猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

佐伯啓思の異論のススメ『SNSが壊したもの』

2025-01-02 20:22:42 | 社会時評

しばらく、体調が悪く横になっていたので言いたいことが溜まりに溜まっている。ここでは、朝日新聞の昨年12月25日の佐伯啓思の寄稿『SNSが壊したもの』を取り上げる。

佐伯啓思は、そこで、社会に対するSNSへの影響力が「途方もなく大きく、さまざまな問題を生み出している」と論ずる。

「SNSはしばしば、個人の私的な感情をむき出しのままに流通させる」

「SNSは万人に公開されているという意味で高度な「公共的空間」を構成しているにもかかわらず、そもそも「公共性」が成立する前提を最初から破壊している」。

そして、つぎのように佐伯は結論する。

「SNSによる政治と社会の混乱は、ただこの技術の悪用というだけの問題ではない。それはまた、近代社会を支えてきた「リベラリズム」という価値観の限界を示しているとみなければならない」。

佐伯は何を「リベラルな価値」と言うのか、何が「価値観の限界」なのか不透明なので、結論は、いつもの持論「リベラルな価値」の悪口に見える。

私の子ども時代に、ラジオやテレビのようなマスメディアが社会に大きく影響を及ぼしたとき、類似の悪口が言われたのを、私は覚えている。素人の意見が公共の電波を通じて万人に伝わることを自称専門家が憂いていた。このときの「力を失う既存メディア」は、新聞であり、専門家の言論空間を構成する月刊誌であった。そして、新興のマスメディア、テレビやラジオは、SNSと同じく広告収入で運営されていた。今も昔もメディアは金儲けを是とする社会に支えられていたと言える。

私にとって、佐伯の危惧は、結局、大衆に対する彼の不信と不安の現われに見える。

それでも、SNSは大衆が容易に発信者になれるので、従来のメディアより魅力的である。現在、XやYouTubeやTikTokのように、SNSは内容や記述が情動的なものが多いが、それに対抗して、倫理的なもの、論理的なものを投稿したって良い。確かに「悪貨が良貨を駆逐する」という諺があるが、もともと、昔から「悪貨」が流通していたのだから、懲りずに良質な言論を疑似公共空間に送りつづけるのが大事であり、それが、世の中がいつかは良くなるという希望である。

私は、SNSの特性の問題よりも、知識をもっている人が本当のことを発言しなくなるのを恐れる。


流行語大賞「ふてほど」にピントこない

2024-12-03 10:49:13 | 社会時評

今年の流行語大賞が「ふてほど」と、放課後デイサービスにくる中3の男の子に言われて、すぐには何のことがわからなかった。その子に聞くと、TBSドラマ『不適切にもほどがある!』からくる言葉であった。

今回の受賞語「ふてほど」のネット上の評をみても、そんなものかね、という冷めた声も少なくないようだ。現在、社会は多様化しており、流行語といっても、集団によって異なるようになった。

私に「ふてほど」の受賞を伝えた男の子は、クラスで孤立しており、勉強は強いられてするものと思っている。それだけでなく、「民主主義」が悪い、「独裁」が良いと思っている。現在の学校教育に反感をもつまでは理解できるが、「民主主義」が悪い、「独裁」が良い、となると、ちょっと心配になる。心の緊張を解いてやりたく思う。

それとともに、今年の3月30日の朝日新聞〈多事奏論〉のくらし報道部科学みらい部次長の岡崎明子の論説を思い出す。彼女の『「ほめて育てる」親は不適切?』という論説は、TBSのドラマを引きながら、昭和の不適切を肯定的に捉え、「ほめて育てるは不適切」と主張するものだった。

昭和にもいろいろな風潮があったのであって、その記事を見て、昭和末期の右傾化を懐かしむ彼女の考えに納得できないものを感じた。下記のブログはそのときの私の率直な意見である。


中間層の没落、昔に戻ることは無理、小熊英二

2024-10-25 11:10:58 | 社会時評

2週間近く前の朝日新聞2024衆院選に、小熊英二の寄稿『よき統治のために』が載った。「良き統治(good governance)」という言葉にわたしは違和感を抱くが、指摘している問題点には同意する。

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彼は書く。

「古代ギリシャ哲学では、人間の幸福は(中略)各自に役割があり、人として認められ、健康に日々の仕事をしている状態だ。」

彼の思いうかべているギリシャ哲学者は、プラントンではないか、と私は思う。彼は『ポリテイア(Πολιτεία)』で、「人として認められ」以外は、同じ主張をしている。「人として認められ」るは現代人の考えである。

プラトンは、同書で、また、「人間には金と銀と銅の種がある」と言っている。プラトンにとって「各自に役割があり」とは、金の人間が「統治」し、銀の人間が「防衛のために戦い」、銅の人間が「農地を耕し物を作り商いをする」ことを言う。金銀銅以外の人間として、当時、ギリシア社会に奴隷がいる。

プラトンはそういう社会を理想とし、デーモクラティア(δημοκρατία)(民主制)を非難した。

だから、私は、小熊の「統治」という言葉に違和感を抱くのである。

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小熊のポイントは、「中間層の没落」を単なる所得の問題とみていないこと、また、昔に戻ることは無理とすることである。彼は、1980年代と比べ、正規雇用の数は減っていない、減っているのは自営業で働く人であると指摘する。昔なら自営業の人が、非正規雇用者になっているのである。

彼は書く。

「日本は欧米諸国より正規と非正規の差が激しいので、それでは生活できず「一人前」と認められない。これは単に所得の問題だけでなく、人間の尊厳が保てないという問題である。」

このことで、以前、放ディー(放課後デイサービス)に来る男の子と喧嘩したことを思い出す。その子は、小さい子どもの面倒をみるのがとても上手だった。それで、私は、将来保育の仕事をしたらとその子に勧めた。これが彼を怒らした。保育の仕事は給料が安い、それに、男が保育の仕事をすると、みんなにバカにされると、その子は言うのだ。それから、彼は他の放ディー教室に移り、2度と私の前に現れなかった。

「人として認められ、健康に日々の仕事をする」とは、働くことで「人から感謝される」ことをいう。現在の雇う、雇われるという関係は、働くことで人から感謝されるという基本的な関係を壊している。

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小熊は昔に戻れないという根拠に、生産手段が高価になったからと言う。「開業費用は億単位となった」と彼は書く。私はそれだけではないと思う。

昔との違いは、働くことが組織化されていることだ。

例えば小売業を考えても、売り子や掃除人以外に、何を仕入れたら売れるか、店の飾りつけをどうしたらよいか、売値と仕入れ値の関係は適切か、法を満たしているか、など、いろいろな仕事がある。

だから、組織で働く事業体と個人が競合しても、個人に勝ち目がないと子どもは思ってしまう。これがシャッター街が地方に現れる理由である。自営業が減る理由である。私の郷里の金沢にひさしぶりに訪れたとき、駅のまわりに東京の会社の店ばかりだった。

昔に戻るのではなく、「組織」を「チーム」変えるべきである。

「上司と部下」という言葉は、役割を通じて、人間関係に上下をつけている。「上司」はチームの「コミュニケータ」に、社長はチームの「まとめ役」になるべきだ。

「まとめ役」はチームメンバーのそれぞれの貢献に「感謝」するのでなければならない。

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日本の学校教育は子どもたちの競争を旨としている。テストの成績や進学先は能力差を表わしているかの幻影を子どもたちに及ぼしている。すなわち、いまの企業の運営が民主主義的でないと同じく、学校教育も民主主義的でない。

人間はすべて対等である。ところが、現在の学校教育は、「対等」であることを否定するよう、子どもを教え育ているのだ。学校教育を民主主義的にすべきである。

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「良き統治」という言葉に代わって、小熊はなんというべきだったのか。私は「良き社会システム」という言葉が適当だと思う。「統治」は、人間が他の人間を支配することを前提としている。民主政とは統治する者のいない社会システムである。みんなが対等である社会システムである。


能登の集中豪雨のもたらした大洪水、土石流、土砂崩れに支援の声を

2024-09-23 19:59:48 | 社会時評

能登の人びとには、年初の大地震と今回の集中豪雨と、まことに気の毒な事態である。あまりのことに、ただただ茫然としているでは、と思う。

こんなとき、中央政府や地方自治体の役目は重い。すぐにも、行政がどんな支援をするのかを発表すべきである。また、ボランティアにも支援をお願いすべきである。

人間は希望が必要である。中央政府や地方自治体は、このような自然の猛威に、あなたたちは孤立していない、困ったときは助け合うんだ、と言うべきである。

今回の大雨で、能登では、大地震からの復興が進んでいないことが明らかになった。堤防は応急処置しかされていない。水道も排水設備も応急処置のままだ。仮設住宅も、ハザードマップの浸水地域に建設したにもかかわらず、排水対策や床上げ対策もままならぬままだった。

地方自治体は仕方がないと泣き言をいうのではなく、人的支援、財政的支援を中央にも全国にも訴えるべきだ。助けを求めることは恥ずかしことではない。世の中には、自分ひとりでできないことがいっぱいあるのだ。

年初の大地震のとき、災害地の役人がボランティアが来ては困ると言ったのは、大失敗である。中央政府は、なんにもしてくれないし、できないことも多い。地方役人は大声で助けを求めるべきだ。助けてくれない中央政府を責めるべきだ。さもないと、自民党内の争いの中で、中央政府は動けない。

年初の能登大地震で自衛隊が派遣されたとき、地震で寸断された道路の復旧をするのか、と思ったら、何もしない。自衛隊は補給工作部隊をもっていて、道路や橋の復旧ができるはずだ。能登では、自衛隊が何か役立ったようなふりをしただけである。中央政府はインフラ復旧の責任がある。自衛隊をちゃんと役立てないといけない。


イギリス全土に急速に広がった人種差別の暴動

2024-08-14 20:44:59 | 社会時評

先月の29日に田舎町で起きた幼い少女3人の刺殺事件のあと、イギリス全土で起きた騒乱に、私は強い衝撃を受けた。この騒乱が人種的偏見にもとづいたマイノリティ迫害の形をとったこと、数日で26都市に広がったことに、私は衝撃を受けたのである。

テレビの映像を見ると、モスクに石を投げたり、インド系イギリス人のささやかな店や難民申請者が泊まっている安ホテルを襲っている。若者だけが暴れているのではなく、いい年をした中年の白人男女が騒ぎに参加している。900人近くが逮捕され、500人以上が訴訟された。

私は、19世紀から20世紀にかけての東欧に起きたポグロム(ユダヤ人迫害)や1923年の関東大震災で起きた朝鮮人虐殺を連想した。

私の祖父は、震災当時、本郷に店を構えており、震災の被害を見に神田に出かけたところ、自警団につかまり殺されそうになった。祖父は背が高かったから、朝鮮人と間違えられたのである。佐渡おけさを歌って、新潟県南蒲原郡出身だと名のり、解放してもらったと祖父は言った。

朝日新聞は、このイギリスの騒乱を、8月7日の夕刊の記事1つを除いて、報道していない。識者はこのイギリスの騒乱をどう見ているのか、私は興味津々であるのに。イギリス在中のブレイディみかこは、これをどう分析するのだろうか。

きのう、他社のTBS『報道1930』で、ようやく、ゲストを招いて、イギリスの騒乱が議論された。

急速に騒乱がイギリス全土に広がったのは、サウスポートで幼い少女3人を刺した17歳の少年をイスラム教徒の難民とするデマ情報が、インタネット上で流れたことが大きな要因だとしていた。極右のトミー・ロビンソンが国外のキプロスからこのデマ情報を流した。その背景にロシアの影もあるのではとも言う。デマ情報をリツイートしてしまうネット社会の特性、移民に対する反感がくすぶっている土壌、政治の失敗を移民の急増に責任転嫁する既成政党の態度にも問題ありとする。

私は、自分たちの不安や不満を代弁する代表を持たぬ白人層が、少なからず、イギリスにも存在するのだと思う。ハンナ・アーレントの言葉を使えば、「見捨てられた人々」である。国民の分断とかそういう問題でなく、煽る人が出てくると、代弁者を持たぬ「見捨てられた人々」が、怒りで爆発するのである。民主主義が安定して機能するには、「見捨てられた人々」を「交渉」という政治の舞台に取り込む必要がある。このために、「代議制民主主義」の実装をも再検討する必要があると私は考える。