猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

佐伯啓思にならって、新型コロナを突き放して論ずる

2020-03-31 20:56:53 | 新型コロナウイルス
 
保守の論客、佐伯啓思が、今日の新型コロナ騒ぎを「少し突き放して」みると、「見事に現代文明の脆弱(ぜいじゃく)さをあらわにして」いると、3月31日の朝日新聞に書いていた。
 
彼の言うとおり、たいしたことのない「病原体」に「日本中がパニック」になっているかもしれない。
彼の言うとおり、「現代文明のなかで、われわれの生がいかに死と隣り合わせであり、いかに脆いものか」であるかもしれない。
 
しかし、ここで、彼の言うことを「突き放して」、すなわち、少しも共感をもたずに論評してみよう。
 
ヒトは、「現代文明」や「グローバリズム」と関係なく、常に「死と隣り合わせ」である。ヒトは遅かれ早かれ死ぬのである。すなわち、「現代文明」が特に悪いというわけではない。
 
同じく、彼の言う現代文明の三つの柱、「グローバル資本主義」、「デモクラシーの政治制度」、「情報技術の展開」が特に悪いわけでない。そればかりか、私は、昔よりマシであると思っている。
 
文明は、ヒト自身ではなく、ヒトが生みだした社会環境、いってみれば、防御膜(シールド)のようなものである。その膜の内側にいるヒトは、それぞれ、1つの受精卵から生まれてきて、社会で育てられる。ヒトは、昔と変わらず、イノセントに生まれ、賢くなることもあり、愚かしくなることもある。
 
「日本中がパニック」になるとは、日本という容器にはいっている、ヒトビトが全国的に愚かしい行動をしたということであろう。もちろん、日本の全員が愚かしい行動をしたのでない。
 
それでは、佐伯は、どうしろと言いたいのか。
 
佐伯がその朝日新聞で「感染爆発状態に至る前に強力な対策を取る」と言っているところをみると、プラトンと同じく「知的エリートによる支配」を夢みているのではないか。
 
私は、アンゲラ・メルケル首相と同じく、真実を国民に告げ、真実に耐える国民を育てる政治が良いと思っている。
 
もちろん、何が真実かは自明ではない。したがって、多様な意見が吹き出る。そこで、議論がおきれば、暫定的な「真実」の共有が形成されるであろう。
テレビの報道番組で多様な意見が吹き出たのは健康なことである。問題は、議論にならないことである。
 
例を1つあげよう。
新型コロナの検査数が、世界と比較し、日本だけが極端に少ない。安倍晋三が検査に別に反対しているわけではない。集団感染を防ぐという疫学の立場からは、検査を積極的にやった方が良い。
 
しかし、検査を実質的に抑えているヒトが、日本の上層部にいるのだ。なぜ、抑えるのか、それを主張するヒトが議論の場に出てこない。これでは困る。日本の「デモクラシーの政治制度」のレベルが低いのだ。
 
現代において、「日本人」というものは幻想である。日本国という容器の中にたまたま入れられたというだけである。日本人であること、日本国に住むことを選んだわけではない。だから、ヒトはそれぞれ利害が違う。自分の損得で動いていることを明らかし、調整するのが政治である。
 
新型コロナの検査を拒むのは、日本医師会の主流派が患者を引き受けたくないからでないか。私の耳には地方の開業医からその声が届く。お金でその問題が解決するなら、お金で解決するしかない。
 
医師が検体をとるのが怖いなら、血液検査と同じく、民間検査会社の技師が検体をとればよい。開業医が自分のクリニックで検体をとるとお客が来なくなるというなら、韓国や欧米のように、行政が設けた公共の場(ドライブスルー、ウォークスルーなど)で検体をとればよい。
 
ヒトが本音を言うからこそ、利害の調整をすすめ、とりあえずの妥協点が生まれる。これがデモクラシーの原則である。「国益」などとインチキなことを言ってはならない。日本の政治家はうそつきだ。
 
メルケル首相が、「集団免疫も治療薬もないとき、国民の3分の2が感染しないと流行がおさまらない」と3月11日にドイツ国民に告げたのは、正しい政治決断だと思う。それ以降、欧米各国のヒトビトは、今回の感染が大規模になることを理解したように見える。
感染者数が10倍、100倍、千倍、1万倍になるか、収束が1ヵ月になるか、10ヵ月になるか、8年になるか、80年になるかのどちらかを選択するしかないとメルケルは言っている。そして、できるだけ長引かせる策をドイツ政府はとると言う。
 
小池百合子は、「ナイトクラブやバーで多くの人が新型コロナに感染しているから、そんなところに行かないで下さい」と3月30日に言った。どこで感染したかわからないケースは、人に言いにくいところに行っているからであり、クラスター対策班はよくそれを突き詰めたと思う。
 
小池のストレートな言い方を支持するが、記者質問で、夜の接待飲食業者に新型コロナ補償をするという答えには、反対である。ホステスを抱えた接待飲食業は社会に不要である。彼らは仕事を変えるべきで、こういう業種はつぶれた方が良い。補償するな。暴力団にお金が流れるだけだ。
 
さて、佐伯は「未知のウイルス」というが、別に「未知」ではない。
 
分子生物学の進歩のおかげで、すぐに、中国の研究者が、新型コロナウイルスの本体、RNAの一本鎖の約3万の塩基の配列を決定し、昨年末、発表した。世界中の研究者が、ことしの1月に、それを確認している。塩基配列がわかったということは、世界中どこでも検査できるということである。市販されている機器PCRで増幅し、機器シーケンサーで塩基配列を決定すれば、確定検査ができる。しかも、RNAが変異を起こしやすいので、変異をたどることで感染経路の特定にも利用できる。
 
また、中国の研究者が疫学的情報を英語の論文の形で発表しており、世界中で共有されてきた。だから、メディアの記者もその論文を読むことができる。そうすれば、新型コロナ対策専門家会議への質問のレベルも高まったと思う。
 
私は、分子生物学の基礎は知的なヒトたちの間では常識になっているのかと思っていたが、そうではないようだ。
 
佐伯は、新型コロナがなんでもない普通の感染症で、「致死率は、通常のインフルエンザより多少高いもの」「感染力は多少高い」「感染者の8割は軽症で治癒」と言っている。
しかし、木村太郎が言っているように、それでも大量にヒトは死ぬのである。防げるなら防ぐのが、常識的判断である。
 
また、本当は、厚労省の「軽症」という言い方はおかしいので、高熱で非常に苦しくのたうち回る状態を含んでいるのだ。残りの2割は、重症で人工呼吸器をつけた感染者を言う。現状では、そのまま、人工心肺をつけるようになり、それでも、現在のところ、半数が回復したとの報告しかない。残りは助からないのである。
 
インフルエンザには、毎年1000万人が感染している、と厚労省は推定している。診断を受け確定した死者の数は、多くの年は1000人以下である。しかし、推定関連死者数は1万人という。したがって致死率は0.1 以下、0.01ぐらいである。治療薬があるからだ。
 
新型コロナのばあい、クルーズ船のケースでは、感染者712人で死者7人である。これをもって、日本の医療関係者は新型コロナの致死率を1%という。これを、1000万人に適用すれば、10万人が死ぬわけである。そして、国民の60%が感染するとすれば、80万人が死ぬわけである。
 
致死率1%は、通常のインフルエンザより十分高い。通常のインフルエンザと違い、現状では、治療薬がなく、患者自身の生命力によって生きのびるしかないのである。
 
3月30日の時点で、日本国内での致死率は3%で、アメリカが2%弱、韓国が1.5%、ドイツが0.7%である。イタリアの致死率は11%、スペインの致死率は8%、オランダは7%、フランスが6%である。致死率の違いは医療体制が機能しているかどうかを表わしている。
 
新型コロナが収束するのは、ドイツのロバート・コッホ研究所の所長が言う国民の3分の2に達するのは、ずいぶん先なのである。現状では、どの国も感染者数は、国民の1%に至っていないのである。イタリアでも国民の0.16%である。日本は国民の0.015%である。インフルエンザでも、毎年、国民の10%は感染するのである。
 
そういう意味では、まだ、パニック(あわてふためくこと)になる事態ではない。
 
「非常事態宣言」とか「外出自粛」とか言う前に、もっと本当のことをしらないといけない。「気やすみ」や「まやかし」ではなく、科学的な判断で政策をだすべきではないか。検査薬は色々な会社から販売されている。日本がそれを買って使わない理由がない。小池のように、感染の巣に行ってはならないと、本当のことを言うべきだ。
 
治療薬もこの1年内にでてくるだろう。病原体が同定されており、培養もできるからである。
 
佐伯の「突き放した」議論は、知的エリートは偉いんだという傲慢さにすぎず、私はヒトという生物種の愚かしさを彼自身が表わしているにすぎないと思う。
 
[追記]
ウイキペディアによると、2009年の新型インフルエンザのときも、今回と同じく、「厚生労働省は、重症化や死亡した例などを除いて、新型インフルエンザかどうかを調べるPCR(遺伝子)検査を当分の間行わなくてよいとしたため、現在なお、2009年の国内の正確な感染者数は不明である」。
ワクチンについては外国の医薬品メーカと購買契約を結んだため、想定したらより早く終息したので、違約金を払うなど、政府が損したと国会で答弁している。
安全のため、違約金が出ても、仕方がない。そんなことで国会が責めるとは情けない。責めるべきは、厚労省がPCR検査をせず、感染の実態を把握しなかったことである。
 
[追記]
本文のクルーズ船の感染者数、死亡者数はWHOの最新の発表数だが、その数は日本政府のずいぶん前の報告をそのまま載せているだけである。
4月1日の朝日新聞には、感染者数は723人、死亡者数は11人になっている。朝日新聞のほうが実態を反映しているとすると、クルーズ船の致死率は1.5%となる。
 
[追記]
噂では、あす4月2日に緊急事態宣言をするという。メディアでは、宣言をする要件ばかりが議論されているが、何をするために、緊急事態を宣言するかの議論がなされていない。日本医師会は、病院に患者が押しかけないよう、病人を自宅に閉じ込めたいために、緊急事態宣言を要請しているのではないか。
 
[追記]
きのうの新型コロナウイルス感染症の政府専門家会議後の記者会見で、尾身副座長が「医療崩壊とよばれる現象はオーバーシュート(爆発的な患者急増)が起こる前に起きる」と言った。とても不思議な発言に聞こえる。
妻の友達で、家族に医師がいる人たちのあいだで、政府や自治体の要請で新型コロナの診療にあたることを「赤紙」と言っている。これは、医師のかなりの部分が、診療の協力をいやがっていることをほのめかしている。
人間だから、自分が損をすることをやりたくないのだろう。何か折り合いをつける妥協点はないのか。
感染症病院の医師や一部のこころざしの高い医師だけに頼っていては、オーバーシュートの前に医療崩壊が起こりざるをえないだろう。

為政者の自己満足の非常事態宣言ではなく新型コロナ感染爆発に耐える医療体制を

2020-03-29 21:45:20 | 新型コロナウイルス

3月25日、東京都知事の小池百合子は、このままでは「首都封鎖(ロックダウン)」になりかねないと、都民ひとりひとりの責任を訴えた。その効果があって、今週末の28日、29日の人出は普段の土日の半分以下であった。しかし、こんなことで、新型コロナの爆発的感染は防げるのだろうか。

同じ精神論なら、メルケル首相の3月11日、3月18日、3月25日のスピーチのほうが、格調が高い。民主主義、個人主義の立場から、生命の危機に面して、国民の助けあい、すなわち、連帯(Solidarität)を訴えている。

ここでは、医療体制についてコメントしたい。

新型コロナは、現在、指定感染症になっている。日本では、感染していることが発覚したら、入院措置になっている。ところが、きょうのテレビでは、入院者が指定感染症病院の病床数を越えている、という。また、PCR検査で2回陰性でないと、退院させられない。すなわち、厚生省は、新型コロナを指定感染症からはずすか、指定感染症の例外扱いの法的根拠を与えるか、しないといけない。

現在、噂では、町医者には風邪の患者を受け付けるなという医師会からの達示がきているという。表現はどうであろうと、風邪の症状を示す患者のいくらかには、新型コロナの感染者がいる。町医者には、新型コロナの感染を防ぐマスクやゴーグルや防護服や消毒薬が用意されていない。新型コロナの感染者を診たら営業停止に追い込まれる。

だから、厚生労働者は、風邪の患者に家でじっと我慢をしていて、死にそうなほど苦しくなったら、保健所に相談しなさいとしか言えない。

町医者が電話相談で患者を診断し振り分けるといっても、非常にむずかしい。私の近所の耳鼻咽喉科医は、これまで、4~5分に1人の割合で、診察治療をすましている。いっぽう、40年前、私がカナダにいたときのファミリードクター(かかりつけ医)は普段から30分はかけて健康状態を診察してくれる。したがって、カルテもしっかりとできている。私の息子が高熱を出したとき、彼はすぐに肺炎と診断し、町の中核病院の大学付属病院に連絡し、入院の手続きをしてくれた。

日本では、町医者が、電話で患者を診断し振り分けるのは、夢物語である。

新型コロナの爆発的感染の前に、この1,2週間に、指定感染症の法を越えて、指定感染症病院から軽症、中程度の新型コロナの感染者を他の病院や収容先に移し、重症者のために、指定感染症病院の病床を開けておかないといけない。

大きな病院でも感染者の受け入れを拒否しているという。なぜ、拒否するのかの言い分も聞き、とにかく、軽症、中程度の感染者をうけいれてもらわないといけない。院内感染を防ぐにはお金がかかる。何らかの経済的補償が必要だろう。

また、感染指定病院以外に、発熱外来を設け、風邪症状の患者の診断を受け付けないといけない。発熱はインフルエンザかも知れないし、細菌性肺炎かも知れない。ほっとけば死ぬかもしれない。診断し、医療の機会を与えなければならない。

このままでは、新型コロナ感染の大爆発のまえに、日本の医療体制が崩壊するかもしれない。最初に、指定感染症病院の医療従事者が疲弊し感染者になり、ついで、保健所の職員が倒れ、町医者に感染者が別の病気で訪れ感染を広げ、全医療体制が崩壊するかもしれない。

検体の採取と検査は民間企業に丸投げしないと、新型コロナ感染爆発に対抗できない。
電話相談は、コールセンター会社に代理でしてもらうしかない。

東京都の新型コロナ感染者の累積は、3月29日で、430人である。ところが、3月11日に、メルケル首相が、連邦保健大臣とロベルト・コッホ研究所所長とともに記者会見し、国民に免疫もなく、治療薬もない現状では、国民の3分2が感染しないと、新型コロナは収束しないといった。

2015年の東京都の人口は13,294,632人である。人口の10パーセントでも1,329,463人、1パーセントでも132,946人である。感染して免疫をもった人の数は、まだまだ、足りない。これから、感染者数が10倍、100倍、1000倍にならないと、何度も何度も、感染爆発が起きるだろう。

同じことが日本全体にも言える。物資が移動するときは人間も移動するのである。必ず感染が広がる。

ドイツは4万9000人が新型コロナに感染している。それでも、国民の0.06パーセントの感染が終わったにすぎない。しかし、そのドイツは感染者の致死率を0.7パーセントに抑えている。日本は、致死率が3%を超えている。なんとか医療体制の崩壊を防ぎ、致死率を1パーセント以下にもって行ってほしい。

そのためには、メルケル首相の言う「連帯」とお金がいる。景気対策の「おさかな券」「旅行券」を配ることを論じる前に、新型コロナ対策の医療体制構築にお金を投じないといけない。これから、感染者数が10倍、100倍、1000倍になるのだ。

非常事態を宣言しようと、外出禁止令を発しようと、公共交通機関を止めようと、統治者の自己満足で、感染者が広がり続けても致死率を1パーセント以下に抑えられる医療体制を築かないなら、国民を精神的にも物質的にも虐待しているだけである。

[追記]
メディアでは経済活動の自粛に対する補償が中心になっているが、予算を医療に集中し、国民が生きるに必要な経済活動は維持するが、個人ひとりひとりがこれまでの生活スタイルを変容させ、また、社会全体として産業構造も変えていくべきだろう。
人間は別に飲み屋に行かないでも生きていける。お酒を飲んで騒ぐ宴会も必要はない。
感染爆発の頂点を抑えるということは、今後、10年、20年と新型コロナとの闘いをつづけていくことになる。経済補償の議論がお金のバラマキを求める欲得の争いにならないように願いたい。

[追記]
新型コロナ感染対策として、トランプ大統領がGMに人工心肺の製造を命じたニュースを真に受けている人がいるが、これは、政治家のパフォーマンスにすぎない。
設計図も製造機械も製造ラインも製品検査のノウハウもないなかで、精密医療機器を作れるはずがない。
既存の医療メーカが他産業に部品の納入を求めるか、組み立ての生産ラインを他産業から借りるか、そうでないと、できないことだ。
あまりにも製造業のことを、政治家や役人は知らなすぎる。

[追記]
3月30日夜の東京都知事の小池百合子の緊急記者会見で、政府クラスター対策班の西浦博が東京都の感染状況を報告した。聞いていてわかりにくいが、深夜から早朝にかけて営業している接待飲食の特定業種で、感染が増えているとのことだ。
キャバレーやナイトクラブで新型コロナの感染が増えているから、そんなところに行くな、と、どうしてストレートに言えないのだろう。

『アンドリューNDR114』 200年生きた男の物語

2020-03-28 21:22:16 | 映画のなかの思想


『アンドリューNDR114』は1999年に公開されたアメリカ映画である。原題は“Bicentennial Man”で、直訳すれば「200年目の男」である。話しはこうである。

製品番号NDR114のアンドロイド(人造人間)が、二人の娘をもつ夫婦に買われてやってきた。「アンドリュー」は次女のアマンダがつけた名前である。このNDR114は欠陥製品で心をもっており、次女のアマンダを愛してしまう。アンドリューは人間になろうと、どんどんと自分を改造し、ついに、200年目に、アマンダにそっくりの孫娘ポーシャが年老いて死ぬとき、自分も一緒に死ぬことを選ぶという物語である。

アンドリューは工場でつくられた機械である。欠陥製品だからユニークなのだ。個性をもつのだ。そして、その機械が「愛」のため人間になろうという意志をもつのである。工場製品が解放される過程は、古代ローマ時代の奴隷が解放されるのを模している。

アマンダの父親がアンドリューを気に入り、教育するのである。そして、アンドリューが作る精巧な木工細工を売り、そのお金をアンドリュー名義の銀行口座にたくわえさせた。教育を受けたアンドリューは、人類が求め続けた「自由」にあこがれ、自分自身を買い取りたい、と老いて死にゆく父親に申し出る。この申し出に父親は驚き、「出たければ勝手に出て行くがいい、おまえは自由だ」と言い、お金を受けとることを拒否する。

自由になったアンドリューは世界をさまよい、人造人間研究者と親しくなり、人工臓器の研究をたすけ、人工臓器のビジネスでふたりはお金持ちになる。アンドリューは体をどんどん人工臓器に置き換え、外見は人間に近づく。そのあいだに、アマンダも年老いて死に、その娘も死ぬ。

ところで、そのままだと孫娘ポーシャが死ぬときに200年目にならないので、物語の作者は、人類が老化を抑える薬を発明したとして、帳尻を合わす。
それで、孫娘ポーシャが薬を飲むことをやめ、みずから年老いて死ぬという展開になった。

ポーシャが死を迎える、その時に、アンドリューも人工血を輸血することで、老いてしわくちゃになったポーシャと手をつないで、いっしょに死ぬ。世界法廷は、アンドリューを人間として認め、ポーシャとの結婚が承認される。

機械が愛することができるか、この問題について、映画は肯定している。ただ、「欠陥製品」だから、そうできたとしている。(しかも、機械が機械を愛するのではなく、機械と人間が愛し合うことができたとしている。)

人間は確かに記憶で動く機械の1つである。最初は、遺伝子にコードされているままに、脳がつくられていく。そして、しだいに、遺伝子にコードされたプログラムから解放され、教育を含む自分の体験から自分の意志を形成していく。「自由」への憧れをもつのも、その1つだ。

しかし、私は、機械が人間を愛せるとは思わない。また、機械が機械を愛せるとは思わない。生き物は、増殖する。長い地球の歴史のなかで、生き物は有性生殖をするようになった。そして、さらに、子育てをする動物があらわれた。

社会に「愛」があるのは、男と女がいて性交をし、子どもが生まれてふたりで育てるからである。人びとが性交をしなくなったり、子育てをしなくなったら、「愛」が失せるのではないか、と私は思っている。

きょうの朝日新聞の読書欄で、長谷川眞理子が『2050年 世界人口大減少』(文芸春秋)を紹介していた。女性の地位が上昇すれば、子どもの数を減るという趣旨のことを書いてあるらしい。

男と女が性交をせず、子育てをしなくなったとき、社会から「愛」が失せる。そのとき、ヒトが 互いに助けあうことができるとは、生きていくことに肯定的な意味をもてるとは、思わない。私は、女性が男性と対等となっても、「愛」はもてるし、より充実した「愛」がもてると信じている。「愛」をもつべきだと信じている。

研修生を使って儲かる農業をする奴は地獄に落ちろ

2020-03-27 22:46:43 | 社会時評


私は、農業の経験がない。
私は、町に生まれ、町に育ち、町で暮らしてきた。
だからか、きょうのNHKのニュースが理解できない。
新型コロナで研修生が中国から来ないから収穫できないという。

研修生を安い賃金で働かせることは、「悪」ではなかったか。

「儲かる農業」にだまされていないか。
農業に限らず、儲かるということは、社会の誰かから「搾取」することである。
資本主義の社会といえども、「儲ける」ということは悪いことなのだ。
それは、子供のとき読んだロシア民話の悪魔(デモン)のささやきにしか、思えない。

私は自分の家をもたない。賃貸に暮らす。
当然土地をもたない。
耕作する土地なんてありはしない。
耕す土地をもつ人々を幸せだと思う。
うらやましく思う。

研修生が来ないと収穫できないということが理解できない。
自分が働いて収穫できる以上の農地をもっているから、収穫できないのではないか。
実って収穫できるのに、腐らすのはもったいない。
なぜ、収穫を助ける友だちがいないのか。
本当の友だちなら、手伝いに来て、自然の恵みを一緒に感謝してくれるだろう。
友だちがいないなら、正当な報酬をはらって、人を雇えば良い。

農業が儲かるか儲からないかは、農産物の価格設定に左右される。
農産物の価格が安いのは、人件費が安い、あるいは、化学肥料や機械でエネルギーを過剰に注ぎ込む農業が、国際的に展開されているからではないか。
スーパーの農産物を見ていると、あきらかに、メキシコや中国など人件費が安い国のものが多い。
また、米国が機械化による大規模農業で儲かるのではなく、メキシコからの「不法移民」を使うからだということが、米国の「不法移民」取締で明るみに出た。
メキシコからの「不法移民」を取り締まると、低賃金の農業労働者がいなくなり、農業経営が成り立たなくなると、いま、米国で騒いでいる。

研修生から搾取するより、儲けることを是とする社会をぶち壊せ。
さもなければ、人間社会に、ますます、「悪」がはびこる。

外出自粛には反対!新型コロナでの買い占め騒ぎを煽るだけ

2020-03-26 22:11:40 | 新型コロナウイルス


3月25日、東京都の小池百合子知事は「このままでは《首都封鎖》になりかねない……週末は、不要不急の外出はぜひとも控えてください」と呼びかけた。翌日、神奈川県の黒岩祐治知事も、埼玉県の大野元裕知事も、千葉県の森田健作知事も今週末の外出自粛を呼びかけた。

しかし、「外出自粛」で新型コロナの流行が防げるのか。「首都封鎖」とは何を意味するのか。

私は戦後間もないときの生まれであるが、母親から戦後の経済混乱の話を聞いて育っている。戦争中は「欲しがりません 勝つまでは」といって、統制経済のなか、食べることも着飾ることも国民は我慢した。1945年8月15日、日本が戦争に負けたとたん、政府が統制経済を維持していたのにもかかわらず、経済混乱が起き、買い占め、買いだめが起き、闇屋が横行した。

私は闇屋が悪いと言いたいのではない。国民は、不条理な政府の言うがまま戦争中に我慢してきたからこそ、敗戦という瞬間に欲望を噴出させたのである。戦後の経済混乱は、物が不足したからではなく、政府が信頼されないから起きたのだ。

2月27日、安倍晋三は新型コロナウイルス感染症対策本部で、全国の小中学校と高校、特別支援学校に臨時休校を要請する考えを突然表明した。安倍は、期間は3月2日から春休みまでとし、「ここ1~2週間が極めて重要」だ言った。

3月19日夜の10時半からの記者会見で、新型コロナウイルス対策専門家会議が「感染流行の爆発がいつ起きてもおかしくない」と説明した。

ところが、驚いたことに、同じ日、厚労省大臣の加藤勝信が「新型コロナの流行は抑えられている」と言い、文科省大臣の萩生田光一が学校再開の方針を言った。
3月20日からの三連休には、これまでのうっぷんを晴らすように、人が外にでた。外に出るだけではなく、22日は、キックボクシング団体の「K-1」が、さいたまスーパーアリーナで行われ、観客6500人を集めた。

ところが、ところが、3月24日に東京オリンピックの1年延期が正式に決まると、急に感染者数が増え始めた。25日に東京都で感染者数41人、26日に感染者数47人の発表があった。

そしてである。3月26日、安倍は、改正新型インフルエンザ対策特別措置法に基づく対策本部を設置し、「緊急事態宣言」に踏み切る準備を始めた。

岩松潤内閣参事官によれば、新型コロナ感染の26日の野党との会合で、対策本部長の安倍が緊急事態宣言をする2要件のうち、「国民の生命・健康に著しく重大な被害を与える恐れ」との要件は満たされているとの認識を安倍が示し、もう一つの要件「全国的かつ急速なまん延により国民生活・経済に甚大な影響を及ぼす恐れ」に関しては、「学識経験者の意見を聞きながら考えていきたい」と述べた、という。

安倍は、単に「緊急事態宣言」し、個人の人権・自由を制限し、経済の統制したいだけでないか。

冷静になって考えよう。政府が具体的にこれまで何をしたのか。

新型コロナの感染検査を押し進めたのか。発熱外来を広めたのか。韓国や欧米で見られる公共のオープンな感染検査所を作ったのか。治療を行う場所を設け、公開しているのか。
通勤ラッシュを解消したのか。公共交通機関を間引きすれば、もっと混むだけだ。
家で仕事ができる人がそんなにいるのか。ゴミを毎日集めないと都市機能は停止してしまう。物流が止まれば、物が商品棚からなくなる。人は色々な病気をするから、医師はその専門性におうじて患者と向き合って診療しないといけない。
マスク増産を政府が号令をかけても、マスクを生産する人は超過勤務をしてまでも働かなければ、増産できない。

「不要不急の外出を禁止する」なんて、無策な政治家の言い分である。バカが言うことである。

感染を広げるのを防ぐとともに、国民の日常生活、経済活動を維持できるよう配慮しなければ、買い占め、買いだめのパニックが起きるだけだ。

現在のところ、新型コロナ対策専門家会議は疫学上の立場からしか見ていない。

有効な治療法がないと、国民の大半が免疫をもつまで、国民の60%が新型コロナに感染しないと収束しないという。日本の人口は1億3千万人であるから、7800万人が感染する必要がある。

300日で60%に達するためには、1日あたり26万人が感染する必要がある。600日に延ばせば、60%に達するためには、1日あたり13万人が感染する必要がある。

感染者の増加が、現在の1日あたり100人以下ということは絶対ない。入国検疫での発熱者や病院での肺炎重症者とその濃厚接触者を対象とした感染検査による陽性者数にすぎない。限定されているのだ。きのうのBS TBS『報道1930』で、上昌広は発表数の30倍から100倍の患者が市中にいるという。それでも、1日13万人には程遠い。

これから、感染者がもっともっと増え、比例して重症者も増える。そして、疫学チームが長引かせようとしているから、1年を超えて、新型コロナの感染はつづく。

だから、「新型コロナに勝つまでは我慢しよう」では乗りきれない。

「行動変容」は必要だが、日々の生活を維持したまま、すなわち、買い物も仕事もしつづけ、しかも、感染のリスクを下げる行動の具体的ガイドこそが求められる。また、感染検査の普及、感染者の治療体制の確立という基本的なことを政府がしないといけない。「不要不急の外出自粛」ではなく、「人ごみの中にいけば感染しますよ」でいいのだ。

「非常事態の宣言」はバカな政治家のすることで、パニックを拡大するだけで、政府がなすべきことを黙々とすべきである。

最後に、買いだめに走る人々に捧げるトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の言葉。

「なぜ何を恐れるのか――それさえわからないままに恐れをいだくことを、《パニック》(Panique Terrour)という。……本当は、最初に恐れをいだく者はその原因を分かっているが、他の者たちは、《先に逃げ出した者がなぜかを知っているはずだ》と思い込み、みんなにならって逃げ出すのだ。」