猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

新型コロナはRNAウイルス、好奇心をかりたてる科学番組も見たい

2020-05-30 22:20:04 | 科学と技術

緊急事態宣言が解除され、図書館は5月27日から開館となった。まだ閲覧も予約もできないが、緊急事態宣言前に予約した本が受け取れる。早速、菊池洋の『ノーベル賞の生命科学入門 RNAが拓く新世界』(講談社)を受け取ってきた。

新型コロナがRNAウイルスだと聞いて、RNAについて、もっと知りたいと思ったからだ。

読み始めて、自分がRNAについてまったく無知だったと気づいた。私が知っていたのは、DNAの遺伝子コードがRNAのコードに写され、RNAのコードに従って、アミノ酸がつながれてタンパクが合成されるという「セントラルドグマ」までだ。

現在、PCR検査では、鼻の奥からとった検体に試薬をいれて、PCR機器に入れて、RNAが増幅すれば陽性と判定とするという。遺伝子研究にたずさわたった昔の物理学科の同窓生に聞くと、RNAの塩基配列がわかれば、その塩基配列のRNAを増幅する試薬を合成できるのだという。論文が出ているという。それ以上は聞いても、私にはわからなかった。

今回、借りてきた菊池洋の本には、試薬の合成の仕方までは書いてない。

菊池洋の本には、自然界ではRNAからDNAが作成される流れもあるとか、真核生物のDNAには遺伝子コードの部分(エキソン)だけでなく、アミノ酸の配列をコードしていないイントロンという部分があるが、そのまま転写され、スプライシングする(分断される)とき、イントロンが酵素の役割をし、リボザイムといわれているとか、そのイントロンの部分が遺伝子発現をコントロールしているとか、知らなかったことばかりである。抗体ができるのも、ウイルスのRNAの切片が、生体物質と特異的に結合することを利用してであるという。

新型コロナのSARS-CoV-2ウイルスは、ずいぶん複雑なことをして、人間の細胞に侵入し、繁殖しているのだろう。

メディアも、1.5メートル離れれば良いのか,それとも 2メートル離れるのが良いのかとか、エアコンは換気されないから1時間おきに窓を開けて換気すべきとか、マスクをすると熱中症になるから注意をしろとか、気持ちが重くなる話ばかりを報道するのではなく、RNAはどんなものか、科学的好奇心を刺激する番組や特集を組んでほしいと思う。

人類はウイルスと共存するのだという教訓的な話だけでなく、自然の奥深さにひたる夢のある話も聞きたいのだ。

とにかく、私は、RNAについて何も知らなかった。

韓国公使館前の慰安婦像は思い上がりへの「とげ」である

2020-05-28 22:18:27 | 日韓関係

韓国で、慰安婦を支援団体に「正義連」があるという。正式名称は「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」という。日本公館前に慰安婦をモチーフにしたという「少女像」を設置し、日本政府が求める撤去に、今も応じない団体らしい。最近、この「正義連」の前代表、尹美香(ユンミヒャン)が、寄付金を個人的な目的に使ったと、元慰安婦の一人、李容洙(イヨンス)に告発されているという。

日本では、このことをもって慰安婦問題が解決すると考える人たちがいるらしい。慰安婦が「性奴隷制」ではない、と言い張る人たちは、これで、問題が解決すると思うらしい。

私は、慰安婦像が韓国の日本公館前にあることは良いことと思う。日本が110年前に韓国を併合して、韓国人を日本政府が意のままになるように、見ていたということを、風化させてはいけない。広島市が原爆ドームを保存しているように、ドイツ政府が国内のナチス時代の収容所を保存しているように、過去の負の歴史を風化させていけない。

新約聖書の『コリントの信徒への手紙2』でパウロがつぎのように言っている。

「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」(12章7節 新共同訳)

「正義連」の内部に、お金の不正があったことと、慰安婦像とは別のことである。

最近の日本の権力者、とくに、安倍晋三は思い上がっている。日本の権力者への「とげ」として慰安婦像が韓国の日本公館前にあった方が良い、と、しみじみ私は思う。

「正しさ」「正義」への 磯野真穂の批判、真山仁の批判

2020-05-27 22:32:37 | 新型コロナウイルス
 
5月8日の朝日新聞のインタビュー『社会を覆う「正しさ」』で、磯野真穂が「正しさ」のもつ危うさを指摘した。「正しさ」が「差別、中傷、バッシング」を行うための理由になっていると。
 
5月16日の朝日新聞で、真山仁が『コロナと「正義」』で、同じ問題を別の角度から取り上げている。彼はつぎのように書く。
 
〈「正しさ」を振りかざす人がSNSを中心に増えた。〉
〈最大のきっかけは、「絶対安全!」と言われた原子力発電所の事故ではないかと私は考えている。〉
〈自分たちは「権力者にだまされた被害者だ」という立ち位置がいつしか「我々は正しい」という自己弁護を生み、やがて「その正しさを揺るがすものは許さない」という攻撃へ向かった。〉
〈(SNSでの)発言は徐々に感情的になり、意に沿わない発言者を、つるし上げるようになった。〉
〈そして、緊急事態宣言が発せられると、実力行使で「正す」人々が現れた。〉
 
私は新型コロナ関連のツイッターなどのSNSを見ていないので、真山仁の言っていることが、本当かどうか、検証できない。ただ、「権力者にだまされた」という思いが、「権力者の要請する自粛」に従わない者を罰する行為に向かう、という結論に、違和感を覚える。
 
真山の論理的飛躍は、日本語の「正しさ」や「正義」という言葉のもつ、曖昧性にあるのではないか、と思う。
 
日本語の「正しい」という言葉は、「3+5=7」は正しい答えか、という文脈で用いられる。学校では「正答」「誤答」という形で、テストの採点がおこなわれる。
 
ここでの「正しい」という言葉は、「正しい」ものがあるという仮定にもとづいている。
 
数学では、「正しい命題」とは、基本的仮説「公理」から証明で導かれるということであって、その命題の「否定」が「公理」から証明で導かれれば、「正しくない命題」ということになる。
 
すなわち、数学では、「正しい」「正しくない」は対等であり、「公理」に依存する。しかも、ゲーデルによれば、自然数に限っても、すべての命題が「正しい」「正しくない」に判別できるわけではない。
 
科学では「正しい」という語はない。科学論文に「正しい」という語が出てきたら、読み手は、書き手を「正気か」と疑うだろう。
 
科学は、「理論」を含め、すべて「仮説」にすぎない。反例が出た段階でその仮説は「正しくない」ということなる。そして、「正しくない」とわかっても、ある分野で役に立てば、そこでは依然として使われていく。科学では、「正しい」の代わりに「有効性」がだいじにされる。
 
混乱を生むもうひとつは、テレビの子ども番組にでてくる「正義」である。
 
私の子ども時代には、「月光仮面のおじさんは正義の味方」という歌があった。いまでも、覆面の正義の味方が「悪(多くの場合は宇宙人や怪獣)」を倒すという番組を子どもたちが見ている。「悪」の反対が「正義」である。しかし、「悪」とはなにかがあいまいで、たぶん自分たちを脅かすものが「悪」なのだろう。(なお、本来の日本語の用法では、「善」が「悪」の反対である。)
 
この意味で「新型コロナ」は「悪」で、その感染を広める可能性のある者を攻撃することが「正しい」こととなるのだろう。
 
「正しさ」が「差別、中傷、バッシング」を行うための理由になる原因は、SNSよりも、テスト中心の学校教育やテレビの子供番組にあるのではないかと私は思う。
 
ここでの日本人の行動には、何が「正しい」かの考察が欠けている。
 
政府や専門家会議の言葉をメディアが復唱することで、たとえば「三密」が絶対的に正しい命題になり、パチンコ店が新型コロナの感染源になる。さらに不幸なのは、屋台船が感染源と誤って伝えられ、屋台船の営業が成り立たなくなる。屋台船が感染源とされたのは、東京都のクラスター班が手一杯で手抜きしたために生じた誤りである。
 
何が「正しい」かどうかは、行動を起こすための仮説であり、民主主義の原則、平等で透明な議論が先だたないといけない。
 
政府が軽く言ったことを真に受け、「悪」を勝手に決め、「正義」の名で攻撃することは、とても情けないことである。何が「正しい」かを考えずに行動するのは、パニックを起こしているにすぎない。
 
そして、そういう行動にでる者たちがいることを政府や自治体が知っていながら利用したとするなら、とてもいけないこと、それこそ「悪」である。例えば、自治体が閉鎖しないパチンコ店の名前を公表することは、「脅迫」の電話を期待しての行為と考えられる。
 
メディアは政府の太鼓たたきをやめないといけない。テレビはステイホームのAC広告をやめないといけない。メディアの価値は、政府からの情報の誤りを見出し指摘することにある。

新型コロナ騒動で 愚か者が「正義」を振りかざしていた

2020-05-26 22:14:20 | 新型コロナウイルス
 
新型コロナ緊急事態宣言が、昨日、5月25日に全国的に解除された。
この間、私たちは、愚か者のように扱われ、ホンモノの愚か者が声高に叫ぶ、愚かな時間が全国的に流れた。すなわち、お仕着せの行動が要請され、私たちは自分の気持ち、自分の考えを抑え込まれたのである。
 
5月8日の朝日新聞のインタビュー『社会を覆う「正しさ」』で、磯野真穂がその新型コロナ騒動に異議申し立てを行っていた。
 
そう、「正しい」とか「正義」とかいう言葉に嘘がある。「正しい」とか「正義」とかいうものはない。「お仕着せ」なのである。
 
自分にとって「快」か「不快」であるかは、ハッキリしている。これが、ハッキリしなくなったら、心を悩んでいる。うつが始まったのだ。
 
「正しい」とか「正義」とかは、個人の「快」とか「不快」とかを押しのけて、他人から強要されるか、他人に強要するものである。
 
古代ギリシア語に、すでに「正しい」を意味する“δίκαιος”(ディカイオス)という語があり、動詞形が“δικαιόω”(ディカイオオー)、名詞形が“δικαιοσύνη”(ディカイオシュング)である。「正義」は“δίκη”(ディケー)である。いずれも、「人を裁く」という状況のなかで使われるのが、本来の用法である。「平等」が担保されなければ、「正しさ」は抑圧でしかない。
 
人によって、それぞれ「快」「不快」が違い、人々の利害が一致しないとするなら、「正しい」とは誰にとって「正しい」のか、それは、他人に強要できるほどの「正しさ」なのかを、問われなければいけない。
 
磯野は言う。
 
「スーパーマーケットでの買い物のとき、人とどれくらいの距離をあけるか、店に入る人数は何人くらいまでか――。さらに、政府の専門家会議が4日に打ち出した『新しい生活様式』では、『食事は、体面ではなく横並び』『食事の際は料理に集中し、おしゃべりは控えめに』などと、私のささやかな生活にまで、行政がさらに入り込んできました。」
 
よけいなおせっかいである。私は妻と対面で食事をしているし、無言なら夫婦喧嘩になる。もうマスクは暑苦しいし、フェイスシールドは医療従事者以外に必要と思えない。
 
政府が個人の日常に細かい指示をだすのに、いっぽうで、緊急事態の解除にあたっても、満員電車の問題は解決されていない。政府は自分の無能さを責められないように、個人につぎつぎと細かい指示をだしているのだ。
 
磯野が言うように、さらに問題なのは、政府の責任逃れの「おせっかい」に不満をもらすのではなく、「行政はもっと基準をはっきりさせろ」という声が、政府関係者以外から上がってくることである。そして、「感染リスクを限りなくゼロに近づけることが、一人ひとりに課される至上命令になり」、それが「社会的正義」として、「差別、中傷、バッシング」を生む。
 
磯野は言う。
 
「自治体が『自粛要請』に従わないパチンコ店を公表すると、抗議や強迫が殺到する事態になりました。」
「他県ナンバーの車に対して石を投げたり、いたずらしたり、といったことも出てきます」
「陽性患者が出た病院の医療機関での受診を断られたり、子どもが保育園への通園が拒否されたりする」
 
感染流行を抑えるためには、集団免疫ができるしかない。感染者はべつに犯罪人ではない。集団免疫ができるために、貢献しているのである。すなわち、感染から回復することこそが、社会にとってだいじなのである。
 
「正しい」とか「正義」とかは、社会が民主的で平等であるときにだけ、それが誰にとって、どの程度、良いことなのか、誰に嫌な思いをさせるのか、嫌な思いをさせるだけの必要性がどうしてあるのだろうか、おおやけに議論され、合意が導かれるときにのみ、意味のある概念である。政府が、自治体が、「正しさ」を決めるのではない。

近所の小さな湿地に カルガモのひなが かえった

2020-05-24 21:52:56 | 自然環境

きょう、私の住んでいる集合住宅の崖の下の、水たまりのような小さな湿地に、人ごみができた。カルガモのひながかえったのである。8,9匹のひなが嬉しそうに足で水をパシャパシャさせながら、泳いでいた。

この湿地には背の高い葦が はえていて、カルガモがひなをかえし、子育てするのに適してる。3年前の今頃、横浜市が業者に葦を刈らせてしまった。カルガモのひなが隠れる場所がなくなったのである。恐れたとおり、カラスにおそわれて、その年のカルガモは全滅した。それいらい、おととし、去年の2年間は、カルガモをなんぴきか見たが、ここでひなをかえさなかった。今年は、葦を不用意に刈らないで欲しいものだ。

そこから4キロほど離れた大きな池に行くと、そこは、赤や白の蓮の花が咲き誇っているのだが、きょうは、母カモが羽の下にひなをつつみながら、大きな蓮の葉のうえにしゃがみこんでいた。カルガモは人なれしていて逃げない。
  ☆   ☆   ☆

横浜には丘陵が多く、緑地が多く残り、野鳥も多い。他の地域と比べ、カルガモとセキレイが多いように思える。

そのほか、ハシボソガラス、ハシブトガラス、ハト、スズメ、ツバメに加え、シジュウカラ、ウグイス、カワセミ、オナガ、カワウ、アオサギ、ダイサギ、マガモ、キンクロハジロなどをみることができる。
  ☆   ☆   ☆

横浜市当局には、緑道、公園などの緑地に、あまり、手を加えないで欲しいと思っている。近くに住むボランティアが自主的に手入れをしているので、任してほしい。横浜に緑地が残っているといっても、宅地化が押し寄せ、大きな農家には造園業に転じているものが多い。彼らは、人を雇っていっきに、緑地の草の伐採とか小枝打ちを行うが、どうも利権化しているように見える。緑地に生きる小動物や、野生の樹や草花への愛情が感じられない。昨年は、美しいノアサガオの群生が刈り取られてしまった。

[追記]
6月8日現在、崖の下の湿地の葦がまだ刈られていない。
カルガモのひなも大きくなった。水をけって水面を走ることができるようになった。
母カモに連れられて8匹の子ガモが緑道を歩くことも見られるようになった。
面白いのは、いっせいに子ガモが母カモの行動をまねることだ。母カモが羽ばたけば、子ガモがみんな羽ばたく。母カモが長い首をかしげて羽をくちばしで手入れすると、子ガモもみんな首をかしげて羽をついばむ。
鳥も親鳥をまねることで、学んでいくのだ。

[追記]
6月21日現在、崖の下の湿地の葦がまだ刈られていない。
カルガモのひなは、もはや、母カモの半分を超えるようになった。
8匹の子ガモが確認できる。全部のひなが生き残っている。
離れた公園の蓮の花のある大きな池では、子ガモが水面すれすれだが、空を飛ぶことができるようになった。

[追記]
7月12日現在、崖の下の湿地の葦がまだ刈られていない。
8匹の子ガモが母ガモと同じ大きさになって、いっしょに暮している。