ホームページの作成で科目が載らないことになった。どうかというと交流文化の中心科目でページ作りをするのでコーナーがないということだ。そういうことかと分っていてページの原稿を出したほうも出したほうだがそれについての知らせも何もなかったのはいつものことだ。すでに4年目になってプログラムに日本語教育は言語教育の一つにない。発足当初のこと、予定されていた言語教育プログラムの英語、中国語に並んで日本語とあったのだがそれが急になくなった。そのときにわたしはそこで存在基盤がなくなって担当はゼミだけになってしまった。最初から学部内の科目はなくてそれで所属だけがゼミ担当ということであって奇妙なことが起こっていた。そのままになっているのも全学履修の科目に日本語教育の資格科目があってそれで担当が続いている。 . . . 本文を読む
述語は動詞からなる。そう受け止めたか、日本語文法が英語を学び始めたその時期に述語という用語は述語動詞を意味していた。しかし日本語で述語と言えば論理学で、ある命題の主語について述べられる概念とある。文法学はその扱いを受けていたので、あらためて言えば、述語が述語であるのはなぜか。つまり日本語の述語とはなにか、と言うことである。 . . . 本文を読む
日本語はどのようにして日本語になったか。これは歴史のあることで、現代日本語だけを眺めてわかるところ、表記のちがいではない、漢字平仮名カタカナローマ字という交ぜ書きもさることながら、それに応じた語彙のことがある。それは語の一つ一つに現われる現象として日本語となるプロセスがあってそこに現われた意味はまさに日本語である。語彙の類が和語として区別されるのはそれが漢語洋語の和語化にほかならない。もとのものいい、日本語になるというのはどういうことか。日本語をそう呼ぶようになったときとか、もとよりニッポン語だろうになぜまたそのような問いになるのか、日本国となったそのときに日本語があったということではないか。このように考えればそれはまたそのことについて、この問いに対することがらを追求するのは難しいことだとすぐに気付く。日本国となったときに、少なくともその表記が現れたときには、それを、やまとのくにと読み慣わしていたからで、だれがいつどこでニッポン国と言い出したのか、それがさだまらない。 . . . 本文を読む
現代日本語「誤」百科 805 世論の受けねらい を、例題にしている。受け という語について人にかかわることとしている。ウケル!というような使い方からだろう。評判、人気を表す。そこで、世論 となるとどうか。コラムの解説がおかしいのは、世論を人々の意見ではあっても、人間そのものではないから世論にウケルということはできない、とすることだ。人々が共有する意見を世論だと思っていると、人そのものではないという説明は奇妙だ。ウケルのはその意見に多くが反映されるかどうかだろう。人受けがする、世論受けする、このような語が普通に使われている。 . . . 本文を読む