猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

安倍晋三の死は川崎市の学校に半旗を掲揚するようなことか

2022-07-31 22:14:54 | 宗教

きょうの朝日新聞(神奈川版)によれば、川崎市教育委員会が、安倍晋三の死去を受け、市立学校に半旗の掲揚を依頼していたという。教育委員会は「哀悼の意を表するためだった」と説明したという。

「半旗」とは、国旗をポールの頂点ではなく、半分の高さにかかげることらしい。昭和天皇が死んだときに、政府より各官庁、学校、企業等に対し協力を求める通知が出されたらしい。しかし、市の教育委員会が学校に依頼するとは、聞いたことがない。

一般に、人の死に「哀悼」を感ずること自体は悪いことではない。しかし、毎日、何千人もの日本人が死んでいるわけであるから、人が死ぬたびに、川崎市立学校に半旗をかかげるなんて、普通に考えれば、ありえない。安倍が川崎市の学校の恩人でもないのだから、市の教育委員会の判断で半旗を依頼するようなことではない。

私からみれば、悪人の安倍のために、なぜ、子どもたちの教育の場で半旗をかかげるのか、納得できない。私は、内心、安倍が死んでくれれば、と望んでいた。

安倍は「左翼をぶっ潰す」ことだけのために政治活動をしていた「闘う政治家」である。自民党が政権の座を失って甘い汁を吸えなくなったとき、自民党をまとめて政権の座に戻った男である。日本経済を回復すると言いながら、日本の経済力を地に落とした男である。秘密保護とか、共同軍事行動のための安保法制とか左翼を未然に逮捕できる共謀罪とか、強権国家の礎を築いた男である。

安倍はメディアに脅しをかけ、いっぽうで、メディア各社のトップと会食をもって、日本のメディアの右傾化を図ってきた。安倍の死でほころびが出てわかったことの1つは、安倍と統一教会の関係である。自民党議員と統一教会との関係である。安倍が死んだこの機会に、日本の政治のウミを吐き出すべきである。

統一教会では、韓国がアダム国家で日本がエバ国家で、悪魔と通じたエバはアダムに奉仕尽くさないといけないという異常な教義をもっている。統一教会が反共産主義だという一点で、笹川良一、岸信介が統一教会と結びついた。安倍が政権に返り咲いたとき、2014年、NHKはある宗教団体が安倍の心の支えとなったと特集で報じた。統一教会が霊感商法で悪評がたって新たな信徒獲得が難しくなったとき、2015年、安倍政権のもとで、統一教会は宗教法人の名称変更の認可を文科省から受けた。反共だからといって、安倍と統一教会の結びつきを正当化できるわけではない。

安倍の死で、教育の場に半旗を掲げるなんてもってのほかだ。

宇野重規は、安倍殺害を「民主主義への挑戦」だと言うが、そのまえに日本の民主主義は腐っていて、安倍が死なないと暴かれない闇の世界があったのだ。


科学とはなにか、全国学力調査で理科の正答率に一喜一憂するな

2022-07-30 23:19:51 | 教育を考える

きのうの新聞に、全国学力調査で理科の正答率が低下したというニュースがのっていた。特に「科学的に探究する力」の育成を踏まえた出題で正答率が低かったという。しかし、正答を記号で選ぶ問題で、そんな「探究する力」が測れるのか、と私は考える。したがって、学力調査で一喜一憂しても仕方がない。それより、「科学的に探究する力」とは何なのか、議論することのほうが重要だと思う。

そして、さらに重要なのは、子どもたちが理科が好きになって、日常生活に習ったことが使えるものがないか、と考えだすことである。それを学力テストで測定できるだろうか。

中3の学力調査の理科の問題は、磁気ばねの縮みは力に比例するのか、の実験の結果のデータを解析することであった。「磁気ばね」をテスト問題にしたのは、たぶん、普通のばねの伸び縮みは力の比例にすると教えているからであろう。教科書の法則を否定すると文句をいう人がいるからだろう。本当は、伸び縮みが力に比例する「ばね」というのは特別に作られた物であって、それでも、伸び縮みの範囲が大きくなれば比例しなくなる。特に自分で針金からばねを作ると、金属の塑性変形という問題に直面する。

理科のテスト問題で調査したのは、日本語の問題文を理解する能力の測定であり、いわゆる「要領のよさ」を調べているのにすぎない。工場での品質改善運動の話をきいているような気がする。そんなテスト問題から、将来「独創的な研究」をする力を測れることはありえない。

学校教育で教えていることは、自然についての仮説であり、近似である。4年前にノーベル賞を受賞した本庶佑が教科書に書いてあることを疑わない子どもは科学をする見込みがないというようなことを言っていた。

したがって、ある法則はどこまで適用できるのか、確かめるにはどうしたらよいのか、法則がなりたつものにはどんな特徴があるのか、法則がなりたたなければ、法則をどう拡張したらよいのか、を考えるのが「科学的に探究する力」であろう。

学校で、用意された器具を使い、マニュアルに従って実験をやったからといって、そんな力はつかない。実験は自分で目的を設定しデザインしないと意味がない。私は物理を専攻したが、大学での物理実験ほど「面白くない」ものはなかった。それは、単に実験ノートをつける訓練にすぎなかった。

「科学」とは、自然を人間が理解し、自然の恩恵を受け入れられるようにすることである。「霊感商法」に騙されないことでもある。


投資しない日本人がいけないのか、『マタイ福音書』と資産所得倍増計画

2022-07-29 23:56:52 | 聖書物語

きょうTBSの『ひるおび』で日本人が「投資」しないという話しがでた。なぜ、そんな話が出たのか思い出せないが、そのとき突然、新約福音書の「タラントのたとえ」が私の頭に浮かんだ。

「タラントのたとえ」は『マタイ福音書』の25章14節から30節にかけて書かれている物語である。書き出しはつぎのようである。

「天の国は、ある人が旅に出るとき、しもべたちを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。」(マタイ福音書25章14節)

この節自体、わたしはうさん臭く感じる。後から誰かが書き加えたのだろう。「天の国」とは、ギリシア語で「天が支配すること」を意味する。

その主人は「しもべのそれぞれの力に応じて、1人には5タラントン、1人には2タラントン、もう1人には1タラントンを預けて、旅に出た」という。1タラントンは数千デナリウス銀貨と言われ、1デナリウスは1日分の日雇いの給料だったと言うから、とにかく大変な額である。

5タラントンを預かったしもべは取り引き(ἠργάσατο)で5タラントをもうけ、2タラントンを預かったしもべは2タラントンをもうける。当時の規模の大きい取り引きは、いまでいう「貿易」のようなもので、途中で盗賊団に遭遇するかもしれなく、もうけが大きいがリスクの大きい行為である。

旅から帰ってきた主人は、もうけた彼ら2人を「良い忠実なしもべ」とほめる。

ところが、1タラントンを預かったしもべは、なくして主人にしかられることを恐れ、地中に埋めて隠しておいたので、お金は増えていない。主人のことを「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集める厳しい方」と言って、埋めていた1タラントンを返す。

主人は「それなら、私のお金を銀行(τραπεζίταις)に預けておくべきだった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」と言って、そのしもべを外の暗闇に追い出す。そして、「誰でも持っている人はさらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる」とのたまう。

「銀行」というが金貸しのことである。ギリシア語τραπεζίταιςとは両替商が商売するときのテーブルのことで、両替商のテーブルにお金を置くと、後で利息(τόκῳ)とともにお金が返ってくるが、大もうけはできない。なお、ユダヤ教やイスラム教では利息をとる金貸し業は社会的に容認される職業ではない。

この主人は、金貸し業を肯定しているだけでなく、貧富の差を拡大する社会構造を肯定している。

この物語は、25章14節に「天の国とは・・・」とはじまるので、牧師は大まじめにこれを聖書の良い教えとして信徒に説明しようとして、道徳的困難におちいる。もちろん、一生懸命働いてお金をもうけることは、プロテスタントのカルヴァン派では肯定される。特にリスクを冒してお金をもうけたのは神に愛されている証拠であると考える。

ところが、私の近所のカトリック系中高一貫校の神父まで「リスクを冒せ」というイエスの教えだとして、大胆にもネットでその説教を公開している。カトリックは人間の弱さを肯定する宗派であるから、リスクを冒さない人を非難してはいけないはずである。その神父は、カルヴァン派に影響されて、カトリックの道を踏み外しているのではないか、と私は思う。

岸田文雄は「資産所得倍増計画」と言っているが、その中身は金融商品を買えと言っているにすぎない。ハイリスクハイリターンのゲームに参加しろと言っている。産業資本主義は生産設備に投資しましょうということだから、人の道にまだ反していない。ところが、アメリカの金融資本主義となると、投資がギャンブルになって、物の生産やサービスに結びつかない。なぜ、こんな岸田政権を支持する人が存在するのか、私は不思議でたまらない。

岸田文雄は「タラントのたとえ」をイエスのありがたい教えだと思いこむ牧師や神父と同じ知的レベルの低さなのだろうか。それとも、彼の道徳意識が低いのだろうか。

「タラントのたとえ」と類似した物語が『ルカの福音書』19章17―23節にある。これはもっとおぞましい話で、「ところで、私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ」で物語が終わる。


プーチンがエカテリーナ2世を敬愛はウクライナ併合の野心

2022-07-28 23:00:29 | ロシアのウクライナ軍事侵攻

(映画Ogniem i mieczem)

ロシア大統領のウラジーミル・プーチンがエカテリーナ2世を尊敬しているとの記述が日本語版ウィキペディアにみられる。私はこの真偽をまだ裏づけられないが、黒川祐次の『物語 ウクライナの歴史』(中公新書)を読むと、1764年、ウクライナの「ヘトマン国家」を最終的に滅ぼしたのがエカテリーナ2世である。プーチンがエカテリーナ2世を尊敬しているのが本当なら、彼はウクライナの併合を狙っていることになる。

ヘートマンはポーランド語で、ウクラナイ語ではヘーチマンだそうである。もともとはポーランド王から任命されコッサクの町を支配した貴族のことであったが、16世紀末にはコッサク自身によって選ばれるようになった。

ウクライナが、ポーランド国内の自治領からヘトマン国家として見られるようになったのは、ヘトマンのフメリニツキーの1648年の蜂起以降である、と黒川は言う。ポーランド側からの歴史書では反乱であるが、コサック側から見れば独立戦争である。コサック側がポーランドに勝ったのだ。

ヘトマン国家にはラーダと呼ばれる全体会議があり、ヘトマンもそこで選ばれた。ラーダは「会議」というより「集会」に近いものだと私は思う。古代ギリシアの直接民主制エクレシアに対応すると思う。戦闘集団であるコッサクでは、選ばれたラーダが強い権力をもつ。

フメリニツキーはウクライナ語だけでなく、ポーランド語、ロシア語、トルコ語、ラテン語を話せたという。ポーランドと戦うために、ロシア、スウェーデンとも彼は交渉した。黒川は、このときのロシアとの協定が、モスクワに庇護を求めるという歴史的傾向を生んだという説を紹介している。

いっぽう、黒川は、ヘトマン国家衰退が、自由の民の国が地主と農奴に分かれていったためであるという説も紹介している。私は、こちらの説に納得する。平等がくずれれば闘う意味がない。

ポーランドの作家ルドヴィク・クバラは、フメリニツキーの蜂起を反乱として、ポーランド王のために戦う一部のコサックの長編時代小説を書いている。その映画版がポランド映画『Ogniem i mieczem(火と剣)』である。目下のロシア軍のウクライナ侵攻で、ポーランドがウクライナ政府を支援しているのは、不思議な時代のめぐりあわせである。

黒川によれば、ニコライ・ゴーゴリの書いた小説『隊長ブーリバ』は、フメリニツキーの蜂起に先立つ1630年代のコッサクのポーランドへの反乱をモデルにしている。隊長ブーリバが火あぶり刑で死ぬ前にロシアの大地への愛を述べるが、ゴーゴリが小説をロシアで売るために創作したフィクションであると思う。モスクワは森林に囲まれた地であり、コサックにとっての大地は、ウクライナの草原の大地である。


福岡の事件「人ごとと思えない」、発達障害と家庭内暴力はべつ次元の問題

2022-07-28 00:02:37 | 育児

きょうの朝日新聞夕刊に『発達障害の子を持つ悩み 相談を』という記事が載った。「発達障害」の子をもった親が、どのようにその子を育てたらよいかを専門家に相談すること自体は、適切なアドバイスである。しかし、この記事は、「発達障害」の子が家庭内暴力を振るようになるという誤解を生むような書き方なので、私としては不満である。

その記事の副題は『福岡の事件「人ごとと思えない」』である。「福岡の事件」とは、「発達障害」の子どもを矯正施設に監禁して暴力を振るっていたことである。その法人の理事長らは、「暴力によって子どもの問題行動を改善できる」というセミナーを開いて、矯正施設に有料で子どもを預ける親を勧誘していた。

「発達障害」と「家庭内暴力」とはまったく別の次元の問題である。「発達障害」の子は社会に適合していくのに不利な特性を生まれつき持っており、親はその子を社会のいじめから守って育てる必要がある。うまく育てれば、親子の愛は普通の親子より強く、幸せな人生を送れる。私はそのお手伝いをNPOで行ってきて、幸せな家庭をいくつも見てきている。

「家庭内暴力」は親子間のコミュニケーションの失敗から生まれる。発達障害の子どもでなくても「家庭内暴力」が生まれる。本来、親のほうが人生経験があるのだから、親子間のコミュニケーションに関しては、親のほうが気をつけていただけたらと願う。いったん壊れた親子関係の修復はとても大変である。大変でも修復できる。ひどくなる前に、私でなくても、誰かに相談していただければと思う。

記事では、<長男(3歳)は2歳になってすぐに「自閉症スペクトラム」と診断された。遊びを切り上げたり、風呂に入らせようとしたり、気にいらないことをさせると悲鳴のような声で泣き叫ぶ。ひどいときは、硬い部分を選んで頭を打ち付け続ける。やめさせようと抱きかかえると体をそらせて暴れる。騒ぎを聞いた近所から通報されないか、ひやひやしながら暮らす。>

「自閉スペクトラム症」と呼ぶのが通常だと思うが、長男が親に反抗することと、「自閉スペクトラム症」と無関係である。2、3歳に子どもが親に反抗する。いわゆる「いやいや病」である。つよく反抗しているだけで、私もそういう子であったらしく、べつに異常なことではない。「遊びを切り上げ」させることは本当に必要なことなのか。母親は自分の幼児を自分の思うままに動かせるということを、この反抗期にはいったとき、スパーと諦めるべきである。諦めることが、子どもを人間として尊重することなのだ。

2005年に発達障害者支援法が成立し、翌年に施行された。法に基づき、2,3歳のころと、小学校入学直前に、発達障害の集団検診が行われるようになった。国は、集団検診だけをおこなって、後は知らないというわけにはいかない。制度上は、療育センターが子育てを指導を行うはずであった。10年前、発達障害と認定された親子は、ほぼ毎日、保育所の代わりに療育センターに通って子育ての仕方を学習できた。

幼児が親に反抗したとき、子どもの特性に応じて、どのような対応したらよいのか、療育センターで、子どもと遊びながら、学ぶのである。「発達障害」と言っても、子どもの特性はそれぞれ違うから、自分の子の特性に応じた対応の仕方を発見するのである。そして、さらにだいじなのは、親のお願いが何であるかを、反抗される前に、子どもに理解してもらうコミュニケーションの技術を学ぶのである。

現在は、発達障害と認定される子が多すぎて、そのような丁寧な指導を療育センターで行っていないようである。これは、福祉の問題であるから、子育ての丁寧な指導を国に求める権利が親にある。

学童期の子どもには、学校での支援に加え、放課後デイサービス(通称「放デイサービス」)がある。放課後、発達障害の子どもを預かって、心の成長を民間の法人が助けるという制度である。利用者の費用は親の収入に応じてきまり、地方自治体がサービスを行う法人に足りない経費を補填する。私のいるNPOでも放デイサービスを行っている。

記者には、発達障害者支援法がその法の目的に沿って施行されているかを、困っている保護者にインタビューして調査して欲しい。法の実施者は地方自治体であり、地方による格差が大きい。また、実際に現場で活動しているのは民間、または、半民間の法人である。法人による格差もあろう。また、どのような法的制度があるのか、知らない親も多く、福岡の事件のように、発達障害児を食いものにするビジネスに騙されてしまう。

子どもに暴力をふるって良いはずがない。子どもの気持ちは尊重すべきである。子どもの特性に合わせて、親子のコミュニケーションをとる技術を身につけて欲しい。

☆☆ 中川信子からのメッセージ ☆☆

「自分の子がほかの子と違っているのは、個性なんです。自分の子がどんな大人になるか、神様からもらった球根だと思って、どんな花が咲くか、楽しみにして、毎日毎日世話をしてください」(2015年 シンポジウム『よくわかる発達障害』の講演から)