猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

中間層の没落、昔に戻ることは無理、小熊英二

2024-10-25 11:10:58 | 社会時評

2週間近く前の朝日新聞2024衆院選に、小熊英二の寄稿『よき統治のために』が載った。「良き統治(good governance)」という言葉にわたしは違和感を抱くが、指摘している問題点には同意する。

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彼は書く。

「古代ギリシャ哲学では、人間の幸福は(中略)各自に役割があり、人として認められ、健康に日々の仕事をしている状態だ。」

彼の思いうかべているギリシャ哲学者は、プラントンではないか、と私は思う。彼は『ポリテイア(Πολιτεία)』で、「人として認められ」以外は、同じ主張をしている。「人として認められ」るは現代人の考えである。

プラトンは、同書で、また、「人間には金と銀と銅の種がある」と言っている。プラトンにとって「各自に役割があり」とは、金の人間が「統治」し、銀の人間が「防衛のために戦い」、銅の人間が「農地を耕し物を作り商いをする」ことを言う。金銀銅以外の人間として、当時、ギリシア社会に奴隷がいる。

プラトンはそういう社会を理想とし、デーモクラティア(δημοκρατία)(民主制)を非難した。

だから、私は、小熊の「統治」という言葉に違和感を抱くのである。

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小熊のポイントは、「中間層の没落」を単なる所得の問題とみていないこと、また、昔に戻ることは無理とすることである。彼は、1980年代と比べ、正規雇用の数は減っていない、減っているのは自営業で働く人であると指摘する。昔なら自営業の人が、非正規雇用者になっているのである。

彼は書く。

「日本は欧米諸国より正規と非正規の差が激しいので、それでは生活できず「一人前」と認められない。これは単に所得の問題だけでなく、人間の尊厳が保てないという問題である。」

このことで、以前、放ディー(放課後デイサービス)に来る男の子と喧嘩したことを思い出す。その子は、小さい子どもの面倒をみるのがとても上手だった。それで、私は、将来保育の仕事をしたらとその子に勧めた。これが彼を怒らした。保育の仕事は給料が安い、それに、男が保育の仕事をすると、みんなにバカにされると、その子は言うのだ。それから、彼は他の放ディー教室に移り、2度と私の前に現れなかった。

「人として認められ、健康に日々の仕事をする」とは、働くことで「人から感謝される」ことをいう。現在の雇う、雇われるという関係は、働くことで人から感謝されるという基本的な関係を壊している。

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小熊は昔に戻れないという根拠に、生産手段が高価になったからと言う。「開業費用は億単位となった」と彼は書く。私はそれだけではないと思う。

昔との違いは、働くことが組織化されていることだ。

例えば小売業を考えても、売り子や掃除人以外に、何を仕入れたら売れるか、店の飾りつけをどうしたらよいか、売値と仕入れ値の関係は適切か、法を満たしているか、など、いろいろな仕事がある。

だから、組織で働く事業体と個人が競合しても、個人に勝ち目がないと子どもは思ってしまう。これがシャッター街が地方に現れる理由である。自営業が減る理由である。私の郷里の金沢にひさしぶりに訪れたとき、駅のまわりに東京の会社の店ばかりだった。

昔に戻るのではなく、「組織」を「チーム」変えるべきである。

「上司と部下」という言葉は、役割を通じて、人間関係に上下をつけている。「上司」はチームの「コミュニケータ」に、社長はチームの「まとめ役」になるべきだ。

「まとめ役」はチームメンバーのそれぞれの貢献に「感謝」するのでなければならない。

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日本の学校教育は子どもたちの競争を旨としている。テストの成績や進学先は能力差を表わしているかの幻影を子どもたちに及ぼしている。すなわち、いまの企業の運営が民主主義的でないと同じく、学校教育も民主主義的でない。

人間はすべて対等である。ところが、現在の学校教育は、「対等」であることを否定するよう、子どもを教え育ているのだ。学校教育を民主主義的にすべきである。

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「良き統治」という言葉に代わって、小熊はなんというべきだったのか。私は「良き社会システム」という言葉が適当だと思う。「統治」は、人間が他の人間を支配することを前提としている。民主政とは統治する者のいない社会システムである。みんなが対等である社会システムである。


能登の集中豪雨のもたらした大洪水、土石流、土砂崩れに支援の声を

2024-09-23 19:59:48 | 社会時評

能登の人びとには、年初の大地震と今回の集中豪雨と、まことに気の毒な事態である。あまりのことに、ただただ茫然としているでは、と思う。

こんなとき、中央政府や地方自治体の役目は重い。すぐにも、行政がどんな支援をするのかを発表すべきである。また、ボランティアにも支援をお願いすべきである。

人間は希望が必要である。中央政府や地方自治体は、このような自然の猛威に、あなたたちは孤立していない、困ったときは助け合うんだ、と言うべきである。

今回の大雨で、能登では、大地震からの復興が進んでいないことが明らかになった。堤防は応急処置しかされていない。水道も排水設備も応急処置のままだ。仮設住宅も、ハザードマップの浸水地域に建設したにもかかわらず、排水対策や床上げ対策もままならぬままだった。

地方自治体は仕方がないと泣き言をいうのではなく、人的支援、財政的支援を中央にも全国にも訴えるべきだ。助けを求めることは恥ずかしことではない。世の中には、自分ひとりでできないことがいっぱいあるのだ。

年初の大地震のとき、災害地の役人がボランティアが来ては困ると言ったのは、大失敗である。中央政府は、なんにもしてくれないし、できないことも多い。地方役人は大声で助けを求めるべきだ。助けてくれない中央政府を責めるべきだ。さもないと、自民党内の争いの中で、中央政府は動けない。

年初の能登大地震で自衛隊が派遣されたとき、地震で寸断された道路の復旧をするのか、と思ったら、何もしない。自衛隊は補給工作部隊をもっていて、道路や橋の復旧ができるはずだ。能登では、自衛隊が何か役立ったようなふりをしただけである。中央政府はインフラ復旧の責任がある。自衛隊をちゃんと役立てないといけない。


イギリス全土に急速に広がった人種差別の暴動

2024-08-14 20:44:59 | 社会時評

先月の29日に田舎町で起きた幼い少女3人の刺殺事件のあと、イギリス全土で起きた騒乱に、私は強い衝撃を受けた。この騒乱が人種的偏見にもとづいたマイノリティ迫害の形をとったこと、数日で26都市に広がったことに、私は衝撃を受けたのである。

テレビの映像を見ると、モスクに石を投げたり、インド系イギリス人のささやかな店や難民申請者が泊まっている安ホテルを襲っている。若者だけが暴れているのではなく、いい年をした中年の白人男女が騒ぎに参加している。900人近くが逮捕され、500人以上が訴訟された。

私は、19世紀から20世紀にかけての東欧に起きたポグロム(ユダヤ人迫害)や1923年の関東大震災で起きた朝鮮人虐殺を連想した。

私の祖父は、震災当時、本郷に店を構えており、震災の被害を見に神田に出かけたところ、自警団につかまり殺されそうになった。祖父は背が高かったから、朝鮮人と間違えられたのである。佐渡おけさを歌って、新潟県南蒲原郡出身だと名のり、解放してもらったと祖父は言った。

朝日新聞は、このイギリスの騒乱を、8月7日の夕刊の記事1つを除いて、報道していない。識者はこのイギリスの騒乱をどう見ているのか、私は興味津々であるのに。イギリス在中のブレイディみかこは、これをどう分析するのだろうか。

きのう、他社のTBS『報道1930』で、ようやく、ゲストを招いて、イギリスの騒乱が議論された。

急速に騒乱がイギリス全土に広がったのは、サウスポートで幼い少女3人を刺した17歳の少年をイスラム教徒の難民とするデマ情報が、インタネット上で流れたことが大きな要因だとしていた。極右のトミー・ロビンソンが国外のキプロスからこのデマ情報を流した。その背景にロシアの影もあるのではとも言う。デマ情報をリツイートしてしまうネット社会の特性、移民に対する反感がくすぶっている土壌、政治の失敗を移民の急増に責任転嫁する既成政党の態度にも問題ありとする。

私は、自分たちの不安や不満を代弁する代表を持たぬ白人層が、少なからず、イギリスにも存在するのだと思う。ハンナ・アーレントの言葉を使えば、「見捨てられた人々」である。国民の分断とかそういう問題でなく、煽る人が出てくると、代弁者を持たぬ「見捨てられた人々」が、怒りで爆発するのである。民主主義が安定して機能するには、「見捨てられた人々」を「交渉」という政治の舞台に取り込む必要がある。このために、「代議制民主主義」の実装をも再検討する必要があると私は考える。


「佐渡島の金山」が世界文化遺産に決まったに喜ぶ人々

2024-07-28 21:50:34 | 社会時評

新聞によると、7月27日、「佐渡島の金山」がユネスコの世界文化遺産に決まったの知らせに、新潟の佐渡市に作られたパブリックビューイング会場は沸きかえったという

私には、「佐渡島の金山」が世界文化遺産に値するという理由がわからない。また、世界産遺産に決まったことに喜ぶのもわからない。金や銀を掘るために世の地獄を味わった人々がいたのに、それを観光のタネにしてお金儲けをしようという人々には怒りさえ感じる。

文化庁はつぎの理由で世界文化遺産に推薦した。

  • 「佐渡島の金山」は、世界の他の地域において採鉱等の機械化が進んだ時代に、高度な手工業による採鉱と製錬技術を継続したアジアにおける他に類を見ない事例である。
  • 徳川幕府が佐渡島に管理体制と街づくりを導入し、労働体制を構築したことにより、17世紀においては、世界的に見ても高品質な金を大量に生産することが可能になった。
  • これらの要素は、今の鉱山地域と集落構造に反映されている。

しかし、「高度な手工業による採鉱と製錬技術」とは何なのか、江戸幕府構築した「労働体制」とは何なのか、文化庁は明らかにしていない。ユネスコもいいかげんなところだ。

7月27日の朝日新聞『多事奏論』に田玉恵美は江戸自体の佐渡島の金山の実態をつぎのように書いている。

坑道は年々深くなり、地下水があふれ出した。その水を人力で汲み出す仕事を水替えという。江戸幕府は、無宿人狩りをして水替えの仕事にあたらせた。「10年たたぬうちに死ぬ人も多かったという」。作家の司馬遼太郎は、江戸幕府の「最大の汚点は無宿人狩りをやっては、かれらを佐渡の水替人夫におくったことである」という。

ウィキペディアには、「水替人足の労働は極めて過酷で、「佐渡の金山この世の地獄、登る梯子はみな剣」と謳われた」「小屋場では差配人や小屋頭などが監督を行い、その残忍さは牢獄以上で、期限はなく死ぬまで重労働が課せられた」とある。 

佐渡島の金山に、「高度な」技術があったわけではない。ただ、奴隷労働があっただけである。

28日の朝日新聞に奇妙な記述がある。

「ユネスコの諮問機関は(中略)江戸時代だけでなく、「全体の歴史」に配慮することも求めた。」

じつは、明治になって、佐渡島の金山に西洋の採掘技術が導入され、産出量が増えたのである。江戸時代の最盛期には年間400 kg以上の金の産出があったが、1940年には年間1,500㎏の金の産出があった。したがって、佐渡島の金山を江戸時代に限定するのは、不自然である。80年前の戦時中には朝鮮人労働者が大量に動員された。募集と言う形をとっているが、鉱山にはいってからは暴力で逃亡を抑え込む体制であった。これは佐渡金山だけでなく、戦時中に日本の鉱山で一般に見られた状況である。

佐渡金山を世界遺産に推薦するのは適切かの2022年の共同通信の世論調査では、適切が73%で、「政党別でみると、自民党支持層の78.5%、日本維新の会支持層の84.6%、国民民主党支持層の75.9%が適切と回答。共産党支持層は28.0%で最も低かった」。(立憲民主党が抜け落ちているが、どうしてか、私は分からない。)

適切だとする人たちは、佐渡金山の歴史に無知なのか、それとも、文化庁の判断を妄信しているのか、いずれにしても嘆かわしい。


移民を受け入れなければ国家消滅とは変でないか、少子化は自殺行為ではないか

2024-05-20 22:28:04 | 社会時評

きょうの朝日新聞の1面は『韓国「移民」受け入れ拡大』で、3面に『移民なければ国家消滅』『「選ばれる国」へ 日本も新制度議論』と、22面に『「育成就労」 外国人への門戸拡大』とつづく。これは、韓国の移民受け入れ政策を紹介することで、少子化・高齢化対策として、日本も移民を受け入れざるを得ないとするのが、要旨のようである。

しかし、移民を受け入れるのは、あくまで若年労働力不足への対策であって、少子化対策ではない。経営者にとって低賃金の労働力が不足することが悩みのタネかもしれないが、東アジアの国々での少子化は、自分たちが幸せでないという思いの表れでないかと思う。先日の朝日新聞に、「超少子化、過度な競争 自分だけで精いっぱい」という春木郁美のインタビュー記事があったが、これこそ問題の根源である、と思う。

物質的には、私の子ども時代より今の日本人は恵まれた生活をしている。大学院に入ったとき、私は研究室ではじめてクーラーと出合った。それが、いまでは、夏にクーラーの電源をいれないで日射病で死ぬ老人は本人が悪いと責められる。食べ物だって、贅沢になっている。私の母は、いつも市場が閉じるころに市場にでかけ、きずものの果物を買って来て、腐ったところを切り抜いて、果物好きの私に与えてくれた。ところが、私の子どもたちは、バナナをおサルの食べるものと思っている。

物質的な問題でないとすると、不幸の原因は、現在の日本社会の価値観や人間関係ではないか、と思われる。人と人とは争うものと思い込んでいるのではないか。学歴社会とは、単に高等教育を受けたかでなく、学校に差をつけ、どの学校に入学し卒業したかが、評価になっている。学校で何を学んだかではなくなっている。

世の中はゼロサムゲームではない。椅子取りゲームの世界でないはずだ。働く喜びとは仲間と一緒に仕事ができることではないか。仕事に優劣や貴賤があるはずはない。

不幸の原因が社会の価値観や人間関係にあるとすれば、日本人全体が思い込みを変えれば良いのだが、現在の価値観や人間関係に得する人たち(既得権益者層)が教育や世論を握っているのだと思う。なんとか、教育や世論を健全な方向に変え、まともな政権が東アジアに出現するようにしたいものである。

移民の受け入れに反対しないが、子どもを産みたい、育てたいという社会に日本を変えたい。