないし、実現しないかもしれない。しかし、意外だったのは「山頂を超えたところ」という表現である。見えないところに「アメリカンドリーム」があると示唆しているのだろうか。
この「巡礼の途上のように」ではじまるディープストーリーを著者は8ページにわたって書く。私はそのストーリーに共感できない。
著者のたとえた「列」は格差や社会的序列を表わす。決して崇高なものではない。彼らはなぜ辛坊つよく並んでいるのか。並ぶ必要はないのだ。革命を起こせ。
ルイジアナ南部に住むケイジャンは、1775年に英国政府によって捨てられたフランス系カナダ人である。その後、ドイツ人やアイルランド人やイタリア人やユダヤ人やポーランド人やいろいろな移民がアメリカにやってきた。ケイジャンは列の前に進めたか。そうではない。
著者はさらにつぎのように書く。
〈列の後ろのほうにいる人の多くは有色人種だ。若い者も年老いた者もほとんど大学を出ていない。振り返るのはこわい。あなたの後ろにはあまりたくさんいて、原則として、あなたは彼らの幸運を祈っているからだ。〉
ここでも、「原則として」という変な言葉がある。これ以降の句は自己欺瞞の言葉だろう。「振り返るのがこわい」が本音だ。社会的格差や序列の中でさらに落ちる不安におびえているのだ。彼らも私たちも、職を失う不安のなかで暮らしている。
この不安を打ち消すために、新しい移民や有色人種や障害者が不正な手段で格差の階段を上がっていくと非難しているのだ。しかし、私は彼らに言う、「あなたはならぶ必要がない、格差も秩序も もういらない。銃をもって公害企業の経営者や金持ちを撃ち殺せ。革命だ」。
彼らは辛坊つよく並んでいるというが、不安や被害者意識に捉えられ、憶病なので格差を作っているものを見ないのだ。それをごまかすために、教会に通い、ティーパーティーに参加し、カウボーイのように肉体的なリスクを冒したり、犠牲的精神をもっているかのように仲間内でのヒロイズムを演じたりしているのだ。
私は彼らに同情できるが、共感できない。『壁の向こうの住人たち』の著者はどのように壁を壊そうというのだろうか。
しかし、これはアメリカ南部だけの問題ではない。日本の問題でもある。「叩き上げ」の菅義偉や「保守の王子様」の安倍晋三を日本人は罰していない。