きょうのきょうまで、冷蔵庫のクラフト「切れているチーズ」をカマンベールチーズだと思っていた。しかし、味が納得できず、外箱をよくみると、「カマンベール入り」のプロセスチーズとあった。私は間抜けである。
そういえば、加藤陽子の『戦争まで』(朝日出版社)を読むまで、「関東軍」を日本の「関東地方」の陸軍のことだと思っていた。私の父は、戸籍が東京都の文京区にあったので、赤紙で東京に呼び出され、中国の戦地に行かされた。
私は間抜けである。「関東軍」の「関東」が、中国の「関東州」の「関東」であることを知らなかった。私は高校のとき、暗記を重んずる日本史の先生がきらいで、日本史を勉強しなかった。いつも白紙の答案を提出していた。
しかし、「関東州」はいまや中学の教科書にも出てくるのだ。育鵬社の『新しい日本の歴史』につぎのようにある。
〈 大戦〔第1次世界大戦〕のさなか、関東州・南満州鉄道(満鉄)の租借期限の延長などを中華民国政府に要求しました。〉211ページ
〈 また満州には、わが国が権益をもつ関東州と南満州鉄道を守るための日本軍部隊(関東軍)が置かれていました。〉226―227ページ
関東軍は租借地「関東州」と南満州鉄道の権益を守るための日本陸軍の一師団であったのだ。
育鵬社の教科書を使う中学校の先生方は「租借地」や「権益」をどう教えるのか、私は気になる。
ところで「関東州」とはどこか。地図で探すと、中国遼東半島の先端の3,463平方キロメートルの小さな地域である。現在の大連市の南半分で、日露戦争の激戦地、旅順を含む。上の地図の下の赤色の小さな地域が「関東州」である。
日露戦争は、第1次世界大戦開戦のちょうど10年前のことである。
〈 陸軍は、ロシアが築いた旅順の要塞を攻略するため、乃木希典の率いる軍を送り、多くの犠牲を払った末に旅順を占領し、奉天会戦でも勝利を収めました。〉191ページ
〈 一方、わが国の兵力や武器、弾薬、戦費は底をつき始め、ロシアでも革命の動きが高まっていたため、1905年、アメリカの仲介でポーツマス条約が結ばれ、わが国の勝利で戦争は終わりました。この条約でわが国は、韓国での優越的な立場が認められたほか、旅順、大連の租借権、長春以南の鉄道の権利、北洋での漁業権、樺太の半分を得ました。〉191ページ
ロシアも日本も降伏したわけではないから、育鵬社の「わが国の勝利」は言い過ぎである。日本は、たった1年の戦争で「兵力や武器、弾薬、戦費は底をつき始め」たにもかかわらず、「わが国の勝利」に酔いしれて、日露戦争を期して、軍国主義の道に進む。
〈 しかし国内では、犠牲の大きさに比べ、ロシアから賠償金が得られず、手に入れた権益があまりに少ないとの不満がわきおこり、暴動にまで発展しました(日比谷焼き討ち事件)。〉191ページ
戦争反対の暴動でなく、ロシアから奪ったものが少ないと皇居の前で暴れるなんて、なんて情けない日本人なのだろう。もちろん、日本が勝った勝った、と宣伝した大日本帝国政府に責任の半分があるが。
さて、小さな「関東州」と南満州鉄道の権益を守るための「関東軍」は、大日本帝国政府を無視して、トンデモナイ戦略を立て、軍事行動を起こす。
〈 こうした情勢の中で、関東軍は問題の解決をはかって満州の占領を計画しました。1931年9月、関東軍は、奉天郊外の柳条湖の満鉄路を爆破して中国軍による爆破と発表し、満州の各地に軍を進めました(満州事変)。〉227ページ
〈 日本政府は関東軍の動きを抑えようとしましたが、関東軍は満州の主要都市を占領し、満州の有力者の一部を味方につけ、その翌年、清朝最後の皇帝だった溥儀を元首とする満州国を建国しました。事態がこのように動くなか、政府も関東軍の行動を追認しました。〉227ページ
育鵬社の教科書は、中華民国から満州の利益を守るために、関東軍は満州を占領し、満州国を建国したとある。育鵬社の教科書は伊藤隆の監修である。伊藤隆に指導を受けた加藤陽子は『戦争まで』で、つぎの別の見方を紹介している。
〈 1931年9月18日に起こされた満州事変は、日本の関東軍参謀、石原莞爾によって、2年前から周到に準備され、起こされた事件でした。〉98ページ
〈 石原が事変を起こした理由は明快でした。ソ連がいまだ軍事的に弱体なうちに、日本とソ連が対峙する防衛ラインを、山脈など天然の要塞で区切られたソ連の国境線まで北に上げることで楽にしておくということです。〉99ページ
伊藤隆は陸軍と政府から見た視点で中華民国を敵国とし、加藤陽子は関東軍の視点からソ連(ロシア)を敵国とする。歴史の結果は、満州国はソ連の侵攻であっという間に総崩れで、日本人開拓民の引き揚げ(逃亡)やシベリアへの日本兵の捕囚で多くの犠牲者を出す。軍事的には、ソ連に対する軍備の備えが必要だったのに、満州国の軍備がソ連の5分の1以下であったのに、陸軍はインドシナ、フィリピンへの南攻に兵を移動させたのだ。
私の父は、旧制中学卒業であったので、将校にしてやるから、南方戦線に行かないかと誘われた。しかし、父は、南方にいくまでに海で死ぬという噂を聞き、二等兵で中国戦線に残ることを選択し、負傷兵として終戦を病院で迎えた。帰国に1年かかったが、中国から生きて帰れたのである。
加藤陽子は、庶民の立場ではなく、政府や軍首脳の立場から、どこで、国策を誤ったかを『戦争まで』に書いている。まあ、加藤も伊藤もどっちがどっちであるが、なぜか不思議なことに、菅義偉は加藤の日本学術会議会員任命を拒否した。政府や軍の誤りを指摘すると、「自虐史観」になるようだ。日本には「学問の自由」がない。
小林英夫は、満州国政府が関東軍の完全な傀儡であったと『アジア太平洋討究』No. 23に書いている。
〈 中国人官吏は無論として日本人官吏も関東軍の了解なくしては満洲国の官吏に就任することはできなかった。〉
〈 関東軍司令官が満洲国の中央,地方官署の日本人職員の任命権および解任権を持っていたからである。しかも関東軍は,正面には中国人を立てながら,背後から日本人がこれを制御する「内面指導」を実施した。〉
また、ソ連の侵攻に対する日本の陸軍の備えはなかったと小林が書いている。終戦後の満州国で起きた日本人の悲劇は、陸軍と日本政府に責任があるのである。伊藤は、その責任をスターリンひとりに押し付けているが、それは彼の共産党嫌いからくる誤りであると思う。