日記のことは、日に記すとあってそれは何を書き記したものであるか。またその書き記すことがらの良し悪しはどのように決めたものであろうか。もとより日記とはそれを記すことに何の目的としたことがあったのだろう。日記に書き記すに及ぶということは出来事があるからである、あったからであるが、そのできごとは記録にしてとどめることであったか。そうであるならば、できごとのひとつは日常でない、それを記すことになるのは旅に起こることであるとなる。日記を個人の記録としてみて、やがて時とともに、それは行動の記録となり、個を超えた人の軌跡となる。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 705 自分の欲望を振りかざす を、例題にしている。振りかざすものは権威、権力のようなもので、欲望は振りかざせないとすると、この例題は、とくに表現に工夫があるものかと思う。大義名分のようにその内容をみれば振りかざすことがあるかもしれない。それで検索をしてみると、ただ一つの俺の道を歩きながらと、歌う一節にあった。過激な欲望と歌詞にある。この表現に見えるのは、自分の突き進む道に精いっぱいの自由を歌い上げる日だった。いわば、錦の御旗である。振り上げていくものではないが、心にかざしている。 . . . 本文を読む
文法の議論 日本文語の文法について その20
文法の議論を取り上げるとあることに気づく。それは言語の現象として日本語文法にあるものは伝統文法と近代文法の解釈である。言って来たところの漢語文法と英語文法である。古代漢語は借用語として取り入れたので日本語の意識にある。それが漢文訓読語法として日本語に影響を与えた。国語はそれを選り分けようとしたが、日本語の基盤となった。
伝統文法は国語の文法とみてよいが、近代文法が日本語の現代語文法として定着しているので、そこにはあらたな形態論議が日本語教育用文法として行われるようになってきた。統語また統辞としてのシンタクスは議論が繰り返される。伝統文法が持っていた日本語の基盤が見直されてきて近代文法がまとった衣をつけかえようとしているかのようである。
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