猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

ようやく就職が決まった子の受難と、障害者雇用代行ビジネス

2024-12-09 11:34:00 | 働くこと、生きるということ

長く就職先が決まらない子がようやく去年の末に面接に受かり、この4月から毎日仕事に出かけている。24歳になる。この夏に有給休暇を取らずに一所懸命働いたと彼は自慢気に私に語った。うれしい話である。

その子は、成績優秀ではないが、知的障害でもない。いわゆる「発達障害者」である。どこか変な子で、扱いにくい子である。小学校で教室から排除されたためか、人との付き合いがとても下手である。家の外での会話が少なかったためか、言葉の意味を取り違えているケースがときどきある。もう少し早くから、インクルージョン教育が公立学校で普及していればと思う。

先日、その子の保護者と面談しているとき、職場の管理者から持て余していると言われたという。私のところでの彼の振る舞いと大きく違うから、職場の管理者が私たちがどのように指導しているか、知りたいという。メールでのやりとりよりも、直接あって話した方がいいと思って、コンファレンスを設定してもらった。

その子の職場は、倉庫のようなビルの3階にあった。屋内農園型障害者雇用支援サービス会社の施設を10社が利用していた。その1つが彼の就職した会社である。それぞれ会社が「障害者」を雇って、同じ大部屋で水耕栽培をやっている。休憩室も10社共有である。

コンファレンスには、私のNPOから私と同僚2人が参加した。向こうは、彼を雇用している会社側の管理者一人と支援サービス会社の職員一人である。コンファレンスでびっくりしたのは、管理者が障害者を雇うということを全然理解していないことである。オーバーリアクションをしている。それに対し、支援サービス会社の職員は一言も言葉を挟まなかった。

彼の管理者は、もとは営業マンで、60歳になったので、現在の職場に配置されたと言う。彼がその管理者にいちいち指示や判断を求めると私たちに文句を言う。就業時間が終わってもさっさと帰らないから、施設の入り口まで送らないといけないと言う。どうして彼のような手間のかかる子を雇ったのか会社には文句を言ったが、チャレンジ―だと突っ返されたとその管理者は言う。

彼と同時に雇ったダウン症の子を「自主退職」という名目で解雇したと私を脅す。雇用契約は1年であると言う。会社の名を汚さなければ、自分が定年になるまでの5年間、雇ってあげると言う。

管理者は、会社が教育や訓練のために彼を雇用しているのでないと言う。会社は彼に月14万円ほどを支給している。昇給はない。時間給はみんな同じだ。仕事では成果を求めていない。それはそのはず、障害者の法定雇用率を満たすために、会社は「障害者枠」で彼を雇っているだけである。水耕栽培での収穫物は売っていない。会社のビジネスに何も貢献していない。

(注)法定雇用率は2024年度に2.5%になった。26年度には2.7%になる。

この支援サービス会社は障害者雇用「代行ビジネス」会社の1つである。障害者の法定雇用率を満たしたい会社に、水耕栽培の施設を提供している。しかし、障害者にどのような配慮をすべきかを利用会社に指導していない。利用会社がこの支援サービス会社にいくらを支払っているか私は知らない。しかし、ずいぶん払っているのではないか。

これら代行ビジネスの会社は、法定雇用率を満たさないと罰金を払うことになり、会社名を公表される、結果として会社のブランド・イメージが下がると、講演してまわり、いま、全国的に急成長している。しかし、障害者の適切な雇用の場が見つからなければ、国に罰金を払うほうが健全ではないか、と私は思う。国はその徴収したお金を、福祉団体の就労継続支援事業所(いわゆる「作業所」)や市町村の就業支援センターにまわした方が良い。

最後に、障害者の雇用の促進等に関する法律から、その理念と事業主の責務を掲げてこのブログを終える。

(基本的理念)

第三条 障害者である労働者は、経済社会を構成する労働者の一員として、職業生活においてその能力を発揮する機会を与えられるものとする。

第四条 障害者である労働者は、職業に従事する者としての自覚を持ち、自ら進んで、その能力の開発及び向上を図り、有為な職業人として自立するように努めなければならない。

(事業主の責務)

第五条 すべて事業主は、障害者の雇用に関し、社会連帯の理念に基づき、障害者である労働者が有為な職業人として自立しようとする努力に対して協力する責務を有するものであつて、その有する能力を正当に評価し、適当な雇用の場を与えるとともに適正な雇用管理を行うことによりその雇用の安定を図るように努めなければならない。


日本の製造業の底辺が壊れ始めているのではないか

2024-11-25 15:38:11 | 働くこと、生きるということ

きのう、LED電球を買いに電気器具量販店にいったら、パナソニック製品も東芝製品もMADE IN CHINAであった。帰ったら、テーブルの上にベーキングペーパがあった。その販売者は日本の会社だったが、製造元が書かれていないので箱のすみずみまで探したら、MADE IN CHINAの文字を見つけた。

今年の夏にダイソーを見てまわったときも、ほとんどの商品はMADE IN CHINAであった。ダイソーは自社で設計したものを中国で生産しているのだというが、設計というより商品企画に近いのが実態だと思う。

私は中国脅威論を述べたいのではない。逆に、中国の製造業の底辺が確実に上がっていることを祝福したいと思う。

私の心配は日本の製造業の底辺が壊れ始めているのではないかということだ。

中国製のドローンの中は中国製の機能チップだらけだそうだ。機能チップは、制御や画像処理のための特製のチップのことで、設計し生産する職人が中国にいるということである。太陽光発電はいまや中国の独壇場になっている。中国製EVには、アメリカ、カナダは100%の関税をかけている。EUも45%の関税をかけている。EVも中国が他国を圧倒している。

現在の中国の競争力は、単に、労賃が安いというよりも、質の高い労働力の層の厚さに支えられていると思う。

私は、ものづくりが農業と同じく富の源泉で、ものづくりを粗末にする国に未来がないと考える。だから、子どもたちがものづくりにあこがれず、町工場が壊れていくのに、心を痛める。

ものづくりは、トイレットペーパー1つとっても、製造機械の不断の工夫、調整、補修が要求される。溶けたパルプからペーパを一定の力で自動的に巻きあげる機構、一定の間隔でミシン目を入れる機構、私は、毎日トイレで、それらの日本技術の高さに感嘆してきた。

いま、日本の政治家、官僚は、IT、IT、IT、AI、AI、AIというが、日本のIT業界もビジネスモデルをこね回していて、詐欺師集団あるいはひったくり集団になり果てている。こんなものに子どもたちがあこがれるなんて、とんでもないことだ。ものづくりに励む者が報われる社会であって欲しい。

[11月27日追記]

けさの朝日新聞はアマゾンが公正取引委員会が独占禁止法違反の疑いで立ち入り検査をしたとの記事が一面にのった。アマゾンが表示優先順位で出品者に値下げの圧力をかけているとの問題を取り上げたものである。アマゾンにかかわらず、グーグルなどのインタネットに巣食うIT業界はビジネスモデルで莫大な利益を上げるようになっている。日本が見習うべきものではない。


超少子化、過度な競争 自分だけで精いっぱい、日韓共通の問題

2024-05-06 17:40:04 | 働くこと、生きるということ

5月4日の朝日新聞、春木郁美のインタビュー記事『韓国の超少子化 背景に何が?』が私の興味を引いた。

普通は、少子化がヨーロッパや東アジアで起きている現象で、「経済発展に伴う子供の養育コストの増大、結婚や出産に対する価値観の変化」と片付けられてしまいがちである。しかも、「養育コストの増大」はなぜ起きるのか、「価値観の変化」とは何なのか、が検討されずに、議論が終わってしまう。

が、春木は、「良い教育を、良い就職を、という過度の競争圧力が若い世代を追い詰め、自分一人でやっていくのが精いっぱいという状況です」「子どもを持つことをリスクととらえる傾向が日韓ともにみられます」と言う。

そして、これが「子供のがいる家庭がマイノリティーになり、子どもや子育てへの共感が薄れている」「子供に対して寛容さが失われてしまうと、ギスギスした生きづらい社会になりかねません」という春木の危惧につながる。

考えてみると、少子化というのは不思議な現象である。これまで、ペストなどの感染症や戦争がなければ、人口が減少することがなかった。人口は生産方式の発展とともに拡大してきた。

20世紀の第1次世界大戦、第2次世界大戦は、ヨーロッパの人口の増大が引き起こしたという説もある。ハンナ・アーレントは、全体主義は人の命を粗末にするものだから、ドイツやロシアのように過剰の人口を抱える国でしか、成功しない、とまで言う。

だから、人口が増加しないこと自体は、悪いことと言えない。本当の問題は、「社会の若い世代が追い詰められ、自分一人でやっていくのが精いっぱい」という状況である、と私は考える。

発情期なのに、恋に身を任せないというのは、私からみれば、とっても不思議なことである。二人で子どもを持ち、永遠の命をつないでいこうと思わないのは、とっても不思議なことである。女性は何から追い詰められているのであろうか。

昨年の韓国の出生率は0.72であるという。日本や他国と比較するために、2021年の合計特殊出生率で較べると、韓国は0.81で日本は1.30、中国は1.16、シンガポールは1.12、イタリアは1.25、イギリスは1.56、フランスは1.83、アメリカは1.66である。合計特殊出生率は一人の女性が一生の間に何人の子どもを産むかの推定値で、人口を維持するには、1,2年で死ぬ赤ちゃんがいるから、2.00を少し上回るのが望ましいとされる。

不思議なことに、これらの国のうち、この10年間人口が減りつづけているのは、日本とイタリアである。韓国は2020年から始めて人口減少が起きているが10年の平均で見れば人口減少が起きていない。韓国は移民でまかなわれているのではないか。

ヨーロッパをみても、出生率にもかかわらず西ヨーロッパでは人口減少が起きていないが、東ヨーロッパで人口減少が起きている。東から西に人の移動が起きているのではないだろうか。

出生率は、その国の女性が生きることに肯定的であるかの指標になる。国の人口そのものは移民で維持できるが、生きることに自分だけで精いっぱいであるという問題は、移民では解消できない。社会の集団心理の病的状況を、まじめに議論して、改善すべきだと考える。


自分を表現し人に見てもらい集まっておしゃべりするのは、文化的

2024-04-16 17:10:04 | 働くこと、生きるということ

私は、NPOで子どもたちの指導を始めて13年目、文芸誌と称して子どもたちの作品を集めて発行し始めて7年目になる。これまでに30号をだした。

私は子どものときのから、文化的なことに 憧れがあり、そういう活動が好きだった。作品を書いて、あるいは、描いて、あるいは、創って、人に見てもらいたい、という気持ちがあった。演劇にも、憧れがあった。

NPOで一人黙々とイラストを描いている女の子の、本当はイラストを見せ合っておしゃべりしたいという気持ちがよく分かった。が、何もしなかった。

7年前の春、てんかんの持病をもつ中2の男の子がインタネット上の『小説家になろう』のサイトに投稿しているのに気づいた。そのとき、突然、NPOに集まってくる子供を集めて、文芸誌を発行したいと思った。強引に私の担当している子どもたち8人の作品を集めて、文芸誌1号を出した。

そのときから私は文芸誌をデジタルで発行してきた。「非売品」と表紙につけて、NPO内だけの回覧である。デジタルだから、イラストや工作や立体造形も簡単に載せることができる。私が、大学でガリ版印刷で同人誌を出していたときと比べると、なんと便利な時代になったものだ。

いつのまにか、NPOのほかのスタッフも作品を集めてくれるようになった。NPOは現在5つの教室からなるが、各教室から作品が電子メールで送られてくるようになった。編集を手伝ってくれるスタッフも4人いるようになった。

私が勝手に出し始めた文芸誌が、NPO公認の文芸誌になった。

私は、文化的活動が、自己表現であり、自己肯定であり、生きていく心のかて(糧)となる、と信じている。それは学校のテストの成績や学歴と何の関係もない。送ってきた作品はすべて文芸誌に載せることにしている。作品の質は問わない。だから、だんだん、文芸誌が重くなっている。

おととしの夏から、文芸誌に載った子どもたちの作品について、スタッフが集まって感想をかわす会を催すことにした。18世紀後半のドイツでは、文学や音楽についておしゃべりするサロンが流行したという。作品を創るのも文化的活動だが、作品について話し合うのも文化的活動である。

感想会のほうは参加者の人数がなかなか増えない。ようやく、今回9人になった。まあ、これくらいが良いのかもしれない。Zoomミーティングを使い、オンラインで行っている。載った作品すべてについて話しあうと、1時間半を超えてしまう。いつも、感想会で編集の時に気づかない発見がある。とっても楽しいひとときである。


「能力が高い」とか「仕事ができる」とかの職場の評価は本当なのか

2023-12-19 23:57:08 | 働くこと、生きるということ

古新聞を処分していて、突然、ひと月近く前の朝日新聞《耕論》に不快な思いをしたことを思い出した。その《耕論》は『「仕事はできる」けれど』という見出しで、つぎのような問題を提起していた。

「職場で「能力が高い」と評価される人が、攻撃的だったり、他人の足をひっぱったりすることがしばしばある。なぜそうなってしまうのか。「仕事ができる」とはどういうことなのか。」

私が思うに、本当に「能力が高い」人なら、どうして、他人に攻撃的である必要があるのか、他人の足を引っ張る必要があるのか、そんな必要はないはずだ。だとすると、他人を攻撃する人や他人の足を引っ張る人は、「能力がない」のに、会社内の競争に勝ちたいからでないだろうか。そういう人を「能力が高い」と評価する職場に問題があるのではないだろうか。私はそう思う。

同じように、他人を攻撃する人や他人の足を引っ張る人が「仕事ができる」と評価される職場は、どうでもよい仕事や他の人に迷惑がかかる仕事や他の人からお金を奪う仕事をしているのではないだろうか、と私は思う。

しかし、インタビューを受けている3人の論者は、「能力が高い」「仕事ができる」という言葉に、少しも疑問を感じていないように、見える。私はこのことに不満であった。

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約40年前、カナダの大学で研究していた私は、日本の外資系会社の、コンピュータの新しい応用を切り開く部門に請われて、入社した。入って感じたことは、やっていることが退屈であることだ。もっと創造性のある仕事がしたい、そう思って、幾度となく企画書を上司や上司の上司や上司の上司の上司に提出した。

職場に先に入社した同僚(先輩)から、まず、言われたのは、「仕事をするな」「私に仕事をされると自分の居場所がなくなる」ということだった。彼は、その後、私をうまく手なずけている、「管理能力」があると吹聴して出世していった。私からみれば、上に対するゴマすりが上手であるだけだ。

会社の行事として全員の宴会があるとき以外、上司や同僚との飲み会に私は参加しなかった。私は家族がある。飲み会よりも家族と時間を過ごすことのほうが、だいじだと思うからである。いっぽう、異なるグループや異なる部門の人たちとは昼間に会話を良くした。営業部門の人たちのおかげで日本のいろいろな企業の開発部門、研究部門の人たちとも付き合った。話すのは、私は耳学問が好きだからである。いろいろな人たちと楽しく会話し学んだ。

そのうちに、私の部門が研究部門に格上げになった。研究部門とは会社の明日を築くかもしれないが不確実性の高いことに挑戦する部門である。ところが上司たちは海の向こうの本社に独創的な企画を出さず、開発の下請けのような仕事しかとってこない。企画書を出す私は上司たちからは煙たがられた。

私に研究管理の職がまわってきたのは、本社が赤字をだし、人員整理の波が来たときである。私が50歳近くのことである。管理職になって、自分がやりたい仕事をあきらめ、みんなができることは何か、みんながやりたいことは何かを考えた。また、みんなと公平に接するために、職場の人間と少人数で飲みに行くことを自分自身に禁じた。話はみんなの前で昼間にすべきという考えをつらぬいた。

結局、私が率いた研究プロジェクトが成功せず、会社の退潮傾向を止められなかったが、それで出世できなかったことには悔いがない。楽しい一社員の生活だった。

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もちろん、世の中はいろんな仕事があって、創造的な仕事だけではない。世の中の大半は昔ながらの仕事かもしれない。

どんな仕事でも、一生懸命する人と手を抜く人がいる。手を抜く人を一生懸命する人が非難するのはいけない。人より働いたからといって偉いということはない。しかし、逆もいけない。働かないから偉いということもない。

私のいとこの夫は、自衛隊の曹士だった。彼は 引退後 門番に再就職したが、それだけで給料をもらうのは悪いと感じて、門のまわりの掃き掃除をした。たちまち、周りの同僚から非難された。門番の仕事を増やすという理由からである。みんなと同じでなければいけないという考えは、おかしいと思う。よく働く人も、あまり働かない人もいて いいのではないか。