猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「中国人のパフォーマンス低い」のAI特任准教授

2019-11-30 22:17:09 | 社会時評

東京大学大学院情報学環・学際情報学府の特任准教授が、「弊社 Daisy では中国人は採用しません」「中国人のパフォーマンス低いので営利企業じゃ使えないっすね」とツイッターした。だれかに、なにか、カっとくることがあって、つい、書いてしまったのかもしれない。

しかし、批判が殺到したときの、弁解が良くない。ただただ謝れば良いのに、つぎのようにいってしまった。

「俺にはもともと中国人への差別意識はなく(中略)AIの分析により得られた『区別』であって、差別じゃない」
「そもそも中国人って時点で面接に呼びません。書類で落とします」
「人物属性を考慮に入れることが不当なのであれば、企業の書類選考はすべて不当ということになります」
「資本主義の文脈において、パフォーマンスの低い労働者は差別されてしかるべきです」
「不当な『数のテロリズム』に屈するつもりはありません」

今回の件で、いま、東京大学大学院に「情報学環・学際情報学府」というものがあるのを知った。特任教授だけでなく、「特任准教授」があるのを知った。本人は、起業もしており、大学に認められているかのような態度をとっているが、文部科学省の企業からお金をもらって講座を開けという圧力に大学が屈したか、あるいは利用したかで、非正規に彼を雇っただけのことである。

どうも、本人はパニクっているようだ。しかし、背景に、AI、AIというおだての中で、ちょっと、常軌を逸しているところがあると思う。

私に学生時代には、コンピューターサイエンスという学科もなかった。計算科学の高橋先生と演算素子(パラメトロン)の後藤先生が、物理教室の片隅で研究していた。自分の教え子に就職先を見つけようと、必死に政府や産業界にコンピュータサイエンスの重要性を訴えていた。日本で、最初の「AI」推進運動が出てきたのはこのときで、産業界を動かすまではいかなかった。

次の世代では、コンピュータサイエンスという学科が既にできていて、自分が優秀だと思いこむ学生が出てくるようになった。マイクロソフトやアップルなどの起業の成功神話が生まれた。米国から、リスプやエクスパートシステムやニューラルネットワークなどの「AI」が日本に上陸した。

今回の特任准教授は、第2世代の教え子である、第3世代である。コンピュータサイエンスが広く認知され、新しく、「情報」と冠(かんむり)をつけた学部、学科があちこちにできていた。しかし、その認知はレッテル貼りのレベルで、「AI」も、何にもかもに「AI」の冠をつけている。しかも、「AI」というのは、もともと、それほど深遠な学問でもない。

この中で起きた事件だから、「炎上」するのも やむをえないだろう。

彼の発言はどうも、ニューラルネットワークの後継者ディープラーニングに携わっていることと関係するように思える。「AI」の本質は、自動的学習で統計的判断を下すことにある。統計的判断とは、間違っていても良いとする考え方である。

「中国人のパフォーマンス低い」という発言には、2つの問題点がある。

第1は「パフォーマンスが高い中国人」を「パフォーマンスが低い」としてしまう誤りである。これは「AI」による判断が本質的に含む欠陥であり、個人の人権がかかわる事柄に「AI」を使ってはならないのだ。

第2は「パフォーマンスが低い」人間を虫けらのように思っていることだ。それが「資本主義の文脈において、パフォーマンスの低い労働者は差別されてしかるべき」という発言にあらわれている。「AI」の会社を経営して、少し、人間性が劣化してきたのだろう。あるいは、それ以前に、大学に入るために、頭が悪いのに受験勉強して、脳を傷めたのかもしれない。

現在の経済体制が「資本主義」といっても、人権を踏みにじって良いとはならない。政治体制としては、現在、日本は民主主義をかかげている。

この件で、同じ情報学環の明戸隆浩が、問題発言をした特任准教授を批判しているのを見つけて、いま、私は一安心している。

しかし、特任准教授の「そもそも中国人って時点で面接に呼びません。書類で落とします」のツイートが、460件リツイートされ、385件の「いいね」がついているのだから、ここしばらく、いろいろな人から批判されて、多少とも、悪かったかな、という気持ちが特任準教授だけでなく、その支持者に広がってくれれば よいと思う。

私の愛すべき子どもたち、芸術家の卵たち

2019-11-28 22:04:52 | 愛すべき子どもたち


企業が著作権を盾に自分の買った知的財産を守ろうとすると、著作権侵害者のほうに味方したくなる。コピーしたって いいじゃないか。

しかし、作家が作品でお金持ちになるのは、夢がある。子どもたちが小説家や絵本作家やデザイナーや漫画家になって、食べていけたらと、親と共に、つい夢みてしまう。

学校の一律のお勉強でなぜ食べて行けるのか、こっちもありえない夢でないか。役人に人類に必要な知識を規定できる能力なんてあるのだろうか。日本では、教科書検定もあり、大学入試にまで役人が口出す。

役人のつくった既定の路線からはずれた子どもたちをNPOで相手していると、作業所などの福祉の枠組みを超えて、子どもたちが活躍する未来を、ついつい、夢みてしまう。

私の担当した子どもたち、もう、十分に大きくなっているのだが、小説を書いてみたり、自分の悩みを書きつづったり、ポエムを書いたり、イラストを描き続けたりしているアーティストの卵たちがいっぱいいる。

彼らも、水玉模様のアーティスト草間彌生(くさま やよい)のように認められ、お金持ちになれたら、どんなに自分の誇りを回復し、どんなに幸せになるだろう。

小説家志望の子は進学への圧力で落ち込んでいる。プロットやキャラクターが次々と思い浮かぶのだが、1,2ページ書いたところで行き詰まってしまう。まだまだ語彙が少ないし、エピソードとなる体験も足りない。これからも、あきらめないで、続けてほしい。

定期的に深いうつに落ち込み、動けない子も、自分の悩み、苦しみをずっと書きつづっている。本当ことだから、誰にも見せることができない。フィクションとして書くことを勧めているのだが、フィクションとして書くことができない。今年、20歳になる。

絵を描き続けている30過ぎの子もいる。とても、素直な子だ。独特の素朴な味がある。先日、南町田の新装開店したモールで、障害者たちの個展が開かれた。親がスマホで取った動画を見せてくれたが、手描きなので、私のところで描いているパソコン画よりずっと繊細なタッチの絵になっている。絵が売れてほしい。

パソコンを自由に使いこなして絵の作品を作っている女の子もいる。特例子会社で働いているのだが何か幸せでない。自分の思っている人生でないのだろう。この子も何か素晴らしいものを秘めている。親の応援もあってパラアートに応募している。色合いや形の把握に素晴らしいものがある。服飾の布地のデザインにも向いている。本人は漫画家になりたいと言っている。ネットでその子の連載が始まるらしい。

人生は、ほとんどの人にとって、ままならぬものだ。しかし、夢を追いつづけているかぎり、人は生きつづけられる。

共同体とはなにか、カウツキーの『中世の共産主義』

2019-11-27 22:10:50 | 民主主義、共産主義、社会主義

田川建三は『キリスト教思想への招待』(勁草書房)で、初期キリスト教徒が共同体生活を送っていなかったという。ただ、病人や貧民を助ける活動はしていたという。これは、たんに共同体とか何かの田川建三の定義が、ちょっと私と違っているから、だと思う。

助けあいの精神「隣人愛」があれば、共同体と呼んでもいいのではないか。

カール・カウツキーは、『中世の共産主義』(法政大学出版局)で、共同体運動は昔からたくさんあったという。ただ、それを持続するのがむずかしいという。

カウツキーは、共同体を富の共有と考える。共同体運動は、支配階級からみれば自分たちの地位を壊す危険な運動と見える。キリスト教には昔から共同体願望があったが、教会の権力者からは共同体思想は異端とみなされ、弾圧された。また、共同体運動が成功しても、経済的に豊かになると、その富を独り占めしたいと思う人が内部にあらわれ、自然と崩壊した。

カウツキーは、共同体運動を共産主義運動のさきがけ(Vorläufer)と考える。昔の共同体運動のかけているものは、政治性の欠如とみる。彼は、また、生産手段の共有の欠如も違いとして挙げる。しかし、修道院活動、初期のツンフト(Die Zunft)ではささやかな生産手段だが、その共有もあったともいえるのではないか。

私は、たがいに競争しない、たがいに分けあう、たがいに助け合うなら、共同体と考えていいのではないかと思う。

カウツキーのいう「政治性の欠如」は、階級闘争までいかないことのようだが、たがいに競争しない、たがいに分けあう、たがいに助け合うだけの共同体運動もあっていいのではないか。権力志向がなければ、閉鎖的であっても、社会に実害がないと思う。

私の妻は、近くの友達から手作りの草もち、ピザ、チーズケーキなどを絶えずもらっている。私もいっしょに食べさせてもらっている。食べ物を分け合う、これでいいのではないか。私たちは集合住宅の住人である。

横浜市のなし崩し的カジノ誘致に反対、市民の意志を問え

2019-11-26 21:58:23 | カジノ反対


カジノ誘致に反対の横浜市民が多いのに、横浜市は市民の意志を直接問うことなく、市議会議員だけの支持でカジノ設置を進めようとしている。

今年の9月28、29の両日、朝日新聞社が行った横浜市民の世論調査では、カジノを含む統合型リゾート(IR)誘致の反対が64%で、賛成の26%を大きく上回った。

問題は、公明党にある。公明党は住民の福祉を唱えながら、横浜市民の意志を問わず、菅義偉や安倍晋三の進めるカジノ推進を容認している。公明党と自民党とで横浜市の議会が握られている。林文子市長は市民の意志を問わないと言う。

市民が「カジノ事業」に反対するのは、カジノが社会的モラルを崩壊させるものであるからだ。(1)ギャンブル依存症の増加、(2)暴力団など犯罪組織の参入、(3)政治家や役人の利権の拡大である。

最近、朝日新聞の横浜版で、「カジノ事業」を含む統合型リゾートを誘致して、経済的メリットがあるかについて、否定的分析を日本総合研の藻谷浩介が語っていた。全国版ではないので、ネットでそれを紹介したい。

まず、統合型リゾート(IR)にカジノを入れること自体がおかしいと指摘する。

アメリカでは、全国に支社をもつ会社は、1年に数回、全国の社員を集めてコンベンションを開き、売上優秀者などを表彰する。コンベンションの施設に、カジノが必要なわけではない。アメリカでもっともコンベンションの集客しているフロリダには、カジノ施設はないと言う。

外資系にいた私の体験からも、コンベンション会場にはカジノ施設はないのが普通だ。アメリカ人の普通の市民感覚は、カジノと対立するからだ。逆に、カジノでは集客できないから、ラスベガスは、コンベンション会場や劇場を設けたりする。

その上で、横浜市の試算する「訪問者数が最大で年4千万人」は ありえない数であると藻谷は言う。日本で大成功の東京ディズニーランドでも 2施設合わせて年3千万人である。横浜市が試算するほどの人数を山下ふ頭に運ぶインフラがないと言う。

さらに、シンガポールのマリーナベイ・サンズのような統合型リゾートをつくるほどの土地が山下ふ頭にないと言う。

さらに さらに、マリーナベイ・サンズの成功は、犯罪組織にかかわる中国人客がマネーロンダリング(資金洗浄)に利用したからで、中国政府の規制が厳しくなった現在は、儲かっていないと言う。

外国人客が期待できないとなると、カジノ業者は、パチンコ業界と日本人客を奪い合うことになる。

すなわち、現実離れした試算にもとづいて経済効果を試算している。
横浜市に際限のないインフラ整備への投資と維持費用が求められるリスクを冒していると藻谷は言う。

町のパチンコ店はすでに苦しい経営に陥っている。パチンコ店の破産は町の経済に負の連鎖を生むだろう。

建設業界、土木業界が横浜市民の税金をむさぼるために、カジノ誘致が進められているのではないか。横浜市民の意志を問うために、住民投票を行うべきである。

靴を取り上げられたセールスマンの映画『ビッグ・フィッシュ』

2019-11-25 22:37:54 | 映画のなかの思想

『ビッグ・フィッシュ』(Big Fish)は、ティム・バートン監督による2003年のアメリカ映画である。

不倫していたのではと父を疑っていた息子が、死にいく父をふたたび信頼するという物語だ。

父親が浮気をして離婚となると、子どもは非常に傷つく。NPOで私の担当の子どもにも、そういう子がいる。今年20歳になったが、まだ傷ついている。自分が父の浮気に気づいて、母親に告げ口をしたから離婚になったと思い込んでいる。自分を責めるだけでなく、セックスをとても不潔でいやらしいものように思うようになっている。

この映画の場合は、父と母は離婚していないので、息子が傷つくまではいっていないと思う。

映画での父は、息子と母を家に残して、町から町へと旅するセールスマンであった。子どものときの息子は、帰ってきた父の冒険談をワクワクしながら聞いていた。大人になった息子は、父の冒険談はみんなウソだと思うようになる。そればかりか、父は浮気をしていて家に帰ってこなかったのではと疑い出す。

映画は、父が死にかけているとの母からの連絡で、両親のもとに戻り、父の最後に立ち合い、埋葬するまでの息子を追う。

そのあいだに、とてつもなく大きい巨人とかシャム双生児の娘とか大学時代や朝鮮戦争やサーカスでの活躍とか、父のいろいろな冒険談の思い出がつぎつぎと挟まれる。その中で、一番だいじなのは、森の奥に秘密の町を発見する話だ。

森の中の大きな人食いクモから逃げると、突然、目の前が開ける。明るい陽の光のもとに町が開ける。町の入り口には、たくさんの靴がぶら下げてある。
町の名はスペクター(Spectre)という。
町のみんなは、父を歓迎して、お祭りをしてくれる。町長の幼い娘は、父に町に残ってくれるよう、靴を取り上げる。町のみんなは裸足なのだ。

YouTubeには、靴のぶら下がった町スペクターの撮影現場の跡の動画が多数投稿されている。それほど印象深いシーンなのだ。

これは、思いもかけないところで、隠れたコミュニティを偶然発見したときの喜びなのだ。私も町を放浪する趣味がある。昨年、思いもかけないところに、小さいがにぎやかな商店街を見つけた。人びとがつどっていた。もう一度訪れようと思うが、道順が思い出されない。

映画では、結局、父は町スペクターから裸足で逃げ出した。

父の冒険談には、大きくなった町長の娘と偶然再会するという、続きがある。自動車でセールスの旅に出たとき、ひどい雨にあい、気づいたら、車ごとの湖の底だった。雨があがったら、すぐそばに大人になった娘の家を発見する。

ここで父の冒険談が終わるので、息子が父の不倫を疑ったのである。両親のもとに戻った息子は、父の所有物を整理しているとき、偶然古い証書を見つけ、そこに名前の記された女性ジェニファーに会いに行く。荒れ果てた家に1人で住むジェニファーから父の冒険談の続きを聞いた。父は、大恐慌で荒れ果てた町、スペクターを再建しようとがんばる。証書はそのときのものである。

この話をジェニファーから聞いたことを転機に、息子は父を信頼する。そして、病院から逃げ出した父が、巨大ナマズに変身し湖を泳ぐ作り話を、息子は死にいく父に聞かす。

墓に埋葬する日に集まった父の友人たちが、父の冒険談にでてきた人たちにそっくりなのに、息子がこころよい幸福感を感じるところで映画は終わる。父は大げさだったが、嘘つきではなかった。家族をだましていない。
アメリカの美しい田園風景がふんだんに見られる懐かしい映画である。