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猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

子どもがドラえもんを見ることを禁ずる親がいた

2025-03-08 20:25:18 | 教育を考える

80歳まで働くつもりだったが、今年の2月半ばで、体調不良のため、NPOの放デイでの仕事を中断している。

1日だけ休むつもりだったつもりが、寝ているとどっと疲れがでた。立ち上がれなくなった。自力でトイレに行けなくなった。妻が手伝ってくれたが、立ち上がれなかった。オムツをされた。それ以来、NPOの仕事を休んでいる。

これまで、NPOでいろいろな子どもを担当したが、親もいろいろである。

子どもがテレビのアニメを見ることを一切禁じる母親がいた。夕方からの「ドラえもん」も「ちびまる子」も「クレヨンしんちゃん」も見てはだめなのだ。

母親に理由を聞くと、いじめの場面があるからだと言う。ジャイアントは暴力的で、スネ夫はズルくて意地悪だと言う。

私はだからこそ見せた方が良いと思う。人間社会は決して善意に満ちていない。いじめにも遭う。子どもは悪意から身を守ることを学んでいかなければならない。作者の藤子・F・不二雄の子ども時代の実体験が、勉強も運動もだめなのび太を通して、再現されていると思う。

公文の読解問題をいくら解いても人間社会を生きる手ほどきを得られない。

私自身ものび太のように気の弱いタイプで、子どもの親に意見するのが苦手である。時間がかかったが、なんとか通じて、いまは禁じられていない。子どもは二十歳をすぎていた。

残念ながら、作者の藤子・F・不二雄も死んで、テレビのドラえもんがつまらなくなった。脚本家は毒のある人間社会を物語に反映していない。ドラえもんのお腹の袋から出てくる道具に焦点があたって、後は良い子たちの物語になってしまっている。子どもには、弱い人間が生きていくすべを学ぶ手引きが必要である。それをソーシャルスキルと言う。


ダメなことを叱るのではなく、よい行動を褒める奥田健次 朝日新聞

2024-08-25 01:27:17 | 教育を考える

けさの朝日新聞『be』に、「ダメなことを叱るのではなく、よい行動を褒める」教育を唱える奥田健次の紹介が載っていた。

奥田健次は言う。

「『正しいこと』ことを言うといつも殴られた。5歳から継父から殴られ、教師からは『出て行け』。同級生からもいじめられた。」

すさまじい人生である。彼は虐待を受けていた。よく心がゆがまなかったと感心する。

私が親に叱られたことがあったか、この歳になると、よく覚えていない。叱ることが教育上必要なのかどうかを私は疑っている。

私は幼稚園に行っていない。私がたぶん叱られたのは、小学校に行く寸前に、親が近所の男の子たちに私を紹介した、その日ぐらいである。

その日、子どもたちだけで遊んだ後、斜め向かいの町内会会長の子が、子どもたちを近所の瀬戸物屋の前に連れて行き、石を投げ入れた。私にとってはじめてのことで、何がなんだかわからずに、立ち尽くした。私を置いて、みんな逃げたのである。瀬戸物屋の主人は私を家に連れて行き、父親に叱られた。なんと言われたか覚えていないが、この世に非常に不当なことがあると感じた。

それ以来、近所の男の子たちと遊ばなくて、よくなった。

小学校に上がると、男の子たちが二手に分かれ、掃除の箒やはたきやバケツをもって、毎朝、先生が教室に来るまで、喧嘩をした。その一方のガキ大将が町内会会長の子だった。

私はその喧嘩に参加しなかった。私は暴力が嫌いだ。私が大人しいから、いつも女の子から遊びに誘われた。小学校高学年になるまで、友達はすべて女の子であった。

いまどきの女の子は、暴力をふるうのだろうか。

私は教師から叱れた記憶もほとんどない。

私は、中学2年のとき、教室の子たちを扇動して、年老いた女の教師の国語の授業を集団で抜け出した。そのことで、教室担任に叱られた。じつは、本当に扇動したかどうか、記憶が定かではないが、私は扇動したと教室担任に申し出た。扇動することがカッコいいと思っていたのである。女の教師に気の毒なことをした、と今は思っている。高校にはいったとき、祝いに彼女から古文の参考書を贈られた。私は彼女に好かれていたのだ。

高校にはいってからも教師に対する私の悪ふざけはつづいた。高校2年のとき、教育実習にきた学生をいじめたと国語教師に叱られた。「いじめ」と言っても暴力をふるったわけではない。質問という形で教える側の権威をからかったつもりだったが、いじめと受けとめられたのだ。もちろん叱られたと言っても、国語教師にいやみを言われただけである。しかし、それ以来、国語という教科は好きではない。

権威に逆らいたくなるのは今も続いている。

人間を含め、生き物は生き方を学習する。たぶん、奥田健次は、効率的な学習指導を提唱しているのであろう。学習を良い方向に導くのに暴力はいらない。暴力に肉体的なもの以外に言葉の暴力がある。叱ったとしても、なぜ叱られたかが伝わらければ意味がない。なぜ叱られたかがわかるには、叱られる側の一定程度の知性が熟していないといけない。褒めるほうが効果的である。

私がNPOで担当してきた「発達障害」の子どもたちの半数は知的に遅れがある。下手に叱るのは、心に歪みを生じさせるだけである。ただ、危険な行為は即座に止めるべきだ。自傷行為は、理屈を述べるよりも、直ちに止めるほうが、愛情が伝わる。もちろん、止めると同時に声掛けがあったほうが、その子に愛情として記憶される。

先日読んだ、アリス・マンローの『ディア・ライフ』(新潮社)に、80年前の教育や子育てのとんでもない暴力描写がでてくる。こんなことは、現在では見られないはずである。

「それからごっこ遊びがあり、誰かが先生になって、さまざまな違反や愚行を理由にほかの子たちの手首を叩き、相手に泣く真似をさせるのだった。」p.331

「母は納屋に行って父にわたしのこと〔口答え〕を言いつけるのだ。すると父は仕事を中断してわたしをベルトで殴らなくてはならない(当時これはごくありふれた懲罰だった)。」p.369

わたしの子ども時代には、日本の敗戦のおかげで、もはや、このような暴力は軍国主義の遺物として否定されていた。現在も指導という暴力があれば、それは犯罪である。叱ることも上から目線の行為で、暴力につながる。


成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』を読む

2024-07-04 20:37:55 | 教育を考える

図書館に5カ月前に予約した本、成田奈緒子の『「発達障害」と間違われる子どもたち』(青春新書)がようやく届き、いま、読む。

彼女は言う。「発達障害」と呼ばれる子どもが、この13年間に10倍に増えている。「発達障害は、脳の発達に関わる生まれ持った機能障害」のことなのに、これは本当なのか、と彼女は言う。「発達障害もどき」ではないだろうか、と言う。

この11年間、NPOで働いている私も、同感である。本当に「いわゆる発達障害」という疾患が存在するのだろうか、とも思う。単なる「政治的」な言葉だと私は考える。

じつは、アメリカ精神医学会(American Psychiatric Association)が出している診断マニュアル5版(DSM-5)のどこにも、「脳の発達に関わる生まれ持った機能障害」とは書いていない。

DSM-5の冒頭につぎのように書かれている。

The nerodevelopmental disorders are a group of conditions with onset in the developmental period.

(神経発達症群とは,発達期に発症する一群の疾患である.医学書院訳)

DSM-5自体は「発症」とか「疾患」とさえ言っていない。“onset”や“conditions”という語を使っている。

人の精神機能は脳の働きであるが、その機能の実現や障害のメカニズムは充分には解明されていず、意見の相違がある。それにもかかわらず、子どもの精神機能の欠陥(deficit)に悩む親は、医療機関に治療を求めてくる。患者団体と医療関係者と医薬品業界と保険業界との間に、お金をめぐって、争いと妥協が生じる。このような背景があるから、慎重な言い回しをアメリカ精神医学会がDSM-5で使うのだ。アメリカ精神医学会が標準の診断マニュアルを作ったのは、かって精神科医が信頼を失いメディアで袋叩きにあったからだ。

「脳の発達障害」の実体としては、「生まれつき」も「生まれつきでない」もあるだろう。問題は、「生まれつきでない」もあるのに、「生まれつき」であると決めてかかる日本社会の誤解にある。それでは、支援によって、症状がなくなるものも、なくならない。

だから、成田は本書で治るものを治しましょう、と言っているのである。彼女が言っている「脳を育てる」は、子どもへのあたりまえの対応である。分子生物学・発生学・解剖学・脳科学を研究してきた彼女がこのようなあたりまえのことを言わねばならないのは、日本社会の劣化ではないかと思う。

彼女が本書で対象にしているのは、貧困層の子どもではない。共稼ぎで、十分な教育を受けているはずの両親の子どもである。しかし、「あたりまえ」のことが「あたりまえ」でないのだ。すると、日本の「教育」というものを疑わないといけない。無理をして「知識」を詰め込み、子どもを受験体制に組み込んでいく日本の教育に問題がある。

どんな地方に行っても学習塾があるのは おかしくないか。

彼女は本書で、子どもは10時間寝るのが良い、と言っている。私も高校2年まで10時間寝ていた。夜9時に寝て朝7時に起きていた。小学校のときは、かまどの火を起こし、ご飯を炊くの手伝っていた。高校3年になって、はじめて、朝6時に起きて受験勉強を1時間した。

何時間も受験勉強をしなければならないというのは神話である。人間は何時間も意味のないことを続けることはできない。小学校、中学校、高校も楽しかったが、受験勉強を1時間に限定した私には、興味あることをいくらでも学べる大学は本当に楽しいものだった。いつも、教室の最前列にいて質問していた。

あたりまえの生活をすすめる彼女の本は おすすめである。ぜひ、読んで欲しい。

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子どもの理科実験レポートで苦悶した私

2024-07-02 20:42:53 | 教育を考える

放課後デイサービスで私の担当する子どもに、理科が好きな中3の男の子がいる。どうして理科が好きなのかと聞くと実験が面白いと言う。

私には中学時代に実験をやった記憶がない。化学は覚えることが多くて好きでなかった。リトマス試験紙の色が酸性アルカリ性でどう変わるのかも、すっかり忘れてしまった。

理科が好きな彼は、2週間前から私に実験のレポートの書き方をしつこく聞いてくる。銅と亜鉛とのイオン化傾向の違いを調べる実験のレポートだ。

学校から配られたプリントに、実験に先立って自分の仮説を立て書く欄とその根拠を書く欄とがある。銅と亜鉛のどちらがイオン化傾向が大きいかを、中学生が根拠を示して予測できると思えない。大学生にも難しいと私は思う。

私は非常に困った。実験とは予測できないから実験するのではないか。実験で大事なのは、結果の予測ではなく何を知りたいかではないか。そのための実験の設計が大事なのではないか。

すると、この仮説は、どちらがイオン化傾向が大きいかでなく、実験では、どういう現象を期待しているのか、ではないか、と思い、そう説明した。

実験は,硫酸銅の溶液に亜鉛を入れた場合と硫酸亜鉛に銅を入れた場合を比較するようになっている。仮説は、イオン化傾向の大きい金属を入れた場合に反応が起き、入れた金属の表面の変化が観測できる。イオン化傾向の小さい金属を入れた場合には何も反応が起きない。このことなら、仮説とそう予測した理由を述べることができる。

私はそう思ったのだが、きのう、彼が来る前に教科書を丁寧に読んだとき、この実験の期待される仮説を教科書の補充部分に見出した。仮説Aは亜鉛のイオン化傾向が銅のそれより大きい、仮説Bは銅のイオン化傾向が亜鉛のそれより大きい、となっている。仮説Aの根拠は、オリンピックのメダルは銅、銀、金であって亜鉛でない、仮説Bの根拠は、銅でできている10円玉は古くなると黒っぽくなる、というものであった。

この教科書は、実験をゲームのように扱って、子どもたちに結果を予測させることを目的としているのだ。根拠は科学的である必要ではないのだ。子どもたちに理科への関心を起こすには、非科学的な予測も良しとするしかない。自由な発言を認めないといけない。

しかし、教科書にはイオン化傾向の順が書いてある。そうすると、実験のレポートで「仮説」と「根拠」を述べさすことは間違いではないか。レポートに書くべきは実験の「目的」ではないか。実験の「設計のポイント」ではないか。

このイオン化傾向の実験では、銅と亜鉛とを対称に扱っているところが、実験のポイントである。

理科教育はとっても難しい。特に電解質、電池は教えるのが難しいところだ。現在の中学の理科は内容が多すぎる。丁寧に教えるには、内容を絞るべきではないかと思う。

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今の英語教育は昔より改善されている、話せないのは勇気の問題

2024-05-14 17:17:44 | 教育を考える

日曜日の朝日新聞《声》のコーナーに「高校の英語 文法より実用重視を」という高校生の投書があった。外国人観光客に英語で道を聞かれたら咄嗟に英語が口から出なかったが、それは高校の英語教育が悪いという要旨である。

本当かな、というのが私の正直な感想である。

私はバリバリの理系の人間で英語が嫌いであるが、放課後デイサービスでは、子どもの求めに応じて英語も教えている。私が知ったのは、中学も高校も英語の教科書は現在コミュニケーション英語になっていることだ。大学入試もすでに文法重視から実用的な英語になっている。

私は、その高校生が勇気がないから話せなかったのではないか、と疑う。道を聞かれたとわかったのだから、少なくともリスニングの第一歩をクリアできたのだ。だから、答える単語が思いつかなくても、身振り手振りで答えることができたはずである。

カッコいい英語で発音できないと思ったから、口から声がでなかったのではないか。相手の困りごとより、自分の見栄を優先したのではないか。

数年前、不登校の中学生を担当したら、英語の勉強とは単語を覚えることだと彼は思いこんでいた。単語帳で単語を覚えようとしている。いっぽう、私は、英語の勉強は英語の言い回しを覚えることだ、と考える。教科書ぐらいは読んだ方が良い。しかし、単語の知識だけでも、道を教えることができる。

この4月から担当した高校生は、とつぜん、英検5級を受けたいと私に言った。始めてみてわかったのは、英語のスペルはまったく読めず、リーディングは全滅だということだ。それにもかかわらず、彼は大声で英語を読み上げようとするので希望が持てる。

私が感心するのは、彼がリスニングができることである。彼は、重要な単語をいくつか聞き取ることができ、文法は分からなくても、言っている内容を推察することができることだ。過去問の9割がたを正解する。できなかったものの1つは、絵を見て、コーヒーカップとスプーンとの位置関係を正しく言っている文(もちろん音声)の番号を選択する問題だった。答えは、“A spoon is by a cup.”である。前置詞によって意味が違ってくることを知っているかを問うているのだ。

英語には、ラテン語やギリシア語と比べて、文法らしい文法はない。前置詞の使い分けは、文法ではなく、言い回しの問題である。私がカナダにいたとき、きっすいのカナダ人のなかに、移民や外国人学生の英語をバカにする人がいた。発音やアクセントでない。前置詞の使い方で、ネイティブかネイティブでないがすぐわかると私に言う。彼にとって、私などの英語は、きっと、助詞がない、あるいは、助詞が間違っている日本語を聞いているようなものなのだろう。

だから、高校で言い回しを勉強することは、良いジョッブを獲得するために無駄ではない。しかし、それは文法ではない。理屈で正しい使い方が分かるものではない。

話す英語は、まず、勇気をもって声を出すこと。それを誰かのせいにするのは、いただけでない。