猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

緊急事態宣言の終結のまえに、段階的に経済活動と民主主義の復活を

2020-04-30 22:31:30 | 新型コロナウイルス

テレビは、いたずらに新型コロナの恐怖を煽っているように思える。

きょう、町に出たら、駅のそばの銀行のATMに列ができていた。1.5メートル以上間をあけて、銀行の外に長い列ができていた。帰りに、別の駅の同じ銀行のATMを見たら、台数が2台しかないのに、列が2,3人だった。

都心の銀行が混んでいるのは、どうも、新型コロナの助成申請書を作成するために、訪れている自営業者が押しかけているからとのことである。郊外の町のATMが混む理由はまったくない。

もちろん、そんな騒ぎを起こすために、テレビはウソの報道をしているのではないだろう。単に、混んでいるところの映像をテレビで流してみたかっただけだろう。

人間は不安になる生き物である。不安になると、おびえる心が制御できなくなる。

しかし、列を作るという心は、おびえているのではない。おびえれば、普通は立ちすくむ。動けなくなる。列を作るのは、生き残ろうとする生命力の現われだ。

しかし、新型コロナ助成申請書作成のため、銀行の相談窓口が混むのと、お金をおろすためにATMの長い列を作るのとは、異なる。

パニックは、おびえるのではなく、慌てふためいて、判断力を失うことである。

テレビで、都心のスーパーが混むというのも、よくわからない。3日に一度買い物に行くように、しかも、短い時間で買うように小池百合子が言うのも、よくわからない。

郊外のスーパーは、混んでない。もちろん、レジの前では、1.5メートル間隔で、列を作っているが、すぐ、自分の順番が来る。

郊外から都心にお客が来ないから、本来、都心のスーパーのお客が減るはずである。

どうも、「3密」も、うさん臭い。新型コロナ対策専門家会議の脇田隆字、尾身茂、西浦博は、どうもうさん臭い。

単に語呂合わせで、密集、密閉、密接の「3密」を首相官邸の誰かが作ったのではないか。

1月の時点では、中国の武漢からの情報しかなかった。2月、3月にヨーロッパで新型コロナの感染が広がり、3月、4月にアメリカで新型コロナの感染が広がった。当然、新型コロナの知識も増え、武漢からの情報も訂正されているはずだ。

厚労省は、新型コロナ感染症対策の方向は基本的に変わっていないと言いながら、少しずつ文言を変えている。未知の感染症だから、対策が間違ったとしても、しかたがない。要は、知識の増加とともに対策を変えていることを、明示的に言わないといけない。「お上には間違いがない」という態度こそ、問題である。

「社会的距離(social distance)」だけは、どうも今も生き残っている防衛策のようだ。現在、「密接」とは体面で30分以上話すことになっているようだ。この体面の距離を適切に保つか、間に透明シールドを置けばよいようだ。

新しい情報の最も重要なのは、感染すると、無症状でも、体内でウイルスが増殖していることだ。症状が出る直前にウイルスの増殖がピークになるという。相手がその状態かもしれないから、「社会的距離」を保ちなさいということらしい。

もっとも、この情報も間違いかもしれない。

もう1つの新しい知見は、PCR検査による感染率の数十倍から数百倍が、実際の感染率だということだ。郊外といえども、首都圏では、百人に数人の無症状感染者がいると思ったほうが、良いのだろう。「社会的距離」を保ったほうが無難だということだ。

この知見は、また、新型コロナ感染の致死率が0.1%程度だと、集団免疫が近い将来くるという、希望的推測をもたらす。

しかし、個人が感染症からの防衛のため、国民が自治体や政府から、どこどこに行ってはいけないとか、の細かい助言を受ける必要がない。そんなことは、常識でできることだ。

医療体制を拡充することが、政府や自治体がなすべきでことである。公園の遊具を使用禁止にしたり、図書館を閉鎖したり、パチンコ屋の閉鎖を要請したり、することではない。

もう1つは、いかに経済活動を維持するかである。人間が生きていく以上、働いて、消費していく必要がある。その日常行為が経済活動である。緊急事態宣言は、出してしまったので、1ヵ月延長しても良い。しかし、経済活動は再開する方向で動くべきである。不安を煽って経済活動を窒息させてはいけない。

特別措置法は、非常に慎重に適用すべきだ。現状を見ると、適用は不要に思える。

経済活動をもとに戻していくのと同時に、民主主義をもとに戻すこと(もしかしたら民主主義をすすめること)を、私たちはしないといけない。

きのう、国会で蓮舫議員が、新型コロナ感染症対策専門家会議のメンバーたちが異なる意見をテレビで言うことを非難していたが、多様な意見が出てくるのは、民主主義社会ではあたり前である。何が正しいかわからないのが普通である。多様な意見を抑えることではなく、議論になるようにもっていくことだ。専門家会議の議論が公開されないのが、問題だ。

民主主義社会での専門家の役割は助言である。どの助言が信頼できるか、非専門家が判断できるために、助言の根拠を示すことと、公開の議論があることが重要だ。

「隅の親石」といったイエスに、なぜエルサレムの神官が怒るのか

2020-04-29 22:39:11 | 誤訳の聖書

聖書に意味の解らない言葉がよく出てくる。わかったと思っても歳のせいか、しばらくすると、また、わからなくなる。その一つがつぎである。

〈家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。〉(聖書協会共同訳)

これは、新約聖書の『マルコ福音書』12章 10節、『ルカ福音書』20章 17節、『マタイ福音書』21章 42節、旧約聖書の旧約聖書の『詩編』118編 022節に出てくる。原文は、次に示すギリシア語である。

〈 λίθον ὃν ἀπεδοκίμασαν οἱ οἰκοδομοῦντες οὗτος ἐγενήθη εἰς κεφαλὴν γωνίας 〉

最後の“κεφαλὴν γωνίας”が「隅の親石」と訳したところだ。
“κεφαλὴν”(ケファレーン)は、「長(おさ)」とか「頭(かしら)」とか「首長」の意味で、“γωνίας”(ゴーニアス)が「隅の石」である。聖書協会共同訳も新共同訳も「隅の親石」と訳しているが、口語訳では「隅のかしら石」と訳している。

じつは、この「隅の石」、ヘブライ語で “פנה”(ピンナー)は、民衆をまとめて戦うリーダーのことをいう。たとえば、旧約聖書の『ゼカリヤ書』10章04節に、つぎのようにある。

〈彼らから隅の石が/彼らから天幕の杭が/彼らから戦いの弓が/彼らからすべての指揮者が共に出る。〉

一度、わかったつもりになったのは、ある日、「隅」が「角」であることを発見したからだ。英語の聖書は「隅の石」をcornerstoneと訳している。

「隅」は、すみっこ、めだたないところだ。それは内側から見ればの話しだ。

神殿の土台を考えると、内側からみることはない。外側から見ると、「角」である。神殿をささえる石作りの土台を思い浮かべれば良いのだ。石組みが崩れないように抑えているのは角の石である。だから、「角の石」はリーダーなのだ。

今、わからなくなったのは、エルサレムの神殿前の広場で、イエスがそう言ったことで、どうして、祭司長、律法学者、長老が怒ったのか、ということである。かれらが、イエスを「隅の石」と思ったのであれば、イエスは「神の子」ではなく、リーダーの一人であると思ったことにある。「隅の石」は1つでなく、いくつもあるからだ。

すると、もし、イエスが本当に言ったなら、この句は、「家を建てる者」が「支配者たち」を、「隅の石」が「それに逆らう叛乱のリーダー」を指し、「次々と現れる反乱者の一人」だ、とイエスが自分を考えていたことになる。この解釈でいいのだろうか。

助言と命令と要請、ホッブスがパチンコ休業にもの申す

2020-04-28 22:45:38 | 思想

きょう、ぶらっと寝ころびながら手にした本は、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン 2』(光文社古典新訳文庫)だった。開いたページは、たまたま、「第25章 助言」だっだ。

〈日常的な、意味の揺らぐ言葉を用いることによって物事の本質を判断すると、どれほどはなはだしい誤りを犯すことになるか。そのことを何よりも如実に示すのは、助言と命令の混同である。それは、動詞の命令形が助言と命令の双方、さらにはその他のさまざまな場合に用いられることから起こる。〉

ここで、「助言と命令の混同」は “the confusion of Counsels, and Commands”の訳である。

この部分の翻訳は、もちろん、意訳だが、原文で読むのと、印象がかなり異なる。文法の話しをしているのではない。ホッブスは、助言を与えているのか、命令しているのか、言葉だけで判断していけない、と言っているのである。

「日常的な、意味の揺らぐ言葉を用いること」は“the ordinary and inconstant use of words”の訳である。「日常的な、意味の揺らぐ」は「用い方(use)」にかかっている。

では、ホッブスは、どうすれば良いと言っているのか。話し手と聞き手の置かれている状況を考えよ、と助言している。ホッブスの考えを要約すると、つぎのようになる。

「命令」は話し手の意思である。すなわち、話し手が自分の利益を貫徹しようとするために、こうしろとか、こうするな、ということである。

これに対して、「助言」は、相手の利益を思って、話し手がする行為である。そして、求められて助言をするのがふつうである。しかし、下心があって、「助言」するかもしれないが、それは、助言者の義務に反する。

助言と命令と同じく、あいまいな使い方の言葉に、「要請」がある。この言葉は、相手のことを思ってなのか、話し手に下心があってなのか。

新型コロナ感染で外出要請、休業要請が乱発されている。政府や自治体は、国民や住民のサービス機関である。お客である国民や住民に向かって、「命令」できるような存在ではない。政府や自治体は、お客に対して奉仕する存在である。

「要請」は「お願い」であって、国民や住民のことを思って、専門家として「助言」するのである。

しかし、現実は、政府や自治体は既得権益者のためにしか、動いていない。そして、選挙を意識して、国民や住民をだまかすようなことしか、していない。もちろん、選挙を意識することは、民主主義がまだ生きていることを示すが、民主主義が機能していることにならない。

換気が悪く混んでいるところに行くと新型コロナに感染するかもしれないから、パチンコに行かないほうが良いよ、というのは、「助言」である。

現実は、近所のパチンコ屋は、緊急事態宣言の前、どこもガラガラであった。パチンコはパチンコ台と対面で、しかも、密集もしていない。換気だけがパチンコ屋に求められることだ。

パチンコ屋に休業を求めるは、自治体がコロナ対策をしているポーズをしたいからだ。単に、パチンコ業界はスケープゴートに選ばれたのだ。パチンコ屋だったら、擁護する人もいないだろうと、軽く見たのだろう。

しようもない粗悪マスクに460億円の予算をつけ、医療機関の物資が足りないのを放置する政府や自治体は何ものだ。

PCR検査がいまだに進まないのは、政府や自治体の誰かが自分の保身をはかっているからだ。

専門家会議が議論の内容をあきらかにしないのは、低レベルの「多かれ少なかれ」の話をしているからだ。西浦博教授はいまだに自分の仮説を説明しておらず、「8割接触を減らす」と「風邪の症状や37.5度以上の発熱が4日以上続く方」とが、ひとり歩きしている。根拠がしめされなければ、サービス機関が下心をもって、要請しているだけである。

新宗教が人を引き込むのは教義でなく、集まる人たちの優しさ

2020-04-26 22:51:10 | 宗教

本を探していて、読んだことも忘れていた本が、本棚の奥から出てきた。村上重良の『新宗教 その行動と思想』(岩波現代文庫)である。

読むと、新宗教の開祖、多くは女性だが、すごく不幸な人生を送っていて、そして、ある日、神がかりになって、みんなの病気をなおそうとし、世直しを訴えだしたと、村上は書いている。不幸への怒りが爆発したのだ。そして、字が読め理屈を求める信者が、ほとんど男だが、開祖を助け教義体系を整えていくと、書いている。最後に、その教義を、マルクス主義の立場から、村上は批判していく。

この本には、また、宗教学者の島薗進の解説が載っている。その解説の最後に彼はいう。

〈しかし、村上が新宗教の歴史や教義についてのべた著作を読むと、そうした価値観と新宗教についての叙述がどこか食い違っているように思えることが少なくない。なぜ、新宗教がこれほど人々を魅了したのか、この革新的な問いへの答えが村上の叙述からは見えにくいのもそのためだろう。〉

村上重良の本は、最初、評論社から1980年に出版された。本人は1991年に死んでいる。

この後、オウムによる地下鉄サリン事件が1995年に起きた。

そして、2001年に、島薗進は『ポストモダンの新宗教 現代日本の精神状況の底流』(東京堂出版)を出版している。

島薗は、オウムの事件で、自分の見落としていたものに気づいたのだろう。彼は、「新新宗教」という言葉を作り、幕末から戦前までの新興宗教を「新宗教」とし、戦後の新興宗教を「新新宗教」と便宜的に呼んでいる。オウムで気づいたのは宗教のもつ凶暴性だろう。

ふりかえって、「新宗教がこれほど人々を魅了したのか」の答えは、不幸な人に寄り添う優しさであると私は思う。上からではなく、不幸を体験したものどうしが、たがいに寄り添う優しさである。それは、弱者からなる「共同体」といっても良いかもしれない。

村上は、この不幸な人たちが政治に目覚めず、神がかりになるほどの怒りをもちながら、社会変革の力とならなかったことに、いらだっていたと思う。そして、新宗教の教義の批判に向かった。

オウムの事件で島薗進が見出した凶暴性は、呪術的なものにのめりこむことが、「世なおし」が無理なら、「呪術」が無理なら、「終末が来ない」なら、「世界を破滅させるしかない」となる可能性であろう。

現在なお、病気や貧乏などの不幸をおっている人々が厳然と存在しており、いっぽう、勝ち組が「近代合理主義」者と自称し、格差を正当化している。その勝ち組でさえ、負け組に陥ることを心の奥で心配している。このような状況下では、ちょっとしたきっかけで、「世なおし」が無理なら「世界が破滅すれば良い」となる可能性がある。

「世なおし」は、幸福になることへの願いだが、「世界の破滅」は、みんなが不幸になればよいという怒りである。

私は、呪術的なものに頼る宗教には賛同できない。私の母は日蓮宗で、生前に頼まれたとおり、身延山の寺に分骨した。その寺のパンフレットに、お祈りをしてもらうと病気が治るなどの「ご利益」が書かれていた。母はこのことを知っていたのだろうか。

旧来の宗教も新宗教も新新宗教も、非合理的な力に頼ることには、賛同できない。

しかし、教義をいくら批判しても、しかたがない。宗教にはまる人は、不幸に疲れ果てて、慰めを求めているのだ。決して、教義に賛同してでない。
政治的な社会変革運動は、上からではなく、対等なものどうしの、寄り添う優しさをもたないといけない。誰かが不幸なままに放置されることがあってはならない。弱いものは集まって、助け合わないといけない。

[補遺]
書いた後で気づいたのだが、宗教の疑似共同体がもつ排他性についての論点が落ちていた。島薗進の本が手元にないので、この点についての彼の議論がわからない。共同体は一般に内側に優しい顔を向けるが、その外に対しては攻撃的になる。

私たちは新型コロナと戦争していない、恐れるべきは権力の肥大

2020-04-25 22:20:39 | 新型コロナウイルス


メディアは、人類が新型コロナと戦争をしているかのような報道をしている。私は、戦争の比喩が嫌いである。

今から、75年前、アメリカが日本の各都市を空襲した。空から爆弾を雨あられのように落とし、町を焼き払い、町の人たちを殺したのである。そのころ、日本政府はもう対抗できずに、町の明かりを消せば、攻撃目標が見えないだろうからと言って、各家に、外から光が見えないように、黒いカーテンを窓にかけるよう要請したのである。外から、ちょっとでも明かりが見えると、近所のおせっかい者が、非国民となじりに来たり、当局に通報したのである。

それでも、アメリカは照明弾を落とし、目標物を鮮明に照らし、計画通りに町を焼き払い、町の人たちを殺したのである。

いま、政府は、そして、都道府県の知事は、国民に外出自粛を要請し、店や会社に閉じるように要請している。そして、要請なのにもかかわらず、要請に応じない者や店や会社を非難し、当局に通報する人たちがあらわれている。

自分たちは我慢しているのに、勝手なことをしてと、その人たちは言う。要請に従わない者が「非国民」だという発想が、今、日本で復活している。

要請は要請であって、強制ではない。

保守の論客、佐伯啓思は、3月31日の朝日新聞で、新型コロナ騒ぎを突き放して文明論として見ることを提起した。
また、分子生物学者の福岡伸一は、4月8日の朝日新聞で、ウイルスは撲滅できないと語った。人類は、結局、ウイルスと共存していくのだと言った。

じっさい、治療薬がないとき、みんながウイルスに感染して、集団免疫をもち、ウイルスと共存するしかない。感染して免疫を持つことを獲得免疫といい、感染することなく人為的に個人に免疫を獲得させるのが、ワクチンだ。

集団免疫に必要な感染率は、専門家によって異なる。メルケル首相に助言をするロベルト・コッホ研究所所長は、人口の60~70%が感染すれば、と言う。ウイルス学者の岡田晴恵は40%と言っている。20%という数字をあげる専門家もいる。たぶん、この数値は、感染力など、ウイルスの性質で決まるのだろう。そして、人類の歴史において、本当の感染者数というものは分かってこなかった。今回は、抗体検査をとおして、より信頼できる感染率がわかるだろう。

新型コロナの現状は、集団免疫を持つのが早いか、治療薬やワクチンの開発が早いか、争っているところである。SARSやMARSでは、集団免疫をもつ方が早かった。すなわち、治療薬やワクチンを開発していた医薬品メーカーは損をしたのである。それで、今回は、メーカーは新規開発よりも、過去に開発した薬で新型コロナ騒ぎで売れる薬を探している。

そして、メーカにとって一番の商売になるのは、新型コロナ検査薬だ。

私見でいうと、どの国の政府も目指しているのは集団免疫であり、それまでの間、医療体制を崩壊させず、死者もできるだけ出さないということだ。きょうのNHK番組で、厚労省クラスター班の西浦博教授まで、「集団免疫」と言い出した。

だから、感染者が増えることは、基本的に悪いことではない。市中に新型コロナが蔓延することが必要だ。それに、致死率は、WHOが言っていた0.5から0.6%よりもずっと低く、0.1%程度であるようだ。

問題は、必要以上に危機をあおり、緊急事態宣言で、要請が強制のように受け取られたり、政府に強権的対応を求めたりする、人たちがでてきたことである。これこそ、恐れるべきことだ。

韓国は新型コロナをよくコントロールしているが、あくまで、自粛を要請しているだけで、強制していない。韓国の基本対策はPCR検査を幅広く行ったことと、社会的距離(social distance)の要請である。この要請をカラオケ店や教会にもしているが、閉じることは強制しなかった。プロ野球もこれから始まることが決まってる。

スウェーデンでも、情報公開であって、緊急事態宣言も要請も強制もしていない。マスクもせず、レストランで食事をしている。

新型コロナのパニックは、これまで政府が情報を与えることをしてこなかったから、と言えるのではないか。本当のことを隠すことが、不安を生む。

きょう、4月25日の朝日新聞で、経済学者の井手英策が、人々のパニックを鎮めるのには、政府が徹底的に安全網(セーフティーネット)を強化することだと言う。
日本に、失業手当(失業保険)や生活保護や雇用維持の助成金など、いろいろな制度がある。これまで、政府は対応窓口にそれらを出し渋るように指導してきた。これを改めるだけでも、効果がある。
井手は、新型コロナ感染が収束期に入ったところで、経済対策を打てばよいという。

4月2日の朝日新聞で、法哲学の仲正正樹はつぎのように言っている。

〈近代の権力は、前近代のように人々の命を粗末に扱うのでなく、なるべく生かした状態で利用するになった〉
〈安倍晋三首相によるイベント自粛や一斉休校の要請に対する人々の反応〉に対して
〈人間はだれしも『普通』から逸脱し、異常扱いされるのはいやです。こうして、権力から強く促されなくても、自分で自分を無意識に統制するようになります〉
〈気をつけるべきは、対応策がエスカレートすることです〉

新型コロナをこわがるのはいいが、それで、慌てふためいて、権力の肥大をこわがることを忘れてはいけない。新型コロナ感染流行はすぐに過ぎ去るが、肥大した権力には、それを維持しようという力がはたらく。