すみません、という挨拶の言葉を、いくどかふれてきたことがある。謝罪について使うとか、感謝の意を表すとか、それはやり取りで生まれてきたことであるのだろうけれど、もとにある言葉の使い方としては同じだ。挨拶語であるかどうかも厳密を期せば疑わしい。もっとも挨拶そのものの、禅宗の言葉だというのも仰々しいと感じるが、押して逼る、せまるわけだから、どうすることなのだろう。すみませんは打消しの語であることをわかっていて使うかどうか、澄む、済むを語とするので、澄まないことだ、済まないことだ、となる。その場をやり取りしてすませる語の使い方ではあるので、双方に情が瞬時に動くから、その気持ちが表わされるということになる。謝罪に使うすみませんは失敗、失態がともなうから、その関係性は明白になる。その意味では取り戻すことのできない、すまなさを済むという語でとらえる方がわかりよい。世界の挨拶語の語源について説明するものには民間で流布するうちに使われだして醸し出す独特のいわれがある場合が多いのでまだ日本語のあいさつはわかりよいかもしれない。わからないと言っては済まないので捉えてみると・・・ . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 704 殴ったことがばれたくない を、例題にしている。殴ったことをばれる、という言い方と、殴ったことがばれる という言い方があって、いすれも意思にかかわりなく露見するということになる。そういうことがしたくない そういうことをされたくない という情報として意志がかかわる使いかたをしている。ばれる という動詞が、~がばれる という用法であるので、殴ったことがばれたい というふうに、殴ったこと と ばれる が結びついているので ばれたい と結びついているわけではない。そもそも、ばれる という語の意味はあらわになることを捉えるときに、意志の動作で表されるかどうか、自然に発覚することだから、あるいは誰かによってそうなってしまう ばれる であるから、この用法には、殴ったことがばれる という結びつきがまずある。 . . . 本文を読む
語にあるもの 日本語の文法について その16 文法のレベルを捉える。宮地裕学説による文法単位体の視点から文章、文、節、句、語、モーフを設定する。そのうちモーフであるmorphは形態分析になる。日本語教育用文法の立場にモーフの分析は有効である。すなわち音素レベルのとらえ方である。すると語は
音節レベルのとらえ方であることがわかる。語は言語記号であり、意味の単位である。
日本語文法は単位語に品詞を分析してきた。国語教育用文法の立場では品詞論と構文論のとらえ方で整理してきた考え方に自立語、付属語の二大別があり、品詞として付属する語を助詞、助動詞といている。この分類と名称は語をわけてそれぞれを語とし詞としたものであるが、それまでの詞と辞の二大別を継承する考え方で、いわば自立詞、付属辞である。 . . . 本文を読む