東京大学大学院情報学環・学際情報学府の特任准教授が、「弊社 Daisy では中国人は採用しません」「中国人のパフォーマンス低いので営利企業じゃ使えないっすね」とツイッターした。だれかに、なにか、カっとくることがあって、つい、書いてしまったのかもしれない。
しかし、批判が殺到したときの、弁解が良くない。ただただ謝れば良いのに、つぎのようにいってしまった。
「俺にはもともと中国人への差別意識はなく(中略)AIの分析により得られた『区別』であって、差別じゃない」
「そもそも中国人って時点で面接に呼びません。書類で落とします」
「人物属性を考慮に入れることが不当なのであれば、企業の書類選考はすべて不当ということになります」
「資本主義の文脈において、パフォーマンスの低い労働者は差別されてしかるべきです」
「不当な『数のテロリズム』に屈するつもりはありません」
今回の件で、いま、東京大学大学院に「情報学環・学際情報学府」というものがあるのを知った。特任教授だけでなく、「特任准教授」があるのを知った。本人は、起業もしており、大学に認められているかのような態度をとっているが、文部科学省の企業からお金をもらって講座を開けという圧力に大学が屈したか、あるいは利用したかで、非正規に彼を雇っただけのことである。
どうも、本人はパニクっているようだ。しかし、背景に、AI、AIというおだての中で、ちょっと、常軌を逸しているところがあると思う。
私に学生時代には、コンピューターサイエンスという学科もなかった。計算科学の高橋先生と演算素子(パラメトロン)の後藤先生が、物理教室の片隅で研究していた。自分の教え子に就職先を見つけようと、必死に政府や産業界にコンピュータサイエンスの重要性を訴えていた。日本で、最初の「AI」推進運動が出てきたのはこのときで、産業界を動かすまではいかなかった。
次の世代では、コンピュータサイエンスという学科が既にできていて、自分が優秀だと思いこむ学生が出てくるようになった。マイクロソフトやアップルなどの起業の成功神話が生まれた。米国から、リスプやエクスパートシステムやニューラルネットワークなどの「AI」が日本に上陸した。
今回の特任准教授は、第2世代の教え子である、第3世代である。コンピュータサイエンスが広く認知され、新しく、「情報」と冠(かんむり)をつけた学部、学科があちこちにできていた。しかし、その認知はレッテル貼りのレベルで、「AI」も、何にもかもに「AI」の冠をつけている。しかも、「AI」というのは、もともと、それほど深遠な学問でもない。
この中で起きた事件だから、「炎上」するのも やむをえないだろう。
彼の発言はどうも、ニューラルネットワークの後継者ディープラーニングに携わっていることと関係するように思える。「AI」の本質は、自動的学習で統計的判断を下すことにある。統計的判断とは、間違っていても良いとする考え方である。
「中国人のパフォーマンス低い」という発言には、2つの問題点がある。
第1は「パフォーマンスが高い中国人」を「パフォーマンスが低い」としてしまう誤りである。これは「AI」による判断が本質的に含む欠陥であり、個人の人権がかかわる事柄に「AI」を使ってはならないのだ。
第2は「パフォーマンスが低い」人間を虫けらのように思っていることだ。それが「資本主義の文脈において、パフォーマンスの低い労働者は差別されてしかるべき」という発言にあらわれている。「AI」の会社を経営して、少し、人間性が劣化してきたのだろう。あるいは、それ以前に、大学に入るために、頭が悪いのに受験勉強して、脳を傷めたのかもしれない。
現在の経済体制が「資本主義」といっても、人権を踏みにじって良いとはならない。政治体制としては、現在、日本は民主主義をかかげている。
この件で、同じ情報学環の明戸隆浩が、問題発言をした特任准教授を批判しているのを見つけて、いま、私は一安心している。
しかし、特任准教授の「そもそも中国人って時点で面接に呼びません。書類で落とします」のツイートが、460件リツイートされ、385件の「いいね」がついているのだから、ここしばらく、いろいろな人から批判されて、多少とも、悪かったかな、という気持ちが特任準教授だけでなく、その支持者に広がってくれれば よいと思う。