バート・D.アーマンの”Misquoting Jesus”の日本語版『捏造された聖書』(柏書房)には、ユダヤ教に「書物指向」と「一神教」の異常な特徴があり、これらがキリスト教に引き継がれた、と書いている。
この「異常な」というのは翻訳者松田和也の誤りで、アーマン自身は”unusual”と書いており、決して、”abnormal”とは書いていない。アーマンは、ちょっと変わっていると思ったのだろう。
しかし、ユダヤ教、キリスト教は本当に「書物指向」で「一神教」なのだろうか。ここでは、アーマンの主張に私の理解を加える形で「書物指向」を論じてみたい。
この「書物指向」は“bookish”の松田の訳であり、本来は、「本好き」とか「本読み」とかの軽い意味である。例えば”child”(子供)が”childish”(子供っぽい)となるのと同じである。だから、“bookish”は、別に、聖書を読むことを非難しているわけではない。
アーマンは本書の第1章で、現在、ユダヤ教、キリスト教が書物の権威を認めるのにかかわらず、その当時の人々のほとんどは字が読めず、書けなかった、と述べている。アーマンは何を言いたいのだろうか。私は「ユダヤ教、キリスト教が書物の権威を認める」という常識に対する疑義ではないかと思う。
アーマンは本書で、結局、プロテスタントの説教師や牧師の教え「聖書は神の霊感で書かれ、誤りがない」を否定している。聖書は写本の段階で間違いが発生するし、もともと人間が書いたものだから、思い込みや思わくが秘められているかもしれない。
深井智朗の『神学の起源 社会における機能』 (新教出版社)によれば、マルティン・ルターは「カトリック教会の権威」を否定するために、「聖書の権威」を持ち出した。しかし、何が聖書の範囲になるか、ルターは自身の基準でより分けた。そのため、現在、プロテスタントが考える旧約聖書とカトリックが考える旧約聖書とは異なっている。
また、近代のプロテスタント神学者アドルフ・フォン・ハルナックは『キリスト教の本質』(春秋社)で、旧約聖書を聖書から排除すべきだったと主張している。
それでは、古代社会で何のために、普通の人々が読めない「書物」を作り「権威」を付与したのか。アーマンは、字が読め書ける者同士の正統性の争いのためである、と考える。
さて、初期のキリスト教徒の多くは「書物」をどう考えていたのか。
アーマンは『ケルソス駁論』を引用して、当時のキリスト教徒は教養のある者を排除していた、と書いている。これは、リチャード・ホーフスタッターの『アメリカの反知性主義』(みすず書房)や森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)で書かれているのと同じ問題だ。
下層階級にとって字が読み書きできる人は信頼できないのだ。
映画『ザー・ファーム』で、メンフィスの法律事務所に就職する若くて結婚したての弁護士トム・クルーズは、「ハーバート大学を出たのだから9万ドルの年俸をもらって当然」というようなことを妻に言っていた。高等教育を修めたから他人より良い生活ができて当たり前だという態度が、下層階級の人々にとって許せないのだ。私や高校中退の息子もその態度を許さない。
新共同訳で福音書に「律法学者」がでてくるが、これは、オリジナルはギリシア語の“γραμματεύς”で、英語では“scribe”と訳され、「字を書く人」にすぎない。そして、福音書では「字を書く人」はイエスの敵であったのである。
福音書やパウロの書簡では旧約聖書がときどき引用されるが、多くは、デタラメか不正確である。イエスの弟子は字が読めないとアーマンが言っているが、イエスもパウロも字を読めなかった、と私は思っている。そして、読めなくたっていいじゃないか、と思っている。
イエスを字が読めたとするのは『ルカ福音書』4章17節の1箇所しかない。対応する箇所の『マルコ福音書』や『マタイ福音書』にはその記述はない。かわりに、「多くの人々はどこからその教えを得たのかと驚いた」とある。字が読めるはずがないと、イエスの家族や近所の人は思っていたのである。そして、3福音書は共に「預言者は親族、故郷に受け入れられない」と嘆く。すなわち、自信満々に話せば、普通、人は騙されるが、子供のときから自分を知っている人は騙せないという意味である。
また、『マルコ』『マタイ』『ルカ』に、イエスの弟子が安息日に畑で麦の穂を食べたとファリサイ派に非難された、とある。旧約聖書では、他人の畑で麦の穂を食べても良いとしている。貧しい人びとを救うためである。したがって、「安息日」に麦の穂を摘んだことがモーセの掟に反するというのが、ファリサイ派の非難である。イエスは「安息日は人のためにある」と答えた。お腹がすけば、安息日だろうが、摘んで食べてなぜ悪いか、がイエスの本当の気持ちだろう。
ところが、福音書は、ダビデが部下と共に神の家(神殿)に安息日に立ち入り、お供えのパンを食べた故事を、イエスの答えの前に挿入した。実は、こんな故事は、ヘブライ語聖書のどこにも書いてない。サムエルやダビデやソロモンの時代に、「安息日」の掟がそもそもないのだ。ヘブライ語聖書の『列王記下』になって初めて「安息日」が出てくる。
単に「モーセの五書」の十戒から、福音書の書き手、あるいはイエスが、勝手にそう思い込んだだけである。
実は、『出エジプト記』などの「モーセの五書」は、サムエルやダビデやソロモンの時代にはまだなく、アーマンの『キリスト教の創造 容認された偽造文書』(柏書房)の定義では、これらは偽書となる。
聖書は神の言葉でも権威でもなく、1つの教養として読むものである。一般に「書物」は「ゴミため」であり、根気よくより分ければ貴重なものが見つかるかもしれない。そのために使う時間が惜しいか否かは、個人の好みの問題である。