青山潤三の世界・あや子版

あや子が紹介する、青山潤三氏の世界です。ジオログ「青山潤三ネイチャークラブ」もよろしく

マヌケな中国人、賢い日本人

2021-12-29 21:08:49 | コロナ 差別問題と民主化運動 日記


★12月28日の記事に、応援、ありがとうございます。



読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。

【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?

【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。

*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。

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スーリンからも、モニカからも、メリークリスマスのメールが届きました。そういや、三世も、あや子さんも、スタバやマクドやジョナサンやイオンや餃子の満州のスタッフも、教会の牧師や信者の婆さんたちも、JTFC会長も、福生病院のF主治医も、、、、僕の周りは、女性ばっかしですね。男性には嫌われてるんだろうか?まあ、そんだけ女性の力が強い社会に成って来たんだという事なのかな?

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話は全く変わります。

どうして、日本人は(他の国の国民も同じかも知れないけれど僕は日本人なので日本についてだけしか明言できない)、ある一定の「空気」だけを「答」として、全てを見てしまう(金太郎飴の形成)のだろう、と不思議でなりません。

中国や韓国(および北朝鮮)がケシカラヌ国であることは、僕も同意します。でも、お隣の国であるというのに、余りにも「固定概念」だけで決めつけてやしないか?少しは、自分自身の目や頭で、色眼鏡抜きでの判断は出来ないのだろうか?(韓国については知識が少ないので以下主に中国に対して記して行きます)。

中国は危険な国である、常に監視下に置かれ、何かあればすぐに処刑される、全てが国家権力によって隠蔽され、事実は一つも知らされない、、、等々。むろん、部分的には、その通りでしょう。否定するつもりはありません。でも、それが全てではない。

例えば、中国を含む諸外国から見た日本。日本の国土は未だに原発汚染に覆いつくされているので、行くのは危険だ。そう思い込んでいる人が少なからず(相当に多数)います。それは、ある面では事実なのかも知れません。でも、それが全ての答えではないことは、日本人なら当然わかるはずです(と言うよりもほとんどの日本人は“そんなアホな”とほぼ全面否定するでしょう)。ついでに「日本人は皆変態」と思われている節もありますね(日本アニメは賛美される部分しか日本人には伝わってこないけれど)。そう言われても仕方がないような部分も^^;

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『デーブ・スペクター「監視されている中でとても自由ですよ!」中国テニス選手問題巡りチクリ』(中日スポーツ)
↑これ、一番の注目は表題末尾の「チクリ」ですね。僕は基本的にデーブ好きなんですよ(三平に替わる大喜利に推薦!)。この人、本当に頭が良い(総合的な意味で)と思う。でも間にエリート受験脳的な頭の良い人(編集者とか)の解釈が入ると、彼の良さが薄れてしまう。この(ネットニュースに於いて常道的な)「チクリ」の表現には、大衆とメディアの空気による物事の決めつけと、正義に名を借りた上からの目線が、如実に表されています。

bluesorangeさん
>シンガポール紙『聯合早報』の取材に「常に、とても自由だ」と答えた。
少なくとも、日本にこの発言をそのまま信じる人なんていないんじゃない?
[そう思う181/そうは思わない5]

milk******
僕は日本人です。この言葉、身に染みて信じています。監視社会の中での自由。それもアリなんではないでしょうか?自由(多様性)を標榜していながら、実は単一性に突き進む、日本(西側社会?)の排他性よりは、マシなように思います。コメ主は「日本にこの発言をそのまま信じる人なんていないんじゃない?」と言いますが、少なくても一人はいるわけです。それとも、僕は日本人ではない、と排除なされるわけですか?
[そう思う0/そうは思わない0]

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中国報道。
『雲南省昆明 無断で学校を抜けだし、旅行後に「新型コロナ」感染発覚。』
雲南省昆明(こんめい)市の安寧(あんねい)市は、12月27日、新型コロナウイルスの感染確定1例を報告した。この感染者は、市内の専門学校の学生であり、既に拠点病院に移され集中隔離治療を受けている。

幾つかの突っ込みどころがあります。

すぐに思うのは、“感染一人だって?そんなわけないだろう?”
その是非はともかく、“感染一人”、、、、本当だったら、なんか凄くないですか?

それが嘘だったら(ほぼ大半の日本人はそう思っていると思う)、本当にそこまで騙しおおせる力は凄いですね。

そして、もし本当だったら、(良くも悪くも)ここまで感染防止を徹底できる、国家権力も凄いことだと思います。

でも僕は、敢えて言えば、どっちとも違う(両方受け入れでも良いですが)想いを持っています。

中国だけを見て解釈する(答えを出す)のではなく、斜め上(または下)の次元から俯瞰する。日本やそのほかの国々の状況(コロナに対する捉え方)はそれぞれ全く異なっています。それぞれ別次元で「柳に怯えている」(僕はその「柳」が本当に怖い存在なのかも知れないことを否定しているわけではない)可能性があるわけです。

いずれにしろ上記の話題は、非情に大きなテーマなので、ひとまず置きます。

気になったのは、こんなコメント。

www*****さん

>昆明市の安寧市

こっから先に進めん・・・w
[そう思う9/そうは思わない10]
*ちなみに僕が次のリコメントを入れるまでは、「そう思う」が「そう思わない」を圧倒していた・

誤記した記者のマヌケを揶揄している。でも誤記じゃないのですね。

milk*****
中国の「市」や「県」の行政は、日本とは異なります。非常に複雑なので一概には言えないのですが、通常は「県」よりも「市」のほうが大きく、「市」の中に「県」があったりします。 「市」にも何通りもの組み合わせがあって、「市」の中に別の規模の「市」があることも普通です。安寧市は、昆明市の一部でもあり、別の立脚点では、異なる行政でもあります。位置的には、東京の23区を狭義の「昆明市」とすれば、三鷹市や武蔵野市辺りが「安寧市」に当たります。
[そう思う11/そうは思わない0]

もっとも「市」の「市」という行政が普通に成り立っている中国も、マヌケといえばマヌケではあるわけですが。

いずれにしても、日本の大衆は、隣国のことを知らなさすぎる。いや、知らないのは、別に仕方がないです(僕の場合はたまたま知っているだけなので、他の国の事は全く知らないし)。知らないのに、バカにしたり、善悪を決めつけたりすることに、異疑を感じているのです。

(ある部分では僕も含めてだけれど)とにかく、日本人は、お隣の国・中国のことを余りに知らなさすぎる。

一例です(前にも書いたかも知れません)。

文芸春秋誌上でたまたま見つけた、高名な小説家のある表現。

「中国からそれほど遠くはない離島」
という表現だったと思う。

「それほど遠くはない」ということは、ある程度は離れている、と言う事でもありますね。相当する島は、地理的には南西諸島か九州西岸諸島の島ということになります。船で一日の間に到着できるので、「それほど遠くはない」離島に当て嵌まります。しかし、日本の島を念頭に置いているという事は、まずありえない。台湾ならば、さほど遠くない、かつある程度離れた「島」なわけですが、大きさから言っても「離島」というカテゴリーには入らないでしょう。

実は、中国には「離島」という概念で呼べるような島は存在しないのですね。確かに、上海-香港間には、無数と言っていいほどの多くの島々が散在しています。でも、それらの島々は、離島と言うよりも、大陸に隣接した、簡単に橋をかけることが出来るほどの、沿岸島嶼です。「中国からそれほど遠くはない」という表現は、しっくりとこない。 

実は、中国には、(沿岸にくっついたような島を除けば)島らしい島はないのですね。あれだけの大国なのに、考えてみれば意外です。この小説家氏を含め大多数の日本人は、中国には多くの離島がある、と当然のように思っていることでしょうから。

南沙や尖閣がそれにあたるとも言えますが、共に無人島です。もっともその視点(中国に於ける数少ない「離島」の存在)で見れば、対外的、戦略的に「南沙」「尖閣」にこだわるのも、分かるような気がします。

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『天安門事件のリーダー、王丹氏(アメリカ在住)の母死去、、、』

kim*****さん
>悪いのは中国共産党。
(以下、コメントの大半が同趣向)

rur*****さん
>リーダーとして煽るだけ煽り、行動前にアメリカに逃げた方たち。俺は仲間たちを捨てて自分の身の安全を優先した人を信じない。

milk*****
>ある意味、西側民主主義社会にとって「天安門事件」は「成功」したのだと思います。

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『中国公安vsアニマル浜口、俺、このタイトルの映画あったら観たいわ、ゴジラvsキングコングよりおもろそう』
↑これ、ウケました!

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『香取慎吾結婚、25年目の2つ上の一般女性と』
↑スマップウオッチャーの僕としては、嬉しい話題です。

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“イヌは、人間の言葉を理解しているだけじゃなくて、「気」も読めている”という話題。犬買っている人は、ほぼ全員がそう思っているでしょう。これに関しては僕も同意しますね。それは他の生物にも(蝶だって、笑)当て嵌まるかも知れないし。どうやら人間だけが、別方向に突き進んで行ってしまっているような、、、、。人類は、幸せなんでしょうか? ありきたりの話で、すみません^^; でも、人類の未来を考える上に於いて、実は大変に大きなテーマだと思うのです。

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最初の中国女子テニス選手(35歳)とチョウコウレイ(75歳)元副首相の話題に戻ります。この話、結構不思議なんですね。権力闘争を含め様々な背景が考えられるのでしょうが、どれも辻褄が合わない。

僕の、思い切った感想(面白くもなんともない結論)を言えば、 
単なる痴話喧嘩じゃないんでしょうか?
それが、権力者と有名人の間で起こったという、、、、日本でなら結構ありふれた展開です。

それ自体は(本人たちにとってはともかく)どうでも良いのです。

中国指導部の趣旨は、こういうことだと思います。

(この問題に限らず一般論として)メディアが煽り、大衆が追従する。そのような話題が巻き起こるたびに、ひと塊となった社会の(実態なき)空気が形成され、特定の価値観を持った方向に一斉に動いて行く。その流れに乗ることが出来るか否かで、「平等」とはかけ離れた「貧富の差」を生み出す。

中国の言論統制は、「いたずらに特定の空気が形成されること(それは、日本や香港の一部の人々にとっての“自由”ではあるのですが)」を牽制しているのです。誰が得をし、誰が損をするとかと言った問題ではなく、もっと根本的な部分で、日本などの民主主義的社会に対峙しようとしているのだと思います。

しかし、その方策が正しいか間違っているかは、別問題ですね。あるいは、よしんば理念は正しいとしても、結果としては間違った方向に進んでいますね。例えば、自分たち政府高間や各界エリ―ト層を軸として、とんでもない(日本の場合などとはスケールの違う)圧倒的な貧富の差が生じている。貧富の差を無くすために設置したはずの規制が、逆に強者が弱者を踏み台にして、とほうもなく巨大な力を形成する要因になっている。資本主義を否定する、という建前のもと、制御不可能な、化け物のような巨大な資本主義の集団が国中を覆い尽くそうとしている。 

国の指導者たちは、そのことをどう解釈し(たぶん事態は認識できている)、どのように舵を取っていくのでしょうか?
中途半端なことは出来ませんね。強引に理念成就に向かって進んで行くしかない。お前らのためを思って、様々な規制をかけているのだ、黙って従え、と。前途多難でしょう。お手並み拝見。

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個人のアメリカンドリームを肯定しているのが、日本や香港やアメリカ。自由は、言ったもの勝ちです。勝者は守られねばならぬ権利を有します。そして、「多様性」の御旗の許で、(正義、取得権利、自由の概念に基づく)「単一性」が推進され、大衆は「勝者」の側に集結し、異端は排除されていく。

言論の自由はあっても、実質的にその恩恵に被ることが出来るのは、力のある側、数の多い側、声の大きい側であり、逆説的に言えば、「言論の自由」の明確な承認が、力の存在を増殖させ、相対的に(その時々に於ける)少数や異端は封殺されていく。

日本は、既に「勝者の世界」(勝者が幸福だとは必ずしも限らないけれど)になっています。大多数の大衆は、自分たちは「下」(あるいは「中」)であって「上」ではない、と信じているのでしょうが、上も中も下も、置かれている次元は同じです。「中」も「下」も、「上」の基準に従わないことには成り立たない社会構造になっている。「空気」から置いて行かれた人々は、「上」でも「中」でも「下」でもなく、「外」側に放り出される。「下」も「中」も、常に「上」に従って、(相互監視をしつつ)「外側」に放り出されないように生きていくしかないのです。

一方、個人のチャイニーズドリームを否定しているのが中国。

言論の自由がない中國は、多様性を認めません。最初から単一志向です。穿った見方になりますが(笑)、そうであることで、「多様性」を旗印(隠れ蓑)にして、結果としての「力」の単一性を認め、それに追従せざるをえない、という構造から逃れることが出来ます。最初から単一の価値観しか許されないならば、その中から多様性を地道に派出して行けば良いので、逆説的に言えば、自由の制御が、(少数派にとっては)結果として自由の獲得に結び付く、と(幼稚でバカな頭でもって)考えています。

そんなわけで、「自由」「多様性」の御旗の許、結果として大量の「無敵の人」を生み出している日本よりも、(最初から大量の「無敵の人」が存在する)中国のほうが、まだマシなのではないか、と。

もっとも、最初にも記したように、中国の現実は「平等」の建前・理念とはかけ離れた正反対の方向に驀進しています。「平等」を標榜しているにもかかわらず、日本などとは桁外れの極端な貧富の差を解消できずにいる。エリート層、裕福層が、圧倒的なパワーでもって構築する、文明・科学・経済の超近代的(あくまで“的”ですが)社会に、下層社会が追従していくことは不可能です。

しかし、発想を転換して、そのことをポジティブに捉えてみてはどうでしょうか?日本には、もはや田舎は存在しません。全国隅々まで、都会に従属しています。田舎を取り戻すには、もはや手遅れです。幸いと言ってよいかどうか、中国には、田舎も下層社会も、未だ存在している。いっそのこと、都会(近代)に追従しなければいい、という選択肢も取れます。今だって、近代文明とは未交渉な状態で、田舎や下層社会独自の生活体系がある。近代に追従することなく、「別の自由」の許で生きていくことが出来る。

どうせ一党独裁の、「平等」に向けての一律規制に取り組むなら、この際、科学・文明への過信、近代的繁栄に対する過信を容認(推奨)することを捨て去る決意をしてみてはどうでしょうか?(まあ出来んでしょうが)。

民主主義社会にあっては、「自由」に基づく「既得権」を手放すことは不可能です。しかし独裁政権ならば、構造上は可能なんですね。その決断なしには(科学に頼り繁栄を目指し続けている限りは)「理念」の方向には向かえないと思います。

それは、中国だけではなく、日本を含めた、世界の現代社会に於ける命題です。その取り組みの実行に、最も近い所に位置しているのが、中国だと思うのです。

以上、西側社会からの妄信的とも思える「中国批判」に対するアンチテーゼとして、(極論に近い形で)書き記しました。






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