私は、NPOで発語ができない子どもたちを担当してから、人間はどうして言葉を話せるのかを不思議に思うようになった。もちろん、話せないのは子どもたちだけでなく、私も、私の妻も、老いのせいか、言葉が出なくなっている。
ずっと私が不思議に思ってきたのは、コンピューターは言葉をビット列で処理するが、人間の脳にはビット列というものが存在しない。人間の脳で行われているのは、興奮の四方八方への伝達である。すなわち、興奮があるか否かである。しかも、コンピューターにはアドレスでビット列がいつでも取り出せる記憶装置があるが、人間の脳にはそのような記憶装置がない。
9月5日の朝日新聞で、ダニエル・L・エヴェレットの『言語の起源 人類の最も偉大な発明』(白揚社)を読み、早速、図書館に予約した。3ヵ月と20日以上もかかって、おととい、ようやく、本が届いた。読むと画期的な内容である。
私の疑問を解くものではないが、私が怪しいと思っていた従来の脳の言語処理の学説を、明確に否定している。すなわち、私たちは、まだ、脳の中の言語処理を解明できていないのだ。これまでの学説は、コンピューター処理に影響されて推察しただけの、でたらめだったのだ。
エヴェレットは『言語の起源』で、ヒトの言語獲得は突然のものではなく、長い進化の過程で少しずつ獲得してきたものだと考える。遺伝子は脳の基本的構造を定めるが、脳の機能は学習によって発達する。学習とは、外的刺激によって、脳の神経細胞の結びつき(配線)が作られ、変更されることである。
彼は序でつぎのように語っている。
〈 遠い過去のことはいざ知らず、現在、世界中の誰もが理解できる普遍的な人間の言語は存在しない。〉
これは、ノーム・チョムスキーの普遍文法あるいは生成文法の否定を宣言している。
いまから、40年前、私がいた職場で機械翻訳を研究していた。チョムスキーに触発され、対象とする言語の文を二分岐の木構造に分解し、それを別の言語の二分岐の変更し、自動的に翻訳しようとするものだった。これが、うまくいかない。例外処理をどんどん持ち込まないと実用に耐える機械翻訳にならない。
チョムスキーの普遍文法は、人工的言語、プログラミング言語と相性がよく、コンパイラーの設計に向いているが、自然言語には無力なのである。文法的アプローチよりも、確率的なアプローチのほうが適しており、もとのテキストと人間が翻訳したテキストを学習させるアプローチのほうが良いのである。
研究所では自動音声認識もやっていたが、ここでも、文法より、確率的アプローチのほうが品質の良い音声認識が得られた。
第6章の「脳はいかにして言語を可能にするか」でも、従来の言語処理専用の局所的脳領域の存在を否定している。
〈脳には言語に固有の領域があって、ウェルニッケ野やブローカ野などがそれに相当する言う主張も多いが、そのようなものは存在しない。〉
これは、30年ほど前から、外から刺激に脳がどう反応しているかの動画がとれるようになったからである。もちろん、神経細胞の1つ1つがわかる解像度ではないが、脳が局所的に処理しているというより、興奮が脳全体に広がって処理されていることがわかってきたからである。
「ウェルニッケ野」や「ブローカ野」は、100年以上前のコルビニアン・ブロードマンによる大脳新皮質の解剖学・細胞構築学的区分の一員である。エヴェレットは、「ウェルニッケ野」や「ブローカ野」は言語処理に特化していないと言う。
脳の機能が、古典的脳科学で、解剖学的区分と関連づけられたのは、脳の損傷によって、特定の脳の機能が失われるという経験に基づく。しかし、脳の機能がいろいろな部分を興奮が走って実行されるとすると、その途中の損傷でも機能が損なわれるので、古典的脳科学を見直す必要があると前から私は思っていた。
私は、脳というものを、外的刺激のセンサー(感覚器官)と運動のアクチェーター(運動器官)とを結ぶ神経回路の最も密集している部分と理解している。
エヴェレットは、それだけでなく、ブロードマンによる解剖学的区分自体不明確だと言う。
〈さらにややこしいのは、人間の脳はすべてその人限りのものであり、回や溝のパターンがまったく同じ脳は2つとしてないことだ。〉
「回」は、大脳皮質を外から見たときの膨らんでいる部分で、「溝」はへこんでいる部分である。大脳皮質は神経細胞からなる1.5~4.0mmほどの層で、しわくちゃになってヒトの頭蓋骨に押し込まれている。
エヴェレットは言語処理で大脳基底核に注目しているが、私は大脳基底核から大脳皮質に行く神経線維は広い範囲の神経細胞の興奮を抑えたり、強めたりするもので、どちらかというと、処理の制御に関わっているように見え、処理そのものではないと思う。
とにかく、エヴェレットのこの著作は、驚くべき仮説を提唱しており、検討に値する。