猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

脳科学と発達障害、記憶とは何か

2019-12-30 23:30:54 | 脳とニューロンとコンピュータ

脳についての知識は、私の学生の頃とびっくりするほど、増えている。

この驚きを、NPOのスタッフ研修会で話してみたいのだが、聞いてもらえるか、非常に不安である。脳科学の知識は、「発達障害」とは何か、「理解力」とは何かを理解してもらうには、とても だいじだと思うのだが、みんな、ハウツーが大好きで、「どうすれば」を「どうして」から考えようとしない。

知識がびっくりするほど増えているといっても、それでも、人間の脳の神経細胞(ニューロン)の数は、よくわかっていない。理化学研究所の脳科学総合研究センターが3年前に出版した『つながる脳科学』(ブルーバックス)では、千億近くといい、最近の同じ脳科学総合研究センターのウェブサイトでは千数百億という。大脳皮質の神経細胞の数は百億から二百億以上と差がある。

神経細胞と神経細胞と接続部をシナプス結合という。この結合部には20ナノメートルの隙間があるが、光学顕微鏡ではこの隙間を見ることができない。神経細胞は軸索と言われる1本の繊維のようなものが飛び出して、興奮がいっぽう方向に流れる。軸索上は興奮がパルス状の電気信号で伝わるが、シナプス結合部では、化学物質を放出して、つぎの神経細胞に興奮を伝える。この化学物質にはいろいろあるが、神経伝達物質と総称されている。

脳のなかにこの軸索がぎっしりつまっており、しかも、シナプスの隙間が狭いので、100年前には、脳の神経細胞がバラバラであるか、それとも細胞膜自体がつながって、多核細胞になっているか、確定していなかった。1906年のノーベル生理・医学賞は、多核細胞説のカミッロ・ゴルジと多細胞説のサンティアゴ・ラモン・イ・カハールが同時受賞となった。

1つの神経細胞がいくつのシナプス結合をもつのか、これも確定していない。私の学生の頃は、多くても百ぐらいと思われていた。ちょっと前の本には、数千になっていた。3年前の『つながる脳』では、数万のシナプス結合になっている。脳の神経細胞の数を数えるのも難しいが、シナプス結合の数を数えるのは、はるかに難しい。電子顕微鏡を使って得られる像は平面的なのだ。シナプス結合に20ナノメートルの隙間があるまでは、わかるが、断片を見ているので、1つの神経細胞にいくつのシナプス結合があるか、推定するのは難しい。

そして、そのことは、神経細胞が互いにシナプス結合でつながって、どのような回路を作っているのか知るのがもっと難しいことを意味する。外国では、10年前から、アカゲザルの脳を30ナノメートル厚さに切片化して、電子顕微鏡写真をコンピュータに自動判読させ、脳の神経回路立体図を作成する試みがなされているが、まだ成果がでていないようである。

ただ、神経細胞の機能が昔より驚くほどわかってきている。いくつか挙げてみよう。

記憶とは神経細胞間の新しいつながり、シナプス結合ができることだ、とわかっている。

2000年にエリック・カンデルがその発見でノーベル生理・医学賞をもらっている。立証につかったのは、海底に住むアメフラシという簡単な動物である。外界から刺激にどう反応するか学習されれば、すなわち、新しい反応の仕方が繰り返されるようになれば、記憶したと言える。カンデルは、このとき、神経細胞の新しい「つながり」ができることを視覚的に確認した。

脳科学総合研究センターの『つながる脳』には、神経細胞の興奮の伝達が確率的なこと、また、外部から刺激をうけなくても、自発的に確率的に興奮することが書かれている。

1個の神経細胞の機能は、下等動物も哺乳類も同じである。シナプス結合部で放出される化学物質によって、つぎの神経細胞の興奮を強めたり、抑えたりする。現在は、脳をシステムとして研究する段階に、はいっている。

面白いのは、ネズミも人間も脳の構造が変わらないということである。脳科学総合研究センターでは、アメフラシでなく、マウスを使って研究を進めている。

『つながる脳』の面白いトピックスは、臨界期の話である。神経細胞のつながりは、まず、遺伝子に書かれた設計図にしたがってできていくが、ある段階から外界の刺激、すなわち、個体の体験に沿って、神経細胞のつながりができるようになるという。これが、「臨界期」である。

大脳皮質は52のブロードマン領野に分割され、それぞれ異なった機能をもっているとされてきたが、おのおのの領野は同じ6層構造をしている。すなわち、大脳皮質の各領野は汎用構造をしており、機能は学習によって作られていくとも言える。これが「臨界期」の役割である。

私のNPOに来ているスタッフに保育所でも働いている人がいる。赤ちゃんをあずかって世話しているのだ。赤ちゃんを抱いたり、赤ちゃんに顔を寄せたりして、いつも話しかけているという。「かわいいね」「おなかすいた」「暑くない」「ぬれて気持ち悪くない」と声をかけているという。単に、ミルクが与えられる、オムツがとりかえられるだけでなく、保護されている接触感がだいじなのだと私は思う。仕事のために多くの母親は自分の赤ちゃんを保育士にあずけるが、もし保育園の労働環境が悪く、保育士が愛情というものを赤ちゃんにあたえなかったら、その赤ちゃんは人間関係の基本である「愛」を学習しないことになる。

もちろん、外界からの学習期間である、臨界期は長くつづく。記憶ということができなくなったら、動物は柔軟に外界に反応できなくなり、生存の危機に直面するからだ。たまたま、病気などで、新生児が親と隔離され、長期的に接触できないこともある。臨界期がつづくということが救いだ。

現在、「発達障害」ということは、「生まれつきの特性」ということになって
いる。「うまれつき」が脳構造の欠陥とすると、本当にその特性が「うまれつき」なのか、どうかは、よくわからないのである。

50年前、子どもが社会的規範から外れると親の教育が悪いと責められた。「発達障害」という概念は、扱いにくい子どもをもった親を非難の嵐から解放した。しかし、本当に脳構造の欠陥なのか、親や先生や社会の規範に問題があるのか、まだ、わかっていないのだ。「大人のAD/HD」や「アスペルガー症候群」が増えるのは、単なる流行であるかもしれない。精神医学はまだ前時代的なのだ。

マウスも人間も脳の構造が同じということは、「特性」を「望む特性」に変えるということは、親や先生や医師や心理療法士の「言葉」によってできるとは、限らないのである。わかりやすい日本語で子どもに話すとは、こちらの願いを伝えるために、重要なテクニックであるが、「愛情」や「信頼感」は言葉で生じない。言葉を越えた日常の体験を通じて育てるものである。

なまじ、言葉で物事を暗記した学校体験によって、多くの人は記憶とは言葉が脳のなかにしまわれることと誤解しているが、それは間違いである。言葉の限界を認識することがだいじである。ほめて育てろ、というが、ほめるというのは、言葉を発する方に認識を改めさせるためで、言葉でほめられても、ほめられるほうは、言葉に着目しているとは限らない。

では、人が言葉を理解するとはどのようなことか……。

佐伯啓思の朝日新聞『社会が失う国語力』はちょっとオカシイ

2019-12-29 22:32:03 | 教育を考える
 
きのうの朝日新聞の佐伯啓思の《異論のススメ スペシャル》『社会が失う国語力』にコメントしたい。
 
OECDのPISAにおける日本の読解力低下をもって、安易な「教育改革」を進めるのはいけない、というのが彼の趣旨だと思う。そのこと自体には同意する。これについては、私も12月4日のブログ『OECDの「読解力」テストに日本の教育が左右されて良いのか』で議論している。
 
OECDとは、第2次世界大戦後、アメリカの金持ちが、共産主義思想から資本主義陣営を守るために、外国の経済復興を促す組織であって、物資や資金の援助、自由貿易の推進とともに、実用教育の推進を行った。したがって、PISAとは、実用的能力の習得度を測定するもので、すでに、経済復興をしている日本が、その順位に一喜一憂すべきものではない。しかも、日本のPISAの成績が少しも悪いわけではなかった。
 
PISAが読解力と言っているものは、単に、readingを通じての情報取得能力のテストにすぎない。したがって、タイトルの「国語力」は、OECDのPISAの目的とは何の関係もない。
 
ところが、不思議なことに、佐伯のなかでは、「国語力」がPC(ポリティカル・コレクトネス)と結び付いている。さらに、みんながスマホを見ているという話しまで広がっている。私もコメントせざるを得ない。
 
佐伯の言う「国語力」の中軸は、「読解力」である。彼によれば、
 
〈 読解力とは、著者の意図を正確によみ、かつそれを自分なりに解釈することである。〉
〈 国語の読解力が大事なのは、翻訳も含めて、国語で書かれた文章のなかに、先人たちの経験やそれをもとにした思索の跡が刻印されており、それを知ることがわれわれの想像力をかき立て、また鍛えるからである。〉
 
一般論として、そうも言えるかもしれない。しかし、古いものにろくなものはない。ごみ溜めのなかで、宝物を探すようなものだ。見つかるかもしれないし、見つからないかもしれない。「自由」とか「民主政」という概念は2000年前にはなかった。貧乏人は読み書きできなかったからである。古代の書物の多くは、支配者の「思索の跡」である。
 
じつは、佐伯が高校生のときに読んだものは、近代の外国物の翻訳である、と『社会が失う国語力』なかで述べている。
 
「先人」からといっても、日本には、鎌倉仏教をのぞき、思想の歴史がない。しかも、鎌倉仏教は江戸幕府の大弾圧で中断している。
 
外国物は翻訳でなく原語で読むのが良い。明治時代に、自分たちのもたない外国の概念を、無理やり、儒学の知識にたよって漢字を組み合わせ、造語で訳した。原語で読まないと、明治の日本人の誤解を引きずってしまう。
 
英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、ラテン語、古代ギリシア語、ヘブライ語が読めるというのが、読解力だ。
そうすると、日本語習得が「国語力」でなくなる。
 
さらに、上にあげた読解力がつくと、「言語」とはなんと限界あるものか、わかるようになる。それとともに、人間社会を健全に維持していくに必要なのは、特定の言語、日本語でも英語でもないことがわかる。「希望」「信頼」が社会に必要なのだ。
 
私の立場からいえば、「読解力」に力を注ぐよりも、わかりやすい日本語で話をし、わかりやすい文章を書くことに、力を注ぐべき、と思う。佐伯と反対に、私は、漢字をやたらと使うな、と言いたい。読むことに関しては、原語で、思想性のあるものを読めればよりよい、と思う。
 
世の中には孤立している子どもたちが いっぱい いる。ディズニーランドにもアイドルにもゲームにもスマホにも興味がなく、お金もない子どもたちがいっぱいいる。図書館に行けば、大きな本屋にいけば、日本語で思想を語ってくれる本がある。孤立している子どもにこそ、本を読んでほしいと思う。
 
そして、孤立している子どもたちに読んでもらえる、わかりやすい文章を書いてほしい。
 
敬語や漢字を教えるな。不要だ。
 
ポリティカル・コレクトネスについて言えば、これは、右翼の被害妄想にすぎない。自分の方が正義と思うなら、わかりやすい日本語で、自分の言い分がなぜ相手に分かってほしいのか、説明すれば良いだけである。今まで、他人に命令してばかりいたから、他人に説明できないようになっているだけである。
 
佐伯は「あるレストラン経営者」の話を紹介している。
 
〈 若い者が修業に来ても、簡単に叱れない。また、「君はどうしてそれをやりたいのか。ちゃんと説明してくれ」ともなかなかいえない。〉
 
「叱る」とは上から目線で、自分の命令に服従しろと言っているにすぎない。私は、「怒る」ほうは対等な人間関係を表わしているから、「叱る」より「怒る」をNPOの子どもたちの前で行う。私に命令したり、バカにしたら、「怒る」ことにしている。私に、命令するのではなく、お願いしなさい、と子どもたちに言う。そして、怒るのに、暴力をふるう必要はない。感情を隠さず表情にあらわせば良いだけである。
 
この経営者は修業者に説明をもとめているが、まず、経営者は修業者に説明できているのだろうか。経営者は、上下関係のある人間関係に慣れきって、対等な人間関係を築けなくなっていると思われる。
 
しかし、佐伯は、ポリティカル・コレクトネスの問題をこのように捉えているのでもない。佐伯は、私より、2歳も若いのに、もっと もうろくしているようだ。いや、もうろくしているのに、気づいていないようだ。
 
ネットに、あるひとが、佐伯啓思のまとめとして、「過剰なまでの情報と競争の社会、短期的な成果主義や万事における革新主義、行きすぎたポリティカル・コレクトネスという時代風潮こそが、読解力への障害となっている」と書いていた。このひとは、もうろくしているのか、軽はずみなのか、「国語力」が足りないだけなのか、困ったひとである。

その子 発達障害ではありません、社会こそ いびつなのだ

2019-12-28 23:12:41 | 愛すべき子どもたち

きょうの朝日新聞の読書面で、小説家の山下澄人が韓昌完の『その子、発達障害ではありません』(さくら舎)を紹介し、「社会こそ いびつなのだ」と書いていた。

NPOで「放課後デイサービス」にかかわる者として、韓昌完と同じく、特別支援学級に通い「ショウガイ、ガ、アル」といわれる子どもたちをみてきた。じつは、これらの子どもたちは千差万別である。じっさいには、平均的でない子どもたちを、画一的な教育をほどこすのに邪魔になる、という理由で、特別支援学級に閉じ込めているのだ。

「障害」は法律用語であり、「障害者」と見なされたひとを行政が支援しますという意味でもある。それなのに、「障害児」という刻印を押されながら、十分なケアを受けていないとき、将来の生きる道が制限されるとき、「ショウガイ、ガ、アル」と言うな、と叫びたくなる。

10年以上も前、「発達障害支援法」ができたとき、「療育センター」は、子育てのコツを学んでもらうため、子どもとともに、親にも毎日通ってもらい、「療育」に参加してもらったという。現在は「発達障害児」が多すぎ、このような手厚いケアを受けられない。療育センターには何か月に1回通うものになっている。

福祉とはお金のかかるものだ。「放課後デイサービス」が「療育センター」を補うものになっている。

集団検診をする医師もいい加減である。特別支援学級にはいる子どもに、「発達障害の疑いがある」、「自閉スペクトラム症の傾向がある」という曖昧な診断の子が多い。また、単なる情緒不安定なだけの子どもも多い。症候群であるから、診断基準があっても現場では曖昧にならざるを得ないのだが、「あいまいな診断」に対して誰も責任をもたず、教育の場では隔離される。

NHKは「発達障害は恥ずべきことではない」というキャンペーンを行っている。確かに、平均的でないのだから「個性」と考えればよい。ところが、NHKは「個性」と言わずに「特性」と言う。ここに「偏見」がある。「発達障害児」を特別の個性をもった児童として、気をつけて扱えば良いという、上から目線の先生方がNHKのバックについていると考えられる。

子どもは工業製品ではない。

上から目線で扱うのではなく、子どもも人間であるという敬意をもって接するべきだ。それが、「寄り添う」ということなのだ。

社会の考え方が間違っている場合も多いのだ。人の不幸で税収が増えればよいと言うカジノ推進派の議員がいるとは、社会のほうが異常ではないか。

「発達障害」という言葉は、精神科的には「神経発達症」(Neurodevelopmental Disorders)という症候群のことで、「知的能力障害」や「コミュニケーション症」や「自閉スペクトラム症(ASD)」や「注意欠如・多動症(AD/HD)」や「限局性学習症(SLD)」や「運動症群」などいろいろある。

(注:「知的能力障害」は“Intellectual Disability”の訳で、アメリカの患者団体が国会に働きかけ、この呼び名を法律で制定した。「能力障害」は“Disability”の訳である。)

これらの診断名は分類名にすぎず、そのおのおのに、さらに いろいろな個性の違いがあり、その程度にも差がある。世のなかの本は、単にステレオタイプ的な理解が書いてあるだけで、偏見のもとになる。「個性」とは、ひとりひとり、異なるのだ。人間は、「かけがえのない」という意味で、本来ユニークなのだ。

しかも、環境のせいで、発達が遅れている子どもたちが、そのまま見過ごされ、きちんと育てられていないケースもある。

そもそも、日本には、集団行動ができることを求め、身分差別が当然で、上の言うことを下は推測して動け、という風土がある。それに加えて、財界と政府が、ゴールが1つしかない競争に子どもたちをかりたてようとする。さらに、教育に効率と画一性を求める。

私のNPOに来ている不登校の子どものひとりが、「みんな、お金が一番なのだ、友情より、愛より、お金なのだ、だれとも話ができない」と言っていた。

私は、韓昌完や山下澄人と声を合わせて、「社会こそが いびつなのだ」と叫びたくなる。支援すべき子どもや大人がいっぱい いるのに、「障害者」の刻印を押すだけで支援もせず、排除する社会は いびつだ。

原発の汚染水を「福島の処理水」という朝日新聞社説に怒る

2019-12-27 13:50:36 | 原発を考える

けさの朝日新聞の社説『福島の処理水 地元との対話を重ねよ』には、多いに不満である。

福島第1原発の汚染水の処分方法をめぐって、政府の小委員会で海洋放出と大気放出に絞ったことに対する社説なら、それが妥当なのか、妥当でないのかの意見をはっきり述べるべきである。判断ができないのなら、どんな情報が判断のために必要なのか、そして、その情報の公開を求めるべきである。それがジャーナリストしての責任であると思って、私は、お金を払って朝日新聞を購読しているのだ。

記事のタイトル「福島の処理水」が、まず腰がひけている。「福島第1原発の汚染水」であろう。汚染されているから、これまで、タンクのなかに処理水を閉じ込めて保管していたわけだ。下水の処理水とは異なる。

また、「地元との対話を重ねよ」がおかしい。人類の共有財産である、海洋や大気に、放射性物質をすてるとは、地球の環境破壊である。「地元との対話」に朝日新聞は何を期待しているのか。朝日新聞は、全人類的な問題を、地元の問題だと地元に押しつけ、孤立させ、苦しませているだけではないか。

政府や大企業は資金がたっぷりあるから、黒を白と思わせるために、大宣伝を打てる。じっさい、そのために、広告会社の電通や芸能界の吉本興業、ジャニーズ、AKBやオリンピックさえを利用してきた。それに対抗して、真相を読者につげ、政府や大企業の不正をただすのが、ジャーナリズムのあるべき姿ではないか。

政府の小委員会は、「大気放出や海洋放出は過去の事例にもとづいて」というが、だいたい、福島第1原発の事故は過去に類をみない大事故なのである。比較的近いのはチェルノブイリの事故であるが、私はチェルノブイリ事故を上まわるものと考えている。スリーマイル島事故より桁違いに大きい事故で、スリーマイル島事故で、トリチウム(三重水素)を蒸発処理したというのは、前例にはならない。

福島第1原発のメルトダウンした原子炉1号基、2号基、3号基には計256トンの核燃料があった。核燃料はとけて原子炉から落ち、原子炉建屋の底にデブリを作った。ウランもプルトニウムも重金属だから、固まって金属状の塊を作る。それがデブリだ。

現在、原子炉建屋の最上階の保管プールにある使用済みの核燃料を2028年までに撤去するとしている。しかし、デブリの撤去は予定を立てることができないほど危険なのだ。

核燃料は、1㎝ほどの小粒の塊(ペレット)に焼き固められ、ジルコン合金の筒(燃料棒)に詰められ、間をおいて64本ぐらい集めて燃料集合体となり、原子炉に入れられる。ウランやプルトニウムはたがいに近づくと自然に核分裂連鎖反応を起こす。これを人為的に止めているのが制御棒で、核分裂反応で出てくる中性子を吸って、連鎖反応を抑えている。

メルトダウンとは、原子炉のなかの核燃料が高温で溶け、原子炉から外に落ち、制御棒が役に立たない状態になったことである。

いまだにトリチウムがデブリから出てくるというのはおかしい。原子炉中の水は、メルトダウン前にすべて蒸発したはずである。すると、溶け落ちて固まったデブリのなかで、核燃料が核分裂連鎖反応をつづけ、発生した中性子が、冷却水の水分子の水素にあたり、中性子を吸って三重水素に転化していると推論できる。

すなわち、デブリのなかで核燃料がまだ燃え続け、中性子などの放射線をだし、核のゴミをまだ生産し続けている。

放射性物質は人為的に放射線をださない物質に変えることができない。放射性物質は、どこかに、隔離するしかない。これを海洋や大気に放出するとは、核のゴミは海や空に捨てればよいという、トンデモない前例を日本が作ることになる。

地球環境を破壊しないためには、海や空を汚さないために、東京電力と日本政府の責任で、コストがかかっても、安全な場所に放射性物質を隔離しないといけない。方法はいくらでもあり、東京電力と通産省は、単にコストの面から、議論しているだけだ。

廃炉作業の用地確保に支障が出るというのも、ウソで、原子炉建屋の前には十分な作業用地がある。廃炉作業が進まないのは、デブリがまだ核分裂連鎖反応がつづいているからで、あと何年したらすべて燃え尽きてしまうか、まだ検討がついていないからだ。

忘れてはいけないのは、福島第1原発の事故は過去に類をみない大事故なのである。そして、政府事故調の畑村洋太郎も国会事故調の石橋哲も事故の解明ができていないと言っているのである。

事故の解明もできていないなかで、日本政府が原発を再稼働させているのを、どうしてジャーナリズムが容認するのか。
歴史にまれな腐敗の塊である安倍政権に、ジャーナリズムは怖気づいているのではないか。
腐敗を見過ごすことは、腐敗をさらに進めることになる。

「民主主義」「民主制」「民主政」

2019-12-26 22:18:08 | 民主主義、共産主義、社会主義

何年か前、藤原帰一は、新聞に「民主主義」という言葉は誤りで「民主制」であると言っていた。だいぶ前のことで、彼が何を言いたかったのか覚えていない。

「民主主義」は “democracy”の訳で、「民主制」とも「民主政」とも訳す。 “democratism”という言葉もある。これは「民主主義」としか訳すしかない。語尾の “ism”は、人や集団の行動や主張に一貫する原則のことで、明治時代に「主義」という言葉に訳した。

永井道雄、上田邦義は、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』の翻訳で、 “democracy”を『民主政』と訳している。ホッブズは、国の主権者がだれであるかを論じており、「代表者がひとりのとき、そのコモンウェルスは《君主政》(モナキィ)、また 集まる意思のあるすべての者の合議体の場合は《民主政》(デモクラシィ)あるいは人民のコモンウェルス(Popular Commonwealth)、そして一部の者の合議体のときは《貴族政》と呼ばれる」と書いている。

   (注:「コモンウェルス」とは「国」のことである。Nationは近代の概念で「国民」をさす。)

とすると、藤原帰一は何か皮肉を言いたかったのかもしれない。そういえば、「小学校の先生に教わった民主主義とは、要するに多数決のことだった」と彼は書いていた。「民主主義」が「形式」に落ちていると警告していたのかもしれない。

「戦後民主主義」というとき、この言葉は私は好きでないが、選挙で勝てばよいという、理念なき政治体制をさしてきた。総理大臣になった田中角栄は、新潟で選挙カーから石炭をまいて当選したという。

「民主主義」とは民衆が国を治めるという理念であって、群衆や下層民を意味する ギリシア語 “δῆμος”(デーモス)を語源とする。現代では、集まる意思のあるすべての者の数があまりにも多いから、選挙で代表を選び、議会で、行政サービスを監視し、社会的ルールを合議で決める。これが、時間をかけて歴史から学んだ人類の選択であったはずである。

ところが、横浜市では、市民の大半がカジノに反対しているのに、議会の多数派をにぎる自民党と公明党が、行政と一体になって、カジノ誘致に走っている。人の不幸によって、市の税収を増やすとは、モラルに反することだ。自民党議員、公明党議員は市民よりモラルが落ちる。

「民主主義」の理念をけがすような「現行の選挙制度」を再考し、市民の意思を無視するような議員が選ばれないようにする必要がある。