猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

「ほめて育てる」親は不適切?

2024-03-31 19:43:00 | 育児

きのうの朝日新聞〈多事奏論〉に『「ほめて育てる」親は不適切?』という「くらし報道部科学みらい部次長」の岡崎明子の記事がのった。彼女は「ほめて育てるは不適切」と主張する。

彼女は「私が育った昭和は、体罰上等、セクハラ夜露死苦、喫煙なめんなよの世界だった」と言う。育った時代が違うのか、育った階級が違うのか、私は昭和をそうだと思わない。

ベビーブーム世代の私が育った昭和は、まだ、戦後民主主義が生き残っていた。しかし、日本社会は1980年前後で、大きく右傾化した、と私は考える。「道徳」とか「武道」とか「国家」とが日本の教育に定着したのはその頃ではないか、と思う。

彼女は宮藤官九郎と生年月日は1日違いと言うから53歳である。彼女や彼は、「日本ナンバーワン」のもとに右傾化した日本社会のなかで、自我を成長させたのであろう。右傾化することがカッコいいと誤解したことは充分考えられる。

彼女は、TBSドラマ『不適切にもほどがある!』の初回のシーン、「ゆとり世代の社員が『期待しているよ』とZ世代の後輩をほめたら『ハラスメントだ』と訴えられた」のが印象的だという。まず、「期待している」がほめ言葉かどうか、わからない。結果が出てない人にいうのだから、「期待している」はそれ以上でもそれ以下でもない。プレッシャーをかけていると後輩が感じたのではないか。コメディーの脚本は登場人物が大げさに反応することで成立する。クドカンは受けを狙ってそうしただけだと思う。

「ほめる」は結果についての他者の反応である。他者が結果を評価しないで「ほめる」なら、ウソをついていることになる。結果を出した主体を他者が「ほめる」ことは正常な行為である。岡崎はいじけているのではないか。

私の勤めているNPOに、無理をしてほめる英語教師がいた。私はわざとらしい行為と思ったが、英語教育でそれなりの効果をあげていた。この場合、結果でなく、結果を出そうとする主体の努力をほめていたのだ、と思う。残念ながら彼女は白血病で若くして死んだので、確認していない。

「ほめる」のに根拠があれば、「ほめられた」子の「自己肯定感」を育むと私は思う。

岡崎は「ほめて育てたいという考えの裏には、『子供に嫌われたくないという親自身の自己愛も潜んでいるのではないか』と言う。そういう親もいるかもしれないが、一般的ではない。それは裕福な中流家庭に固有の問題ではないか。

やはり、「叱る」よりも「ほめれる」親になるよう助言するほうが「適切」だと思う。

岡崎が「小学生の娘の宿題の〇をつけ」たときの失敗談を述べていたが、朝日新聞の次長たる知識人が娘の宿題を手助けするなんて「不適切にもほどがある」と思ってしまう。宿題なんて本人がするものだ。本人がしたくなければしなければ良い。

私自身は学校の宿題なんてしたことがないし、私の親も手伝うなんてこれっぽちも思っていなかった。塾もない時代である。

親子が家庭で時間を費やすべきなのはコミュニケーションであって、庶民が味わってきた本当の歴史と生きていく知恵とを語り伝えていくことである。


福岡の事件「人ごとと思えない」、発達障害と家庭内暴力はべつ次元の問題

2022-07-28 00:02:37 | 育児

きょうの朝日新聞夕刊に『発達障害の子を持つ悩み 相談を』という記事が載った。「発達障害」の子をもった親が、どのようにその子を育てたらよいかを専門家に相談すること自体は、適切なアドバイスである。しかし、この記事は、「発達障害」の子が家庭内暴力を振るようになるという誤解を生むような書き方なので、私としては不満である。

その記事の副題は『福岡の事件「人ごとと思えない」』である。「福岡の事件」とは、「発達障害」の子どもを矯正施設に監禁して暴力を振るっていたことである。その法人の理事長らは、「暴力によって子どもの問題行動を改善できる」というセミナーを開いて、矯正施設に有料で子どもを預ける親を勧誘していた。

「発達障害」と「家庭内暴力」とはまったく別の次元の問題である。「発達障害」の子は社会に適合していくのに不利な特性を生まれつき持っており、親はその子を社会のいじめから守って育てる必要がある。うまく育てれば、親子の愛は普通の親子より強く、幸せな人生を送れる。私はそのお手伝いをNPOで行ってきて、幸せな家庭をいくつも見てきている。

「家庭内暴力」は親子間のコミュニケーションの失敗から生まれる。発達障害の子どもでなくても「家庭内暴力」が生まれる。本来、親のほうが人生経験があるのだから、親子間のコミュニケーションに関しては、親のほうが気をつけていただけたらと願う。いったん壊れた親子関係の修復はとても大変である。大変でも修復できる。ひどくなる前に、私でなくても、誰かに相談していただければと思う。

記事では、<長男(3歳)は2歳になってすぐに「自閉症スペクトラム」と診断された。遊びを切り上げたり、風呂に入らせようとしたり、気にいらないことをさせると悲鳴のような声で泣き叫ぶ。ひどいときは、硬い部分を選んで頭を打ち付け続ける。やめさせようと抱きかかえると体をそらせて暴れる。騒ぎを聞いた近所から通報されないか、ひやひやしながら暮らす。>

「自閉スペクトラム症」と呼ぶのが通常だと思うが、長男が親に反抗することと、「自閉スペクトラム症」と無関係である。2、3歳に子どもが親に反抗する。いわゆる「いやいや病」である。つよく反抗しているだけで、私もそういう子であったらしく、べつに異常なことではない。「遊びを切り上げ」させることは本当に必要なことなのか。母親は自分の幼児を自分の思うままに動かせるということを、この反抗期にはいったとき、スパーと諦めるべきである。諦めることが、子どもを人間として尊重することなのだ。

2005年に発達障害者支援法が成立し、翌年に施行された。法に基づき、2,3歳のころと、小学校入学直前に、発達障害の集団検診が行われるようになった。国は、集団検診だけをおこなって、後は知らないというわけにはいかない。制度上は、療育センターが子育てを指導を行うはずであった。10年前、発達障害と認定された親子は、ほぼ毎日、保育所の代わりに療育センターに通って子育ての仕方を学習できた。

幼児が親に反抗したとき、子どもの特性に応じて、どのような対応したらよいのか、療育センターで、子どもと遊びながら、学ぶのである。「発達障害」と言っても、子どもの特性はそれぞれ違うから、自分の子の特性に応じた対応の仕方を発見するのである。そして、さらにだいじなのは、親のお願いが何であるかを、反抗される前に、子どもに理解してもらうコミュニケーションの技術を学ぶのである。

現在は、発達障害と認定される子が多すぎて、そのような丁寧な指導を療育センターで行っていないようである。これは、福祉の問題であるから、子育ての丁寧な指導を国に求める権利が親にある。

学童期の子どもには、学校での支援に加え、放課後デイサービス(通称「放デイサービス」)がある。放課後、発達障害の子どもを預かって、心の成長を民間の法人が助けるという制度である。利用者の費用は親の収入に応じてきまり、地方自治体がサービスを行う法人に足りない経費を補填する。私のいるNPOでも放デイサービスを行っている。

記者には、発達障害者支援法がその法の目的に沿って施行されているかを、困っている保護者にインタビューして調査して欲しい。法の実施者は地方自治体であり、地方による格差が大きい。また、実際に現場で活動しているのは民間、または、半民間の法人である。法人による格差もあろう。また、どのような法的制度があるのか、知らない親も多く、福岡の事件のように、発達障害児を食いものにするビジネスに騙されてしまう。

子どもに暴力をふるって良いはずがない。子どもの気持ちは尊重すべきである。子どもの特性に合わせて、親子のコミュニケーションをとる技術を身につけて欲しい。

☆☆ 中川信子からのメッセージ ☆☆

「自分の子がほかの子と違っているのは、個性なんです。自分の子がどんな大人になるか、神様からもらった球根だと思って、どんな花が咲くか、楽しみにして、毎日毎日世話をしてください」(2015年 シンポジウム『よくわかる発達障害』の講演から)


朝日新聞「保育園 数は増えたが」に加える言葉、何のために保育園に行かすのか

2022-06-16 22:50:00 | 育児

「こども家庭庁」の設置法案が、きのう6月15日に参院で可決され、成立した。早速、けさの朝日新聞の30面(社会)に「新設 こども家庭長の課題は」と、『保育園 数は増えたが』の見出しで「トイレ閉じ込め・・・娘の心に傷」という事件の報告がのった。

2019年の春、当時3歳の女の子が保育園の保育士に「外から鍵のかかるトイレに閉じこめられ」「電気も消され真っ黒闇の中、1時間30分、ずっとひとりぽっちだった」事件である。泣きながら訴える子を抱きしめて、母親は「行かなくてもいいよ」と言った。園側から謝罪があったが、なぜ、そういうことが園で起きたのかの説明がないという。ほかの職員もそれを見ていたが止めなかったという。トイレに閉じこめた保育士は、子どもたちにささいなことで制裁を加えていたという。

その女の子は嘔吐、震えのPTSDになり、今でもフラッシュバックが起きるという。

聞いているだけで、とても腹がたつ話だが、東京の認可保育園でのことである。その女の子がいたクラスは、18人の子どもたちを非常勤を含めて2人の保育士で対処していた。

保育士による子どものネグレクトや虐待はここだけのことではない。

子どもを育てるのはとても大変な仕事である。優秀な人だけが保育士になるわけではない。保育士の給料は専門職として高いわけではない。福祉に関する職場の給料は一般に低い。施設開設・維持の費用は人件費を圧迫するほどかかる。

女性に賃金労働者になれと、安倍政権以来、声高に呼びかける。保育園でのネグレクトや虐待を防ぐためには、保育士の数を増やし、しかも小学校教師並みの給料を払う以外に、解決の道はないようにも見える。が、子どもを保育園に預ける賃金労働者のほとんどは非常に安い時間給で外で働いているのだ。高い保育費なんて一般の女性が払えるはずはない。子ども1人に保育士1人の体制はどだい無理だと思う。

しかし、子どもを外に預けるまでして、外に働きに行く価値があるのだろうか。私は、保育園も幼稚園も体験していない。私は、家でミシンを踏みカーテンや家具のカバーを縫う母の足もとで育った。私は、いまなお集団生活も集団教育も感覚的に嫌いである。

確かに、外で働きたいという人の存在も認める。しかし、集団生活や集団教育で、人に愛される心、人を愛する心が育つだろうか。現状では、かなり難しいと思う。政府としては優秀な人材を保育施設に集めるしかないが、政府の本音は安い賃金労働者を確保することにあるので、政策に矛盾が生じざるを得ない。

女性に限定されず、子育てはだいじである。とくに幼い子供の子育てはだいじである。子育てを外に委託することに私は不安を感じる。

まず、原則からはじめよう。外から賃金をもらわないと、女性の人権が認められないというのはオカシイ。

家で働いて稼ぐという手もあるだろう。会社に出勤しなくても家でリモートで働くという手もある。

あるいは、出勤しても、そばに子どもをおいて働くという形もある。

しかし、職場によっては、リモートも子ども同伴もだめなところもある。そのときに保育園が必要となるだろう。子どもに対して保育士の数が多いほど良いだろう。しかし、利用者が高い保育費を払えるだろうか。女性が賃金労働者になる理由の一番多いのは、男性の稼ぎだけで生活が維持できないことのように私は思う。NPOでの放デーサービスの経験から、利用者の女性の多くは「非常勤労働者」である。「非常勤」というが毎日働いている。日本の流通業や接客業は、「非常勤」がいなければ、なりたたない。

そのためには、保育園の保育体制を変えるしかないと私は思う。保育園は「おばば」や「おじじ」をボランティアとして雇うしかない。専門職の保育士が、「おばば」や「おじじ」を管理していく。保育士の知識は学校で習ったものにすぎない。大学の先生って無能な人や無責任な人や現場を知らない人もいる。「おばば」や「おじじ」のほうが現場での知識をもっている。そして、保育園での相互研修を、各構成スタッフが対等の原則で、行う。

育児が終わった「おばば」「おじじ」も、まだまだ働けるのだ。


幼児教育無償化より子どもを手放さない経済的環境を

2019-12-07 21:16:46 | 育児

(Yahooブログから、ブログ廃止により、こちらに引っ越しました)

幼児教育の無償化を安倍晋三首相がテレビ越しで語っていた。それを聞いて私は不安になった。幼児教育の無償化があるべき姿なのか。それより、親が自分の子を愛を持って育てられる経済的環境のほうが大事なのではないか。

私の父は、赤紙1枚で戦地に送られ、私の兄が4歳をすぎるまで、戦地から戻れなかった。父は努力したが、父と兄は互いになじめなかった。父は自分の店をやっていたから、私よりずっと家庭的だった。家族みんなで食事をし、一緒に、海や山に出かけた。それでも、父と兄は互いになじめず、父は認知症で死んだ。兄は父の遺産の受け取りを拒否した。

私の働くNPOにも、わが子が重大な病気をもって生まれ、ずっと親子が何年も離され、病気が治って病院から戻ってきたとき、どう接していいか、わからず、今でも悩んでいるケースがあることを知っている。下の子とどうしても同じ気持ちで接することができないのである。子どもは18歳になっている。

子どもを保育園に預けて働くことより、生まれた子どもに十分な愛をそそいで育てられるほうが、親にとっても子どもにとっても幸せではないか、と思う。

古代ギリシアの保守派哲学者、プラトンは、子どもを親から切り離し、社会の子として育てることを、理想とした。子どもを生まれたときから、弱肉強食の社会に放り込むことを、プラトンは理想としたのである。現代の哲学者、バートランド・ラッセルは、実は、それは古代スパルタの社会そのものだと明かす。プラトンの時代、アテネは、スパルタとの戦争に負け、属国になり、プラトン一族はスパルタ従属派であった。

なぜ、わざわざ、わが子を集団の中に、餌食として投げ込むのか、私は、その気持ちがわからない。「三つ子の魂百まで」という。政府やメディアに騙されず、3歳まで親の愛のもとで育てたほうがよい。

福岡で保育園が子どもたちを虐待していた、とテレビが報道していた。保育園で子どもに十分な愛情をもって育てようとすると、どうしても人手が足りなくなる。すなわち、保育園で子どもを育てることは本来お金がかかるのである。普通の親が働いて得るお金よりも多くのお金を保育園に払う必要が生じる。普通の親が払える料金にしようとすると、虐待が生じる。すなわち、保育士に従わない子どもは悪い子として罰せられる。

安倍晋三は、女性が賃金労働者になることばかりを重視しているのではないか。お金をもらって働くことがだいじなら、昭恵夫人はなぜレジやコンビニ弁当作りで働かないのか。安倍晋三は何も考えず、選挙目当てで話しているだけではないか。

私が思うに、子育てで3年間休職しても、職場に復帰できるようにすべきである。子育てで休職しても、家族が食べて行けるようにすべきである。経済的保障のことである。子どもを職場に連れて行って、子どものそばで働けるようにするのもいい。子どもを抱えて通勤できるよう、通勤電車の配慮があるべきだ。

私は、スパルタのような子育てはまっぴらごめんだ。

「発達障害者支援法」と山登敬之の『新版 子供の精神科』

2019-06-20 22:28:35 | 育児


「発達障害」は、法律用語であって、医学用語ではない。あなたのお子さんは発達障害ですよ、という医者がいたら、信用してはいけない。診断名ではないし、子育てに何の役にも立たない。

「発達障害者支援法」は2004年に成立し、2005年に施行された法律である。

第1条は、法律の目的を記すのだが、なぜか、とても長たらしい。

「この法律は、発達障害者の心理機能の適正な発達及び円滑な社会生活の促進のために発達障害の症状の発現後できるだけ早期に発達支援を行うことが特に重要であることにかんがみ、発達障害を早期に発見し、発達支援を行うことに関する国及び地方公共団体の責務を明らかにするとともに、学校教育における発達障害者への支援、発達障害者の就労の支援、発達障害者支援センターの指定等について定めることにより、発達障害者の自立及び社会参加に資するようその生活全般にわたる支援を図り、もってその福祉の増進に寄与することを目的とする。」

下線は私がつけたものである。多分、この法律の作成にかかわった者たちの間に、意見の一致が見られなかったのであろう。

第2条は、「発達障害」、「発達障害者」、「発達障害児」の定義である。

「この法律において「発達障害」とは、自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるものをいう。」

第2条の定義は、アメリカの精神医学会の診断マニュアルの旧版DSM-IVの「発達期に最初に診断される症候群(Disorders Usually First Diagnosed in Infancy, Childhood, or Adolescence)」と解釈すれば良い。

厳密にいえば、この法律の定義では、「低年齢」だから、「思春期(Adolescence)」を対象から外している。また、「知的能力障害」は、すでに他の法律でカバーされていると考え、やはり、対象から外したものと考えられる。

当時の日本には、支援を訴える親たちの運動があったが、だれを支援すればよいかに、医療関係者に多少の混乱があったのであろう。文部科学省は政令で「情緒障害」を「発達障害」に含めている。

したがって、「発達障害」は非常に幅広いメンタル症状を対象にしている。これ自体は、良いことだが、いっぽうで、混乱を生む要因になっている。だからこそ、医学的診断名が親たちや支援者にとって重要となる。

「発達期に最初に診断される症候群」とは何か理解したい向きには、山登敬之の『新版 子供の精神科』(ちくま文庫、2010年)がおすすめである。

山登は、「発達障害」には「精神遅滞」「広汎性発達障害」「自閉症」「ADHD」「LD」などがあると書いている。

最新版の診断マニュアルDSM-5では、「広汎性発達障害」と「自閉症」は、まとめられて、「自閉スペクトラム症」となっている。また、新たに、コミュニケーション症群というカテゴリーが加えられている。「精神遅滞」は、差別的ひびきがあるとして、「知的能力障害(Intellectual Disability)」と言い換えられている。

DSM-5にそって診断名を書きなおすと、神経発達症群(Neurodevelopmental Disorders)には、
 知的能力障害群(Intellectual Disabilities)、
 コミュニケーション症群(Communication Disorders)、
 自閉スペクトラム症(Autism Spectrum Disorder)、
 注意欠如・多動症(Attention-Deficit/Hyperactivity Disorder)、
 限局性学習症(Specific Learning Disorder)、
 運動症群(Motor Disorders)
となる。

旧版DSM-IV「発達期に最初に診断される症候群」には、これ以外の精神疾患が多数含まれており、じっさい、医療現場や支援現場でも、大人がなる精神疾患のほとんどが、子どもにも見出されるのである。

そういう意味で、文部科学省が「情緒障害」という怪しげなカテゴリーを「発達障害」に加えたのも納得できる。また、山登が本の題名を敢えて「子供の精神科」とし、「発達障害」とはしなかったのも、うなづける。

さて、山登の主張の最もだいじな点は、「発達障害」を病気と見ていないことである。もって生まれた個性として捉えている。私もその意見に賛成である。生まれつきなのか、治せるのかは、微妙な問題で、多くの場合、周りが個性として受け入れることで、「適正な発達」が望めなくても、多少の支援のもとで「円滑な社会生活」ができる見込みが高いからだ。

そして、山登は、「治す」と言って子どもに「訓練」を強要しないように警告している。厳しい指導や訓練がストレス刺激となって子供をホントウの精神疾患にしかねない。しかも、そのときに なるのではなく、思春期になって発症することもあると指摘する。

生活の質を改善するため、ご飯を自分で食べられる、自分でトイレができる、自分で服を着替えられるようにするのに、厳しい指導や訓練は必要ない。どうして、子どもが楽しく学べるようにしないのか。

また、ほかの子と変わっていることで、いじめられる子の問題も取り上げている。このことによって、他者は自分をいじめるものと学習してしまい、外出することに大きな恐怖を抱えるようになる子もいる。

なお、現在、学校では、「発達障害児」を個別級や支援級に隔離しているが、「発達障害児」の間でもいじめが起きることがある。私は、これは、大人の価値観の反映ではないかと考える。

まとめると、DSM-5は診断マニュアルとして読むに値する。支援する立場からすると、「治す」という発想ではなく、「共生する」という発想を、社会全体に、求めたい。