猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

必死で教室中をアルコール消毒してきたNPOのこの一年

2020-12-29 22:39:17 | 新型コロナウイルス


きのうは私のNPOの今年最後の日だった。なにげなく、「今年は、だれも新型コロナに感染しなくてよかったね、来年もよろしく」といったら、机を消毒していた教室長は「いつで出てもおかしくなかったの」とムッとした表情で、会話が切れた。

そう、私のNPOでクラスターが発生したと認定されなかっただけで、放デーサービスに来る子どものひとりが感染して自宅待機になった。また、幾人かの子どもたちの学校でも、感染者がでている。横浜市は、子どもの間にいじめが発生するという理由で、新型コロナの感染の情報を個人情報にして機密にしているだけで、すぐ身近で感染が広がっている。

きょうの朝日新聞で、「増す負担 心を病む教員」という見出しの下に、先生が必死で教室のいたるところを消毒する写真を見て、暇さえあれば教室中を必死でアルコール消毒する教室長の姿が頭に浮かんだ。NPOの教室が閉鎖されるかもしれないという不安で、彼女はこの1年を苦しんできたのだ。
    ☆    ☆    ☆

きのう、菅義偉は「国民の命と暮らしを守るために先手、先手で対応するために土曜日に方針を指示し、全世界から外国人の新規入国者の停止を発表した」と記者団に語ったという。「先手、先手」と言ったことの批判がネットに上がっていたが、私は「国民の命と暮らしを守るため」というフレーズにびっくりした。このフレーズは安倍政権が安保法制案を国会で通すために使ったものである。

新型コロナでは「命」だけで「暮らし」を入れる必要がない。「暮らし」をいれたのは、GoToキャンペーンの正当性を押し通そうとする菅の意地からである。これが怖い。何も反省しない。第3波の感染爆発から何も学ぼうとしない。そして、特別措置法を改正するんだと言う。

革新右翼の統制経済派の菅が何をしだすのか、怖い。どこにも、オープンな議論がないのだ。すべて、政権と一部のアドバイザーで国のことを決め、民主主義なんて認めない態度が怖い。

ダニエル・エヴェレットの驚くべき世界『言語の起源』

2020-12-28 23:27:29 | 脳とニューロンとコンピュータ


私は、NPOで発語ができない子どもたちを担当してから、人間はどうして言葉を話せるのかを不思議に思うようになった。もちろん、話せないのは子どもたちだけでなく、私も、私の妻も、老いのせいか、言葉が出なくなっている。

ずっと私が不思議に思ってきたのは、コンピューターは言葉をビット列で処理するが、人間の脳にはビット列というものが存在しない。人間の脳で行われているのは、興奮の四方八方への伝達である。すなわち、興奮があるか否かである。しかも、コンピューターにはアドレスでビット列がいつでも取り出せる記憶装置があるが、人間の脳にはそのような記憶装置がない。

9月5日の朝日新聞で、ダニエル・L・エヴェレットの『言語の起源 人類の最も偉大な発明』(白揚社)を読み、早速、図書館に予約した。3ヵ月と20日以上もかかって、おととい、ようやく、本が届いた。読むと画期的な内容である。

私の疑問を解くものではないが、私が怪しいと思っていた従来の脳の言語処理の学説を、明確に否定している。すなわち、私たちは、まだ、脳の中の言語処理を解明できていないのだ。これまでの学説は、コンピューター処理に影響されて推察しただけの、でたらめだったのだ。

エヴェレットは『言語の起源』で、ヒトの言語獲得は突然のものではなく、長い進化の過程で少しずつ獲得してきたものだと考える。遺伝子は脳の基本的構造を定めるが、脳の機能は学習によって発達する。学習とは、外的刺激によって、脳の神経細胞の結びつき(配線)が作られ、変更されることである。

彼は序でつぎのように語っている。

〈 遠い過去のことはいざ知らず、現在、世界中の誰もが理解できる普遍的な人間の言語は存在しない。〉

これは、ノーム・チョムスキーの普遍文法あるいは生成文法の否定を宣言している。

いまから、40年前、私がいた職場で機械翻訳を研究していた。チョムスキーに触発され、対象とする言語の文を二分岐の木構造に分解し、それを別の言語の二分岐の変更し、自動的に翻訳しようとするものだった。これが、うまくいかない。例外処理をどんどん持ち込まないと実用に耐える機械翻訳にならない。

チョムスキーの普遍文法は、人工的言語、プログラミング言語と相性がよく、コンパイラーの設計に向いているが、自然言語には無力なのである。文法的アプローチよりも、確率的なアプローチのほうが適しており、もとのテキストと人間が翻訳したテキストを学習させるアプローチのほうが良いのである。

研究所では自動音声認識もやっていたが、ここでも、文法より、確率的アプローチのほうが品質の良い音声認識が得られた。

第6章の「脳はいかにして言語を可能にするか」でも、従来の言語処理専用の局所的脳領域の存在を否定している。

〈脳には言語に固有の領域があって、ウェルニッケ野やブローカ野などがそれに相当する言う主張も多いが、そのようなものは存在しない。〉

これは、30年ほど前から、外から刺激に脳がどう反応しているかの動画がとれるようになったからである。もちろん、神経細胞の1つ1つがわかる解像度ではないが、脳が局所的に処理しているというより、興奮が脳全体に広がって処理されていることがわかってきたからである。

「ウェルニッケ野」や「ブローカ野」は、100年以上前のコルビニアン・ブロードマンによる大脳新皮質の解剖学・細胞構築学的区分の一員である。エヴェレットは、「ウェルニッケ野」や「ブローカ野」は言語処理に特化していないと言う。

脳の機能が、古典的脳科学で、解剖学的区分と関連づけられたのは、脳の損傷によって、特定の脳の機能が失われるという経験に基づく。しかし、脳の機能がいろいろな部分を興奮が走って実行されるとすると、その途中の損傷でも機能が損なわれるので、古典的脳科学を見直す必要があると前から私は思っていた。

私は、脳というものを、外的刺激のセンサー(感覚器官)と運動のアクチェーター(運動器官)とを結ぶ神経回路の最も密集している部分と理解している。

エヴェレットは、それだけでなく、ブロードマンによる解剖学的区分自体不明確だと言う。

〈さらにややこしいのは、人間の脳はすべてその人限りのものであり、回や溝のパターンがまったく同じ脳は2つとしてないことだ。〉

「回」は、大脳皮質を外から見たときの膨らんでいる部分で、「溝」はへこんでいる部分である。大脳皮質は神経細胞からなる1.5~4.0mmほどの層で、しわくちゃになってヒトの頭蓋骨に押し込まれている。

エヴェレットは言語処理で大脳基底核に注目しているが、私は大脳基底核から大脳皮質に行く神経線維は広い範囲の神経細胞の興奮を抑えたり、強めたりするもので、どちらかというと、処理の制御に関わっているように見え、処理そのものではないと思う。

とにかく、エヴェレットのこの著作は、驚くべき仮説を提唱しており、検討に値する。

不要不急論、市場の論理を超えて、佐伯啓思の《異論のススメ》

2020-12-27 22:04:40 | 新型コロナウイルス
 
保守の佐伯啓思が、みたび朝日新聞で、「新型コロナ騒ぎ」を批判している。「騒ぎ」とみるところは私も同じだが、彼の大上段かぶっての現代社会批判が、的外れのように思える。
 
今回は「不要不急」から佐伯の批判が始まる。
 
〈 気になったひとつは「不要不急」の4文字であった。「不要不急の外出自粛」である。〉
 
感染症は人から人へうつる。しかも、新型コロナウイルスは自己増殖できないから、人から人に感染することで、遺伝子コピーに変異が生じ、多様化する。したがって、不要な人と人との接触を減らしたい。「密」を減らしてくださいと言うことだ。「不要な」という意味は、人間が生きていくために必要な「接触」があるからで、いま、しなくても済む「接触」は避けてくださいということだ。
 
「不要不急の外出自粛」とは、個人に判断を任せるということであって、「特別措置法」の罰則を強化しての上から個人の行動を命令しようということではない。
 
「密」を減らしてくださいというのは、新型コロナ対策専門会議の提言である。政府の専門家会議が、独自にデータを分析し、国民に直接提言を積極的に送るのは、画期的であり、もっと評価すべきことであった。ところが、安倍政権は何を思ったか、専門家が政治に口を出すなと、専門家会議を解散させた。
 
それでも、新型コロナ第1波は、専門家会議のおかげで、収束した。
 
しかし、第2波は収束せず、政府のGoToキャンペーンで、さらに強力な第3波をまねている。
 
佐伯は言う。
 
〈 ところが「不要不急」を自粛すると今度は経済が回らない。そこで、「旅行に出よ」「食事に出よ」と「不要不急の外出」を奨励する政府に即座に反応して、この秋には、都市の中心部や観光地に人々は押し寄せた。一方、コロナ禍の中で事業の継続が困難となり、失職して明日の生活にも苦労する困窮者たちが出現する。にぎやかな旅行者の群れと生活困窮者が同時に現れる。〉
 
ここの「経済がまわらない」が問題である。「不要不急の外出自粛」をしても、農作業は行われているし、多くの工場は稼働しているし、トラックは生産地から消費地に食品を運んでいる。だから、私たちは生きている。
 
経済の骨幹は回っているのだ。
 
「不要不急の外出自粛」とは、過剰に反応しなければ良いのである。無理な注文ではない。いま、しなくても済むことをしないだけである。
 
「不要不急の外出奨励」で人出を多くすれば、「密」が生じ、コロナ感染者が増えるのは当然である。政府がなすべきことではない。
 
「密」を避けるため、生活習慣を「変容」することで、当然、消費市場に変化が現れる。そのために現れる「困窮者」を救うのが政府の仕事である。GoToキャンペーンをして救うのではなく、給付と転職で救うのである。
 
問題は菅義偉が「自助、共助、公助」の順を唱え、政府が「公助」に消極的なことにある。しかも、役所の福祉課も「公助」の経験が少なく、「困窮者」の相談にうまく乗れない。
 
だから、別に、現代文明の三つの柱、「グローバル資本主義」、「デモクラシーの政治制度」、「情報技術の展開」と結びつけて、噛みつくことではない。単に、政府の政策の誤り、政権党の責任であり、「自助」を唱える政治家の責任である。
 
〈 この数年、日本の経済を支えているものは、インバウンド政策や観光業、各種のエンターティンメント、グルメなどであった。〉
 
たしかに、佐伯のいうように、このようなサービス業で日本経済を支えようというのは、もともと無理であった。これも、安倍政権の政策の誤りである。この際、転職のような個人の問題というより、社会の問題として、産業転換がある程度必要だろう。政治が経済を仕切ることができるという「統制経済」的思考は安易である。
 
また、佐伯は「不要不急」と思われがちな「文化」への尊重を訴える。
 
〈 これらは市場で取引され、利潤原理で評価できるものではない。またいくら「不要不急」を市場で拡張し、経済を成長させても得られるものではない。むしろ過度な市場競争と経済の拡張がその障害になりかねないのである。〉
 
私は、文化の尊重に同意するが、戦前の革新右翼のように、資本主義が営利主義で、市場が利潤原理と不可分で、政党の存在が政治の混乱を招くと思わない。市場そのものが悪いというより、個人主義が悪いというより、「人間社会は不平等であり、序列があり、誰かが誰かを支配するしかない」という、価値観にあると思う。国家の力を強めても、問題の解決にならない。
 
人を支配する力がお金にあると思っているからから、人はお金を求めている。
 
ドイツ人はクリスマスにバカ騒ぎする伝統が昔あったが、啓蒙活動によって、時代を経て、家族で静かに過ごすものになったという。価値観の変容による行動の変容に私は期待する。
 
[関連ブログ]

保阪正康が語る「コロナが暴く“令和日本”の姿」を聞いてみたかった

2020-12-23 22:59:09 | 新型コロナウイルス


12月21日のBS TBS報道1930のテーマは、とっても興味深いタイトル『保阪正康が語る「コロナが暴く“令和日本”の姿」』であった。TBSのサイトには、つぎの項目が掲げられた。
 ◾コロナ対策とインパール作戦の教訓
 ◾学術会議問題 「問答無用」が公然化
 ◾中国化する日本政治
残念ながら、月曜日はNPOでの子どもたちの指導がはいっており、終わりの30分しか聞くことができなかった。

菅義偉の行動パターンを見ていると、戦前の革新右翼を連想させる。独断的である。専門家を利用できない。民主主義からほど遠いところにいる。

しかし、菅のコロナ対策がインパール作戦と結び付くなんて、私は想像もしていなかった。

インパール作戦とは、日本陸軍が1944年3月にインドのインパールをビルマ側から攻略した作戦である。この作戦は、前線への補給がうまくいかず、失敗に終わり、退却での途中で約7万人の兵隊が飢えと病で死んだ。死人の肉が取引されるなど、地獄絵のようだったという。

保坂が、インパール作戦の失敗の要因をどう分析し、現政権のコロナ対策をどう見ているかに、私は興味がある。このまま、誤ったコロナ対策が続けば、日本の医療体制が崩壊し、地獄絵図が展開される。インパール作戦の失敗の教訓から、コロナ対策が修正できれば、これに越したことがない。保坂の口から、そこを聞きたかった。

インパールの攻略が補給の観点から難しかったことはわかりきっていた。牟田口廉也司令官は「ジンギスカン作戦」という奇策を考える。牛・山羊・羊・水牛に荷物を積んで行軍し、食料が足りなくなれば、荷役の家畜を食うという作戦である。しかし、雨期のジャングルのなか、川を渡るとき、家畜を失うし、インパールに近づけば、家畜を伴うから目立ち、空爆の対象になる。そのうえ、奇襲作戦の位置づけだから、軍備は軽装備だった。いまから考えれば、奇襲部隊と補給部隊を合わせて行軍するという、ちぐはぐな作戦だった。

ウィキペディアによれば、インパール作戦の直前に牟田口は昇進して司令官になり、また、人事異動が広範に行われたため、現地の状況に詳しい幕僚が牟田口と参謀の橋本洋中佐しかいなかったという。

保坂は、稚拙な作戦に意見する者が、牟田口のまわりにいなかったことに着目したのではないか、と私は想像する。

菅義偉も、安倍晋三が潰瘍性大腸炎で突然やめることで、総理大臣の座を得た。牟田口司令官と異なり、菅は、新型コロナ対策専門家会議が存続していれば、意見を聞くこともできたはずである。新型コロナ第1波は、専門家会議の尽力で、とにかく抑えることができたのである。

ところが、菅が総理になる前に、安倍政権が「経済だ」「専門家会議は政治に口を出すな」と言って、6月24日に専門家会議を廃止したのである。専門家会議を解散させ、経済学の専門家と感染症の専門家を一緒にして分科会を作り、感染症の専門家の口を封じた。

さらに、「経済だ」という菅政権は、「三密」を避けるというこれまでの新型コロナ対策と矛盾するGoToキャンペーンをうった。GoToトラベルは、感染震源地からウイルスを全国に運ぶ。GoToイートは、マスクを外して他人といっしょに食べるので、感染の危険を冒す。

その結果、第2波は、第1波のようには抑え込めず、第3波を迎えてしまった。第2波を抑え込むことができない時点で、菅はGoToキャンペーンの誤りに気づくべきだった。そうすれば、第3波を迎えることはなかっただろう。

菅は、新型コロナ対策と矛盾しない経済対策をとるべきである。それを具体的に提案する者が周りにいないのだろうか。私は、そんなことはないと思う。菅の支持基盤が安泰でないから、彼は疑心暗鬼になり、人の意見を聞き入れることができないのだろう。同情はするが、総理の資格としては、困ったものである。

ふるさと納税をめぐる議論―羽鳥慎一モーニングショー

2020-12-22 23:11:10 | 政治時評

けさのテレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』で、たまたま、「ふるさと納税」に言及され、羽鳥慎一、青木理が否定的意見を言ったのに対し、玉川徹は肯定したので、「えっ」と思った。

「ふるさと納税」は、菅義偉が発案した制度で、総務省が担当している。「納税」というが、地方自治体に税を納めるのではなく、希望の自治体に寄付し、その寄付金額に応じて、自分の住む自治体の住民税から控除を受ける制度である。

寄付行為を嫌う日本人社会で、この「ふるさと納税」が普及したのは、返礼品があるからだ。税金をはらってもその見返りが見えないのに、「ふるさと納税」をすると、見える形で見返りがあるからだ。人間の「強欲」を利用する制度であり、「善意」にもとづく通常の寄付行為とは異なる。

玉川は、「ふるさと納税」が地方自治体に「返礼品」を含めて創意工夫を促すから、良いことだと言う。

玉川さん、ちょっと、待ってください。

「税」とは、国や地方自治体が行うサービスに対しての対価である。このとき、市場の取引とは異なり、所得の再分配が行われる。個人税、所得税においては、税が払えるものは、貧し者より、多く税を払う。

自分が住んでない自治体に、「返礼品」が目当てにお金を払い、自分に住んでいる自治体に、その分、税を払わないというのは変である。自分が住んでいるところに愛着がないということだ。自分が受けているサービスを認めていないのだ。

玉川は、地方自治体が中央政府の地方交付税を頼っていると、自由なお金の使い方ができない。そのために、「ふるさと納税」という、自由なお金の使い方のできる寄付金が必要だという。

地方自治体は生活保護金の支給など福祉を実施する。教育も地方自治体が行っている。道路や河川も地方自治体のほうが多く管理する。

しかし、住んでいる人から税をとるだけでは、貧しい人を多く抱える地方は、これらの公的サービスができなくなる。したがって、国がまとめて税を徴収し、地方交付税という形で再分配し、全国平等なサービスを保障してきた。こうするほうが、「ふるさと納税」より望ましいと私は思う。

本当の問題は、地方交付税の透明性である。

自治体はそれぞれプランを立て、それにもとづいて、予算請求を国に行ない、透明な形で予算が認可されるので良いのではないか。この透明性にいままで問題があり、国政選挙と絡んで、自民党の利権とされてきたと思う。地方の予算請求に対して、国は回答理由を公表しなければならない。

また、地方自治体のプランに、他者に対する説得性がないといけない。

昔、竹下政権が「ふるさと創生事業」ということで、使い道自由の1億円を市町村に一律に配った。ほとんどが、自治体によって無駄に使われてしまった。ほとんどの自治体の幹部は何にお金を使ってよいか見当がつかなかったのだ。

「創意工夫」とは、多くの人が参加し、議論し、真剣に考えることで、出てくる。自治体のサービスプランは一部の自治体の職員だけが思いつきでやることではない。豪華な市庁舎を建てることでもない。住民に幸せをもたらす持続可能なサービスするために、お金の使い道に創意工夫をするのだ。

自治体に「返礼品」の創意工夫をしてもらっても意味がない。「ふるさと納税」に関するサイトがネットにいっぱいあるのは、腐敗の温床になっているからだ。

民主主義が地域に根付くためには、「ふるさと納税」などという安易なことはしてはならない。