宇野重規がこの4月から朝日新聞の《論壇時評》の筆者に加わった。期待して4月27日の彼の初時評『自分と世界つなぐ感触』を読んだが、なにかを警戒してか、はっきりモノを語っていない。まったく期待外れだ。
去年、安倍晋三が殺害されたときも、朝日新聞のインタビューにも「民主主義の危機」というだけで、本音がでてない。日本の政治上の癌である安倍晋三が取り除かれたのだから、この好機を生かして、民主主義(デモクラシ)を取り戻そうと言って欲しかった。
宇野は「わたしたちを圧倒する情報の洪水に立ち向かい、共に議論していくための場を取り戻したい」と言う。確かに、「情報の洪水」が立ちそびえている。しかし、この「情報の洪水」は、無意味な情報の氾濫である。しかも、この洪水は意図的に権力側から意図的に起こされている。
教科書は政府の手に握られている。政府が教科書の検定し、どうどうと子どもの洗脳を行っている。
テレビやラジオは、放送の認可という形で、政府の圧力を受けている。報道が極端か否かを個々の番組ごとに判定すると自民党の高市早苗は放送局に圧力をかけた。高市の後ろ盾の安倍が取り除かれたことで、このことが明るみにでた。
そういえば、安倍が殺害されなければ、自民党と統一教会の癒着は明るみにでなかった。岸田文雄は統一教会との癒着の問題を曖昧化を図っている。
フェクニュースなど悪意のある情報の洪水の前には、命をかけて、率直に意見をいうことがだいじなのだ。そして言い続けることが、信頼を勝ち取る。みんなは信頼できる意見を求めている。
宇野は「自由と民主主義、そして法の支配を守るために、内向きになりがちな米国を支え、世界の秩序回復に貢献すべきであることに異論はない」と言う。なぜ、こんな卑屈な言い方をするのだ。下線の部分は安倍晋三の持論である。なぜ、安倍に異論はないというのだ。
宇野は民主主義(デモクラシ)は平等だと言ってきた。それなら、「自由と平等」というべきではないか。安倍は、「民主主義」を「選挙制度」とすりかえ、自分が選挙に勝てば何をやっても良いという態度で押し通した。そして、選挙に勝つためのバラマキの風土を自民党に植え付けた。
「法の支配」は「善」とは限らない。「法の支配」を徹底したのは、古代中国の秦帝国である。「法の支配」は権力者の命令を徹底させることにつながる。法の中身を吟味せずに「法の支配を守る」とは権力者の横暴を許すことになる。
知識人に求められていることは、権力者と戦う姿勢ではないか。私ような一般人は、闘うための言葉を求めている。
「世界の秩序回復」とは何をいうのか。回復というからは「世界の秩序」があったことになる。それは何なのか。1990年以前は社会主義陣営と資本主義陣営の対峙であり、それ以降は、資本主義国アメリカの一極支配でないか。そのアメリカがアフガニスタン侵略、イラク侵略を行い、中東の不安定化を引き起こした。
いま、起きていることは、アメリカ政府の一極支配に世界が反旗を翻しているのだと思う。「米国を支え」とは、見当違いでないか。戦後、日本政府はずっとアメリカ政府のご機嫌を伺ってばかりで、1980年代に石原慎太郎が指摘したように、「No!」を言わなかった。それこそ、反省すべきことではないか。
宇野重規の『トクヴィル 平等と不平等の理論家』や『民主主義とは何か』を読んで共感していたが、今回の論壇時評には裏切られた感が強い。そんなに東大教授の地位を守りたいのか。